第3楽章 紅葉

第7話 誘引の調べ

 月日は瞬く間にして流れ、十月ほど経った頃。

 呉葉は無事に男児を出産した。

 

 子の名は経呉きょうご。文字通り、経と呉葉の一字をとって名付けられた。

 呉葉と守屋夫妻の手を焼かせるほどの活発でお転婆な子供だったが、人懐こく、村の住民からも可愛がられた。


「呉葉せんせー、これは何て読むの?」

「ああ、これはね」


 経呉が生まれて二年。

 呉葉は経呉を夫妻に預けて、村の子供たちに手習いを施していた。


 都や城下町とは異なり、辺鄙な村では藩校や塾のような教育機関が無いため識字率が著しく低い。大人でさえ読み書きのできる者がほとんどいなかった。

 そのため、村唯一の学識者であった守屋夫妻に代わり、呉葉が子供たちに向けて手習いを始めた。


「ねえ、せんせい! 今日も筝を聞かせてよ」

「わたしも聞きたい!」


 ふと、子供たちがせがんできたので呉葉は苦笑する。


「今やってる課題が全部終わったらね」

「やったあ!」

「ありがとうせんせい!!」


 目を輝かせて、子供たちは熱心に筆を滑らせていく。

 自分の琴の音が気に入られていることを嬉しく思う一方で、手習いよりもそちらに関心があることを複雑に思わざるを得ない。


 だが、経呉同様、子供たちが笑顔ですくすくと育ってくれるに越したことはない。

 子供の成長と健康こそが、大人にとって何よりの幸福なのだから。




 手習いが一段落したところで、呉葉は子供たちの要望通り筝を奏でた。

 典雅で清らかなその音色は子供たちだけでなく村中の人々の胸を打ち、やがてその評判は近隣の地域にまで喧伝されたほど。

 そして遂には、呉葉の異質とも言える美貌を偶然垣間見た他所よその商人によって、彼女の噂は瞬く間に広がっていった。希奈佐村に赤紫色の髪と瞳をもつ魔性の美女がいる、と。

 

「名は何というのだ」

「ああ、どうか姿を見せておくれ」

「噂によれば、思わず言葉を失ってしまうような美しい筝を奏でるのだとか」

「ぜひとも我々にもその音を聞かせて欲しい」


 呉葉の浮世離れした姿に畏怖し、近づかないようにしておこうと距離をとる者がいる一方で、好奇心や色欲から彼女を一目見たいと村を訪れる有象無象が多数現れた。おかげで呉葉は守屋夫妻の屋敷から出ることすらままならない。


 しかし、正直なところそれだけならまだ良かった。

 一介の商人の口から飛び出した呉葉の存在は、絶対に引き寄せてはならない者たちの耳にまで届いてしまうこととなる。




   *****




 ある日の昼下がり。

 呉葉は離れにある自室で、すやすやと眠りこくる経呉の頬を撫でながら思案していた。


 ――もう、私たちはここにいられない。


 三年近く経ったとはいえ、あの三原家が自身のことを諦めたとは思えない。

 今もなお血眼になって探し続けているだろう。となると、自分の存在が公になってしまった以上、いずれ希奈佐村にやってくるのは確実だ。


 ならば、守屋夫妻や村の人々に危害が及ばないよう、早々にここを発たなければ。


 呉葉が決心し、母屋にいる優一と多喜の元へ向かおうと腰を上げた途端――


「鹿野呉葉はどこだ!」


 玄関の戸口が強く叩かれると同時に、聞き覚えのある男性の声が外から響いた。

 少し離れたところから聞こえたその声に、呉葉は大きく目を見開いて身震いする。


「この、声は……!」


 間違いない。

 三年前、自分たちを執拗に追いかけ続け、挙句の果てには経を殺めた三原家の武臣にして刺客。


「赤紫の髪と目をした女がここにいるだろう。その者を早く我々に差し出せ!」


 義政だ。


「……そんな、もうここに来ているなんて」


 悪い予感が的中してしまったうえに、思っていたよりも三原家の追尾が早いことに驚きと恐怖を隠せない。

 だが、今は怖気づいている暇は無かった。危険が迫っていることを露ほどにも知らず、未だ夢の中にいる経呉を抱えて、呉葉はひとまず自室を後にした。


「呉葉様!」

「多喜さん!」


 部屋を飛び出して、母屋に繋がる廊下を足早に駆けていると多喜と鉢合わせた。


「主人が義政さんたちの目を引きつけて時間を稼いでいます。今のうちに早く裏口へ」

「でも、優一さんと多喜さんに何かあったら……! それに、村の人たちも……」

「私たちなら大丈夫ですから、今はご自身と経呉様の安全だけをお考えください」


 多喜に背中を押され、呉葉は後ろ髪を引かれる思いで裏口へと急いだ。

 外に出ると、優一と義政が激しい口論が耳朶を打った。


「鹿野呉葉という女性はここにはおりません。商人の噂は、おそらく旅芸人の女性でしょう」

「まだ白を切るつもりか。貴様らがここであの醜女を匿っていることは分かっている。早く女を出せ」

「その女性があなた方に一体何をしたというのです」

「我々にではない。あの女は経様をたぶらかしたうえに、子種を植え付けさせた。今ではその子供を産み、育てていることだろう。この片田舎で悠々自適にな!」


 あの女は崇高なる三原の名と血を穢した。それだけで万死に値する。


 三年経っても変わることのない、己に対する侮蔑と凌辱。

 呉葉は唇を噛み、罵詈雑言を振り払うかの如く近くの雑木林へ身を投げた。

 すると、眠っていた経呉が目を覚ます。


「じいじとばあばは?」

「ごめんね。あともうちょっとしたら、じいじとばあばに会えるから」


 舌足らずなあどけない問いかけに、呉葉が苦し紛れの嘘をつく。


「ここどこ? おうちは?」

「ここはおうちから近い森のなかよ。今日はお天気が良いからお母さんと一緒にお散歩しましょう」

「やだ! じいじとばあばとあそぶ!」

「あと少ししたらおうちに帰るから……」

「やだっ! いまかえるの!!」


 ぐずりだす経呉を呉葉は必死にあやす。が、ついに経呉はわんわんと泣き始めた。 

 これでは義政たちに居場所を告げているも同然だ。


「経呉……!」

「おうちかえるう!!」


 当然、幼子である経呉は聞く耳を持たない。

 泣き止ませることは不可能だと、呉葉はとにかく義政たちと距離をとろうと雑木林の奥へと突き進んだ。




 その頃、義政とその部下たちは経呉の泣き声に気づき、雑木林の方へと目を向けた。


「なぜ林の方から子供の泣き声が?」

「まさか……」


 部下たちの不審がる声を背に、義政は鋭い眼光で雑木林を見据える。そして、呉葉たちの元へと歩き始めた。


「待てっ!」

「邪魔だ」


 優一が義政の肩を掴んで引き留めようとするが、老翁が屈強な武士に敵うはずもなく。優一はそのまま地面に突き飛ばされた。

 一瞬、苦悶に顔を歪めるも、優一はめげずに義政率いる刺客集団を追い、部下の一人の顔面を勢いよく殴打した。


「絶対に行かせん!!」

「貴様ッ」


 殴られた部下に代わり、他の者たちが反撃と言わんばかりに優一を殴り、蹴飛ばす。

 全身から血を流し、あざだらけになった優一はついに地面に倒れこむ。その際、いてもたってもいられなくなった多喜が駆け寄った。


「あなた!!」

「死にたいか?」


 夫婦に鋭利な凶刃が忍び寄る。

 冷え冷えとした怒気を滲ませて、義政は優一たちに刀を向けた。

 だが、夫妻は間近に迫った死に臆することなく、きっと彼らを睨みつける。


「私たちは誓ったんだ」


 悪業の力に屈することなく、主の幸福を守り抜くと。


 いつの間にか、騒ぎを聞きつけた村人たちが集まってきていた。なかにはすきくわなどを武器として携えている者もいる。

 一致団結して呉葉たちを守ろうとする村民の勇姿に、義政は静かに青筋を立てて地を這うような低声をぶつける。


「お前たちも、あの醜女の手中に帰したというわけか」


 実に憐れで情けない。


 村民たちが怒号をあげながら襲い来ると同時に、部下たちが迎撃に向かう。

 一方で、義政は刀を大きく振りかざした。


「せいぜいあの世で、仕える主を間違えたことを後悔するんだな」

「後悔などしない」


 優一ははっきりと断言する。


「地位と権力を笠に着て、人を従わせることでしか御家の繁栄を保てない主に仕えているお前たちこそ、あの世で後悔しろ」


 義政の面様がこれ以上ない憤怒の色に染まる。

 その刹那、二輪の真紅の花が狂い咲いた。

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