失った記憶その一。
遡って、彼が二十一歳になってから数十年が経過した頃である。現在よりはマシだったものの、彼が忘れん坊であることは今と変わりない。生活していくうえであらゆるものを記録しなければならなかった。今日しなければならないこと、仲良くなった人の名前、エトセトラ。そのせいなのかなんなのか、彼は記録をつけることが好きだった。そして、記録を読むことも好きになっていた。その記録というのは身近なものだけを指すわけではない。すぐにメモをとらなければ、あらゆるものを忘れ去り、過去とのつながりと完全に断絶されてしまう彼だからこそ、壮大な過去と現在のつながり、そこに神秘を感じたのである。
つまるところ、彼は歴史好きだったのだ。
記憶力皆無の人間が、世界の記憶ともいえる歴史を好きになる。一見奇妙だが、必然とも言えた。彼は、覚えているものが全て死しているほどの太古の記録、その貴重さを誰よりも知っているのだから。
なんにせよ、彼は歴史好きだったのである。
歴史好きが頂点に達したその日、彼は「あ、研究所作ろう」と思った。
突飛すぎて何を言っているのか分からないと思うが、もう今更何を言っても遅い。彼は材料としてそこら辺にあった木を引っこ抜き始めた。幸いとして人里離れ、土地の所有者もいない場所で作業を始めたから良いものの、もしも所有者がいる土地でやろうものなら勝手に誰かの土地の木を引っこ抜くという暴挙である。そんなことに臆することも、気づくこともなく、彼は周辺の森林を根こそぎにするほどの気合で作業に取り組んだ。
そして時間が経つのをすっかり忘れて、まる一日かけて不器用ながらに完成させたのは、もはや建物の形を保っていないんじゃないかと思うような、馬宿を思わせる木の塊だった。もし本当に馬宿だとしても、そこに収容される馬がかわいそうになるぐらいの出来栄えである。ひしゃげた四枚の壁が四角形に配置され、その上に折れた木の板が乗っかって一応屋根の体をなしている。彼自身も我に返って考えてみると微妙な出来栄えであると思ったようだ。しかし、空を見上げればもう暗い。今から町に戻るのも億劫だ。それに翌朝この場所を覚えていなくて帰ってこれなかったらそれこそ虚しい。出来栄えはともかく、この木塊は彼なりに頑張った成果なのである。
彼が選んだ選択は「この中で寝る」だった。
夜を乗り越えた彼の感想としては、「ほぼ野宿」だそうである。
それから、彼は”友人”をかき集め説き伏せて協力させて、なんとかちょっと豪華な馬小屋ぐらいの結果に落ち着かせた。彼は環境に関してはあまり頓着がないので、それでもだいぶ満足した。あるいは、初めの惨状を知っているから脳が麻痺していたのかもしれない。
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