六五.野川の隠し事

 あおいのピアノが止まった。「墨田すみだホープ」のドアから着物姿の芝原しばはら杏子きょうこと黒い背広姿の野川のがわゆたか、そして茶色の背広姿の男性が入ってくる。

「お母様、野川さん、……成田なりたさまも」

 立ち上がった葵が絶句する中、かつらは茶色の背広の男性を見つめてつぶやく。

「あの方が、成田さんなの」

 その時、康史郎がかつらの服を引っ張った。振り返ったかつらに耳打ちする。

「あの人たぶん、日下くさかってヤクザだよ。ヤマさんと会ってるのを見たんだ」

「わたしも両国りょうごく駅でたかしさんを待っている時に絡まれたわ。でも下手に声を上げて大事になってはまずいし、様子を見ましょう」

 かつらは康史郎にささやき返した。


 一方、ようやく我に返ったらしい葵は、杏子に歩み寄ると呼びかけた。

「どうしてここが分かったのですか。いずれお母様にはお知らせするつもりでしたのに」

 杏子の代わりに答えたのは野川だった。

「運送員に金を渡してピアノが売られた先を聞いたら教えてくれたんですよ。ピアノの代金があって助かりました」

「あのお金はそのようなことをするために差し上げたのではございません」

 うつむく葵に杏子が呼びかけた。

「葵さん、素人のあなたがピアノを弾くだけで暮らせるわけがございませんわ。一緒に帰りましょう」

「ピアノを弾くだけではございませんわ。わたくしはここで『墨田ホープ』の皆さまに、生きていくために大切なことを日々教わっております。お母様や使用人の方々に任せきりでした家事を、早く一人でもできるようになりたいのです」

 葵はそう言うと唇をきっと結んだ。杏子は諭すように答える。

「葵さんが結婚したら使用人を雇えばよろしいのですよ。そのために野川から不動産屋の成田さまをご紹介いただいたのですから」

「そのことなのですが、お母様にお渡ししたいものがございます。少々お待ちいただけませんか」

 葵はきびすを返すと二階への階段を駆け上った。


 残された杏子は、改めてかつらとかしわ憲子のりこに向き直った。

「あなたがたが葵さんをたぶらかしたのですね」

 言葉遣いとは裏腹に、杏子の声には怒りが籠もっているようにかつらには感じられた。憲子が丁寧に説明する。

「葵さんから横澤さんに手紙をいただいたので、相談に乗らせていただいたのです。葵さんは結婚するよりも働きたいとおっしゃってました」

「私は女給にするために娘を育てたわけではございません。あずささんのように素晴らしい家に嫁ぎ、何不自由なく暮らせるのが葵さんの幸せであり、なによりの親孝行ではございませんか」

 杏子は着物の袖を握りしめる。かつらは椅子から立ち上がると、杏子に歩み寄った。

「確かに梓さんは素晴らしい方と結ばれましたけれど、今回のお見合いが葵さんにとっても幸せかは分かりませんわ。今は葵さんが選んだ道を見守っていただけないでしょうか」

 かつらは杏子を説得しようとしたが、杏子は反論した。

「娘が誤った道を選ぼうとしたら、止めるのが親の勤めではございませんか」

 そこに階段を下りてくる音がした。葵が金継ぎのある古伊万里こいまりの茶碗を持って立っている。

「野川さん、これは両国の質屋にあなたが持ち込んだものでございますね」

 杏子は茶碗を見つめると、野川に視線を向けて尋ねた。

「空襲でなくなったと言っていたうちの古伊万里が、何故ここにあるのですか」

 野川は焦り顔で成田を見るが、成田はほくそ笑むだけだ。葵は更にたたみかける。

「野川さん、あなたはおそらく、父が亡くなる前から我が家の骨董品を隠して質に入れていらっしゃった。何故なのですか」

 野川は観念したように話し出した。

「それは、私が賭場とばで借金をして返せなくなったからです。最初は骨董品を納屋に隠して質屋に持ち込んでましたがとても足りなくて。そこで賭場を仕切っていた日下さんに、旦那様の名前で借金を作ったように見せかけ、芝原家を売るよう持ちかけられました」

「日下さん?」

 葵の疑問に答えたのはアベック席でのぞみろんをかばっていた大口おおぐちハナエだった。いつもの余裕は完全に消えている。

「あの人の本当の名前だよ」

 日下は野川を押しのけて前に出た。望とハナエのお腹を見つめると顔をゆがめる。

「あいつとのガキか。見せつけるんじゃねえよ」

 凍り付いたように動けないハナエを見た丹後たんご育美いくみが、厨房から飛びだした。論を抱き上げるとハナエの前に立ちふさがる。

「この子たちに手を出したら承知しないから」

 事態を見守っていた倉上義巳とナカも、牽制するように立ち上がった。カイとリュウにナカがささやく。

「あんたたち、隙を見て外に出て交番に行っとくれ」

 カイが無言でうなずいたその時、「墨田ホープ」のドアが開いた。大口徳之介とくのすけと、羽織袴姿の老人が立っている。

「みんな、萩谷はぎや政九郎せいくろうさんを連れてきたぞ」


 大口は室内を見回し、ただならぬ状況が起こっていることを見て取ったようだ。怯えるハナエと立ちはだかる育美、そして茶色の背広の男を見つめる。

「徳さん」

 ハナエは望を抱き寄せる。大口が動くより早く、萩谷が一喝した。

「貴様は! まだハナエさんに付き纏っとるのか!」

 日下は大口と萩谷に向き直ると、吐き捨てるように言った。

「おまえらこそ、いつまで俺の邪魔をするんだ」

「俺が生きている限りだ」

 大口の言葉を聞いた日下は無言でドアに走り寄ると、野川を大口たちに向けて押しやった。大口たちが倒れた野川の体を受け止めようとする隙にドアを開け、外に飛び出す。

「待て!」

 萩谷の声が響き渡るが、日下はそのまま戻ってこなかった。

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