第2話 秋夜の逢瀬

 それから月日が流れ、呉葉が十六になった頃。

 その知らせは突如舞い込んできた。

 呉葉が自室で優雅に筝を奏でていると、父の笹人ささひとが顔を覗かせた。


「呉葉」

「父上。どうされたのですか?」


 笹人は面伏おもぶせて、黙りこくる。まるで、口に出すことをはばかるかのように。


「父上?」

「……経様が、ご婚約されたそうだ」


 笹人は重々しく衝撃的な事実を告白した。

 婚約。たったその二文字が、呉葉の頭を真っ白にさせる。

 

「婚、約……。経様が……?」


 経の朗らかな表情が、鮮明に思い浮かぶ。


「お相手は蒲生がもう家のご令嬢だそうだ」


 蒲生家は輪皇わこうに仕えている二大側近家の一つ、兎月とげつ家の配下にある家柄。医術を専門にしている名家中の名家で、当主は輪皇の侍医を務めていると聞く。

 だが、今はそんなことどうでも良かった。

 ただ経が――自身の想い人が、他の女性とちぎりを結ぶ。その事実が鋭利な刃の如く己の胸を突き刺した。


「そう、ですか……」


 脱力し、呉葉は項垂うなだれる。


「それは……おめでたいことです」


 本当は喜ぶべきはずなのに。経の婚約を祝福すべきはずなのに。

 それどころか、落胆と醜い妬心の情念が胸の内で暗く渦巻き始める。


「呉葉……」


 笹人は呉葉の肩にそっと手を置いた。

 彼は娘の恋慕を知っている。その想いをとがめこそしなかったが、身分の違いを十分にわきまえていたので、呉葉の恋路を応援することもできなかった。

 だがやはり、愛娘が肩を落としている姿を見ると傷心せざるを得ない。


 どう言葉をかければいいのか考えあぐねていると、


「父上」


 呉葉が顔を上げて、気丈な笑みを向けてきた。

 無理をしていると目に見えて分かる引きつった微笑に、笹人は胸が潰れそうになりながらも「何だ?」と返す。


「どうか、私から経様にお祝いの品をお送りすることをお許しください。できることなら、私が直接あの方に手渡したいのですが……」


 お願いします。


 ここで娘の懇願を聞き入れないのは、親としてあまりに無慈悲だ。


 ――せめて、この子が口にした望みだけは叶えてやりたい。


 経が令嬢とつがいになった後、彼にまみえることはもうできないだろうから。


「分かった。何とかしよう」


 父の首肯に、呉葉のかんばせが華やぐ。

 仮に自分が許可しなかったとしても、彼女は隠れて経と逢瀬を果たそうとするだろう。それだけ、彼女たちの絆は強い。


 ――会えるとすれば、数日後の祝宴会か。


 幸い自身も招かれていたので、呉葉と経の最後の逢瀬はその時しかないと、笹人は祝宴会のことを告げた。




   *****




「経様、喜んでくださるかしら」


 祝宴会当日。佳宵かしょうの月が冴え冴えと照り輝く秋夜しゅうや

 呉葉は一人、従者にあてがわれた客室で経の来訪を待ちわびていた。


 今日は笹人の付き人としてここに来ている。

 男装は初めての経験だったが、普段とは異なる身なりをするのは少し面白く、呉葉は口元を綻ばせた。

 手元には、経が懇意にしている和菓子屋で買った菓子折り。そして、読書家の経にぴったりな押し花付きの手製の栞。


 彼は一体どんな表情を見せるのだろうと、落ち着かない心を持て余していると、こちらへ駆けてくる足音が聞こえた。

 呉葉が襖の方を振り返った刹那――


「呉葉!」


 勢いよく襖が開かれ、息を切らした経が姿を現わした。


「経様……!」


 祝宴会の主役だけあって、今日はいつもより豪奢な服装に身を包んでいる。清爽せいそうな黒髪も綺麗に整えられていて、以前よりさらに端麗な貴公子となっていた。

 その美しさと精悍せいかんさに、呉葉は思わず見惚れる。


「呉葉」


 再度名前を呼び、経は呉葉の元に歩み寄る。

 どうやら父はうまく経に伝えてくれたようだ。経に挨拶する際、呉葉のことが記された文を秘かに渡すと言っていたから。


 呉葉は心のなかで父に深謝し、経と向き合う。

 

「申し訳ありません、経様。本当は私なんかが来るべきではないのに」


 どうしても直接、貴方様にお祝いの言葉を送りたかったのです。


 その一言に、経はわずかながら苦悶の色を浮かべる。


「お祝い……」

「これくらいのものしかお渡しできず、大変心苦しくはあるのですが……。どうぞお受け取りください」


 呉葉は菓子折りと栞を経に差し出す。


「この度はまことに、おめでとうございます」


 そう言って深々と叩頭すると、頭上からひどく苦しげな音吐おんとが降りかかった。


「……やめろ」

「え?」


 予想だにしなかった返答と辛酸混じりの声音に、呉葉は戸惑いを隠せず顔を上げる。眼前には、どこか悔しそうに目を伏せて奥歯を噛み締める経が。


「君にだけは、この婚約を言祝ことほいでほしくなかった」

「そ、それはどういう――」

「僕は、君が好きなんだ」


 不意に、優しい温もりが全身を包んだ。けれど、その温もりはすぐさま強い熱を帯び、呉葉の心身を掴んで離さない。


「愛している。呉葉」


 経が己を抱擁したのだと理解するまで、少し時間がかかった。


「僕がずっと隣にいてほしいのは、他でもない呉葉なんだよ」


 君以外、僕は何もいらない。


 自身を覆う熱が溶け込むかのように、体が火照ほてる。

 経の熱情に浮かされる。


「経様……」

「僕と一緒になってくれ」


 絶え間なく耳元で囁かれる愛慕に、呉葉は困惑する。だが同時に、歓喜に打ち震えた。真紅の明眸から感涙が零れ落ちる。


「まさか、経様がわたしのことを……」


 すごく、嬉しゅうございます。


 これ以上の幸福があろうか。

 呉葉の花顔が喜悦に満ちる。


「わたしも、経様のことをお慕いしています」

「呉葉」


 互いの想いが通じ合い、経もまた満ち足りた面様おもようになる。

 しかし、一抹の懸念が呉葉の脳裏をよぎった時、花のかんばせは瞬く間にしぼんだ。


「ですが、ご当主様や奥方様が私たちのことを知れば……」

「この婚約を白紙にするよう、僕が上手く父上たちを説得する。もし説得できなかったら――」


 経は覚悟が決まったと言わんばかりに、毅然とした面持ちで本心を打ち明ける。


「僕は家を出て、君と一緒にどこか遠くへ行く」

「経様……!」


 それはつまり、駆け落ちするということ。

 公家の地位や栄誉、財産、親類縁者の何もかもを捨てて、自身と運命を共にすると彼は決意してくれた。

 経がどれほど自分を大切に想っていてくれているかがひしひしと伝わり、胸がいっぱいになる。


 ――でも、そうなれば父上や母上とはもう会えなくなってしまう。

 

 家を捨てるのは、何も経だけではないのだ。


 経は彼女の心中を察してか、想い人の頬に手を添えて優しく微笑んだ。


「なるべく君が辛い思いをしなくてすむよう、全力を尽くす。でも、君も覚悟しておいてくれ。心苦しいことに、僕たちが一緒になれるのは相応の手段が必要だから」

「はい」


 呉葉が頷くと、経も首を縦に振る。

 すると、部屋の外の回廊から経を呼ぶ声が聞こえた。


「経様、そろそろお戻りになったほうが。皆様探しておられます」

「嫌だ」


 子供の如く頑なに拒否する経に、呉葉は拍子抜けしてしまう。


「経様!」

「戻ったところで、どうせ上辺だけの中身のない祝辞を送られるだけだ。賓客の目的は大体、嫁婿候補の物色か敵対する家への牽制だから」


 それに僕は、この二人きりの時間を誰にも邪魔されたくない。


 熱を帯びた艶美な眼差しに、呉葉の頬が紅潮する。

 清廉な輝きを放つ睛眸せいぼうから目を離せずにいると、次第に経の顔が近づいてきた。ついには呉葉の唇に柔らかいものが重なる。


 生まれて初めて恋焦がれた者からの口づけ。

 呉葉も最初は目を瞠ったものの、すぐに赤瞳を閉ざし、経の想いを受け入れる。


 恋情が募れば募るほど、両者の愛は強く刻まれていく。

 

 それから二人は互いに言葉を交えることなく、みそかに契りを交わした。

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