第43話
なにに起こされるでもなく、わたしの目は覚めた。
カーテンから漏れた光が天井の影に差し込んでいる。吸い込んだ空気からは、少し甘いシャンプーの香りがする。
いつもは寝付きが悪くて、寝覚めもよくないのに。今日はぐっすりだった。目覚めも自然だった。幸せな気分だった。
「おはよ」
天使が上からわたしを見つめていた。
どうりで変だと思った。
わたしは起きたんじゃなくて、天国にやってきたんだ。なんだ、わたしは死んだのか。ついに。とうとう。
「未優? どしたの、ぼーっとして」
天使に頭を撫でられた。
心地いい。気持ちいい。もっとしてほしい。
その感触で、急に思い出した。寝ぼけていた頭が冴えてきた。
そうだ、昨日はみさきの家に泊まったんだった。
一緒のベッドで。体をくっつけて。
夢みたいだったけど、夢じゃない。たぶん。
もし夢だとしたら、また眠れば続きを見られるかもしれない。わたしは目を閉じた。
「はいすぐ二度寝しない」
おでこをつつかれて、わたしは目を開けた。ちょっとだけ唇をとがらせてみる。
「はいふてくされない」
ちがう。
キスしてアピールだったんだけど通じてない。空気読めてないみさきに逆戻りしてる。まるで魔法が解けたみたいに。
どうやらもう完全に夢から覚めてしまったらしい。現実は無情なり。
「ほらいい子だから起きましょうね~」
ほっぺたを指でぺたぺたしてくる。
朝弱いくせに。いつもは自分が寝坊するくせに。生意気な。
指に噛みつこうとすると、さっと手を引っ込められた。
みさきは「きゃあ食われる逃げろ~」とかいって寝室から出ていった。
二度寝する気分にもなれず、わたしはのそのそとベッドから這い出る。最低でも、あと三十分ぐらいはふたりでぬくぬくしてたかったのに。
頭なでなでもすぐ終わり。寝起きイチャイチャもなし。それどころかいきなりおふざけモード。
もう、なんもわかってないんだから。
リビングへ行ってテーブルにつくと、みさきがトーストと目玉焼きを乗せたプレートを持ってきた。ウインナーも乗ってる。
「さあ、たーんとおあがり」
みさきが得意げな顔で飲み物をグラスに注ぐ。
わたしが寝てるうちに起きて、用意してたみたいだ。
でもわたしは朝からそんなに食べない。ほとんどトーストだけかじって終わり。
みさきはお皿に残ったものをぺろりと平らげると、手で伸びをしながら立ち上がった。窓から外をのぞきながら言う。
「今日は天気もいいし、運動したい気分だなあ」
こっちは外で運動っていう気分じゃない。せっかく休みで、二人きりなのに。
みさきはわたしを振り返るなり、朗らかな笑顔を向けてきた。
「未優、公園でキャッチボールしようぜ!」
野球やろうぜみたいなノリで言うのやめてほしい。
キャッチボールなんて数えるほどしかやったことないし、好きでもなんでもない。
「やだ。家でゴロゴロしたい」
「ごろごろ~? 太るよ?」
べつに太ってるわけじゃない。標準。それも胸のせいでかさ増しされてるだけ。
わたしはべつの提案をする。
「じゃあうちで映画見ようよ。前にみさきが超怖いって言ってたやつ」
「やだやだやだキャッチボールぅ~~」
地団駄をふんでごねはじめた。子供か。
「他に誰かいないかな~。あ、悠真とか家にいるかな?」
「いません」
「電話してみよっかな」
みさきに誘われたら喜んで出てくる。でもそれはさせない。
「もう、わかったから! 電話しなくていいよ」
「え? いいの?」
べつにいいけどさ。昨日の夜は優しくしてくれたから、たまには。
けど休日の朝からキャッチボールするJKとか、どうなのって。
やたらごきげんなみさきと一緒に近くの公園まで出てきた。
ベンチと砂場と、すべり台つきの変なアスレチックがあるだけのしょぼい公園。そこらのおじいちゃんがベンチに座っているぐらいで、閑散としてる。
奥の芝生広場は文字通り芝生だけでなんにもない。誰もいなかった。
「じゃあこれ、はい」
みさきがボールを手渡してきた。一丁前にグローブまである。
こっちのほうが取りやすいよって言うけどくちゃい。はめたくない。
「さあ、どんとこい!」
わたしから距離を取ったみさきが手を上げる。
わたしはグローブを地面に放ると、ボールを振りかぶって、投げた。
球はみさきまで届かずに芝の上に落ちた。斜め前にゴロゴロ転がっていく。
「はいショートゴロ!」
みさきが何事か叫びながら身をかがめ、ボールをすくう。
くるっと身を翻しながら、球を投げ返してきた。わたしは飛んできたボールをよけた。
「ちょっとぉ! なんでよけんの!」
みさきがわめきながら走ってボールを追う。
拾った球をグローブの中で転がしながら戻ってくる。
「キャッチボールの意味わかる? お互いボール投げて、取るの」
「わかってるよ」
「わかっててそれ? どういうこと?」
わたしにボールを押し付けたみさきは、また距離を取った。
「ここだよここ! ここ!」
自分のグローブをパンパン叩く。
なんかバカにされてるみたいだ。わたしはみさきの顔にぶつける勢いでボールを投げる。
球はふわっと放物線を描いた。
わたしが頭で描いた絵とは違って、ゆるーく飛ぶ。
みさきは落下地点の下で軽く前かがみになった。ボールはみさきが背中の上に構えたグローブの中に落ちた。わたしは小さく拍手をする。
「え、すごーい」
「すごいっしょ?」
「つぎは目つぶってやって」
「うん、それは無理だね」
どうせわたしが取れないと思ったのか、みさきはボールをわたしの足元に転がるように投げてきた。ボールはわたしの靴の先でちょうど止まった。
「ナイスアプローチ!」
親指を立ててなんか言ってる。ゴルフ? かわかんないけどたぶんそういうノリ。
わたしはボールを拾うと、ななめ奥の草むらに向かって投げた。
「ちょおー! どこ投げてんのー!」
みさきは大きな声を上げながらボールを追いかけていく。ぶつくさ言いながらも、律儀にボールを手に戻ってきた。
「なんかみさき、犬みたいだね」
「なんだと」
「ちゃんとご主人様のところに持ってきてえらい」
頭をなでてやると、みさきはうれしそうに目を細めた。わたしは手のひらを上向けて差し出す。
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