失った記憶その三。
そもそも、彼が極度の忘れん坊精神であるのには理由がある。
彼は極度の忘れん坊である以前に、まず精神に難があった。
彼の海馬の奥の奥の奥底で埋もれている、判読すらできないほど擦り切れて、古ぼけた記憶の欠片からは、吐き気のこみ上げるような腐敗臭が漂っている。
彼は、由緒正しき家に産まれた。
彼の人生は、産まれたときから決まっていた。
彼には何人も彼の隣に及ばぬほどの詩吟の才能があった。その吟の響きは誰もを魅了し、目に見えぬ精霊でさえ感動させ、勇猛果敢な戦士でさえ涙させた。それはもう魔術とも言うべき代物で、ただ文字と音の羅列であるにも関わらず、そこには神が宿るような、そんな素晴らしい詩吟を彼は生み出すことができた。それはこの家の長男が代々受け継ぐ性質で、彼ら長男の尽力によって家の名は日々保たれてきた。
もう一つ、この家の長男が受け継ぐ性質があった。
彼らは、齢22を迎える前に死ぬ。
圧倒的な才能、それはまるで燃え盛る炎。それにくべられるのは、彼らの命。酷く激しく燃え上がって、その美しさを振りまいたあと、瞬時に燃え尽きて彼らは死を迎える。
齢22前、というのは、一番長生きをした家の長男が22の誕生日前日に死亡したことから言われている。
その早い散り際でさえ、彼の故郷では称賛され、その家の長男は短い命の中で持て囃されて生きた。
彼らはただ、詩吟を詠み、家のために死ぬ。
それが定められた運命だった。
彼は、自分の中には悪魔が宿っていると自称した。
幼少期特有の痛々しいアレとは思えないほど深刻な様子でそう告げるので、大人たちは若干引いていた。才あるものはどこかぶっ飛んでいる。きっとその一端に違いない、と家の中では囁かれていた。
それが真実とも知らずに。
彼はあらゆる命を奪う青年に成長していった。
庭師に整えられた花々を踏み荒らしたり、捕獲した昆虫たちをペン先等で分解したり、ネズミ捕りに囚われたネズミを暖炉の中に投げ入れたり。
野ウサギの首を力づくで折って殺害したり、兄弟の飼っていたカナリアの両足をもぎ取ったり。
兄弟を、殺したり。
それでも、彼のすることは全て肯定された。
彼の残虐なほどの仕打ちは、降りてきた神託によるものであると家の者は信じてやまなかった。彼が罪を犯したあと、どれだけ切実に、自分の中に宿る悪魔について訴えても。
家の者は、そして故郷の人々は、それを信じない。
人間ならざるほど鈍感かつ残虐でありながら、誰よりも人間らしく、善性を持ち合わせている。ある人は彼が二つの人格を持っているのではないだろうか、と疑った。冒涜的であり、善きもの。頑強であり、脆弱。相反するものが彼の中にはあった。
平然と人を傷つけるが、その後の後悔は誰よりも強い。
誰よりも他人を理解しないが、誰よりも他人を想っている。
彼が思春期に突入したとき、ついにその不安定さは爆発する。
彼には犯した罪の重圧に耐えられる精神力もなかった。だから究極の選択をした。
全てを忘れることにしたのだ。
暴れる虫の四肢の感触、暖炉にねじ込まれたネズミの断末魔、野ウサギの骨が鳴る音、兄弟たちの懇願の声、嫌な記憶、全て、吹き消してしまえば良いのだ。
全部、全部。
そうなれば、もちろんそうなったきっかけも忘れるわけで。
そんな不安定な人間が、唯一の逃げ道である「忘れる」を塞がれたらどうなるか。答えは明白である。
彼の残虐な一面は、まるで変わっていない。ただずる賢く、そしてもっと純粋に、手口が変化していっただけ。
罪は積み重なるばかりだった。
記憶とともに蘇った思考能力、そして倫理観。それらは物事を好転させること無く、ただ彼を追い詰める足枷と化した。
じわじわ蝕まれゆく精神。崩れる自我。
このまま暴れまわって、全て、全てを殺戮して、この研究所も燃やして、完璧に姿を消してしまおうか。
本気でそう思った。
それ以外、考えられなかった。
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