ともみ写真館の不思議なトビラ

弥生ホノカ

第1話 廃墟

 雀が鳴いている。カーテンの隙間から光が差し込む。枕元のデジタル時計は、午前8時30分を示していた。ドタドタと慌ただしく階段を上がってきた母が部屋の扉を勢いよく開けた。

「春子。母さん仕事行くよ」

返事をしないで母の顔を睨み付けた。母がそれに気付いてないはずもないが、気にすることはなく、ズカズカと部屋に入ってきてカーテンを開けた。

「太陽の光を浴びなさい。ちゃんと目が覚めるから。いい加減起きて、勉強だけでもしてくれる?学校はどっちでもいいから。」

母は、はぁ、と面倒臭そうに私を見下ろした。

「眩しい」

目を細めて起き上がると、スーツ姿の母は朝食の在処と帰宅時間だけ伝えて階段を駆け降りていった。玄関が閉まる音がした。1時間くらいしてそっと階段を降りてリビングに向かうと、そこにトーストと目玉焼きがポツンと置いてあった。

 なんでこうなったんだろう。高嶋春子はふと思う。小学校の頃はすごく楽しい学校生活を送っていた。幼馴染みのここちゃんや、力持ちのさっちゃん、お隣に引っ越してきたしゅんくん。他にもたくさんの友達がいて、毎日一緒に遊んでいた。でも、中1の秋、クラスで避けられるようになった。原因は、クラスのリーダー格の斎藤まなと言い合いになったからだ。掃除を弱気なここちゃんに押し付けて自分だけ帰ろうとしたことを指摘したら、クラス総出で私に嫌がらせをするようになった。ここちゃんもさっちゃんも、男子のしゅんくんまで逆らえなくて、私は完全にひとりぼっちになった。理不尽だと言って冬休みが始まるまでは意地でも通っていた学校。年始の登校日、私の足は動かなかった。

「今日は晴れ、時々曇り。気温が30℃近くになるところもありそうです...」

テレビの中のアナウンサーが貼り付けられたみたいな笑顔で天気予報を伝えている。もうすぐ夏なのか。夏が来てしまうのか。深いため息を吐いたとき、スマホが震えた。母からのメッセージだった。

『朝ごはん食べた?今日は早く帰れるみたい。さっき言ったのとは違ってごめんね。一緒に晩ごはん作らない?』

断った方が面倒そうなので『いいよ』と送った。すぐに既読になり、買い物を任された。

「人使い荒いんだから。」

ため息混じりに呟く。テレビを消し、階段を上ってスウェットからTシャツとデニムパンツに着がえる。だらしなく伸びた邪魔な前髪をヘアアイロンでセンター分けにきれいに分けて巻く。このヘアアイロンは中1の春に誕生日プレゼントとしてもらったものだ。後ろ髪もまとめ、見苦しくないように巻いてからカバンに財布とスマホとハンディファンを入れて家から出た。

 あのアナウンサーが言っていたようになかなかの暑さで、いまにも溶けてしまいそうだ。冷暖房が効く部屋の中にこもりっきだったのだから、仕方がない。そう思うしかない。歩いて出かけるのがまず馬鹿だった。せめて日傘くらいは持ってくればよかった。スーパーまでの道はそこまで遠くないのだが、昼間のこの暑さのせいで永遠と歩いているように感じられた。スーパーに着いて野菜や肉を買い外に出た。ハンディファンの電源をつけようとするとファンのバッテリーが切れてしまっていた。買い物中に勝手に動いてしまっていたのだろう。つくづくツイていない。こうなったら、とマップアプリを開いてここから家までの最短ルートを検索する。

「あれ、高嶋じゃね」

肩をびくりとさせて声の方向に視線を向けると、そこには同じクラスの男子、松田と2組の桐屋がアイスを片手にこっちをみていた。今すぐここから逃げ出したい気分になった。

「たかしまって誰だよ」

桐屋が尋ねた。

「うちのクラスの女子。ほら、斎藤まなの…」

「あぁ、不登校の高嶋ね、知ってる。」

「ほんとかわいそう。高嶋って何も悪くないんだろ」

「そー。前まではめげずに学校きてたのにさ」

二人は憐れむような目をこちらに向けてきた。鼻がツンとしてきた。私が二人の存在に気づいていることをきっと彼らは知らない。聞こえていることもおそらく知らない。でも聞こえている。彼らの会話が私の心をビリビリに破っていく。目が熱くなってきて、背を向けて走った。そう思うならなんで助けてくれないの。なんでほっとくの、一人にするの?不登校なんて言葉使わないでよ。私は不登校になりたくてなったわけじゃない。心のなかで叫んだ。

 無我夢中で走っていた。そのせいで、見知らぬ道に出てしまった。スマホを開いても、ここがどこだかさっぱりわからない。今まで我慢していた涙が頬を伝った。暑いし、クラスメイトに会って噂話を目の前でされるし、迷子になるし、もう最悪だ。とりあえず、来た道を戻るしかないと思って、とぼとぼ歩き出した。ふと空を仰ぎ見たとき、視界の隅に生茂る緑が見えた。そちらを向くと、青々とした美しい緑の葉に覆われた2階建ての家らしき建物があった。ゆっくりと近づくと、優しい植物の香りとその建物の美しさに迎えられた。中に入りたい。自分の魂が求める。私の手はいつの間にか、門の取っ手にあった。足を踏み入れると、この場所が私のすべてを受け入れるような感覚がした。吸い寄せられるように建物の玄関のドアノブを持ち、引っ張った。意外にも鍵はかかっておらず、力を入れて引っ張ったせいで少しよろけた。

「お邪魔します…」

恐る恐る入ってみると、ホコリの匂いがして、少しだけ昔の空間が、この家に納められているように思えた。ところどころ音のなる廊下を歩いていくと、部屋と廊下を仕切る扉が開けられたままになった広い部屋をみつけた。そこには歴史の教科書やアニメでしか見たことがないような三脚のついた古びたカメラと、黄みがかった幕、茶色い丸椅子が置いてあった。息をすることも忘れ、その空間に入り込むと、なんとも言えない感情が自分の脳を陣取った。周囲を見回すと、立て看板が無造作に置かれていた。なにこれ、と看板をひっくり返すと、横書きで『館真写みもと』とレトロな字体で書かれていた。

「なんて読むの、これ…かんしんしゃみもと…あっ、右から読めば良いのか」

ともみ写真館。古びていながら安心感のあるこの空間は、自身の心を穏やかにした。宝探しみたい、と、また別の部屋へ向かった。事務室のような部屋の扉だけがなぜか閉まっていて、それ以外の扉は開けっ放しにされていた。私はその事務室に入りたくて仕方がなかった。何か。得体のしれない何かが、そこで私を呼んでいるみたいだった。扉の取手に手をかけたとき、ワクワクしつつも、少し薄気味悪く思えた。そのとき、カバンの中でスマホが震えた。画面を見て、私は気付けばため息を吐いていた。母からの着信だ。

「…もしもし」

『あ、春子?いまどこ?』

「…もうすぐ帰るよ」

『どこに行ってたの?もう3時だよ』

思わず、耳に当てていたスマホの画面をみた。確かに、3時ちょうどだった。

「うん、ごめん。あとちょっとしたら帰るね。お母さんはもう帰ったの。」

『いま車。あと30分くらいね。』

「わかった。先帰っとく」

『はーい』

一瞬、送ってくれるか訊けばよかったと思った。私はあたりを見回して、でも、と思い直した。こんな場所を誰かに教えるなんてもったいないことはできない。私だけの空間だ。

 「お邪魔しました。」

スマホのマップアプリを開き、住所を入力して最短ルートを検索する。来たときとは別のわかりやすすぎると言って良いようなルートが出てきた。これだからインターネットは好きじゃない。たくさんの野菜と肉で膨らんだ買い物袋を小学生のように揺らしながら、ルート通りに道を歩く。なんだか心が軽かった。

「ただいま」

家に帰ると、数分後に母の車の音がした。

「ただいまー。今日はオムライス作る!」

母がそう宣言してキッチンに入ってきた。

「オムライス作るのに、ほんとにお肉とか野菜とか買ってくる意味あった?」

「あんたオムライス食べたことないの?母さんが作るオムライスは野菜も肉も多いでしょうが。今日は一緒に作って一緒に食べようね。」

「…うん」

 私はあの日から今まで、母の料理を味わって食べることを忘れていた。作業のように綺麗に盛り付けられた料理を部屋の中で独りで食べていた。でも今日は、その料理に美味しさを感じた。母はどこか満足気で、そんなにやついてないで食べなよ、と私が不機嫌な口調で言うと、彼女は歯を見せて笑った。この母の笑顔を見るのはいつぶりだろう。

「ごちそうさま…美味しかったよ」

言ってみたものの気恥ずかしく、階段をそそくさと上がった。自分の部屋に入ると、ベッドに飛び込んだ。しばらくして、ふうっと息を漏らした。ともみ写真館。また明日もあそこに行こう。明日こそあの事務室に入ろう。優しいあの世界が、自分を癒やし、慰めてくれる。

 誰にも言えない秘密基地があるんだと誇らしげに言っていた、小学生の頃のさっちゃんを思い出した。どんな場所なの、どこにあるのと訊かれるさっちゃんは、教えなーい、と笑っていた。私はその時、いじわるだなぁと思っていた。けれど、今になってさっちゃんの気持ちが分かった。たしかに、だれにも教えられない。自分だけの場所なんだよね。私はいつの間にか眠っていた。

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ともみ写真館の不思議なトビラ 弥生ホノカ @honomaru_0523

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