第8話 契機

 村の方から数多の喚声が鼓膜をつんざいたかと思えばたちまち静まり返り、呉葉は後方を振り返る。


「もしかして……」


 最悪の事態が脳裏を過り、つい村に戻りたいという衝動に駆られる。

 しかし、今引き返してしまえば経呉の命を危険に晒してしまう。


 ――多喜さん、優一さん、みんな……。


 呉葉はその衝動をぐっと堪え、再び前を向いた。そのまま駆け出そうとした刹那――


「見つけたぞ」


 不意に右耳から悪鬼の囁きがした。

 反射的に体がのけ反り、一歩後退する。

 

「こんなところに三年も隠れていたとはな」


 見れば、凄絶な面差しでこちらを睨み据える義政と二人の部下の姿が。

 彼の右手には、真紅に染まった刀。それをとらえるや否や、呉葉の花顔が瞬く間に青ざめていく。


「夫妻は死んだ。我々に抗おうとした一部の村人もな」


 他でもない、お前のせいで。


 じりじりと距離を詰める義政たちに対し、呉葉は経呉を庇うようにぎゅっと抱きしめて、さらに後ろへと下がる。同時にふるふると首を横に振った。


「そ、そんな……」


 背中が木にぶつかり、呉葉は力が抜けてその場に頽れた。

 悲哀と慨嘆、それから自責の念が己の心中に渦巻いて、言葉を失う。


「忌々しい醜女の血は、今日ここで絶つ」


 魔の手が忍び寄り、咄嗟に呉葉は自身の体に鞭打って立ち上がる。

 だが、すぐに義政が呉葉の髪を乱暴に掴んで拘束した。


「あっ!」


 苦悶の声とともに、義政が部下たちに頷きかける。彼らもまた顔を縦に振って、呉葉の手から掌中の珠を強奪した。

 心身が引き裂かれるような経呉の泣き声が、森林中に響き渡る。


「経呉っ!!」

「まずは子供からだ」

「やめて!!」


 経呉を取り返そうと手を伸ばすも、義政が容赦なく赤紫の髪を引っ張ったので経呉から引き離される。

 

「やれ」


 義政の合図に、経呉を首根っこを押さえた部下は首肯する。


「経呉っ!」


 泣き叫ぶ我が子に、鋭利なものが肉薄する。


「お願い!! その子だけはっ……!!」

「安心しろ。お前もすぐに逝かせてやる」


 自身の首筋にも、鈍色と真紅の刀が突きつけられた。

 それでも、呉葉は無我夢中で経呉に届かぬ手を伸ばす。


「経呉っ!!」


 溢れ出る涙が頬を伝い、刀に落ちた瞬間――


 





 揺らいだ視界のなかで、小さくて鮮やかな赤い花が咲き、散った。







 時が止まったかの如く、静寂が空間を支配する。

 呉葉自身も、己の心臓が止まったかのような錯覚を覚えた。


 目の前には、地面に投げ捨てられた最愛の我が子の亡骸。

 本当なら目を背けたくなるほどの酷薄な情景だというのに、呉葉はその惨い情景に視線を向けたまま茫然自失していた。


 激しく哭泣することも、憤怒に身を任せて義政たちに襲いかかることもせず。

 ただひたすらに涙を流しながら、虚ろな赤瞳に経の忘れ形見を映していた。


「あとはお前だけだ」


 義政は上段の構えをとり、呉葉に狙いを定める。


「絶望の果てにね」


 死の宣告が風に紛れて、ついに落葉しかけたその時――何かがぼとりと落ちる鈍い音が生じた。


「え?」


 義政の部下の一人が微かに震えを帯びた音吐に次いで、またもや何かの落下音が呉葉の耳に届く。


 ――なに……?


 どうして自分はまだ生きているのか。

 そんな疑問とともに、音のした方へゆっくりと顔を向ける。するとそこには、義政とその部下たちの首が無造作に転がっていた。

 綺麗に一刀両断された首元からはだくだくと鮮血が流れ、草地の翠緑を血赤に染め上げる。


 吐き気を催してしまうような地獄絵図を生み出したのは、見知らぬ青年だった。

 いつの間にやってきたのか、血の池のほとりで一人静かに佇んでいる。


 後ろ姿だったので素顔こそ見えないが、赤茶の長髪をしばっており、動物の毛皮で作られた奇抜な衣服に身を包んでいる。

 右手には義政たちの息の根を絶ったと思しき打刀。切っ先から紅血が滴り落ちては赤池に溶ける。


「クソッ……間に合わなかったか」


 幼子の亡骸を一瞥して、突如として現れた青年は悔しげに呟く。そして、ゆっくりと振り返った。


 長身痩躯の、精悍な面立ちをした美男だった。

 薄く日に焼けた健康的な肌をしていて、左頬には猪を模した刺青がある。

 一見、無頼漢じみてはいるが、彼の内外から放たれている得も言われない高潔さと清真な雰囲気が自然と呉葉の視線を惹きつけた。


 ――誰……?


 どうして私を助けてくれたの?

 あなたが義政たちを殺したの?


 未だ翳った双眸で言外に問う呉葉に、謎の青年は「あんたが呉葉だな」と歩み寄っては彼女の前に片膝をつく。


「すまない。あんたの子供を守ってやることができなくて」


 俺がもう少し早くここに来てれば、あの子は死なずに済んだっていうのに。


 深い悔恨が青年の端整なかんばせに刻まれる。

 だが、そんなことよりも――


「どうして……私の名を……」

「守屋のじいさんとばあさんから頼まれてたんだ。自分たちに何かあったら、あんたを守ってやって欲しいって」

「優一さんと、多喜さんが……?」


 青年は血振りして納刀するや否や、呉葉の前に手を差し出した。


「早く行くぞ。ここはあんたにとって刺激が強すぎる。いつまでもいていい場所じゃない」


 しかし、呉葉はすぐにその手をとることなく、青年を見上げて訝しく誰何する。


「あの、あなたは……」


 青年は仕方が無いと言わんばかりに小さく嘆息して、素性を明かした。


「俺は猪飼千秋いかいちあき。山賊のかしらだ」

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