二九.言えなかった言葉

 十月四日、土曜日。中学校の帰り道、康史郞こうしろう戸祭とまつり征一せいいちに頼みを持ちかけた。

「明日はアルバイトで昼から出かけるんだ。姉さんには征一と勉強するってことにしたいんだけど、協力してくれないか」

「いつもの釣りじゃダメなのかい」

 征一は康史郞のくず鉄拾いについては知っているが、八馬やまと会ったことはない。

「このカバンを仕事に使うから。それに釣り道具は持って行けないし」

 康史郞は肩掛けカバンを指差した。征一はうなずく。

「それなら仕方ないね。協力しよう」

「ありがとう。お礼に今日の貸本代は俺が出すよ」

「嬉しいけど、お金は大丈夫?」

 征一が心配げに康史郞をのぞき込む。康史郞は胸を叩いた。

「流されたズックの代わりを姉さんが買ってきてくれたから、ズック用に貯めてたお金があるんだ。あんまりたくさん借りるなよ」

「ばあちゃんに見つからない程度にするって」

 征一は目配せすると貸本屋に向けて足を速める。康史郞には、その金は本当は八馬からもらったものだとは言えなかった。


 一方、午前のみの仕事を終え戻ってきたかつらは、外の水道から汲んだ水をタライに入れ、洗濯板に石けんをこすりつけながら洗濯物を洗い始めた。

(そういえば康ちゃんのセーターも疎開の時からずっと着てて伸びちゃってるし、今年の冬は新しいのを買ってあげないとね。今のセーターは毛糸に戻せば新しいものが作れるし、マフラーにでも挑戦しようかしら。とにかくまずは編み棒を買わないと)

 かつらはセーターのことを必死に考えて気を紛らせていたが、心の奥にある不安が次第に頭をもたげてきた。

たかしさん、今週はあれからずっとお店に来ないし、やっぱり気にしてるのかしら)

 あの夜の隆の残念そうな表情が、かつらの脳裏に浮かんでくる。

(わたし、隆さんの住んでいる部屋も、好物も、苦手な物も知らない。もっといろんなことを知りたいし、隆さんにもわたしのことをもっと知って欲しい。結婚するかどうかはそれから考えさせて)

 あの時言えなかった言葉をかつらは飲み込むと、洗濯物を一心に揉み続けた。


「それじゃ、わたしは闇市で買い出ししてからお店に行くから、夕飯は先に食べててね」

「行ってらっしゃい」

 帰宅した康史郎に呼びかけると、かつらは肩掛けかばんを持って外に出た。洗濯紐にはさっき洗った洗濯物が干してあり、ちゃぶ台に載った新聞紙の下にはふかしたサツマイモが乗った皿がある。

(隆さん、今日はお店に来るかしら)

 かつらは淡い期待を抱きながら厩橋うまやばしを渡った。


 両国りょうごく駅前の闇市で、かつらは野菜の並んだ露天をのぞいていた。

(ニンジンの季節になったのね。お昼のサツマイモと一緒に少し買っておこうかしら)

 かつらががま口を取り出そうとしたとき、後ろから声がかかった。

「かつらちゃん」

 振り向くと、大口おおぐちのぞみの手を引き、買い物かごを持ったかしわ憲子のりこが立っている。今日はブラウスにもんぺ姿だ。

「ノリちゃん、望ちゃん、久しぶり。夕飯のお買い物?」

 かつらは笑顔で呼びかける。

「ええ。今日は私が当番なの」

「おかあちゃんはおなかに赤ちゃんがいるんで寝てるんだよ」

 望は自分のお腹を撫でる。かつらは優しく呼びかけた。

「それじゃお姉ちゃんになるのね」

「ええ、かつらちゃんが来た日のすぐ後にハナエさんの妊娠が分かってね。つわりがひどくて大変みたい。仕事も台風で洪水に遭った倉庫の商品が入ったんで大忙しなの。今は廊下にまで箱が積まれてるわ。かつらちゃんは変わりない?」

 憲子に尋ねられ、かつらは一瞬ためらってから答える。

「今のところはね」

 何か感づいたように憲子の眉が下がった。

「日曜は仕事も休みですし、『墨田すみだホープ』に来てくれれば何でも話を聞きますわ」

「ありがとう。買い物が終わったら『墨田ホープ』まで一緒に行ってもいいかな」

「ええ」

 憲子は微笑んだ。


 「墨田ホープ」まで歩きながら、かつらは隆と知り合ったこと、隆から結婚を前提につき合おうと言われて断ったことを話した。真ん中の望はかつらと憲子の手を繋いで上機嫌だ。

「そうだったの。かつらちゃんもいつ結婚してもおかしくない年ですものね。もしかして弟さんが反対しているの?」

「いえ、弟は京極きょうごくさんのことを気に入ったようで、まるで兄のように接してたわ」

 伏し目がちに自分の胸元を見つめるかつらに、憲子が言った。

「かつらちゃんは女学校で一緒だった頃のままみたい。三つ編みですっぴんで、自分よりも弟さんのことをいつも気にしてる。そんなかつらちゃんは素晴らしいと思うし、もう私がなくしてしまったものをずっと大事にしている、そんな気がしてうらやましいの」

「わたしはただ、毎日必死に働いているだけだから」

 ためらうかつらへ憲子が後押しするように言った。

「まだ決心が付かないのなら、かつらちゃんの正直な気持ちを京極さんに話せばいいと思うんです。二度と会えなくなったわけじゃないんですもの。もう大人なんですし、自分で責任を取れるのなら納得いくまでやってみればいいんじゃないですか」

「ええ。でもわたしには、戦争で辛い目に遭ってきた京極さんを受け止められるか、自信がないの」

 かつらは上野で「亡霊」と呼ばれた時の隆の変容を思い出していた。憲子がおずおずと話し出す。

「そうよね。私だってかつらちゃんと再会した時、忘れようと思ってた昔の出来事が一気に蘇ってしまって、どうしていいか分からなくなったもの。でも今は、かつらちゃんにもう一度会えて良かったと思ってるの」

「わたしもよ。今度お店に京極さんが来たら、もう一度話し合ってみるわ」

「それがいいですわ。京極さんのことを信じてるのなら、かつらちゃんも待ってるだけじゃなく京極さんに頼ってもらえるようにならないと、ね」

 「墨田ホープ」が近づいてきている。かつらは望の手を離すと手を振った。

「それじゃ、『まつり』に行ってくるね」

「行ってらっしゃい」

「ありがとうございました」

 お客を見送るようにお辞儀をする望と憲子に見送られ、かつらは「まつり」へ向かった。

 しかし、その夜も隆は「まつり」に来なかった。

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