第7話 人生最悪の一日⑦

 夜行が天上院アリスの護衛にあたったのは、去年の夏の異様に暑い日だった。

 現代では祝與の存在そのものがすっかり商業化されているが、そもそも祝與の役割としては、穀物神として人々の信仰を集め、世の穢れを払う事にある。その為、祝與には定期的に宮内省が主催する祭事に出席しなければならない義務がある。天上院アリスはその祭事に中軸として参加する事になっていた。

超常的な力を持っているか、そうでなくとも身体のどこかに烙印を持つだけで忌躯として認定される忌躯とは対照的に、祝與として認められる為の条件は厳しい。まず前提条件として癒しの能力を持つ十代の少女である事が絶対で、その上更に厳しい訓練(ダンスや歌、演技能力等、審査内容は多岐に渡る)を積み、宮内省の承認を得てやっとなる事が出来る。その為、祝與に憧れる少女は数多いるが、現実に祝與になれる少女はごく僅かである。アリスはそんな選び抜かれた祝與の中でも、最も国民の人気が高い祝與だった。

光が強ければ影も濃くなるのが自然の摂理である。白石風夏を逆恨みした佐良﨑輪のように、祝與に対して不埒な欲望を抱くものも一定数存在する。そうした輩から彼女達を守護する為に、祭事には伝統的に夜警団が警護にあたるのが習わしとなっている。そこでアリスの警護係として選ばれたのが夜行という訳だ。

国家レベルの祭事という事もあり、普段着では問題があるという事で、あくまで裏方である夜行も、それらしい衣装を纏う羽目になった。

「素晴らしい……まるで蘭陵王のようです」

 衣装係の妙齢の女性が、正装した夜行を目にした瞬間、感嘆した様子でそう言った。

「私も長年このお務めを果たさせていただいておりますが、あなた程美しい守護者は初めてお目にかかりました」

「いくら着飾ろうが、面を隠す為にこの厳つい仮面を被らなきゃならないんだ。意味ない気がするけどな」

 夜行は手に持った、鬼の顔を模した仮面を見つめながら言った。

「何を仰います。風格は仮面を被っていても伝わるものにございます。いえ、隠された美顔はますます輝きを増すといっても過言ではありません」

「アリスよりも俺が目立ってどうするんだ。風格なんて醸し出さんでいい。俺はただの裏方なんだ」

 夜行はそう言いながら、仮面を被り鏡に映った自分を見た。小さい子供が見たら泣きだしそうな形相である。

「さあどうぞこちらへ。アリス様がお待ちにございます」

「ああ……」

 夜行は再び仮面を外し、手に持ってアリスのいる控室に向かっていった。

 

アリスは何度も深呼吸してから、自分の小さな手を眺めた。……そこまでしても、手の震えは止まってくれなかった。

「ねぇアリス、気分は……あんまり良くなさそうね……」

 アリスのマネージャーの赤嶺加恋は、心配そうにアリスを話しかけてきた。アリスは無理やり笑顔を作り、高い声で返事をした。

「大丈夫です加恋さん! これは武者震いです!」

 そんな訳がないのは明白だったが、あくまで平静を装うとするアリスの健気さに、加恋は胸が締め付けられる思いがした。

「声が震えてるわよアリス」

「あ、ご、ごめんなさいです! 発声練習しなきゃ……」

「……ねぇアリス、開演を少しだけ遅らせてもらいましょうか。今のままじゃ、満足なパフォーマンスは発揮できないわ」

「そ、そんな事出来ませんです! 皆さん今日のお祭りを楽しみにしてるんです! 私がしっかりしなきゃ……!」

 その時、控室の扉がノックされる音が聞こえた。アリスは思わずびくついてしまった。

「ど、どなたですか?」

「お忙しいところ失礼致します。アリス様の警備係に任命されました、夜警団の月海夜行です」

「夜警団の人? 悪いけど、今アリスはナーバスになってるんです。部屋に入るのはお控え願えますか?」

「いえ! 大丈夫です! 入ってきてくださいです!」

「アリス……」

「大丈夫です加恋さん。私は大丈夫だから……」

 夜行は扉を開けて、中に入った。アリスは満面の笑みで夜行を出迎え、礼儀正しくお辞儀した。

「今日はよろしくお願いしますです! 私、祝與の天上院アリスです! 至らない点が多々あると思いますが、何卒……」

「……」

 夜行はアリスの全身を観察した。派手な和風のドレスを纏っているが、そこにいたのは平均よりも小柄な、紛れもなく13歳の少女だった。

「……梨絵の事は残念だったな。俺もあいつがいなくなって寂しいよ」

「あ、あなたはお母さんの事を……?」

「俺の事は覚えてないか」

「え?」

「実は君のお母さんがまだ生きてた頃、何度か君に会ってるんだけどな。まあ無理もないか、君はまだ小さかったし……」

 アリスはじっと夜行の瞳を見つめた。すると、アリスは何かを思い出したようで、はっとした声を放った。

「思い出しました! お母さんの弟子の人ですね! わあっ! 私嬉しいです! お母さんにゆかりのある人にまた会えるなんて!」

 アリスはぴょんぴょん飛び跳ねて、夜行の手をとった。心細い中で知り合いに会えたのがよほど嬉しかったらしい。

「その節はお世話になりましたです! あの時私、すごく楽しかったです! 夜行さんに夜のドライブに連れて行ってもらった時……」

「ああ……そういえばそんな事もあったな」

「でも夜行さんったらヒドいですよ! また会いに来てくれるって約束してくれたのに、ちっとも会いに来てくれないんですから!」

「だけど今日、こうして君に会いに来ただろ?」

 夜行はそう言って微笑んでみせた。アリスはその笑顔につられて笑った。今度の笑いは、作ったものではなく自然に出たものだった。

 加恋はそんなアリスの様子を見て、夜行にアリスの事を任せようと思った。

「えっと……夜行さん、ですか? アリスの事お願いできますか?」

「それが仕事ですから。この命に代えてもアリスの事はお守りします」

 夜行がそう宣言すると、アリスの顔が赤くなった。

「……では、私は暫く席を外します」

 恥ずかしがりながら喜んでいるアリスを残して、加恋は控室を後にした。 

「え、えっと……あ、あの夜行さん。立ちっぱなしもなんですから、座って……」

「顔が赤いぞ」

「え? そ、そうですか?」

「熱でもあるんじゃないのか? 大丈夫か?」

「だ、大丈夫です。これは……」

 夜行は中腰になり、自分の額とアリスの額をくっつけた。不意をつかれたアリスはますます顔が赤くなった。

「……熱は無いな。だけどだとしたらなんで赤いんだ? チークの塗り過ぎか?」

「も、もう! そんなの決まってるじゃないですか! 夜行さんのせいですよ……!」

「俺の? なんで……あ、そういう事か……」

 夜行はアリスから少し距離をとった。

「ごめん。デリカシーが無さ過ぎた行動だった」

「だ、大丈夫です。むしろ嬉しかったですから……」

「え?」 

「な、なんでもないですなんでもないです!」

 アリスはかわいらしく椅子にちょこんと座った。アリスに倣って、夜行も適当な椅子に座った。

「実は私、男の人と接する機会が殆どないんです」

「そうなのか?」

「はい。学校は女の子ばかりだし……だから男の人と一緒にいる事に慣れてなくて……それで過剰反応というか……あ、あれ?」

「どうした?」

「あ、あの……夜行さんって男の人ですよね……?」

 夜行は少し意地悪く笑いながら言った。

「確かめてみるか?」

「……!」

 夜行がそう言うと、アリスは顔どころか身体全体を真っ赤にさせた。

「冗談だよ。ちょっと赤くなり過ぎじゃないのか? まるで茹蛸だぞ」

「だ、だって……! あ、は、鼻血が……」

「お、おい、本当に大丈夫か?」

 夜行はティッシュ箱を持ってアリスに駆け寄った。幸いにも血は大して出ず、直ぐに止まった。

「本当にごめん。緊張が和らぐかと思って、ちょっとふざけただけだ。かえって逆効果になってるな……」

「い、いえ。実はいつもの事なんです。私、緊張すると鼻血が……」

「本当か? エロい事考えたからじゃないのか?」

「か、考えてないですよそんな事!」

「ふーん……じゃあまあそういう事にしておこう」

「と、とにかくいつもこんな感じで……私、ダメなんです。緊張しないように意識すると、余計に緊張しちゃって……」

「その気持ち、よく分かるよ」

「え……?」

「俺も潜入捜査する前はいつもそうさ。ちゃんと役を演じられるだろうか、いざという事に正しい行動をとれるだろうか、考えれば考えるだけ不安になる」

「……そういう時、いつもどうしてるんですか?」

「考えうる限りの最悪の状況を思い浮かべる」

 アリスは夜行の顔を見つめた。

「もし失敗したらどうなるのか……事前に考えておくんだ。その後、じゃあどうすればその最悪の未来を回避出来るかって考える。その後は実行するのみだ」

「……」

「あんまり参考にならないかもしれないな……ごめん、忘れてくれ」

「……いえ、ありがとうございますです夜行さん。今、何かつかめた気がしましたです」

 それが虚勢でなく本当だという事は、アリスの瞳を見れば明らかだった。

「今最悪なのは、私が諦めて何もしない事です。でもとにかく私が舞台に立てば、祭事は予定通り行えます」

 アリスは強い笑顔を浮かべて笑った。

「夜行さん、私やりますです。必ず祭事を成功させます」

「……流石梨絵の娘だな。お母さんも君の事を誇りに思ってる筈だ」

「そうでしょうか……」

「そうさ。絶対にそうさ」

 夜行はアリスに向かって手を差し伸べた。

「さあ、一緒に行こうアリス。君に何か危機が迫っても、俺が君を守る。お互いの責務を果たそう」

「はい! でもその前に……ちょっと待っててください」

 アリスは化粧台の上に置いてあった、古びたファンシーな小物入れから、なんの変哲もない指輪を取り出し、右の薬指につけた。

「これ、私のお守りなんです。お母さんの形見で……」

「……随分小さいな? 子供用か?」

「お母さん、この指輪を結婚指輪と同じくらい大事にしていましたです。昔、大切な親友から貰ったって言っていました」

「大切な親友……? 俺の母さんの事かな? そんな話初めて聞いたが……まあいいや。行こう、アリス」

「はい!」

 アリスは夜行の手をとってくれた。夜行はアリスの手を握り返し、必ずこの小さな少女を守ると自分の心に誓った。

「……わわっ!?」

 そして歩き出そうとすると、アリスはいきなりこけそうになった。夜行は咄嗟に、彼女の身体を支えてやった。

「おい、大丈夫かよ?」

「え、えへへ……ありがとうございますです夜行さん」

 アリスは礼を言い、はにかんでみせた。美しい笑顔だと夜行は思った。

「あれ……? 夜行さん、手をケガしてるんですか?」

「……ああ、花の手入れした時に……だがこの程度のケガ……」

「私に任せて下さい! 今すぐに治してみせます」

「え……?」

 アリスは夜行の手を握って、祈りを捧げた。すると夜行の傷がみるみる内に治癒していった。

「これでもう、痛くないですよね?」

「……この力……梨絵と同じ……流石祝與だ……」

「えへへ……それほどでも……あ」

 夜行はアリスの頭を撫でた。

「ありがとう」

 アリスは上目遣いになって微笑み、また赤くなった。

「……それにしても、また君にコケられでもして、怪我されたら俺が怒られちまう」

「そ、そうなんですか!? ごめんなさい! でも私、今度は絶対に……うわわっ!」

 夜行がアリスの身体から手を離した瞬間に、また懲りずにアリスが転びそうになった。

 夜行はそんなアリスの身体を再び支えた。

「ほら見ろ。言った矢先から……君、絶対に人の三倍は転んでるだろ」

「う、うぅ……ごめんなさいです。私ドジで……」

「だからこうしよう」

 夜行はアリスをお姫様抱っこして、そのまま進んでいった。

「え……えぇ!? そ、そこまでしてもらわなくても……! は、恥ずかしい……!」

「……ひょっとして、嫌だったか?」

「い、嫌だなんて滅相もない! むしろすごく嬉しいです! あ、う、嬉しいっていうのは、別に変な意味じゃなくて……!」

「だったら大人しくこうしてな。それとも俺の事が信用できないのか?」

 夜行がそう言うと、アリスは夜行に身体を預けた。

「いえ……信じてます。私、夜行さんの事……」

 今度は、夜行からアリスに笑いかけた。アリスも満面の笑みを返した。

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