五六.忍び寄る不安

 十一月二十八日の金曜日、「まつり」に来たかつらに戸祭とまつりが呼びかけた。

「いいことがあったみたいだな」

「頼んでたミシンのベルトが届いたんです。これで修理が出来ますわ」

 前掛けを締めながらかつらは答える。

「ああ、雑貨屋の倉庫で見つけたっていう古いミシンか。しかし、家まで運ぶのは大変だろ」

たかしさんとカイ君と康史郞こうしろうに手伝ってもらってリアカーで運ぼうかと」

「『隆さん』かい。すっかり仲良くなったな」

 戸祭に茶化されたかつらはあわてて顔の前で手を振った。

「お店では『京極きょうごくさん』ですから。けじめは守りますよ」

「そうかい。征一せいいちから君たちが婚約したって聞いたんで、正月に新年会を兼ねてお祝いをしようと思ってたんだが、早すぎたかな」

「康史郞が言ったのね」

 かつらは軽く頬を膨らませた。

「ところで、いつごろ結婚するんだい」

「康史郞が中学を出るまでは待ってもらうことになってます。まだ進路も分かりませんし」

「なるほど。うちの征一は調理師学校に行く予定だけど、まだまだ漫画が好きなガキでね。育て方を間違えたかな」

 味噌汁に入れる大根を切りながら戸祭はぼやく。

「でも友達思いのいい子ですよ。勉強も康史郞より出来るそうですし、息抜きの漫画くらいならいいんじゃないですか」

「征一は調理師学校を出たら、よその店で修行してもらうことになるだろうからな。とても漫画にうつつを抜かしている暇はないさ」

「本当にどこかで新しいお店が開ければいいんですけどね。さ、仕事しなくちゃ」

 三角巾をつけたかつらは店へ出て行った。


 時計が七時半を回った頃、隆が「まつり」を訪れた。かつらにとっては日曜日以来である。

「京極さん、いらっしゃいませ。きょうのおすすめはぶり大根です」

「なら、それと味噌汁をもらおう」

 かつらがいつものように注文をとっていると、隣で飲んでいた倉上くらかみ義巳よしみが割り込んできた。

「大将から聞いたよ、姉さんと婚約したんだってな」

「おめでとう、これはわしからの祝い酒だ」

 戸祭がそう言いながら酒の入った升を置く。

「すみません、こちらから挨拶しようと思ってたんですが」

 隆は恐縮しながら升を受け取った。

「その代わり、横澤よこざわさんと康史郎くんのことは頼むぞ。来年にはこの店を閉めることになるからな」

「本当ですか」

 ぶり大根と味噌汁を差し出しながらかつらが尋ねる。戸祭は腕組みしながら答えた。

「闇市に警察の手が入る前にひとまず商売替えしようと思ってな。屋台で魚料理中心の惣菜屋を開く準備をしてるんだ。倉上くらかみの旦那や常連には申し訳ないが、風向きが変わるまでの辛抱だ」

「ここで酒を飲めるのもあと少しか。名残惜しいがお会計を頼むよ」

 倉上はそう言うと立ち上がった。


 会計を終えて戻ってきたかつらは、改めて隆に呼びかけた。

「そうそう、ミシンのベルトが届いたんですけど、あさっての日曜日は空いてますか」

 隆は味噌汁を一口飲んでから答える。

「私は大丈夫ですが、カイ君たちの都合も聞かないと」

「ええ。仕事帰りにお店に寄ってみましょう」

 かつらが言ったその時、店の裏手から声がした。

「康史郞の姉さん、ちょっと来てよ」

 カイの声だと気づいたかつらは、一礼すると厨房に引っ込んだ。


「どうしたの」

 裏手に出てきたかつらは幌の中をのぞき込むカイに呼びかけた。隣にはリュウもいる。

「ヤマさんが昨日店に来たんだ。釈放されたんだって」

 カイの話を聞いたかつらは小声で尋ねた。

「店は大丈夫?」

「うん。今日はもう閉めてきた」

 リュウが頷きながら答える。

「ちょうど隆さんも来てるし、もう少しで閉店だから厨房で待ってて」

 かつらはそう言うと幌の中に二人を招き入れた。


 「まつり」を閉めた後、店に残った隆とかつら、カイとリュウは店のカウンターを囲んでいた。

「夕飯まだだろ。残り物だけど食べてきな」

 戸祭は味噌汁のお椀と、ぶり大根の残りの煮物を差し出した。かつらは味噌汁のお椀を取って礼を言う。

「いただきます」

「ところで、ヤマさんは君たちに何かしなかったかい」

 隆の問いにカイが答えた。

「売り上げをよこせって言われたから、持ってた分を渡したんだ。後倉庫から自分の荷物を持ってった。病院のヒロさんに会ったら上野に行くって」

「上野ってことは、日下くさかってヤクザの所に行くのかしら」

 かつらは隆の顔を見る。隆はたばこを吸うように口に手を当てた。

「釈放されたのが日下たちの差し金ならそうかもしれないな」

「そういえば、ミシンの修理のめどがついたから日曜に家へ運びたいのだけれど、二人はどうかしら」

 かつらの問いに答えたのは無言で大根を食べていたリュウだった。

「アニキ、ミシン運ぶの手伝おうよ。お姉さんに頼まれてた湯のしの道具、手に入れたんだ。それに早く服も直したいし」

 リュウは学生服のポケットから紙の箱を取りだすと、中身をカウンターの上に置いた。陶器のT字型の物体だ。

「へえ、ヤカンの口につけて湯気で毛糸を伸ばすのね」

 かつらは箱書きを見て感心している。

「お母さんはこれで僕たちの古いセーターをほどいた毛糸を伸ばして、編み直してたんだ」

「そうだったの。もしあったら編み棒も欲しいから、日曜に一緒に持ってきて。お代は先に払うわね」

 かつらは肩掛けカバンからがま口を取りだした。

「俺、明日ヒロさんに会ってくるよ。ミシンのことも断らないといけないしな」

 カイも元気を取り戻したようだ。隆は支払いをするため立ち上がった。

「私は新田にった刑事が何か情報を掴んでないか聞いてみよう」

「それじゃ、日曜の九時にミシンを取りに行っても良いかしら」

 かつらの問いにカイとリュウがうなずく。

「もし男手が欲しいなら手伝うからな」

「ありがとうございます」

 戸祭の申し出にかつらは一礼した。

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