失った記憶その五。

彼の精神は、他ならぬ彼自身への恐怖に塗りつぶされ、支配されていた。

初めて、だったかもしれない。彼が自分の居場所を見つけたのは、本当に誰かと向き合ったのは。彼の短く、長い人生で、初めてだったかもしれない。

それを失ったことによって、彼の精神は崩れた。

悲しみ?寂しさ?怒り?無力感?どんな言葉でいい表すべきだろう。どれだけ大層な言葉で飾ろうと、自分自身の胸中に比べれば陳腐なような気がした。

喪失感、だろうか。

初めて意味を知ったのだ。生きることの意味も、人と関わることの意味も、自分が自分である意味も、今ここにいる意味も、全ての意義の目の前で暮らした。それを掴み取る前に、自分は死んでしまった。

そう、死んでしまったのだ。

自分で自分を殺したと言い換えても良い。

とある宿に入り浸り、死んだような生活を送った。上層の洞窟を荒らして、生活費は確保する。洞窟へ行って、宿に帰って、寝る。その繰り返し。何も、何も代わり映えはない。死んでも良いと思ったらしい。積極的に死にたいとは思わなかったらしい。本当に、屍のような生活だった。

こんな生活が永遠続くのなら、それこそ自分以外誰の記憶にも残らずに、世界に埋もれるだけの動く死体だ、と彼は自覚していた。それもまた彼を追い詰めた。

しかし、転機、というのは誰にでも平等に、そして唐突に訪れるものだ。

ある日、寝て起きたら自分にうり二つの人間が目の前にいた。

何を言っているかわからない?もちろん彼にもわからなかった。ということは誰にもわからない。とにかく、鏡に映したかのようなまったく同じ姿の人間が、目の前で自分の寝顔をしげしげと眺めていたのである。ここ最近感情の起伏がまったくと言っていいほどなかった彼は、突然処理能力の追いつかない爆弾を投下されて宇宙猫状態に陥った。呆然とする彼を、鏡写しの彼はまたしげしげと眺めた。

鏡写しの彼いわく、自分がなぜここにいるのか、なぜ彼とうり二つなのか、自分もまったくわからないのだと言う。もう一度繰り返すが、ということは誰にもわからないのだ。

彼は、早々に理解をあきらめた。しかしどうすればいいかもわからない。ふと現れたドッペルゲンガーをそのまま追い出すのも怖かったし、かと言って人に見せに行くにも見せる人がいない。医者に診せる?変な人体実験でもされそうだ。第一に人と関わる余力もない。できる限り人との関わりを断絶していたい。こんなに理解不能な状況にあっても、対人関係への恐怖が拭い去れていない自分がいっそ笑える。考えるのをやめよう、と諦めたのは良い判断だったかもしれない。そうでもなければ、彼は近いうちに発狂していただろう。彼はとりあえず、鏡写しの彼を弟と称することにした。あまりにも似ているので、万が一他人と関わるときにそういう体にしたほうが都合が良いと思ったからだ。

以下、弟とするが、弟はなんとも奇妙な気質をしていた。自分が何者なのか、何故ここにいるのかも、そのほかのことも何もわからないのに、妙に落ち着いている。なんだったら、一応自分が何者なのかぐらいはわかっている彼の方が混乱しているぐらいである。こんなイレギュラーがあっても、不思議と生活は円滑に、さほど問題もなく再開されてしまった。弟は、洞窟歩きにもついてくる。人並みに手伝いもする。そして人並みに役に立つ。買い物にも着いてくる。そして荷物持ちと買い忘れの確認も当然のようにこなす。飯を食うのも一緒。寝るのは……流石に布団をもう一つ買って、弟が新しい布団に寝かされているが、同じ部屋。

朝起きるのは弟の方が早い。しかも毎日完璧に同じ時間である。不規則な起床時間はそれによって矯正された。以前は朝飯を飛ばすこともしばしばあったが、弟が逐一呼びかけているので一日三食しっかり食べている。洞窟歩きは一日三度の怪我が一度に減り、買い物は買い忘れが嘘のようになくなって、洞窟で拾ったものを食べていた食生活は人間の食べ物を食べるような平和なものにすり替わっていった。

そう、何も知らないはずの弟に、彼の方が世話をされはじめたのである。

彼がそれに疑念を抱いていたのは、最初の方だけである。

彼の頭の中からは、今までの記憶が消えていった。

研究所を建てた時の記憶

歴史を研究していた頃の記憶

はじめて研究員が来た時の記憶

工事のとき手加減を間違え研究所を半分倒壊させた記憶

研究員が更に増えたときの記憶

学部を増やしてほしいという熱望に押し切られたときの記憶

薬品を調合したときの爆発で後輩の手が丸焦げになった時の記憶。

くどいぐらい五感に染み付いた感覚も、嘘のように薄れていった。

誰かが誰かを叱りつける声、

誰かが作ってくれた料理の味、

誰かの白衣が擦れる感触、

薬品でひりつく手の痛み、

筆を走らせるかつかつという小気味の良い音、

古い本の砂やホコリやカビの香り、

オイルランプの仄かな輝き、

自室の外からかすかに聞こえる誰かの笑い声。

過去があるから、人は今と比較し、今を評価できる。それが無くなればどうなるか。

弟が弟であること、何も変わらない、寸分たがわず同じ生活を続けていること、それが、彼の全てになり替わっていたのだ。

つまり彼には、再び逃げ道ができたというだけの話である。

彼はそうして、一日一日、今、そして、未来だけを見据えて生きている。明日の自分は、また違う自分。今日の自分はもう二度とやってこないのだ。

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