六六.母と娘の和解

 日下くさかとおるが去った後、大口おおぐち徳之介とくのすけ野川のがわゆたかを椅子に座らせ、逃げ出さないよう肩を押さえた。萩谷はぎや政九郎せいくろうはアベック席の大口おおぐちハナエたちに近づいて呼びかける。

「怖がらせてすまなかったな」

「おじいちゃん」

 大口おおぐちのぞみがハナエの腕から抜け出して萩谷に抱きついた。思わず萩谷の顔が崩れる。

「おうおう」

「望ちゃんもろんも、とてもお利口だったよ。ミルクをあげようね」

 丹後たんご育美いくみは抱き上げた論の頭を撫でると厨房に向かう。

「すみません、もう大丈夫です。コーヒーを出しますので、皆様は椅子におかけください」

 ハナエも立ち上がると呼びかけた。


 「墨田すみだホープ」にひとまず静寂が戻った。ハナエがれるコーヒーの香りが室内に漂い、かしわ憲子のりこは育美が切ったリンゴとみかんの盛り合わせをテーブルに置く。大口に押さえられた野川は、頭を垂れたまま語り始めた。

「私が賭け事にはまってしまったばかりに、お世話になった旦那様や奥方様、あおい様に不義理を働いてしまいました。まことに申し訳ございません」

「あの成田なりたと名乗っていた男の言葉をうかつに信じた私にも責任がございます。彼は何者で、芝原しばはら家や葵さんをどうして狙っていたのですか」

 芝原杏子きょうこは野川の正面に座り、静かに尋ねた。隣には古伊万里こいまりの茶碗を持った芝原葵が立っている。

「成田、いえ日下さんは賭場とばに出入りしていたヤクザで、進駐軍相手のキャバレーを作ると言い、厩橋うまやばし近くの土地を集めておりました。そして芝原家はキャバレーで働く女給の寮にして、奥様と私を寮の管理人、葵様には進駐軍の将校の相手をしていただく。葵様のピアノも、キャバレーで使うため保管しておくと言っておりました」

「なんてことを」

 杏子は唇を噛みしめた。話を聞いていたかつらが声を上げる。

「では、わたしに家の土地を売ってくれと言ってきた八馬やまさんたちは、日下さんの手伝いをしていたのね」

「その方のことは存じ上げませんが、買収資金集めのために手広く事業をやっていると言ってました」

 野川の言葉にかつらはうなずくと、康史郎こうしろうの隣に座るリュウとカイを見た。二人は神妙な表情をしている。

「それにしても、日下がヤクザになっていたとはな。ハナエたちが無事で本当に良かった」

 嘆息する大口に憲子が尋ねた。

「あの人がまた来たらどうしましょう。お店は明日開店ですし心配ですわ」

「なに、大口君がいるなら大丈夫だ」

 コーヒーカップを持った萩谷が言う。

「ハナエさんはわしが戦前浅草で開いていたカフェーの看板娘だった。客だった日下は同伴出勤をしたいとハナエさんに付き纏ってな、困っているところを助けたのがやはりカフェーに通っていた大口君だった。わしは日下に出入り禁止を言い渡し、大口君とハナエさんは結婚して両国りょうごくにカフェー『墨田ホープ』を開いたんだ」

「萩谷さんには仲人も務めていただいたし、この店の開店資金も援助していただいた。俺がシベリアから帰ってくるまでも、何かとハナエや望たちを気にかけてくださり、感謝しています。店を繁盛させて、一日も早く恩返しをしますよ」

 大口は頭を下げた。


「ところで、あなたは以前大口君が助けたというお嬢さんかな」

「は、はい。芝原葵と申します」

 萩谷に突然話を振られた葵は戸惑っているようだ。大口が説明する。

「萩谷さんに開店資金の話をしに来た帰りに、料亭から芝原さんが飛び出すところを見てね。気になって一緒の都電に乗ったんだ。そしたら厩橋で彼女が下りて、そのまま隅田すみだ川に飛び降りようとしたんで、そこの横澤よこざわ康史郎くんと一緒に止めたんだよ」

「それではあなたは、葵さんの命の恩人でございましたか、本当に失礼いたしました」

 杏子は頭を下げる。

「いえ、先に康史郎くんが止めてくれたんですよ。俺は手助けしただけです」

「俺もたまたま近くにいただけだから」

 康史郎は頭をかいた。

 葵は古伊万里こいまりの茶碗を杏子に差し出すと言った。

「お母様、わたくしはこの古伊万里を質屋から買い戻すために、横澤さんに頼んで梓お姉様の時計を質に入れました。時計を取り戻すためにも、『墨田ホープ』で働きながら一人前の女性になるための勉強をしたいのです。今は結婚など考えられませんが、その時が来ましたら必ずお相手の方をご紹介いたします。しばらく時間をいただけませんか」

 葵から茶碗を受け取った杏子はしばしの沈黙の後、口を開いた。

「私の使用人への監督が行き届かず、皆様にはご迷惑をおかけいたしました。これから野川が主人の名前で作ったという借金を帳消しにし、主人の残した仕事を引き継ぐため、家に戻って手続きを始めます。進駐軍に徴用されたビルが帰ってくるまでの間は私も働きます。大口さん、申し訳ございませんが、全て片付くまで葵さんをお預かりいただけないでしょうか」

「分かりました。責任を持ってお預かりします」

 大口の返事を聞き、葵はようやく笑顔を見せた。コーヒーを持ってきたハナエが言う。

「あたしももうすぐ二人目が生まれるからね。葵さんには早く一人前になってもらって、あたしたちを助けて欲しいんだ」

「もし働き口がないなら、浅草橋の倉上商店に相談してくれ。内職の斡旋ならできるぞ」

「またおとっさんは安請け合いして」

 倉上義巳の申し出にナカが突っ込む。杏子は葵に呼びかけた。

「葵さん、私は野川と家に戻りますので、皆様のご迷惑にならないよう、しっかり働いてくださいね。入り用なものがありましたらいつでも取りにきてください」

「ありがとうございます」

 頭を下げる葵を真似るように、望がお辞儀しながら呼びかけた。

「ありがとうございました」

「それではお騒がせいたしました」

 外に出る杏子と野川を見送ると、葵は無言で望を抱きしめた。

「良かったですね、たった二人の家族が仲違いなんて悲しいことにならなくて」

 葵に憲子が声をかけた。かつらもうなずきながら言う。

あずささんがいた頃のままの幸せはもう戻ってこないけれど、あの金継ぎの茶碗のように、皆の力を合わせて新しい幸せを見つけることはきっとできます。そう信じましょう、葵さん」

「はい、梓お姉様に負けないくらいの幸せをきっと見つけます」

 葵は銘仙を翻すとピアノ椅子に座り、『エリーゼのために』を奏で始める。かつらは苦さをこらえるようにコーヒーをすする康史郎を見ながら、紅茶を一口飲んだ。

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