第四章 光の中の影
二二.上野でランデブー
九月二十八日、日曜日。空は晴れ、暑さもだいぶ和らいでいる。朝十時過ぎ、国民服姿の
「ちょっと早いけど、映画館が混むといけないから午前中に行こうと思ってね。お兄さんの服、貸してくれてありがとう」
「こちらこそ、洗っていただいてありがとうございます」
いつものブラウスとスカート姿のかつらは、そう言いながらリュックを受け取り、棚の隣に置いた。
「チケット代には足りないでしょうけど、
「わざわざすみません」
隆は頭を下げる。
「俺は用事があるから、姉さんは京極さんとゆっくり楽しんできてよ」
「銭湯の時間には間に合うように帰ってくるわ」
かつらは康史郞に弁当箱を渡すと、自分の弁当箱と水筒を肩掛けカバンに入れる。
「康ちゃん、出かけるときは戸締まり忘れずにね」
「お先に失礼するよ」
かつらは肩掛けカバンを持つと、下駄を履いてドアを開けた。隆が先に外に出る。
「行ってらっしゃい」
ドアが閉まると、康史郞は軽くため息をついた。正午から
「出かける前に食べないとな」
康史郞はちゃぶ台の上に弁当箱を置いた。
「映画なんて久し振りだから、ちょっとだけおしゃれしようかな、なんてね」
かつらは照れ隠しをしながらがま口をしまう。隆は玉を見つめると尋ねた。
「ひょっとしてそれ、
「よく分かりましたね。母の形見の
かつらは人差し指をくちびるに当てる。隆は目を空に向けた。
「着物の帯締め用の飾りか。私の母も昔使っていたな」
「亡くなった父が結婚する前に母に贈ったそうで、戦時中も大事に隠し持ってたんです」
「素敵な話だ」
「ええ」
かつらは言葉少なにうつむく。ちょうどそこに上野広小路へ向かう都電が入ってきた。
かつらと隆は、混んでいる都電の中でつり革を掴んで揺られていた。
「京極さん、どうして今日はわたしたちを映画に誘ったんですか」
かつらの問いに、隆は窓の外を流れていく光景を見ながら答える。
「君に『もっと自分をいたわってほしい』なんて偉そうに言っといて、自分だけ映画を見るのも気が引けて。少しは気晴らしになればと思ったんだ」
「ところで、今日は何の映画を見に行くんですか」
「『
「へえ、京極さん、原節子がお好きなんですか」
かつらは隆の横顔を見るが、いつもと変わらない。
「出征前に見た映画に出てたんだ。相変わらずきれいだな、と懐かしくなって」
「女学校でもブロマイドを持っている学友がいましたわ」
かつらは亡くなった友人の
「そういえば、横澤さんは女学校に通ってたと言ってたね」
隆の顔がかつらに向けられた。かつらは直視できずに視線をそらす。
「まだあの頃は戦争も激しくなくて。学友と放課後語らったり、図書室で本を借りたり。今となっては遠い昔ね」
「色々ありすぎたんだ。私たちも、この町も」
隆は窓の外に顔を向けた。かつらの脳裏に、東京大空襲の夜の記憶が浮かびあがる。亡くなった
(京極さんは、この町が炎に包まれた日を見ていない)
かつらは思わず、胸元の翡翠玉を握りしめた。
上野広小路に着いた二人は、映画館で『安城家の舞踏会』を見た後、弁当を食べようと上野公園を歩いていた。
「原節子の最後の社交ダンス、悲しいけど優雅で見とれてしまったよ」
「でも映画とはいえ元華族の方も大変なんですね。ああいうのを見ると、この日本に本当に幸せな人なんているのかしら、と思ってしまいます」
かつらの言葉に、隆は異を唱えた。
「少なくとも私は、今日君と映画を見られて幸せだったよ」
「わたしもです」
かつらは自分の胸の動悸が高まるのを感じ、足を速めた。
「ここは混んでますから、もっと奥に行きましょう」
二人は上野公園の端、
「まさか、不忍池が田んぼになってるとはね」
隆は驚きの声を漏らす。かつては蓮の花が咲いていた池が一面の田んぼになっているのだ。
「ここで取れるお米も食糧難を凌ぐのに役立ってるそうですよ」
「みんな知恵を絞ってるんだな。頭が下がるよ」
かつらは空いているベンチを見つけると隆と並んで座り、弁当箱を広げた。
「子どもの頃、家族でこの池や動物園に行ったのを思い出すな。横澤さんたちも来てたのかい」
隆に尋ねられ、かつらは田んぼとなった池を見ながら答えた。
「ええ。でも、ここに来ると亡くなった兄のことを思い出すんです。京極さんは『
「泥中の蓮?」
「泥の中で咲く蓮の花のように、泥沼のようなこの世の中で清らかに咲く蓮の花になる。兄がそう言ってたんです」
かつらはおにぎりを差し出ながら申し出る。
「兄の話を少ししてもいいですか」
「もちろん」
隆はそう答えるとおにぎりを受け取った。
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