第2楽章 黄葉

第3話 恋路を阻む茨

 しばらく経ったある日。

 いつも通り、筝を奏でていると突如吐き気が襲った。

 顔面蒼白になって口元を押さえる呉葉に、指南役の女性が案じの声をかける。


「呉葉さん?」

「す、すみません。少し気分が悪いのでかわやへ……」


 女性の返事を待たずして、呉葉はすぐさま自室を後にした。

 そのまま厠へ急行し、ついに耐え切れなくなってせり上がったものを吐き出す。

 

「……まさか」


 そういえば、いつもならとっくに来ているはずの月のものがまだだ。

 それにここ最近は体調が優れないことが多く、だるさや軽いめまいが続いていた。


 呉葉は咄嗟に下腹部に手を添える。


「私は経様の子を……」


 もし本当に身籠っているのであれば、只事ではない。

 周囲にこのことが知られれば、大変なことになる。

 だが、不安に駆られる一方で心の底から喜ぶ自分もいた。今、自分のなかには新しい命が宿っているかもしれない。愛の結晶を神様が授けてくださったのだと。


「早く経様にお伝えしないと……!」


 相反する感情の翻弄されつつも、呉葉はすぐさま自室に戻った。そして、体調が悪いことを師に告げて稽古をお開きにしてもらい、早速経への文を認めた。





「呉葉!」


 家から少し離れたところにある河川敷に腰を下ろしていると、愛おしい声音が鼓膜を震わせた。

 振り返ると、肩で息をしている経が佇んでいた。侍女に持たせた文はどうやら無事に彼の元へ辿り着いたようだ。


「身籠ったというのは本当か?」

「お医者さまに診ていただかないことにはまだ何とも言えませんが、おそらく」


 経は感極まったように「そうか」と呟き、呉葉を優しく抱擁する。


「ですが、このことを周囲に知られたら……」

「知られる前に家を出る」


 呉葉は息を呑み、経を見上げた。

 経は抱擁を解いて、呉葉の華奢な両肩を掴む。


「今日はとうとう話にすら取り合ってくれなかったんだ。これ以上、何を言っても両親は聞く耳を持たない」

「そんな……」

「だから、明日ここを発とう」


 火急の事態に、呉葉は当惑した。

 まさか、明日にはもう両親たちと別れを告げなければならないなんて。

 

 ――でも、このままではいずれ父上たちに身重だと気づかれてしまう。


 それに、もう経が隣にいない人生なんて考えられなかった。

 経が別の女性と添い遂げるなんて、耐えられなかった。


 一度、足を踏み込んでしまったら最後。愛欲の沼からは抜け出せない。


 経の提案に、呉葉は意を決して頷いた。

 経も頷き返して、両者は近くの医院へ赴く。


 そこで正式に呉葉の妊娠が言い渡された。




   *****




 朝月夜あさづくよ

 まだ鳥の鳴き声すら響かぬ閑静とした空気が漂うなか、呉葉と経は先ほどの河川敷で落ち合った。


 呉葉は最小限の荷物を風呂敷に包んで携え、経は珍しく真剣をいていた。

 次代当主として心身ともに武士に劣らぬ力を身につけろと、彼は幼い頃から厳しい鍛錬を課されてきた。だが、刀を抜いてその穂先を向けるのが赤の他人ではなく、実の両親や親しい従者たちになろうとは、彼自身露ほどにも思わなかっただろう。


「行こう」


 経の言葉に、呉葉は首を縦に振る。

 手を繋ぎ、両者は新しい人生を歩むべく一歩を踏み出した。


 ――父上、母上、みんな……。


 今までありがとうございました。


 自室には涙ながらに感謝と謝罪を綴った文を置いてきた。

 両親や侍女たちがそれを読んだ瞬間、きっと彼らは自身に失望するだろう。主家の子息と不義の仲になり、そのうえ懐妊したともなれば憤激するに違いない。


 ――親不孝で、恩を仇で返してしまうような愚かな娘で本当にごめんなさい。


 涙が一筋、頬を伝う。


 ――それでも私は、この方とともに生きたいのです。


 恋路の闇にとらわれたとしても、そのなかで淡く光る小さな幸福を掴み取りたい。 

 呉葉は涙を拭い、経を見やる。


「行き先は決まっているのですか?」

「ああ。まずは輪東のほうへ向かう」


 両者が今後の予定を話し合っていると、突然彼女たちの行く手を塞ぐ不吉な人影が複数現れた。


「やはり、その女と密通しておりましたか」


 呉葉と経は息を呑み、体を強張らせる。

 人影は三人。真ん中にいる初老の男が冷厳とした声音で言った。


義政よしまさ……!?」


 彼らは三原家の護衛を担う武臣だった。

 特に義政と呼ばれた男は経の父、統基とうきの近侍を務めている。


「どうしてお前たちがここに!」

「あなた様の御父上から命じられたのです」


『経が頑なに縁談を受け入れようとしない理由。もしかすると、奴は鹿野の娘と不義の仲にあるかもしれない。なぜか経は昔からあの醜女のことをよく気にかけていたからな」


 しばらく、愚息の動向を監視しておいてくれ。


 一連の経緯を聞き、経は歯噛みしながら呟く。


「父上がそんなことを……」

「今お戻りになれば、統基様もきっとお許しになるはずです」


 そんな卑しい娘のことはさっさと忘れて、我々とともに帰りましょう。


 義政が手を差し出す。

 だが、経は「ふざけるな」と煮え滾る憤怒を滲ませて、従者たちを睨みつける。


「呉葉は卑しい娘なんかじゃない。容姿だけで差別して彼女の心や人柄を見ようとしないお前たちのほうがよっぽど卑しく醜い」


 彼女を侮辱することだけは絶対に許さない!


 自身を背後に庇い、雄壮たる威勢を貫く経に呉葉は思わず感嘆の息を漏らした。

 だが、経の強堅な姿勢を前にしても顔色一つ変えず、義政は冷厳な眼差しで射抜く。


「次代当主ともあろう御方が、まさかこのような卑賎な醜女に籠絡されるとは。実に嘆かわしい限りですな」


 ならば、力づくで不義の仲を絶ち切るまで。


 父の刺客たちが白刃を抜く。

 経も抜刀し、臨戦態勢をとる。


「経様……!」

「大丈夫だ、呉葉。君とお腹の子は必ず僕が守る」


 幼い頃、そう約束しただろう?


 経の気丈な笑みを信じて、呉葉は首肯する。


「どうか、無茶だけはしないでください」


 一方、義政は経の口から放たれた衝撃的な事実に怒気を露にしていた。


「何ということだ! あの女、経様をもてあそぶだけに飽き足らず、子種まで植えつけさせるとはっ……」


 許すまじ!


 義政と残り二人の武臣が一斉に経へ襲い来る。


「経様!」


 やはり、一対多数では分が悪すぎる。それも相手は武士だ。

 いくら経とて、この者たちを鎮圧させることはできないのではないか。


 不安と恐怖に耐えられなくなり、呉葉は堪らず愛しい人の名を叫ぶ。

 しかし、経はひどく凪いだ双眸で凶刃を見切り、目を瞠るような速さで彼らの背後をとった。

 そして、彼らの腕や足に鋭利な斬撃をお見舞いする。


 血潮が弾け、痛みに悶えるうめき声が鼓膜を揺さぶる。

 だが、彼らが絶命することは無かった。温情ゆえか、三人に与えられた裂傷は全て急所を外していた。

 義政たちは刀を落とし、その場にうずくまる。


 経は血振りして刀を納め、彼の圧倒的な強さにほうけていた呉葉を軽々と抱きかかえる。


「け、経様!」

「今のうちに逃げよう」


 僅かに頬を朱に染める呉葉を意に介さず、経は朝寒あささむの公道を駆けた。

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