第5話 旅路

 太陽が中天を通り過ぎた頃。

 呉葉は街行く人々に道のりを尋ねつつ何とか港に到着し、無事に輪東行きの船に乗船することができた。


 ――経様……。


 いくら待っても、結局愛する人は現れなかった。

 緩やかな潮風が頬を吹き撫で、零れ落ちる雫をさらっていく。

 

「経様っ……!!」


 嗚咽し、呉葉はその場でくずおれる。


 彼が一向に姿を見せない――それが何を意味するのか、分かりたくなかった。

 きっと彼は戻ってくる。あの優しい笑みを浮かべて「呉葉」と呼んでくれる。

 そう信じて疑わず、ずっと港で待ち続けていた。


 けれど、経と再会することは叶わなかった。


 しばらく忍び泣いていると、またもや吐き気が襲った。

 呉葉は口元を手で覆い、必死にせり上がったものを抑え込む。しかし、船に揺られている状況も相まって、我慢できずにそのまま海面に嘔吐おうとしてしまった。


 他の乗客が不快そうな面持ちで呉葉を蔑視する。

 その視線から逃れるように、呉葉は場所を移して船の縁に座り込んだ。

 そして、下腹部に手を添える。


「……そうね。私には泣いてる暇なんかないわ」


 きっと、この小さな命が自分を叱咤してくれたのだ。

 泣かないで。あなたは一人じゃないから。そう励ましてくれているような気がした。


「早く、希奈佐村へ」


 経のためにも、自分は何としてでも生きなければならない。


 呉葉は涙を拭い、前を向く。

 大海原が隔つその先には、薄っすらと輪東の山々が見え始めていた。




    *****




 輪東に上陸する時には既に陽は眠りにつき、代わりに月が目覚めていた。


 闇夜のなかを身重のうら若い女性が一人で行動するのは危険極まりない。

 呉葉もそれを重々承知していたので、港の近くにある宿屋に身を寄せた。


 一泊した翌日、呉葉は港町から信野まで数日がかりで駕籠かごを乗り継いだ。信野から希奈佐村までは、市場に青菜を売りに来ていた村出身の女性に案内を頼み、日暮れには無事に村に着くことができた。


「ここが、希奈佐村……」

「村長の家はこっちだね」


 世話になった女性は守屋夫妻の住む家まで案内してくれた。


 不慣れな長旅で、体がなまりのように重い。道中、何度も吐き気や眩暈めまいに襲われ、その度に挫けそうになった。

 しかし、この決死の長旅は自分のためだけではないのだと、自らに強く言い聞かせ、心に鞭打ち、歯を食いしばってここまで来た。


「村長、多喜たきさん。いるかい?」


 女性が戸を叩いて訪問を告げる。

 すると、「はーい」と老齢の女性の声が返ってきて、すぐに戸が開いた。

 姿を見せたのは、老竹色おいたけいろの着物を纏った老婆だった。彼女が守屋夫人こと、多喜だろう。心安らぐような柔和な微笑が印象的な人だった。

 

ふみさん。どうしたの?」

「村長と多喜さんに会いたいっていう人がいてね。連れてきたのさ」


 文と呼ばれた案内役の女性が、背後にいた呉葉を振り返る。

 呉葉は一歩前に出て、守屋夫人こと多喜にお辞儀した。


「初めまして。鹿野呉葉と申します。突然の来訪、どうかお許しください」


 多喜は一瞬目を瞠った後、感極まったように瞳を潤ませた。そして、呉葉の両手を掴んで言う。


「呉葉様……! 遠路はるばる、よくお越しくださいました。お話は坊ちゃんから伺っております」


 多喜が中へ通してくれ、呉葉が守屋家の敷居を跨いだ瞬間――突如、視界がぐらりと揺らいだ。

 そのまま呉葉はぷつりと糸が切れたかのように意識を失い、その場に伏した。


「呉葉様っ!!」

「お嬢ちゃん!」


 多喜と文が肩を揺すり、懸命に声をかけるが、呉葉の瞼は堅く閉ざされたままだった。

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