第6話 恩人

 

 呉葉――。




 大好きな人の呼声がする。




「経様……?」


 呉葉は一人、何も見えない暗闇のなかをさまよっていた。

 どれくらいの時間が経ったのかは分からない。その場にうずくまり、不安と恐怖に心が押しつぶされそうになっていると、ふと温静な声音が耳朶に響いた。




 呉葉――。




 呉葉はゆっくりと立ち上がり、声がする方を振り返る。

 視界には、闇路の出口と思しきまばゆい光輝があった。そのなかで、最愛の人がこちらを向いて佇んでいる。




 呉葉、おいで。




 その声音にいざなわれ、また導かれるように呉葉は一歩、また一歩と足を踏み出す。


「経様」


 差し伸べられた手を掴み取らんと、自身も精一杯手を伸ばす。

 そして、お互いの熱が触れ合った瞬間――彼を包んでいた光が暗闇を打ち払うかのように弾けた。




   *****




「呉葉様!」


 呼声がして、呉葉は瞼をゆっくり持ち上げる。

 ぼんやりとした視界がだんだんと明瞭になっていくと、自分の手が天井に向けて伸ばされていることに気がついた。


 ――夢……?


 夢のなかで経と再会できたことを喜ばしく思う反面、現実ではもう会えないのだと悲嘆する。相反する二つの感情がこみあげて、呉葉は涙を零してしまいそうになった。

 

「ああ、良かった……。お目覚めになられて」

「お加減はいかがですか」


 悲涙を押し留めたのは、多喜と老爺ろうやの声だった。

 視線を移すと、安堵した面持ちでこちらを見つめている夫妻の姿が。


「私……」


 起き上がろうとした呉葉を、「どうか、そのままで」と老爺が制止する。


「ご挨拶が遅れましたな。私は守屋優一ゆういちと申します。今はこの希奈佐村の村長をしております」


 呉葉様とお会いできて、大変嬉しゅうございます。


 多喜同様、温厚篤実な印象を受ける好々爺こうこうやだった。

 白髪に立派な白髭を蓄えたその姿は、まるで御伽草子に出てきそうですらある。


「呉葉と申します。訪問早々、お見苦しい姿を見せてしまい申し訳ありません」

「いやいや、慣れぬ長旅でさぞお疲れでしょうから無理もない。ですが、てっきり坊ちゃんとご一緒だと思っていたのですが……」

「……それは」


 赤瞳を翳らせて、呉葉は重く残酷な真実を夫妻に打ち明けた。


 経は自分を逃がすために囮となり、命を落としてしまったこと。

 今、自分は身籠っていること。

 寄る辺無く、もうここに腰を落ち着けるしか道は無いのだということ。


 訥々とした告白に、夫妻は驚愕すると同時に涙を流した。

 両者の悲愴に満ちた面様おもようを目の当たりにし、呉葉は胸が締め付けられる。そして、申し訳なさでいっぱいになった。

 ついに自分自身も我慢していたものが溢れ出てしまう。


「経様が果ててしまわれたのは、他でもない私のせいです」


 本当に、ごめんなさい……。


 何度も涙ながらに謝罪を繰り返す呉葉に、夫妻は激しくかぶりを振る。


「謝らないでくださいまし。呉葉様のせいではありませんよ」

「むしろ、あなたと坊ちゃんは三原という血の呪縛にずっと苦しめられてきた。気に病む必要は無いんです」

「ですが……」


 優一は皺だらけの手で、呉葉の繊手を包み込む。

 経とはまた異なる優しい温もりが、呉葉の弱りきった心に染み入った。


「坊ちゃんは、あなた様とご自身の子を守れたことにきっと安堵していることでしょう。そして、誇りに思っているはずだ」


 家のしがらみを断ち切り、己の意志を最期まで貫き通したことを。


 夫妻のひどく優しい笑みと言葉に、呉葉は口元に手を添えて嗚咽を漏らした。


「これからは遠慮なく私どもを頼ってください。辺鄙な土地ゆえ、大したもてなしこそできませんが、呉葉様と御子に何一つ不自由はさせません」

「ええ。どうか心安らかにお過ごしくださいませ」


 優一に続き、多喜も頷いてくれる。


 ああ、どうしてこの人たちはこんなにも優しく、強いのだろう。

 もっと自分を責めたっていいのに。敬愛する主の死を嘆き、声をあげて泣いたっていいのに。

 その時に浴びせられる罵倒が己に深く突き刺さろうとも、それが真っ当なことだと受け止められたにもかかわらず。


 夫妻は非難することなく、寄り添い、迎え入れてくれた。


「ありがとうございます……!」


 この人たちから与えられた恩に報いるには、どうしたらいいのだろう。

 今の自分にできることは何だろうかと考えながら、呉葉は夫妻に深く首を垂れた。





 その日の夜。

 呉葉は夫妻と夕餉をともにしながら、いろんな話を聞いた。


 彼らは十年ほど前まで経の側仕えとして働いていたが、多喜が流行り病に罹ってしまったことを理由に解雇を言い渡され、故郷の信野に帰らざるを得なくなったらしい。

 多喜が流行り病から回復してからは、もう一度仕えることができないか央都おうとの三原邸へ赴いたが、その時には既に別の者が経の従者として傍に侍っていたという。


「坊ちゃんは私らが戻ってくると信じて、従者の席を空けておこうとしなさったそうですが、旦那様が無理やり他の者をあてがったそうで。以来、坊ちゃんは罪悪感からずっと私らを気にかけて援助してくださっていたんです」


 時には自ら信野に足を運び、様子を見に来てくれたのだと優一は語る。


「だから、坊ちゃんが『一緒になりたい女性がいるから、力を貸して欲しい』とおっしゃられた時はすごく嬉しかった」

「多喜さん……」

「主人から頼りにされて嬉しくない従者はいませんから。ねえ、あなた」

「ああ」


 至極嬉しそうな夫婦を見て、呉葉の口元も自然と綻ぶ。


「呉葉様。どうか、ここを我が家だと思ってゆっくりおくつろぎくださいね」

「はい。ありがとうございます」


 多喜に謝意を述べ、呉葉は彼女特製の具だくさん味噌汁を一口啜り、舌鼓を打った。


「美味しい!」

「あら嬉しい。お口に合ったようで何よりです」

「ささ、遠慮せずにたくさん食べてください」


 張り詰め、疲弊しきった心身がほぐれていく。

 危険やそれに伴う不安が完全に消え去ったわけではない。しかし、今この瞬間だけでも自身の心が穏やかであることを、呉葉は幸せに思わずにはいられなかった。

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