失った記憶その四。
彼は眠れない夜、明日へと到達した頃、ふっと理性がすり減って、なくなったように感じた。殺意の奔流を抑えていた薄い膜に、小さな小さな孔がぽつぽつと空いて、そこからじんわりとこぼれていくような。彼の自我が、氷菓のように溶けていく。蒸発していく。これまでにないほど潤滑に、魔力が流れ出るのを感じた。彼の右手には魔法の炎が宿った。それが彼の部屋の壁に触れる直前、彼は正気を取り戻した。
自分は何をしようとしていた?
自問する。
恐るべき事をした、いや、今からしてしまうかもしれない。
自分はまた、罪を重ねてしまうかもしれない。
彼は部屋を出て、よろめく足であの熱心な助手の部屋に向かう。
助手の部屋の場所を、彼は覚えられるようになっていた。
千鳥足で向かう、どれだけ、何歩歩いたかもわからない。意識が飛び飛びになっていくような、心もとなく、ひたすら深い不安に覆いかぶさられているような感覚。自分の五感すら信じられない。
ありもしない日光がありもしない窓から照る。
いるはずがない魔獣が数千と目の前を通り過ぎる。
吹くはずもない大嵐が吹き荒れる。
網膜を灼くほどの閃光が横切ったかと思えば、何も見えぬ暗闇に、何も触れられぬ暗闇に放り込まれる。
ああ、おかしい。
おかしくなってしまった。
気づくと、助手の部屋のドアの前だった。足が、頭が、異様にふらつく。体中が、自分のことを、自我を、この行動を、拒否しているように感じた。
もうほぼ、倒れ込むようにドアによりかかり、指をかろうじて動かしてドアをノックする。ノックになっているかすら危うい。自分でも聞こえないほどの、はたはたという指とドアが触れ合う音がする。体のどこにも力が入らない。
ああ、どうか。
初めて神に祈った。
どうか。
どうか、どうか。
どうしてほしいのかもわからない。
何もかもを、縋るように。
永遠のような沈黙を破ったのは、ドアの開くぎいっという音と、自身の身体の傾きだった。
慌てたような声。どこから聞こえている?背後から、目の前から、四方八方から。
ああ、あの子の声だ、とだけはっきりわかった。
顔を上げる。本当に上げられているのだろうか?後輩の、先の丸い革靴を履いた足元が見えた。本当に見えた?わからない。でも、彼の倒れかけた体を支えているのは、間違いなくあの助手だった。
そうだ、ドアが開いたのだ。
たすけて、と言おうか。たすけてほしいのか。自分はどうしてほしいのか。
どうしてほしいのかすら、おしえてほしい。
ぶわっと自分そのものがこみ上げてきた。我に返ったと言うにはまだ程遠いが、初めて焦点があった。助手と目があった。
青い絵の具で塗り固めたような瞳。黄色い絵の具で染めたような髪。人形みたいな肌。目の前にある。それが目の前にある。
どう言葉にすればよいか。
ただ、苦しい。
それでもその助手の優しさに、従順さに、純粋さに、頼るしかないのがなおさら情けなかった。
彼は、いつの間にか手に入れていた「所長」の冠を、助手に託した。
いや、押し付けた。
彼はその後、闇夜に溶け込むようにして研究所から姿を消したそうである。
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