第33話




「これは何の冗談だ…」


 ついさっきまでは戦勝を祝う宴に興じていた筈だった。

 それが今は…。


「騎士達は何をしている! どうしてこんな物がここに現れるのだ?!」

「おのれ化け物め、武器を持っている者は構えろ!」

「あぎゃあぁぁぁッ! やめろ、やめてくれぇ!」

「来るなっ! こっちへ来るなぁぁ!」


 トランダンセル伯爵家の次期当主として華々しく凱旋する未来を見ていたマルクスは、目の前で暴れている巨大蜘蛛の形をした理不尽な暴力に反応出来ず、ただ無力に立ち尽くすしか無かった。


「マルクス様、早くお逃げ下さい!」

「あ、ああああぁ…」


 従者に引っ張られ定まらない焦点のままフラフラと天幕の外へと連れ出される。

 近くで誰かが叫び、遠くで誰かが悲鳴をあげて、どこかで誰かが何かを喚いていたが、耳に入っても頭に入って来ない。


「何てことを、伯爵家の馬を断りもなく奪って逃げるなど…! マルクス様、すぐに代わりとなる馬を探して参ります」

「何故だ、何故なんだ?! 戦争は終わったんだろう…? 我が軍の勝利なのだろう…? 全部嘘だったとでも言うのか…?!」


 従者が何かを言っていたが、彼はとにかく理解する事を頭が拒否して事態が呑み込めていなかった。

 ただ疑問だけがグルグルと行き場を失って迷走している。


「マルクス殿、この責任をどう取るつもりですか! 我々は貴方が勝利したと聞いてやってきたと言うのに、どういう事か説明して貰おうか!」

「知らぬ…。私は何も知らない…」

「この期に及んで知らぬ存ぜぬが通用するとでも思っておいでか!」


 魔物から逃れた子爵が抗議の声を上げるがマルクスには何が何やら全てが分からないのだ。

 気が付いたら、こうなっていた。


「知らないのだ! 私は何も知らない、もう何も聞きたくない、もう何も見たくもない…」

「このっ、見下げた役立たずめ! 生きて帰ったらこの事は陛下にご報告させて貰うからな!」


 戦争はまだ終わっていなかった。

 戦争はまだ勝ってなどいなかった。

 マルクスだけが、早く全てを終わった事にしたかっただけなのだ。


「子爵様、早く脱出を。マルクス様もお連れしましょう」

「捨て置け、事態の収拾はマルクス殿の仕事だ! 我等は隊と合流する、お前達の命を我に捧げよ!」

「「はっ!」」


 子爵は配下の騎士の提案を却下して自分達だけで魔物の蔓延る本陣からの脱出を試みる。

 配下に優秀な法士こそ居ないが子爵の騎士達は勇敢で忠誠心が高い。


「いやだ、もういやだ。戦争になんて来るんじゃなかった…。私は最初から厭だったんだ…。戦争なんて最初から無ければ良かったのに…。北の大陸なんて存在してなければ良かったのに…」


 頭を抱えてうずくまり、ガタガタと震えながら爪を噛む。

 口をついて出てくるのはこの戦争への拒否反応と聞くに値しない妄言ばかり。


「それなのに、父上は伯爵家の者から誰かが行かなければならないなどと…! ひいっ!」

「馬を用意して参りました。どうかお早く…!」


 そこへ馬を調達に出ていた従者が戻ってきた。

 もはや全てに怯えるマルクスはそれが自分の従者だと認識するのに数秒の時間を要した。


「無理だ…。腰が抜けて立ち上がれん…」

「では私がお手をお貸し致…ッぎ?!」


 甲斐甲斐しく立ち上がらせようとした従者の腹から赤黒い節足が突き出した。


「あ、魔物…」


 立ち上がるのに失敗して転倒し、折角連れて来られた馬を後頭部で叩いて走り去られてしまう。


「フゥーッ、フゥーッ…」


 目の前で従者が口から血の泡を吹き白目を剥いて人形みたいに投げ出される。

 マルクスはその様子から目が離せず、息を荒くしながら何もしなかった。


「こ、このっ役立たずめ! 死ぬなら私を逃してから死なぬか…!」


 危機感と焦燥感から何とか正気を保とうとして、事切れた従者の亡骸に向かって見当違いな叱責をする。


「何で、何で私はこんな所にいるのだ…。私は、私は伯爵家の次期当主だぞっ! それなのに、それなのにどうして…ッ!」


 ガサガサと音を立てて人より大きな赤黒い蜘蛛が近寄り、従者の死体に糸を巻き付ける。


「わ、私には家族も居るのだ、息子だって居る…。そうだ、私が帰らなかったら領民はどうなる?! 父は老いて下の息子はまだ四つなのだぞ? こんな、こんな所で死んでなど居られんのだっ!」


 はっと我に返ったマルクスは這ってでもこの場を離れようと懸命に息を吸い込んで動き始めた。

 叫びながらひたすら真っすぐに這って進む。


「誰か、誰でもいいから、早く私をこの忌々しい戦場から連れ出せ! 報酬はいくらでも払う!」


 応える者は居ない。

 それでもマルクスは足掻き続ける。


「そうだ、金なんかより、港なんかより、私の命の方が何百倍も大切だッ!!」


 遂にマルクスは恐怖の感情が麻痺して、一周回って生還の為の気力が湧いてきた。

 淀んでいた瞳に生気が宿り、腹の底から熱い力が込み上げ、力の入らなかった足腰にも気力が行き渡る。


「生き残る、私は必ず生き残るぞ…!」


 全身から力が漲る様だった。

 立ち上がり、自分の足で大地を蹴って走り出す。


 何とマルクスはこの土壇場になって尋常ならざる法力を覚醒させて、青い光を身に纏いながら魔物の群から遠ざかるべく全力疾走を始めたのだ!


「死んでたまるか! 私は、私はこんな下らない戦争なんかで!」


 両の手を前後に振り、青い光の粒子を撒き散らしながら美しいフォームで走り抜けるマルクス。


「ええい誰も助けぬというのなら、私自身が私を助けるしかあるまいッ!」


 しかし彼が生き延びる為の具体的な行動に移ったのはあまりにも遅く、全てが手遅れになった後だった。


 別の蜘蛛がテントを崩して走り寄る。

 前しか見ていないマルクスはそれに気付けない。


「は、ははははっ! 何だこの万能感は、凄いぞォ! どうした化け物共め、今の私に追い付けると本気で思っているのかッ?!」


 横合いから飛び掛かった巨大蜘蛛の鋭い牙が高笑いするマルクスへと無慈悲に振るわれた。




◇◆◇





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