七〇.特別な日

 戸祭とまつりは皆を見ながら話し始めた。

「今、警察にどんどん闇市が取り締まられてるんだ。ここもいつなくなるか分からねえ。だから『食堂 まつり』は今日で一旦閉店して、今月中にこの近くで屋台の惣菜屋を開くことにしたんだ」

「いよいよですか、寂しくなりますね」

 たかしがしみじみと言う。戸祭はさらに話し続けた。

「『飲食営業緊急措置令』も去年までの予定だったのが結局伸びちまったしな。売り物は築地の新鮮な魚料理と野菜の惣菜だが、いなり寿司も客が米を持ってきたら予約で受け付けるつもりさ。町の寿司屋と同じだな」

「わたしも『まつり』で働いてなかったら隆さんに会えなかったし、残念ですけれど仕方ないですね」

「ところで横澤よこざわさん、もっと大切な話があるだろ」

 戸祭はかつらに言った。

「そうだったわね」

 かつらは隆を見る。

「これからのわたしたちの話、康史郞こうしろうにも知っておいて欲しいの」

 隆はうなずく。かつらは康史郞を見つめ、ゆっくりと語り出した。

「お世話になった戸祭さんのためになんとか出来ないかと考えてね。隆さんが新しい家を見つけたらわたしたちは引っ越して、横澤家の土地に戸祭さんの新しいお店兼自宅を建ててもらおうと決めたの。もっとうまくいけば、今戸祭さんが住んでいる長屋に山本やまもとさんたちが引っ越せるわ。もちろんあの土地は大切だけど、今のわたしにとって何より大切なのは康ちゃんと隆さんが側にいることだから。ミシンもあるからどこに行っても仕事はできるわ」

 康史郞はかつらに問いかけた。

「姉さん、変わったね。それは京極きょうごくさんのせい?」

「隆さんはもちろんそうだけど、康史郞が立派に成長しているからよ。困っている人に手をさしのべられるような人になってくれて本当に嬉しいわ」

 かつらに見つめられ、康史郞は誇らしげな顔で言った。

「俺、独立したら自分のお店を持ちたいんだ。その店は、カイやリュウのような家のない子たちも働けるような場所にしたい。どうすればいいかはまだ分からないけど、これが俺の今の夢だ」

「康史郞、その夢応援するよ」

 リュウの呼びかけに康史郞は振り返って答えた。

「ありがとう、リュウ」


 夕方になり、新年会を終えた皆はそれぞれ帰路についた。カイとリュウはお土産用のお餅を持っている。

「ヒロさんによろしくね」

 手を振る康史郞にカイとリュウも振り返した。


 戸祭一家や山本夫妻と別れた後、かつらと康史郞、隆は横澤家に戻ってきた。

「心配してたけど良かったよ。壊されたのが鍵だけで」

 隆は南京錠を見て安堵している。

「わざわざ来て下さってありがとうございます。うまや橋まで送りますね」

 かつらが隆に呼びかけたのを見て康史郞は言った。

「じゃ俺、先に食器の片付けしてるよ」

 康史郞が台所に向かうのを見送った後、二人は厩橋に向けて歩き出した。

 肩を寄せ合いながら歩く二人は、厩橋のたもとで立ち止まった。冬の夕日が、橋のアーチをオレンジ色に照らしている。

「今日は本当にありがとう。もっと一緒にいたいけど、今日はもう帰らないと」

 隆が呼びかけた。顔が少し赤みを帯びている。お酒のせいか、夕日のせいか、それとも照れているのか、かつらには分からなかった。

「かつらさん」

 隆が手を伸ばしてきた。そのままかつらの体を包み込む。

「隆さん」

 かつらはそれしか言えず隆を見つめる。

「ごめん、近づきすぎた。もしかしたらたばこの臭いが残ってるかも知れない」

「それなら確かめてみて」

 かつらは意を決して顔を上げた。隆がそっと自分の唇をかつらの唇に重ねる。初めての感触に、かつらは足下から崩れそうな気持ちに包まれながら隆の体にもたれかかる。数秒後、唇を離した隆にかつらはささやきかけた。

「ちょっとだけしたわ」

「ありがとう、かつらさん」

 そのまま厩橋を渡っていく隆を、かつらは夢見心地のまま見送った。


(わたしも隆さんと結婚するんだもの、もっと大人の女性になりたいな。今度ノリちゃんにお化粧や髪の結い方を教わらないとね)

 そう思いながら家に戻ってきたかつらは、出迎えた康史郎の前で三つ編みをほどくと言った。

「さ、銭湯に行きましょ」

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