七一.帰ってきた花火

 昭和二十三年八月一日。

 昭和十二年から中止されていた隅田川すみだがわの川開き花火大会が再開されるということで、川縁には大勢の見物客が集まっていた。横澤よこざわ家では、かつらと康史郞こうしろう京極きょうごくたかしの到着を待ちながら支度中だ。

「康ちゃんは隅田川の花火、覚えてないわよね」

 目隠しの布の向こうで呼びかけるかつらの声に康史郞は答えた。

「当たり前だよ。まだちっちゃかったし」

「お父さんがちょうど家に帰ってきてて、一家で見に行ったのよ。ゆうちゃんが花火の音に驚いて泣き出したのに、康ちゃんはきょとんとして空を見上げてて。お父さんが『こいつは大物になるぞ』って喜んでたの。浴衣で康ちゃんを抱いてたお母さんが勇ちゃんに『大丈夫よ』って言って、よう兄さんはわたしに『僕はあの花火よりも高い空を飛行機で飛ぶんだ』と語ってくれたわ」

「そうだったんだ。みんな楽しみにしてたんだね」

 康史郞がそう言うのと同時に、髪の毛を後ろでまとめたかつらが布の向こうから出てきた。青地に白と水色の花柄が入った浴衣を着て、紺色の帯には紐を通した翡翠ひすいの帯玉が留められている。

「どうかしら」

 かつらに尋ねられ、康史郞はようやく我に返った。

「きれいだ。きっと京極さんも喜ぶよ」

「ありがとう。さ、今度は康ちゃんよ」

 かつらはねずみ色の縦縞の浴衣を取りだした。

「しかし、よく浴衣の布が手に入ったね」

 着付けをされながら康史郞が尋ねる。

「お直しの仕事と引き替えに海桐かいどう君に探してきてもらったのよ。もちろん衣料切符は払ったけどね」

「そうか、カイも頑張ってるんだな」

 カイこと高橋たかはし海桐は、現在浅草橋あさくさばし倉上くらかみ商店で働きながら、廣本の屋台で売る履き物や鼻緒などの小物を仕入れている。いずれは独立して自分の店を持つのが目標だと語っていた。

「それに、花火が終わったら今度は私たちの寝間着になるから無駄遣いにはならないわ。帯も糸をほどけば再利用できるように作ったし」

「相変わらず姉さんはしっかりしてるな」

「それより、康ちゃんはあれ、忘れないでね」

「分かってるよ」

 康史郞はちゃぶ台の上の紙袋を見る。その時、外から戸を叩く音がした。

「ちょっと待って」

 かつらは玄関の戸を開けた。康史郞とお揃いの柄の浴衣を着た隆が立っている。

「かつらさん、素敵だ」

 隆はそれだけ言うのがやっとのようだ。そのままかつらに見とれている。

「隆さんも似合ってるわ」

 かつらは優しく隆に言った。

「かつらさんの仕立てがいいからですよ。少し早いですが、康史郞君の支度が出来たら出かけましょうか」

「ええ」

 かつらは康史郞の浴衣の帯を手に取った。


 三人が外に出ると、かつらはドアの南京錠をかけた。バラックのドアには「服のお直し承ります 横澤」と墨で書かれた紙が貼られている。

 既に大勢の人がうまや橋に向かって歩いていた。かつらはいつもの下駄、康史郞は紙袋を持ってズック靴を履いている。道路に出ると、山本やまもと夫妻が家の前で涼んでいた。

「こんばんは。晴れて良かったですね」

 ノースリーブのワンピースを着た槙代まきよが挨拶したので、三人は礼をした。

「うちはここから花火を見ますよ。人混みは暑いですし」

 甚平姿の隼二しゅんじが話しかける。

「私たちは厩橋まで行ってきますね」

 かつらはそう言うと歩き出した。


 大通りに出ると、道の向こうから戸祭とまつり一家が歩いてきた。仕事場とは違い、戸祭啓輔けいすけもランニングシャツにステテコという軽装である。

「康ちゃん、その浴衣似合ってるね」

 半袖シャツに学生服のスボン姿の征一せいいちが康史郞を褒めた。その手には『新寳島しんたからじま』と書かれた漫画が握られている。

「その本、また借りたのかい」

 康史郞が尋ねると、征一は通り沿いに露天商が並ぶ一角を指した。

「そこの露店で買ったんだ。この『手塚てづか治虫おさむ』って漫画家、今どんどん新作を出しててさ。きっと売れっ子になるよ」

 二人が盛り上がっている間、かつらと隆は戸祭とマツと話し込んでいた。

「今日は本物の『まつり』だからな。仕事は休みだ」

 うちわで仰ぎながら戸祭が言う。

「日曜なんだから元々休みだろ」

 麻のワンピース姿のマツが突っ込んだが、戸祭はかまわず話し続けた。

「それで京極さん、新居のめどは立ったのかい」

「ええ、なんとかアパートを契約することが出来ました。今建築中なんですが、厩橋を渡った反対側になります」

「六畳の部屋に押し入れが付いているそうです。三人暮らしなら十分かな、と」

 かつらの説明にマツがうなずく。

「そうかい。康史郞君が卒業する前に決まって良かったね」

「引っ越しが終わったら横澤家の土地を戸祭さんに買ってもらう準備をしますので、よろしくお願いします」

 かつらの言葉に戸祭は征一を見ながら答えた。

「闇市も『まつり』もなくなっちまったからな。今は露店の総菜屋で食いつないでるが、店を再開したらこいつにも手伝ってもらうつもりだよ」


「そうだ、露店と言えばヒロさんの店、出てなかった?」

 康史郞の問いに征一は指を差した。

「あっちにいたよ」

「姉さん、ちょっと行ってくる」

 飛び出そうとする康史郞をかつらが引き留める。

「はぐれたら大変だから三人で行きましょ」

「それじゃ戸祭さん、失礼します」

 隆も一礼すると、三人は道の向こう側へ渡った。

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