失った記憶その三。

そもそも、彼が極度の忘れん坊精神であるのには理由がある。

彼は忘れん坊である以前に、まず性根に難があった。空気が、人の気持ちが、まったくもって読めないのだ。

彼の海馬の奥の奥の奥底で埋もれている、判読すらできないほど擦り切れて、古ぼけた記憶の欠片からは、吐き気のこみ上げるような腐敗臭が漂っている。

誰かと誰かが、何やら部屋の隅でひそひそと話していたときがあった。口元に手を寄せて、度々くすくすという意地悪そうな笑い声が混じるのを見れば、心地の良い話ではないようだ。その二人とは特段仲の良い間柄でもない。しかし彼は話しかけに行った。そして、彼ら二人の視線は心底めんどくさそうに、そしてある一種の恐怖をたずさえて彼を出迎えた。明らかに話しかけに行くような雰囲気ではないのに、声をかけたのは何故か?それはもちろん、”気になったから”だ。

学校、あるいはそれに似た教育施設の教室。本来静まり返るべき空気をかき乱すような大声が空間を暴れまわり、鎮火した頃には教室内の人間全員の視線が彼に集まっていた。

彼の数少ない友人の宝物である麦わら帽子が、目の前でまっぷたつに裂けた状態で転がっている、その画面だけが記憶の海底に焼き付いている。その前後の経緯は定かではないが、自らが導き出した結末であることだけは明らかで……

もちろんそんな調子では人に好かれるわけもない。彼の悪口を言う人も、少なくはなかった。

第二に、彼はとんでもないネガティブ気質である。彼は大抵の場合、出席表に長欠の赤線を引かれ続けているような子供だった。それは、ひどいいじめがあったとか、学習力がついていかなかったとか、そういう理由によるものではない。彼の心の問題で、そして膨張していく被害妄想のせいだった。悪口を言われていようがいまいが、嫌な目で見られていようがいまいが、実際どうであるかは関係なかった。彼には誰もの視線が暴力的に見えた。誰もの言葉の裏に悪意が張り付いているように感じていた。

そう、前述した出来事も、他人からすれば大したことでもないかもしれない。文面だけ見れば、青臭くてほんの少し恥ずかしいだけの思い出かもしれない。だが、彼にとってそれは、今すぐ自ら生涯を終えるきっかけにすらなってしまうほど大きなことに感じられていた。

彼は頭が悪いわけではない。頭の回転が遅いのだ。いや、頭が悪いのだが、一般に言う頭が悪いよりも頭の回転が遅いと言ったほうが的確だろう。

そのとき、その瞬間に気付けないことにも、あとから追いつくように理解していく。何にも気づかずに過ごしているほうがまだましだった。あとから気づくこと、それが、大体手遅れであるから余計にまずいのだ。

彼が思春期に突入したとき、ついにその不安定さは爆発する。

気質はどれだけ努力しても治らず、突飛な行動は日々加速するばかり。

ネガティブ気質である彼には耐えられる精神力もなかった。だから究極の選択をした。

全てを忘れることにしたのだ。

悪口を言われた記憶、やってはいけないことをしてしまった記憶、問題を間違えた記憶、嫌な記憶、全て、吹き消してしまえば良いのだ。

全部、全部。

そうなれば、もちろんそうなったきっかけも忘れるわけで。

そんな不安定な人間が、唯一の逃げ道である「忘れる」を塞がれたらどうなるか。答えは明白である。

人は経験し、それを記憶し、成長する。その過程をすっ飛ばしていた彼は思春期からまるで成長していなかった。広がる被害妄想。じわじわじわじわ蝕まれゆく精神。崩れる自我。

このまま暴れまわって、この研究所も燃やして、完璧に姿を消してしまおうか。

しかし、短い断続的な記憶の中でも際立つ、あたたかな思い出が、暴走を寸前で食い止めた。狂気に陥ってからずっと自室に閉じこもっていた彼は、ある瞬間正気を取り戻したのだ。「これが最後の正気かも」と思い、彼はよろめく足であの熱心な後輩の部屋に向かう。ちなみに深夜である。普通なら大迷惑だ。しかし、彼がちょっと声をかけると、後輩はびっくりするほどの早さで出てくる。いつもそうなのだ、どれだけ急な誘いにも、後輩は必ず追従する。想像通り、扉をノックするかしないかの速さで出迎えた後輩。その姿に彼は悪寒さえ走ったように感じた。……そう、頼もしさでも、親しさでもない。そのとき彼の胸に湧いたのは、他でもない恐怖だった。不純物の混じらない、水晶以上に透き通った瞳。透明な瞳で、故に不透明な瞳。その瞳に伴う感情を読み取れたことは、彼には一度もなかったのである。後輩の底知れなさに気づき始めたのは、記憶能力を取り戻してからのことだった。記憶能力に追従して蘇った悲観的な性格も、感じる不気味さを助長した。この熱心で優しい後輩は、誰にでもその無垢さと慈悲をふりまくのだ。無慈悲な程平等に。八方美人、俗にいうぶりっ子という感じは皆無であった。要するに利己心が一切見受けられないのである。ただひたすら純粋に、自我をどこかに捨て置いたかのように、その笑顔は秩序を持って、ある意味では無秩序に降り注ぐ。実際の本性が、そして過去がどうであれ、彼にとって後輩は底知れぬ人物だった。

利己心の塊のような彼にとって、純粋無垢な後輩という存在は完全に理解できぬものであり、それゆえに恐怖そのものであった。それでもその後輩の優しさに、従順さに、純粋さに、頼るしかないのがなおさら情けなかった。

彼は支離滅裂ながらも、思っていることを吐露し、いつの間にか手に入れていた「歴史研究所の所長」の王冠を、後輩に託した。

いや、押し付けた。

彼はその後、流れるように研究所から姿を消したそうである。

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