二八.隆の申し出

 九月三十日、火曜日の夕刻。カイとリュウは「まつり」の近くで靴磨きの店を広げながら、かつらが出てくるのを待っていた。

『坊主の姉貴が眼鏡の男と会ったら後をつけろ。男の家を突き止めたらすぐに知らせに来るんだ』というのが八馬やまの言いつけだ。昨日も縫製工場の仕事が終わったかつらが店に入ったものの、眼鏡の男は来なかったのだ。

 「まつり」の幌の間から、暖かい空気と味噌汁の臭いが流れてくる。昼から何も食べていない二人は空腹をこらえながら入口を見つめていた。

「早く眼鏡の人来ないかな」

 リュウが小声でささやいた直後だ。両国りょうごく駅の方向から歩いてきた眼鏡姿の青年が「まつり」に入っていった。

「来たぞ、今日は店じまいだ」

 カイはリュウに目配せした。


 三十分ほど過ぎ、食事を終えた隆が「まつり」から出てきた。そのまま店の裏手に回る。どうやらかつらが出てくるのを待っているようだ。五分ほどすると、裏から出てきたかつらとたかしが連れ立って厩橋うまやばしの方向に歩き始めたため、カイとリュウはそのまま後をつけた。


「日曜の映画の後、家で康史郞こうしろうと一緒にダンスをしたんですよ」

 かつらは笑顔で隆に話しかけるが、隆は無表情でうなずくだけだ。

「もしかして、あの男の人のこと考えてるんですか」

 かつらの呼びかけに隆は立ち止まった。

「違う。実は君のことを考えてたんだ。横澤よこざわさん、いや、『かつらさん』と呼んでもいいかな」

 突然の申し出に、今度はかつらが立ち止まる。後をつけているカイとリュウも慌てて電柱の影に身を隠すが、二人は全く気づいていない。かつらは隆に顔を向けると笑顔で答えた。

「いいですよ。その代わり、わたしもお店以外では『隆さん』と呼んでいいですか」

 隆の表情がようやく崩れる。

「もちろんだよ」

「ありがとうございます」

 かつらの返事を聞いた隆は再び歩き始めた。

「厩橋に着いたら、話したいことがあるんだ」


 二人は厩橋に着いた。いつもなら別れるところだが、隆は厩橋の手前でかつらを遮った。

「かつらさん、私と結婚を前提におつきあいしてくれませんか」

「えっ」

 かつらは思わず手を頬に当てた。隆は話し続ける。

「日曜からずっと考えていた。私に新しい家族ができたら。それが君と康史郞君ならどれだけいいか」

 隆はかつらに手を伸ばすが、かつらは思わず後ずさった。

「わたしは康史郞の母親がわりです。康史郞を一人前にするのが仕事だと思っています。今は結婚なんて考えられません。ごめんなさい」

 頭を下げるかつらを見た隆は、伸ばしていた手を下ろすと道を空けた。

「悪かった。今の話は忘れてくれ。おやすみ」

 隆はそのまま足早に引き返す。後をつけていたカイとリュウもあわてて隆の後を追った。


 一人になったかつらは厩橋を歩きながら、隆の申し出と自分の答えを反芻していた。

(『隆さん』って呼んでいいって言うから期待させてしまったんだわ。でもわたしの答え、間違ってなかったわよね、母さん)


 カイとリュウは、隆の住む『隅田川すみだがわ館』を確かめ、雑貨店にいる八馬と廣本ひろもとに報告した。八馬は十円札をカイに渡すと、「もう寝ろ」と二人を追い出そうとしたが、廣本が遮った。

「夕飯まだだろ。こいつを持ってけ」

 廣本はりんごを一個差し出すと、ナイフで二つに割る。リュウが大事そうに受け取ると、二人は外に出て行った。改めて八馬が廣本に向き直る。

「まさか坊主の姉貴の恋人がヒロの部下だったなんてな」

京極きょうごくは死んだはずなのに、なぜ生きてるんだ。あいつに責められるのはもうたくさんだ」

 注射器を取りだそうとする廣本を八馬が制した。

「とりあえず家の場所だけ確認しておけ。あいつを姉貴から引き離すんだ」


 宿に戻った隆は、自分が性急すぎたことに自己嫌悪を抱いていた。

(私が勝手に盛り上がっただけなんだ。かつらさんが親しくしてくれるのと、結婚したいかは別の話なのに)

 落ち着かない隆は久し振りにたばこが吸いたくなり、財布を持って外に出た。宿を出た所で突然声をかけられる。

「京極、ここにいたのか」

「廣本伍長」

 隆は反射的に後ずさった。廣本の目が隆を見据える。

「貴様は亡霊だ。二度とあの女には関わるな。そうすれば見逃してやる」

 隆は無言できびすを返すと、部屋に駆け戻った。

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