錦秋 ~紅の鬼女~

海山 紺

第1章 緑葉

第1話 紅の少女

 筝曲そうきょくに、『錦秋きんしゅう』という曲がある。


 作曲者は不明。

 しかし、作曲から二百年近く経った今もなお聴衆を魅了し続け、誰しもがその蠱惑こわく的な調べに酔いしれる。


 『錦秋』を耳にした者は、口を揃えてこう言う。



 鬼女・紅葉もみじの幻影が見えた、と。

 



    *****




「うわ、呉葉くれはが来たぞ!」

鬼子おにごが来た! みんな逃げろ!!」


 焦りの言葉を発している割には、揶揄やゆ侮蔑ぶべつをはらんだ嘲笑を浮かべている。

 毎度のことだ。近所に住むやんちゃ坊主たちが、呉葉を見かけるたびに下卑げびた笑い声をあげて逃げ去っていくのは。


「早くしねえと喰われるぞ!」


 ――こっちだって、あんたたちみたいな悪ガキを喰うのはごめんよ。


 そう心のなかで毒づくも、呉葉は真紅の双眸そうぼうに悲哀のかげを落とす。そして、自身の虚勢に反してじわりと視界がにじんだ。


 血のようにあかい目に、赤紫の長髪。

 十歳ながらも大人びた顔立ちをしており、異性を惹きつける美貌を備えている。そのせいで、物心ついた時から奇異と厭悪えんおの眼差しを向けられてきた。


 ――どうして、わたしだけ……。


 ついに、両の目から涙が零れ落ちる。

 泣くもんかと必死に涙を拭うも、その甲斐虚しく悲涙はあふれ続ける。


「わたしだって、好きでこんな風になったんじゃない……!」


 同年代の子供には気味悪がられ、大人――特に女性からは秋波を送るなと石を投げられる。何もこっちが色目を使っているわけではないのに。ただ向こうの方から言い寄ってくるだけなのに。


 十年間生き続けただけで、どうして周囲は自分を悪者扱いするのだろう。

 怒りを上回って、悲しみが胸を締めつける。


呉葉くれは!」


 すると、後ろから自身の名を呼ぶ声が聞こえた。同時に足音も近づいてくる。

 こんな自分にわざわざ声をかけてくれる人は、家族以外に一人だけ。

 涙がぴたりと止まり、その隙に呉葉はごしごしと両目を擦って振り返る。

 

けい様」

「もう、経でいいっていつも言ってるだろう」


 苦笑しながら、漆黒の髪をした少年は呉葉に駆け寄る。

 三原みはら経。三つ年上の幼馴染にして、呉葉の生家である鹿野かの家が代々仕えている公家の大家、三原家の跡取りだ。

 彼もまた呉葉に負けず劣らず目鼻立ちが整っており、凛々しい顔つきをしていた。

 

「経様を呼び捨てだなんて、不遜にもほどがあります。それに、本来ならばこうして御家に黙って会うことも許されていないというのに」

「なに、バレなければいいだけの話だ」

「経様!」

「あはは、また呉葉に怒られてしまった」


 経はからからと笑い、「でも、これは僕の本心だよ」と続ける。


「家の上下関係があるとはいえ、僕たちは同じ人間なんだ。その同じ人間が、どうして会ってはいけないのか。どうして言葉を交えてはいけないのか。不条理にも程がある。呉葉もそう思うだろう?」

「そ、それは……」


 言い淀む呉葉に、経は静穏な笑みを深める。


「僕たちは何も悪いことをしていない。何より、僕個人が呉葉と会って話がしたいんだ」


 だから、気に病む必要は無い。


 経の諭しに、呉葉も目を細める。


「ん? 呉葉、目元が赤くないか?」

「こ、これはそのっ……何でもありません」

「まさか、またからかわれたのか?」

「…………はい」


 呉葉は白状して、先ほどあった出来事を経に話した。

 経は分かりやすく憤怒する。


「こうなったら、直接僕が懲らしめる必要がありそうだな」


 どうやら木刀を携えて、やんちゃ坊主たちの家へ乗り込むつもりのようだ。

 経は生真面目な人なので、それが冗談のはずがない。

 呉葉は焦って、すぐに引き留める。


「それでは三原家の方々が黙っていません。わたしのせいで、経様がお叱りを受けるわけにはまいりません」

「だが、このまま放置していれば君が……」

「わたしは大丈夫ですから」


 呉葉が気丈に笑うと、経は憂慮の念を浮かべて呉葉の髪を愛おしげに撫でる。


「何かあったら、すぐ僕に言うんだ」


 僕が必ず、君を守る。


 経の揺るぎない意志に、呉葉は微かに目を見開く。そして、自然と頬が紅潮した。


「周囲がどんなに蔑もうと、僕は呉葉の味方だから」

「経様……」

「僕は呉葉の髪と目の色、とても好きだよ」


 秋に美しく映える紅葉の色だ。


 囁かれる言葉の一つ一つが、呉葉の胸を熱くさせる。

 分不相応な気持ちであることは重々承知している。けれど、この想いは単なる親愛ではなく、確かな恋慕だ。妹が兄を想う優美な情ではなく、異性を想う狂おしくも苦しい情。


「ありがとうございます」


 呉葉が礼を言うと、経は微笑んだ。

 彼の優しい笑顔もまた、自身の心を浮き立たせる。


 ――経様がこの気持ちを知ったら、どうお思いになるんだろう。


 経は、この輪国わこくで尊ばれる公家の跡取り。対して自分は、主家に仕えるしがない下級貴族の一人娘。

 それも、もはや人間扱いされない醜女しこめだ。


 ――経様を困らせてはだめ。


 己を律し、心に蓋をして湧き出る情愛を押し留める。


「そういえば一週間ほど前、輪東わとう――輪国の東部にあたる島――に大陸の船が着港したそうだな。大きくて立派な黒い帆船はんせんだったとか」

「そうなのですか」

「ああ。大陸人も多く見受けられたそうだ」


 異国に興味がある経は興奮気味に滔々とうとうと語る。

 今こうして恋い慕う人と会話できることだけでも幸せなのだと思い直して、呉葉は静聴に徹した。

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