第五章 過去のしがらみ

三十.直接対決

 十月五日、日曜日。八馬やま康史郎こうしろうに言っていた「本番の仕事」の日である。もんぺ姿でいつものように布団を干すかつらに康史郞は呼びかけた。

「姉さん、今日は十二時前に出かけるから、昼飯は早めに用意して」

「あら、釣りには行かないの」

「うん、征一せいいちと試験勉強するんだ」

「勇ちゃんに似て勉強好きになってきたわね。嬉しいわ」

 布団を持ったかつらが外に出て行くと、康史郞は擬態用の教科書をカバンに入れた。

「ごめんな、姉さん」


 昼食のおにぎりを食べた康史郞は十一時四十五分過ぎに家を出た。先週と同じ、タンクトップの上に学生服の上衣、羊太郎の軍服ズボン、肩掛けカバンに学生帽という恰好だ。違っているのはかつらのお陰で復活したズック靴である。

 厩橋うまやばしの電停に着くと康史郞は辺りを見回した。道の向こうでカイとリュウがこちらを伺っている。康史郞は二人に近づくと人混みを避けるため隅田川すみだがわの土手に向かった。

「ヤマさんはなんて言ってた」

 康史郞が尋ねると、カイがシャツの下から紙袋を取り出す。

「受け渡しの場所は先週と同じ。合い言葉は『茶色のズック』。茶色の背広を着た男が来るから、渡したら寄り道せずに店に帰ってこいってさ」

「君たち、この袋の中身を知ってるの」

 康史郞の問いにリュウが小声で答えた。

「言っちゃダメだってさ」

「見ない方がいいぞ。ばれたらタダじゃ済まない」

 カイも念押しする。

「仕方ないな。仕事が済んだらまた話そうぜ」

 康史郞は二人にそう言い残すと電停に向かった。


 康史郎が出かけた後、午後の横澤よこざわ家ではかつらと隣家の山本やまもと槙代まきよがお茶を飲んでいた。

「すみません、お茶ぐらいしかなくて」

「いいんですよ。うちの人はお昼寝中ですし」

「実は、康史郞のセーターを新調しようと思っているんです。それで、古いセーターをほどいて再利用できないかなって」

「まずはほどいてから湯のしして、糸を伸ばさないといけないわね」

 槙代は康史郞のセーターを取りあげながらかつらに話しかける。

「さすがに湯のしは家にないわ。工場のアイロンを借りる訳にはいかないし。やっぱり毛糸を買ってきた方がいいかしら」

 かつらはお茶を一口飲んだ。

「マフラーに五玉はいりますね。セーターなら十玉くらいかかりますから、ほどいたら康史郞君とかつらさん、二人分のマフラーが編めるかもしれませんよ。私で良かったら編み方を教えましょうか」

「ありがとうございます。とりあえず新しいセーターを買ってから考えますね」

 かつらは槙代からセーターを受け取った。

「ところで、康史郞君はお出かけですか」

 槙代の問いにかつらは笑顔で答える。

「ええ。征一君と試験勉強ですって。勇二郎ゆうじろうみたいに勉強好きになってきて嬉しいわ」

「そういえば、勇二郎君と羊太郎ようたろうさんが亡くなられてからもうすぐ二年経つんですね」

 槙代は横澤家の家族写真に目をやる。彼女も二人の亡骸なきがらに手を合わせたのだ。

「本当にあっという間の二年間だったわ。康史郞もそろそろ勇二郎の背丈を超えそうだし。羊太郎兄さんくらい大きくなるといいわね」

 かつらが感慨深げにセーターをたたみ始めたその時、ドアを叩く音がした。

「あら、もう帰ってきたのかしら」

 立ち上がって玄関のドアを開けたかつらの体が固まった。以前来た無精ひげの男と、アロハシャツに背広姿の男が立っていたのだ。背広の男が話しかける。

「横澤さんですよね。折り入ってお話ししたいことがありまして」

「今、来客中なので」

 かつらが断ろうとしたところに、槙代が声をかけた。

「大丈夫ですよ。ごちそうさまでした」


 背広の男は槙代が出ていくのを見送ると、玄関の上がり口に腰を下ろした。無精ひげの男がドアを閉める。

「私は両国で店をやっている八馬って言うんですが、この家の土地を欲しがっている人がいましてね」

 八馬は一枚の図面を広げた。厩橋近辺の地図だが、かなり広い道路が描かれている。

「こんど厩橋から続く道路を拡張するんですよ。するとこの家の土地が直接大通りに接することになるので、そこに進駐軍相手の酒場を開きたいそうなんですよ」

「この土地は売らないと、以前お断りしたはずです」

 かつらは厳しく言い放つ。

「それは廣本ひろもとから聞いていますよ。私たちが代わりの家と仕事をお世話します。それならどうですか」

「仕事なら今ありますから」

 つれないかつらにかまわず、八馬はさらに話し続ける。

「昼夜掛け持ちで働いても新しいズックひとつ買えない、と弟さんが言ってましたよ」

「弟を知っているんですか」

 かつらが思わず尋ねると、八馬の口元が緩んだ。

「くず鉄を売りにくる店で仲良くしてもらってるんですよ」

 康史郞が終戦直後からくず鉄拾いをしているのはかつらも知っていたが、取引相手については知らなかった。

「進駐軍相手だから金払いもいい。新しい靴も服も買い放題って訳ですよ。従業員の寮も作るそうなので、お店で働きながら弟さんと暮らせます。もちろん完成するまでの仮住まいの場所も提供しますよ」

 かつらはとうとうと話し続ける八馬とは裏腹に、無言でかつらを見つめる廣本の視線が気になって仕方がなかった。それでも意思表示はしなければならない。

「今の仕事をやめるわけにはいかないんです。すみませんがお帰りください」

 かつらは頭を下げる。今まで黙っていた廣本が初めて口を開いた。

「あんた、京極きょうごくたかしの女か」

 かつらはかぶりを振る。それを見た廣本はかつらを見据えた。

「あの男はここにはもう来ない。あきらめろ」

 廣本が上野で会った男だとかつらは確信した。

「教えてください。なぜ京極さんが亡霊なんですか」

 廣本はかつらの問いには答えず、ドアを開けて外に出て行った。八馬もあわて図面をしまうと立ち上がる。

「気が変わったら弟を通して連絡してくれ。でないとまた家が壊れるかもよ」

 八馬は出て行こうとして、玄関にある康史郞の古いズックとかつらの下駄に気づいた。

「まだあの下駄履いてるんだ。それじゃ失敬」

 二人が立ち去った後、かつらは下駄を履いて玄関を飛び出した。厩橋を渡っていく二人を目で追いながら、かつらは隆と再会した日、二人組の子どもにズックを取られそうになったことを思いだした。

(もしかして、あの時の子どもたちが家を壊した犯人? そしてズックを買った店の主人が今日来た人なら、最初から目をつけられてたってこと?)

 かつらは背筋が寒くなった。

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