三一.囚われる人々

 一方、昼食のおにぎりを食べた康史郞こうしろうは十一時四十五分過ぎにバラックを出た。先週と同じ、タンクトップの上に学生服の上衣、羊太郎ようたろうのズボン、肩掛けカバンに学生帽という恰好だ。違っているのはかつらのお陰で復活したズック靴である。

 厩橋うまやばしの電停に着くと康史郞は辺りを見回した。道の向こうでカイとリュウがこちらを伺っている。康史郞は二人に近づくと人混みを避けるため隅田川すみだがわの土手に向かった。

「ヤマさんはなんて言ってた」

 康史郞が尋ねると、カイがシャツの下から紙袋を取り出す。

「受け渡しの場所は先週と同じ。合い言葉は『茶色のズック』。茶色の背広を着た男が来るから、渡したら寄り道せずに店に帰ってこいってさ」

「君たち、この袋の中身を知ってるの」

 康史郞の問いにリュウが小声で答えた。

「言っちゃダメだってさ」

「見ない方がいいぞ。ばれたらタダじゃ済まない」

 カイも念押しする。

「仕方ないな。仕事が済んだらまた話そうぜ」

 康史郞は二人にそう言い残すと電停に向かった。


 先週と同じく、上野広小路うえのひろこうじ駅の電停で学生帽を後ろ向きに被って立っていると、茶色の背広を羽織った中年の男性がやって来た。先週の無精ひげの男よりも年かさに見える。

 男は康史郞の前に立つと「何色のズックを持ってきた」と尋ねる。小声だが声に圧がある。自分を値踏みされているように感じた康史郞は、気圧けおされないよう背筋を伸ばして答えた。

「茶色です」

「よし、もらおう」

 康史郞がカバンから紙袋を渡そうとした時に、一緒に入れていた教科書が飛び出しかけた。慌てて教科書を押さえる。その間に袋の中身を確かめた男は封筒を康史郞に差し出した。

「交渉は成立だと店主に伝えろ」

 そう言い残すと男は人混みの中に消えていった。康史郞はようやく一息つくが、今度は代金を早く八馬やまに渡さなくてはいけない。帰りの都電を待つのがもどかしい康史郞は、ヒロポンの売人が現れないか見張っていた新田にった刑事が電停から離れた男に目をとめ、尾行しはじめたことに気づかなかった。


 上野広小路から都電で厩橋に戻ってきた康史郞は、八馬の言いつけ通りまっすぐ雑貨店に戻ってきた。だが、店にはカイとリュウがいるのみだ。リュウが説明する。

「ヤマさんとヒロさんは出かけてるよ。アニキが店番してる」

 (俺には『まっすぐ帰ってこい』って言っといて待たせるのかよ)と康史郞は思ったが、さすがに口には出せなかった。代わりにリュウへ問いかける。

「君たち、こないだの台風の後、厩橋の近くにトタン屋根を捨てただろ」

 リュウは無言でうなずく。

「誰かに頼まれたのかい? それとも」

「もう帰ってたのか」

 康史郞の言葉を遮ったのは店の表から入ってきた八馬だった。カイも後ろにいる。

「ご苦労さん。相手の返事はどうだった」

 八馬の問いに康史郞は封筒を差し出しながら答えた。

「『交渉は成立だ』と言ってたよ」

「でかした」

 仕事の報酬を渡そうとした八馬は、康史郞のズック靴に目をとめた。

「もう新しいの買ったのか」

「これは片方だけ売ってたのを姉さんが買ってきたんだよ」

「なるほど、やりくり上手だな」

 八馬はあごをしゃくると、封筒から十円札を十枚取りだした。

「ほれ、分け前だ」

 十円札を受け取ると、康史郞は尋ねた。

「ヤマさん、次の仕事はいつ」

「とりあえず終わりだ。仕事ができたらまた呼ぶからな」

 八馬は封筒をポケットに入れる。康史郞はずっと気になっていた疑問を八馬にぶつけた。

「俺が渡した包みが何なのか教えてくれ」

「それは駄目だ」

 八馬は迷惑そうに手を振る。

「だったら教えてくれ。台風の後、俺の家の屋根がなくなったのはヤマさんのせいなのか」

「ああ、そうだよ」

 八馬はあっけなく認めた。

「もう話が決まったから隠す必要もないしな。お前の家がある場所には進駐軍相手のキャバレーができるんだ」

「キャバレー?」

 康史郞にとっては聞き慣れない単語だ。

「女給がお酒やダンスで客の相手をする店さ。建物ができても、相手をする女給がいなきゃ店は開けない。だからお前の姉貴も雇ってやる。姉貴も化粧していい服を着られるし、女給の住む寮も作るからお前も一緒に暮らせるぞ」

「何言ってんだ。姉貴には好きな人がいるんだ。女給になんかなるわけないだろ」

 康史郞は抗議する。

「あの男はもう来ない。災いを呼ぶ亡霊だ。近いうちにあの家を取り壊しにやくざが来るから、その前に俺に土地を売れば仮住まい先を紹介してやる。家がなくなったらお前らは行くあてがなくなる。それともこいつらみたいに宿無しになりたいか」

 八馬はリュウを指差す。その時、背後にいたカイが声を上げた。

「俺たちは宿無しじゃない」

「調子に乗るな。お前らなんかいつでも追い出せるんだぞ」

 八馬の言葉を聞いたリュウは身をこわばらせる。八馬は康史郞に向き直った。

「さっき姉貴に会ってきたんだ。相変わらず強情な態度だったが、お前が俺の手伝いをしてると聞いたら動揺してたぞ。お前がヤクザの手引きをしていると聞いたらさぞがっかりするだろうな」

 康史郞はようやく、自分が体のいい人質にされたことに気づいた。

「よくも、俺を騙したな」

 思わず八馬に飛びかかろうとした康史郞を背後からリュウが引き止めた。振り向いた康史郎の体がリュウの体にぶつかる。

「リュウ」

「だめだよ」

 リュウのささやき声を聞き、あることに気づいた康史郞は我に返った。

「このことを大人や警察に話したら、すぐに家が壊されるからな。分かってるよな、横澤よこざわ康史郞」

 八馬はそう言い残すと店に戻っていった。康史郞はずっと自分を「小僧」と呼んでいたのも八馬になめられていたのだと気づき、拳を握りしめる。そこにカイが呼びかけた。

「康史郞、外に出よう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る