第4話 想いを胸に
朝日が昇り、穏やかな秋晴れの日差しが注ぐ。
今日も何気ないいつも通りの一日が始まろうとしているなか、呉葉と経は自分たちを捕捉しようとする魔の手から逃げ続けていた。
負傷してもなお、義政はすぐに立ち上がって二人を追いかけてきた。
だが、部下の二人の姿は見えない。おそらく、義政が統基への報告と応援のために三原家へ向かわせたのだろう。
致命傷でないとはいえ体を動かせば激痛を伴うはずなのに、彼は血走った眼で呉葉と経の背を見据え続けている。主を惑わせた
「経様……!」
「しっかり捕まっていろ」
滂沱の汗を流し、息を荒げながら経は答える。
何せ、ずっと身重の自分を抱え続けたまま逃走しているのだ。このままではいずれ追いつかれてしまう。
――今の私は足手まとい。完全に経様の重荷になってしまっている……。
これ以上彼に迷惑をかけ、危険に巻き込むわけには。
呉葉は唇を引き結び、断腸の思いで降参を呼びかけようとした時――
「絶対に守る」
意図せず、経が呉葉の言葉を押し留めた。
まるで、彼が自分自身に言い聞かせるような凛とした声音。果てることのない意志。
その呟きだけで、呉葉のなかに芽生えつつあった諦念は瞬く間にして消え去った。
己が身を投げ打つことは彼の矜持を
彼から受け取った想いを、他でもない自分が手放すわけにはいかない。
呉葉はこみ上げてきたものを必死に抑え、経の首元に回していた自身の手をしっかりと掴んだ。
それから人気のない路地裏に入り、物陰に身を潜めて義政の目を振り切ることができた。だが、まだ安心できない。彼は目を皿にして自分たちを探し続けている。
経の身から吹き出る汗を手巾で拭っていると、表通りの方から複数の声が聞こえた。
「お前たちは向こうの方を探せ」
『はっ!』
「見つけ次第、女を殺せ。経様は、捕捉が難しいようであれば亡き者にして構わない。統基様がそう仰せになった」
万が一の時は、躊躇せず息の根を絶て。
義政と部下たちのやり取りに、両者は戦慄する。
特に呉葉は徐々に血の気が引いていき、口元を両手で覆った。
「そんな、経様まで……!」
「家を裏切った代償。三原の利益にならない者は、実の息子であっても容赦なく切り捨てる、か……」
あの人が考えそうなことだ。
経は瞳を伏せて薄く笑った後、すぐに表情を引き締めて呉葉に向き合う。
「呉葉。これを」
経は懐から小さな紙きれを取り出し、呉葉に手渡す。
おずおずと受け取って紙面に視線を落とすと、そこには輪東の北部に位置する
「この村には、昔三原家に仕えていた
「ま、待ってください。経様は……」
「僕は義政たちの目を引きつけるため、ここに残る」
経の言葉に、呉葉は激しくかぶりを振った。
「経様をおいては行けません! それに、あの方々は経様でさえ
涙ながらに呉葉は訴える。
「大丈夫。彼らを倒したら、すぐに僕も後を追いかけるから」
経は気丈に笑むが、呉葉には彼の心意が分かっていた。
既に周囲は義政たちによって囲まれている。見つかるのも時間の問題だ。
経は呉葉と子だけでも生かそうと、己を犠牲にする覚悟でいるのだろう。
「呉葉」
経の手が、自身の頬へと伸びる。
しかし呉葉はその手を両手で掴み取り、自身の膝元に留めた。
今回はその温もりを感じたくなかった。彼から受け取る愛を、最後だと思いたくなかった。
「いや……嫌です!」
惜別の悲涙が頬を伝い、手の甲に落ちる。
その刹那、勢いよく体が経の元へ引き寄せられた。
愛してやまない柔和な声音が耳元に囁かれる。
「僕たちは一心同体だ」
君は一人じゃないよ。
呉葉は経の胸元に涙顔を埋め、嗚咽を漏らした。
経は彼女を落ち着かせるように背を撫でる。
「君を送り出すのは心苦しいが、どうか体を労わって無理をしないように」
「経様……」
最後に口づけをして、経は抱擁を解く。そのまますっくと立ち上がり、義政たちがいる方へと向かった。
「経様!!」
待って。
行かないで。
私たちをおいて、逝こうとしないで。
「経、様……!」
伸ばされた手の先にある背は、瞬く間に遠ざかっていく。
呉葉は両手を地について、面伏せた。
数多の丸い染みが地面に点在していく。
すると、複数の喚声が鼓膜を震わせた。
涙に濡れた顔を持ち上げ、物陰から上体を出して声のする方を注視する。
そこには、四面楚歌になった経の姿が。
「経様!」
彼の周りを数多の凶刃が囲い、肉薄していく。
ついに、義政が刀を大きく振りかざし斬りかかった。次いで部下たちも彼に続く。
経は苦悶の面差しで初撃をかわし、背後から襲ってきた白刃を受け止めて鎬を削る。
本当はこの場から離れたくない。
けれど、このままじっとしていれば、きっと見たくないものを見てしまう。
何より、経の覚悟を無下にしてしまう。
呉葉がぎゅっと両の拳を握りしめ、後ろ髪を引かれる思いで立ち上がった。
そのまま秘かに路地裏を進み、彼らから遠く離れたところで表通りに出る。
走馬灯の如く、彼との思い出が鮮烈に脳内を駆け巡った。
止まらぬ涙を拭うこともなく、呉葉は無我夢中で輪東行きの船が出る港まで疾走した。
――呉葉は無事にここを抜け出せただろうか。
憂慮の念を浮かべつつ、経は義政たちの猛攻を
だが、呉葉を抱えて逃走していた時に体力を大幅に奪われ、次第に体が言うことを聞かなくなっていた。ついには背後からの上段斬りを防げず、攻撃を許してしまう。
「がはっ!!」
自身の背から血しぶきが舞い、うつ伏せに倒れる。
焼けつくような激しい痛みに表情を歪ませていると、不吉な影が己を覆う。
「ご覚悟を」
冷徹な死の宣告が降りかかった。
辛うじて目線を持ち上げると、義政が切っ先を胴部に向けていた。
――ああ、これで最期か……。
経は静かに瞼を閉じる。
「呉葉」
愛している。
願わくば、君とこれから生まれてくる子にたくさんの幸福があらんことを。
「御免!」
鈍く光る義の刃が、純心を貫く。
息絶えるその最期まで、青年は少女を想い、愛し抜いた。
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