28.潮騒は自らの内に鳴り響く【ヘッドフォン】-1

「ジャッキール様は、闇を怖いと思いますが?」


 あの朝凪の海を見た日、そのまま近くの浜を散策しているとラゲイラ卿に唐突に聞かれたことがあった。

 太内海に面した静かな浜は、少し太陽が昇ってからでもずいぶん穏やかだ。凪の時間は終わっていて、白波はわずかに浜を舐めているが、それでもずいぶんと優しい。

 俺は護衛として彼を守りながら散策をしていた。しかし、実状は彼と談笑していると言った方が近く、彼の話し相手を務めている、という方が適切だったかもしれない。比較的安全な場所でもあったこともあり、他の護衛をつれているでもなく、話をしやすかったのだ。

 俺と彼との会話は様々な話題に及ぶが、ただの雑談からはじまり共通の趣味である芸術方面の話であったり、はたまた仕事めいた戦術的なことであったりした。

 俺と彼との関係が、ある種、年の離れた友人の関係、さらに言えば師弟関係に近いものがあることはすでに述べているけれど、金銭による契約での主従の関係である我々が、そうした会話を行うのは不思議なことのように周りには映っていたかもしれない。

 こうした場所での気楽な会話は、俺としては多忙なラゲイラ卿から知識を授けてもらえる講義の機会でもあるわけで、俺としても楽しく有意義なものでないわけがなかったのだ。

 ただ、唐突にそんなことをたずねられて、俺は内心戸惑いはしていた。

 ラゲイラ卿の言う『闇を怖いと思うか?』というのは、表面的な『暗闇が怖いか?』という意味ではないことを俺はわかっていた。そして、過去の負傷から、時折、発作を起こすことのある俺は、まさにその『闇』を抱える人間でもあることを俺は自覚していた。

 俺は少し考えてから答えた。

「ラゲイラ卿に偽りを申し上げても仕方がないでしょう。正直、私は、自らの闇を恐ろしく思います。深く、底知れず、そして、飲み込まれれば這い上がってこられない。そのような暗闇が恐ろしいのです」

「貴方は相変わらず誠実で正直な方ですね」

 ラゲイラ卿はふわりと微笑んだ。彼は俺がそう答えることを予想していたのだと思う。

「このようなことを申し上げるのは、正直、情けなく思いますが……」

「そんなことはありません。闇が恐ろしいのは、人間の本能というものですよ。……そして、暗闇を見つめることは、自らが恐ろしいと思っているもの、恐怖を認めることにもなるのです。それは誰しも心地よい作業ではありませんからねえ。闇が恐ろしいと正直に述べられる貴方の勇気と素直さは、素晴らしいことですよ」

 彼は浜辺を歩きながら、俺の方に振り返った。

「私にも覚えはあります。自ら認めることの難しい深い闇への恐怖を、どう処していくべきなのか悩むことが……」

「貴方にもそのようなことがおありなのですか?」

「もちろんですよ。貴方は私をすぐ買いかぶってくださいますが、私もとるに足らぬちっぽけな男ですからね」

 彼は続ける。

「貴方は真面目で悩み深い方ですから、闇の暗さも深さが見えてしまうのでしょう。自らを見つめなおすのはとても大切な作業ではありますが、深く見つめすぎることは生きる上で得策ではないこともございます。自分と対峙しているつもりが、別の何物かと対峙してしまうこともある。……どうすればよいかわからなくなり、悩んでしまうこともおありでしょう。私にも覚えはありますよ」

「それでは、そうした時に、どのようにふるまうのが良いのでしょうか」

 と、俺は思わずたずねていた。

「自分の行いが、正しいのかどうか。それどころか、自分が望んでいることであるのかどうかすら、時にわからなくなることがあるのです。そうして、自分が本当に恐れているものがなにものかもですら、わからなくなるのです」

 俺は素直にそう申し上げることにした。もちろん、彼の前で自分をよりよく見せたい気持ちはあった。俺は彼に認められたかった。しかし、そうした付け焼刃の飾りつけは、鋭い見透かされることも知っている。

「そうですねえ。どのように説明するのが、適切でしょうか」

 とラゲイラ卿は、考える様子になり、浜辺を見回していたがにやりとした。

 そして、何かを見つけてかがみこむと、砂浜からなにものかを拾い上げた。それは手のひらぐらいの大きさの美しい巻貝の貝殻だった。彼は珍しく悪戯っぽい笑みを浮かべた。

「ジャッキール様は、"これ"で遊んだことはございますか?」

「これ、とは、その貝殻でしょうか」

「ええ。これを耳に当てると、海から遠く離れた場所でも、まるで貝殻が記憶していた音を聞きとるかのごとく、波の音がするという。そんなふうにいうのですよ」

 いきなり何の話をするのか、と俺は怪訝な顔をしていたのだろうと思うのだが、ラゲイラ卿はそれを楽しそうに見ながら貝を耳に当てる。

「前にも言ったことがある通り、私は子供のころ、海から遠い領地で暮らしていましたから、海には少しの憧れがあったのですよ。ある時、出入りする商人が私にこういったものです。彼らは航海をする船乗りでもありましたから、私は海の話をことさら彼らにねだっていたのですよ」

 ラゲイラ卿は、細い目をさらに細めた。

「彼らはいいました。『御前様ごぜんさまは知らないでしょうが、貝殻は海の音を記録するのです。そうすれば、海から遠いお屋敷にいながら、海の音をきくことができるのですよ』と。私はにわかには信じられませんでした。私もうっすらとは聞いてはいました。いずれは文を書き留めるかのように、音を記憶するものができるかもしれない、やがて家にいながら、耳に金属を当てるだけで音楽を再現できるようになるかもしれない。そんなことを錬金術師たちがいっていることをね。けれども、私はにわかに信じませんでした。錬金術師たちの話は夢見がちだ。到底今の技術でそのようなことはできまい。まして、貝殻風情に、そんな記憶ができるとも思えない。この世には魔法なんてないのに、そんな不思議なことがあるものか、とね。私はね、とても、理屈っぽく、小生意気なかわいらしくもない子供だったのですよ」

 と、彼は苦笑する。

「しかし、そんな小生意気な私の意地ですら溶かしてしまうほどに、その話は魅力でした。魔法など存在しないはずだし、たかが貝殻だ。けれど、もしかしたら……。子供の私は、こっそりと、彼らの一人に貝殻をもってきてもらうように頼んでしまいました」

 ラゲイラ卿が自分の過去を話すのは珍しく、俺は思わず聞き入っていた。

「やがて、彼らが再びお屋敷を訪れるときに、私の手には立派な巻貝の貝殻が届きました。私は人前でそれを喜ぶほどに素直ではありませんでしたが、内心とても嬉しくてね。いそいそと自室に戻って、こっそりと耳にそれを当ててみました。そうすると」

 ラゲイラ卿は、貝殻を耳に当て目を閉じた。

「……確かに私の耳には、多く離れた海の音がきこえたのですよ。それはさざ波の立てる海の中の音のような、果たして海鳴りのような。正直、私はとても驚きました。そして、それから、時々、ひとりで部屋にいるときに海の音をきいていたものです」

「私には恥ずかしながらそのような経験がありませんが……」

 と俺は目を瞬かせながらたずねた。

「不思議なことです。巻貝の貝殻は、浜辺に打ち上げられてからも自らがいた海の底の音を覚えている、というのでしょうか」

「ふふふ、さて、それはどうでしょうか。試してみますか?」

 と彼は答えを言わずに、楽しそうに笑いながら、俺に貝殻を渡した。

 俺は戸惑いながら、そっと貝殻を耳につけた。

 半信半疑であったが、目を閉じて耳を澄ますと、確かに奥から湧き上がるように、ごぉお、こぉぉ、と不思議な音が沸き立った。どきりとして目を開けると、ラゲイラ卿はゆったりと俺の方を見ていた。

「これは……確かに……」

 それは不思議な現象だった。

 貝から確かに、海の音が聞こえる。

 しかし、俺は海のそばでこれをやっているのだ。ただ単に、拾った風の音が貝殻の複雑な構造の中に入り込んで、そんな風に聞こえるのでは? それとも、俺の体に巡る血潮や鳴り響く心臓の鼓動が、貝の中に迷い込んでそんな風に潮騒の如くに、貝を鳴らしてしまうだけなのでは? 

 大体、この貝殻が海の音を記憶するなど、大の大人の俺が信じるには、あまりにも夢見がちすぎる。

 しかし、その音がこの貝の持つ記憶だとも否定はできない。その上に、その答えは現実離れしているけれど、とても甘美で美しいものだ。そう、大人の俺には夢見がちに思えるが、そういう風に信じることはとても楽しく、詩的で美しい。

 俺なら後者の方に思いたい、と思った。

 だが。

 しかし。

 しかしだ。

 俺は迷っていた。

 第一、ラゲイラ卿は、どちらの回答を望んでいるのだろう。

 俺は、どう彼に答えるのが正しいのだ?

 ラゲイラ卿はそんな俺の返答を待つかのように、こちらを静かな目で見ている。

 わからない。彼の感情など読めない。彼は理知的な回答と、それと芸術的な回答、どちらを望んでいるのだろう。

 間違えたくない! 俺は、彼に失望されたくない!

「どうですか? ……貴方はこの音を貝の持つ海の底の記憶の残骸だと思いますか? それとも、ただ、貝が周囲の音を巻き込んでそう聞こえさせるだけだと思いますか?」

 俺の中で疑念が渦巻くのを、ラゲイラ卿は楽しげにみやった。

「え、ええ。いや、……それは……その」

 俺が巻貝を彼に返しながらも、まだ答えあぐねていると、くすりと、ラゲイラ卿は笑った。

「この音の正体など。本当はどうでもよいのですよ。現実的に考えると、これは貝殻が増幅して鳴らした風の音や、我々の体に巡る血潮の音であるようにも思えます。けれど、……もしかしたら、本当にこの貝殻がまだ生きていたころに記憶していた、海の底の麗しい記憶の残骸なのかもしれない。前者の回答はとても冷静で理知的ですが、後者の回答ほど美しく芸術的なものもないでしょう」

 ラゲイラ卿はつづけた。

「これをどう解釈し、どう信じたいかは、結局のところ自分次第なのです。……一体、自分が何を信じたいかによるのです。けれどもね……、今のあなたのように、これをどう答えればよいのかわからなくなってしまうことがある。特に今、貴方の前には質問者の私がいるわけです。貴方は、立場的に私が望む回答を探してしまうでしょう。貴方が本当にそう思いたかった回答を捻じ曲げてでも、私に合う正答を探してしまう」

「は、はい。あさましいことですが、私は、ラゲイラ卿の歓心の買える回答を探してしまいました」

 言い当てられて、俺が正直に答えると、彼は笑いながら首を振った。

「はは、そんな風にかしこまらなくてもよいのです。申し訳ございません。先ほどの質問は、私が非常に意地悪でしたね」

 彼はそういって、俺にもう一度貝殻を渡した。

「よろしいですか、ジャッキール様。もし、あなたが自らの内なる声に迷った時には、この貝殻のことを思い出してください。貴方が本当に望むものも、恐れるものも、本来はその内にある声に素直であることで見つけ出すことができるもの。しかし、周囲の雑音や状況が、その素直さをかき消してしまうものです。人というのは、自分を見つめなおすときにですら、様々な雑音が入るものなのです」

 彼は続けた。

「……そういう時には、一人でこの貝の声をきいてみるのもよいものです。自らの欲しい答えを、まずはそれで見つける。ただ、それが現実の状況にそぐわないこともあるでしょう。ただ、自分を見つめ直しさえすれば、自分がどう答えるのが得策か、自分の考えていることがわかる」

 ラゲイラ卿は言った。

 その言葉は静かに、しかし、潮騒のように俺に染み入る。

「自らの闇を恐れるのは、それが見たくないものであると同時に、よくわからないものであるからでもあるのです。私の回答は完全ではありませんけれども、少しでも貴方の迷いを断ち切る一助になると嬉しいものです」

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