二三.泥中の蓮のように

「お兄さんの羊太郎ようたろうさんは、予科練に行ったが飛行機には乗らずに終戦になり、復員してあの家を建ててから亡くなられた、と康史郞こうしろうくんが言ってたな」

 たかしは康史郞とのやりとりを思いだしたのか、ゆっくりと話し出した。かつらは自分のおにぎりを取りながら答える。

「ええ。でも兄は戦場に出られず生き残ったことを悔やんでいました。敗戦後の日本で進駐軍や闇市がはびこることに憤りをぶつけたくてもできず、自分たちだけは『泥中でいちゅうの蓮』のように清廉潔白に生きることで抵抗しようとしたんです」

「理想を持った若者だったんだな。いただきます」

 隆はそう言うとおにぎりを食べ始めたが、かつらはさらに話し続けた。

「兄はわたしたちにも『ヤミの物は買うな』と言い、抗議した康史郞にも耳を貸しませんでしたが、現実には無理な相談でした。空襲で焼け出されてからずっと栄養失調状態の上に、元々体の弱かった勇二郎ゆうじろうが病気になったことでようやく兄も目が覚め、闇市で米と卵を買ってきたんですが、もう手遅れでした」

「勇二郎くん。康史郎くんにとっては二番目のお兄さんで、横澤よこざわさんにとっては上の弟さんだね」

 隆は横澤家の写真を思いだしているようだ。おにぎりを食べる手が止まる。

「ええ。バラックを建てるためにかなり無理して働いてたんです。勉強が好きなおとなしい男の子でしたけど意志が強く、わたしも何度も励まされました」

 かつらは目をしばたかせる。

「勇二郎は亡くなる前、汗を拭きに来たわたしに『兄さんがもうすぐ銀シャリと卵を買ってくるよ』と言ったんです。わたしは熱でうわごとを言っているのだと思って、『良かったね』と答えました。でも勇二郎は兄が外に出て行ったのを見ていたのだと思います。兄が買ってきた米と卵はわたしと康史郎でおじやにして食べました。おいしかったけど、きっと勇二郎も食べたかったろうと思うと切なかったです」

「そうか」

 隆はため息をつくようにうなずいた。

「勇二郎が亡くなったのを知り、『勇兄さんが死んだのは羊兄さんのせいだ』と康史郞に責められた兄はそのまま家を飛び出しました。そして闇市で酒を飲んだ後、進駐軍のジープにぶつかり亡くなったんです。兄の死は交通事故として処理され、わたしは康史郎と一緒に兄と勇二郎の亡骸を埋葬しました。その後、わたしと康史郎は二人きりで助け合いながら生きてきたんです」

 かつらは水筒のお茶を一口飲むと隆を見た。

「今でも時々思うんです。もしかしたら兄は自分ができなかった特攻を進駐軍のジープ相手にしたのではないか、と。あの雨の夜、酔いつぶれた京極きょうごくさんを見たわたしは、亡くなった兄もこんな風に酒に溺れることしかできなかったのかと思い、つい後を追ってしまったんです」

「それで私を助けてくれたんだな」

 隆の言葉に、かつらは無言でうなずいた。

「わたしたちきょうだいを残して死んでいった兄に対する恨みと、最後まで現実に向き合うことができなかった兄を哀れに思う気持ち、どちらも未だにわたしの中にあります。だけど生き残った康史郎だけはなんとしても一人前になるまで育てたい。それが今のわたしが生きる意味だと思っています」

「横澤さん」

 隆はかつらに顔を向けると呼びかけた。眼鏡の奥の目がうるんでいる。

「私は君のことが好きだ。また一緒に映画が見たいし、君のことも助けたい」

 かつらも隆に目を合わせ、静かに答える。

「わたしも、京極さんともっと一緒にいたいです」

「ありがとう」

 隆は微笑むと、残りのおにぎりを頬張る。かつらもおにぎりを食べ始めた。


「ごちそうさま。本当においしかったよ」

 おにぎりを食べ終わり、お茶で喉を潤した隆がかつらに礼を述べる。

「このお米も、康史郎が配給の玄米を一所懸命一升瓶で精米してくれたんですよ。平日の夕ご飯の支度や洗濯もしてくれるし、本当に助かってるわ」

「確かに暮らしは大変だし、進駐軍の規制は厳しいけど、日本に帰ってこられて本当に良かったと思っているよ。今度は康史郎くんも誘って映画に行こう」

「ええ。実は家に帰る前に、もう一つ行きたいところがあるんです。つきあってくださいますか」

 隆がうなずくのを見ると、かつらは弁当箱をしまって立ち上がった。


 上野公園を出た後、かつらと隆は上野の闇市を歩いていた。

「この辺にあったと思うんだけど」

 かつらは闇市に並ぶ露店の左右を覗いている。

「何のお店ですか」

 隆が尋ねたその時、かつらが不意に立ち止まった。

「良かった。まだあったわ」

 かつらが足を止めたのは、中古の靴が無造作に並べられた露店だった。「特売 片方のみ」という紙が貼り出されている。

十文半ともんはんの右のズック靴。できれば白を探してください」

 かつらは隆に言うと靴の山をひっくり返し始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る