第10話 継承
そこに、儚くて繊弱な女性の姿は無かった。
暗澹としていた明眸は生気に満ち溢れ、強くなりたいと一心に願う美しい女性が眼前に佇んでいる。
「それから、私に剣術を教えてほしいのです」
私はもう、弱くて何もできない自分に嘆きたくはない。
首を垂れる呉葉を見て、千秋はかつての自分自身を重ねた。
父は処刑され、母は食い繋ぐために遊郭に入って体を売り、その後、病に罹って死んだ。
当時自分たち兄弟は幼くて、ただただ大人たちの助けを借りて生きていくことしかできなかった。子供の非力さを身をもって思い知り、今の呉葉と同じように力を欲したものだ。
暫時、千秋は黙考し、やがて口を開く。
「分かった」
了承の言葉が聞こえ、呉葉は反射的に顔を上げる。
「本当は断るつもりだったが、あんたからはそれ相応の覚悟が感じられた」
それに、断ったところであんたは俺が折れるまで頭を下げ続けるだろう。
初めて垣間見せた千秋の柔らかな笑み。
呉葉は一瞬惚けた後、謝意を述べた。
「ありがとうございます。千秋さん」
「千秋でいい。あと、これからは敬語も使うな」
「え、でも」
「律儀で礼儀正しい、淑やかな山賊がどこにいる」
「……分かりました。……あっ、わ、分かった……!」
砕けた口調に苦戦する呉葉に、千秋は声をあげて笑う。
普段は冷徹で凍りつくような美しさを放っている千秋だが、今は年相応の青年らしく、少し無邪気で爽やかな面様をしていた。
そんな素顔を見せてくれたことに、呉葉の口元は自然と綻ぶ。
「早速、明日から稽古をつけよう。それでいいか?」
「はい……あ、うん」
「しばらくは言葉遣いの修行も必要だな。まあ、いい。それと、お前の髪は結構長いから、稽古の時は邪魔になりそうだな。何かくくるものは……」
千秋が懐を漁っていると、彼の腰に短刀が佩かれているのが見えた。
「千秋さ……千秋。その短刀を私に貸してくだ……貸して」
たどたどしく言うと、千秋は「何をするつもりだ?」と問いつつ短刀を手渡してくれた。
呉葉はそれを受け取り、鞘から抜刀する。
そのまま自身の髪を勢いよく切った。
思い切った行動に、千秋は唖然とする。
「お、お前……!」
「ふう、さっぱりした」
これなら問題ないでしょう。
呉葉の赤髪は肩にぎりぎり届かないくらいの長さに切り揃えられた。
先ほどとは印象が打って変わり、千秋も言葉を失う。
「これは私のけじめでもある。今日から私は賊人になるんだから」
決意新たに生まれ変わった呉葉。
凛然とした麗しさに惹かれるかのように、千秋は一歩、また一歩と呉葉に歩み寄る。
「なら、お前はもう呉葉じゃない」
「え?」
魔性と呼ばれ、忌み嫌われ続けてきた赤紫の髪。
千秋はそれを一房手に取り、同色の双眸を見据えて言う。
「
「紅葉……」
その言葉の響きがとても心地よく聞こえ、呉葉――いや、紅葉は首肯した。
「良い名前。ありがとう、千秋」
秋を冠した名をもつ二人は微笑み合い、今日この日、強固な絆を結ぶに至った。
*****
千秋との修練は過酷かつ厳しいものだった。
当然のことながら、呉葉はこれまで一度も刀を握ったことがない。それゆえ、最初は刀の握り方や振り方という初歩的なことを習い、一年の間はひたすら素振りを繰り返すという途方もない反復練習をこなした。
「
そう言って、千秋は剣術を教える傍ら体術も紅葉に叩きこんだ。
彼は体技にも優れており、愛刀を握らずとも他者を圧倒させる強さに紅葉はひたすら感嘆した。
彼は一体、どれほどの努力と研鑽を積んできたのだろう。
きっと、血反吐を吐くような過酷な道のりを歩んで、ここまできたのに違いない。
そう思わずにはいられなかった。
時には傷を負い、時には己の未熟さに悔し涙を流し、また時には師である青年からの褒め言葉に歓喜する。
そんな日常を繰り返して、数年。
紅葉は、千秋と肩を並べられるほどの剣士に成長した。
しかし――
「紅葉。お前が次の
お前が皆を率いていけ。
彼は不治の病に侵され、余命幾ばくも無い身の上になってしまった。ついには、病床に臥せった彼の口から直接、頭の席を譲る意向を告げられてしまった。
「何言ってるの? 千秋はこれからも私たちを率いて、あの悪徳大名を倒す。そうでしょう?」
「これまで理不尽な運命に抗い続けてここまできたが、流石に己の天命からは逃れることはできない」
引き際はちゃんと
千秋は少し口角をあげて、虚空を見つめる。
紅葉と彼女の隣に座っていた千萩はやるせない面持ちで、視線を膝元に落とした。
「……なら、私じゃなくて千萩の方が」
「皆、他でもないお前が頭になることを望んでいる」
「そんな、こと……」
あるわけない。
そう言い終える前に、自身の肩にぽんと手が置かれた。
「千萩」
「兄貴の言う通りだ。オレも、紅葉が兄貴の後を継ぐのが一番いいと思ってる」
彼らには一生をかけても返し尽せない多大な恩義がある。自身が頭になることを彼らが望んでいるのなら、断ることはできなかった。
紅葉は両の拳を握りしめ、意を決する。
「……分かった。千秋と千萩がそう言うのなら」
紅葉が承諾すると、兄弟はほっと安堵したように頬を緩めた。
「紅葉。これを」
千秋は上体を起こし、傍に置いていた愛刀を紅葉に託した。
「俺たちは賊と呼ばれる立場にあるが、それはあくまで表面的で一方的に押し付けられた肩書に過ぎない。裏を返せば仁義を貫く義勇軍だ。真の賊は理不尽という名の暴力で人を支配し、踏みつける権力者たち」
これで、全てを断ち切るんだ。
千秋の切望に、紅葉は強く頷く。
「千萩。紅葉と皆を頼んだ」
「ああ。任せてくれ」
千秋は骨ばった手で拳を作り、前へと突き出す。
紅葉と千萩も、その意図を察して千秋の拳に自身のそれを突き当てた。
三者は互いを見つめ、〈猪千〉の合言葉を唱和する。
『いつの日も、
大義の道の先に、輝かしい光があらんことを。
翌日。
千秋は穏やかな朝日が昇ると同時に、静かに息を引き取った。
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