26.丑三つ時に白刃は閃く【深夜二時】


 久々に夢を見た。

 

 俺は、真っ黒な沼地を延々と歩いているのだった。足元はぬかるみ、一歩歩くのすらつらい。光はささず、真っ暗だった。

 はぁはぁと自分の獣のような息遣いが、耳にうるさく響く。痛む頭を抱え、満足に見えない視界を手探りで進んでいく。

 その視界がほんのり赤くなるのは、割られた頭から流れる赤い血が、視界を覆ってしまうのか、それともただ単に俺の視覚がおかしくなっているのか、わからなかった。

 世界が赤く染まっていくにつれ、鼻に焦げ臭い香りを感じる。

 俺は自分が戦場にいたことを思い出すのだ。

 目の前にあるものは全部敵だ! 排除せよ!

 と、頭の中で何者かが叫ぶ。

 斬れ! お前に害をなすものは排除せよ! そうでなければ、お前は生き延びられない!

 いつぞやの戦いから、ずっと、俺の中に住み着く獣が、俺に降りかかる全てを薙ぎ払えと命令してくる。あの時、戦場で負傷してから、俺の心には獰猛な獣が住んでいる。

 赤い視界の中に躍り込む陰に、俺は笑い声をあげながら攻撃をしていた。

 あの時に何が起こっていたのか、俺にはもう知る由もない。ただあの時のように、自分がわけもわからず高笑いしながら戦っていることがあるのはわかるのだ。

 それは悪いことばかりではない。

 俺は、戦場で生き延びるのには甘い人間だ。

 ラゲイラ卿やラザロに指摘された通り、俺は甘さをどうしても捨てきれていなかった。獣の狂気はそんな俺を全部飲み込んで連れて行ってくれる。そうすることで、今まで俺は激しい戦闘の中、生き延びてこられた。

 ただ、そこで得た強さはむなしいものだった。それを続けていけば、自分を失ってしまうことを俺はどこかでわかっていたのだ。自分を削りながら勝っただけのこと、けして誇れるものではない。

 やがてその興奮と歓喜をもたらす赤い世界も、また、血液が変色するように黒くなっていく。

 赤い世界が落ち着くと、やはりそこは真っ黒な泥沼だった。

 体が石のように重たくなる。ひどく疲れていて、もう一歩も進めそうにない。

 だんだん呼吸が苦しくなってきて、そのこうしているうちに目の前の闇までが俺の手足や肩にへばりついてくる。そのまま、どろどろの沼地に引き込むように、俺を沈めようとしてくる。

(嫌だ!)

 俺は本能的な恐怖から心のうちで叫んでいた。もはや声が出ないのだ。

 そこに飲み込まれてしまえば、俺は俺でなくなってしまう。狂気に飲み込まれて、ただ強いだけの獣になるだけなのだ。

 視界はもはや、一切の明るさをもたず、無明の黒さをたたえていた。

 誰か、助けてくれ。

 かつてはそんなふうに助けも求めたものだが、俺はもうその頃には慣れてしまっていた。助けを求めても誰も来ない。

 ただ、手を伸ばす。

 首まで沼に沈んで行く。俺は絶望的な気持ちのままで、引き込まれていくのだ。

 伸ばした手にまで、粘質の泥が巻きついて。

 

 そこで、俺は目を覚ました。


「……はぁ、はぁ……」

 はじけたように起き上がった俺は、肩で息をしていた。鼓動の音が驚くほど大きく響き、まるで耳元で鳴らされているかのようだ。

 周りは暗く、真夜中であることはわかっていた。びっしょりと寝汗をかいていて、額にやった手が濡れている。

 ふと、周りに人の気配があって、思わずぎくりとしたが、例の三人が勝手に俺の部屋を占拠して雑魚寝しているにすぎなかった。

 そういえば、昨夜は作戦会議をしたのだ。

 俺は、蛇王とともに例のバニラを家に持ち帰っていた。

 その時は、尾行されている気配はなかったが、サリフ少年には家がバレているし、俺がここにいることはいずれわかることだろう。

 その時の為を考え、いろいろと対策を練る必要があった。

 リーフィ嬢は忙しくしていたので、集まったのは出発前から待機していた二人と蛇王で、男ばかりだった。

 三白眼とネズミは、俺が若干焦げを作って帰宅したので、心配はしていたようでもあった。血気盛んな年頃の奴らでもあるので、憤ってもいたようだ。特にネズミがこちらから仕掛けるべきではないかといったが、三白眼の方は憤りは感じつつも、そこは様子をみるべきではないかと冷静だった。

 俺と蛇王も、あまり迅速に対応しすぎるのも難しいと考えていた。雑貨商の筋も良くなさそうだが、下手に刺激すると藪蛇になる。

 そうして作戦会議はお開きになったものの、すでに夜遅くでもあった。眠くなった三白眼とネズミに、勝手にその辺に雑魚寝され、ついでに蛇王も帰らなかったことを覚えている。

 そんなわけで、俺の部屋はさながらむさ苦しい合宿所のようであった。

 それを思い出したところで、俺はため息をついた。今としては人がそばにいてくれて安心する気持ちもあるが、一人になりたいような気持ちもあったのだ。

 急激に喉の渇きを感じ、水差しの水を飲むことにした。

 幸い、呼吸は落ち着いていて、タチの悪い発作を起こさずに済みそうだが、まだ動悸が落ち着いていない。

 冷たい水をぐっと一気に飲み干したが、落ち着かなかった。胸の中でざわざわと何かが騒いでいるかのようだ。

 近頃は、静かにしていた獣が体の中で騒いでいるかのようだ。

「参ったな」

 俺は苦笑してそういってみたが、言葉にしたところで大した効果はなかった。

 体に熱がこもっている気がして、体の中がざわついた。

 そういう時は、真っ暗な闇中に溶け込んでしまいたくなるものだ。

 俺はほぼ無意識で剣帯ごと、魔剣フェブリスを持ち出した。

 熱病の女神の名を持つ剣は、触れた時には冷たく感じ、俺の病を治してくれるが、即効性はなかった。

 剣を手にしたまま、それでも、奴らを起こさないように静かに扉を開けると、夜の闇に滑り出た。


 *


 その日は、ほぼ満月に近かった。

 雲一つない空だが、月の光は温かみのない冷たさで真夜中の街に降り注いでいる。

 まるで死の世界の光のようだ。冷たく、狂気じみている。

 歩いているものは、俺以外、誰もいない。

 しかし、それで良かったのだ。下手に何者かに出会ったら、何かの拍子に、俺は剣を抜いてしまいかねない。そんな、荒々しい気分だったのだから。

 その時間は、きっと、丑三つ時だった。

 月の傾きが、俺におおよその時間を教えてくれていた。草木も眠るというその時間、月に照らされているにもかかわらず、闇の黒さはあの夢のように、俺を引き込んでしまいそうなほど恐ろしく、いっそ魅力的だった。

 闇は俺を飲み込んでしまうかもしれないが、そうされれば苦しみは感じないのだろうなとも思える。

 よくない気分を察知して、俺は昼間からでも人気がない高台の方まで歩いた。こういう気分の時は、人に会わないに限る。

 俺はため息をついて、そこで立ち止まった。

 頭を冷やすべきだと外にでてみたが、まだ頭は冷えていない。心はざわざわとしていて収まらなかった。

 額に手を置いて俺はため息をつく。

 煙草でも吸うか。いや。

 と、不意に、人の気配を感じて、俺は振り返った。誰何する前に相手の方が声をかけてくる。

「こんな真夜中に、夜歩きかい?」

 誰かが歩いてくる気配がしたが、足音が鳴らなかった。まるで猫の足のようだ。

「こんな丑三つ時に、アンタみたいな男が徘徊するとシャレにならねえんだよ」

 憎まれ口をたたきながら、闇から月光の下に現れたのはサンダル履きの足だった。引き続いて、青い衣服を着た男が光の下に姿を現す。その瞳もまた、怪しく青ざめて輝いていた。

 そこにいるのは、三白眼、シャー=ルギィズだった。

 呆然と見る俺に構わず、三白眼は苦笑した。

「アンタ、自覚ないかもしれないけどさあ。夜中に徘徊して、血を吸う化け物とか、そういうのに似てるんだよ。こんな時間に徘徊されたら、まずお化けに間違えられて迷惑だから自重しろって言ってんだろ」

「貴様……」

 と、俺は言葉に少し詰まっていた。

「起きていたのか?」

「いいや、アンタにたたき起こされたんだよ。真夜中にガサガサしやがってさ。で、アンタが散歩にいっちゃったから、ついてきただけだよ」

 三白眼はそう言って、やれやれとばかりに肩をすくめた。そして、急に悪戯っぽく笑った。

「でも、まあ、わかるけどね。アンタがなんで、散歩に行ったのか。……みたとこ、煙草吸って解消できるような、イラつきでもないんだろ?」

 そういって、三白眼はいつも腰に差している刀を左手で押さえていた。

 ふと、剣呑な気配が漂った。

 ざっと腰を落すや否や、いきなり三白眼は刀を抜いて俺に斬りかかってくる。月光に映える白い光に、はっとして俺がフェブリスを抜く。硬質な金属のぶつかる音とともに、夜闇にばちっと音を立てて火花が散った。

「何をする?」

「オレもそろそろ付き合いながいんでね! ダンナの性格ぐらいわかってるっつーの」

 がっと俺が剣を薙ぎ払うと、その衝撃にのせて三白眼はゆるやかに後退した。

「なんだ。運動不足の俺の相手をしてくれるというのか?」

 俺は思わず苦笑した。

「オレは普段はこういうのしないんだぜ。ダルいからよー。だけど、アンタ放置すると爆発するタイプだから」

 と、三白眼は、にやりと歯を見せて獰猛な笑みを見せた。月の光の下で、その白の多い目が怪しい青の輝きを見せている。

 魔性のものの目とはこういうものをいうのか、と思わず思ってしまうような、そういう瞳をやつはしている。

 そういえば、こいつはそういう生き物だったな、と今更ながらに思い出した。かつて俺が戦場で出会ったアレも、一種の魔物だったのだから。

 その魔物が悪戯っぽく笑う。

「しょうがねえから、オレがてめえのイライラが落ち着くまで、付き合ってやるよ!」

「はははっ!」

 俺は思わずうれしそうな笑い声をあげていた。

「それでは一手所望するが……」

 俺はにやりとした。そこには幾分か押さえつけている狂気も滲んでいたかもしれないが、かえって冷静だった。

「俺は手加減ができなくなるからな! 自衛はちゃんとしろよ!」

「そういうのこっちの台詞なんだよ。ダンナこそ、うっかり地獄堕ちしないよう、油断するんじゃねえぜ?」

 だん! と三白眼が力づよく足を踏み込んだ。東方由来の見慣れない剣を使う彼は、その動きも独特だ。鋭く斬りはらってくる切っ先を避け、弧を描いて放たれる剣をはじき押さえつける。

 俺の方が体格もあって力も強いが、三白眼の方が速い。

 この血の踊る感覚は懐かしく、そして、俺に強く生きていることを感じさせる。

 しばらく、金物の音を響かせ、火花を夜闇に飛び散らせながら、俺と三白眼は丑三つ時の月の光の下で打ち合っていた。


 *


「まったく、マジかよ!」

 ひとしきり汗をかいた後。お互い疲れてきたところで勝負を中止し、俺と奴は休むことにした。

 別に本気で殺し合いするわけでもないので、良いところで互いに引いた方が良い。

 シャーは肩で息をしていたが、すぐに呼吸を収めてしまうと、石畳の上に座り込んで俺を例の三白眼の目で睨みつけた。

「こんなの、夜中にやることじゃねえな。アンタ、本気出しすぎだろ! 時間考えてくれよな」

「お前に言われたくない」

 俺も息を切らせていた。

 大体、俺の方がずいぶんと年上なのだ。若者のこいつと同じようにしていれば、普通に疲れるのは俺の方が早いに決まっている。

 大体、三白眼の奴もついつい乗るので、最初は控えめに戦闘していてもだんだん動きが激しくなるのが常だった。

 俺も負けなかったが、相当振り回された。実のところ素早さを重視する三白眼の剣術と俺の剣術は相性があまりよくなく、俺はまあまあ不利なのだ。

「全く……」

 俺は息を落ち着けると、懐中から煙草を取り出した。持っている種火でそれに火をつけると、久しぶりにふかすことにした。

 しばらく無言に落ちた我々に、月の光は静かに降り注ぎ、薄い煙だけが静かに闇にたなびいていく。

「そのさあ」

「ん?」

 三白眼に声をかけられて、俺はやつに視線を向けた。

「……アンタが、その、なんか悩んでるのは、わかるよ」

 三白眼はふとそう言いだした。

「自分がやってることが、正しいのかどうかとか。偉そうに言えることなのかとか」

 そう言い当てられて俺は黙っている。三白眼はつづけた。

「そういう子たちを助けられないのは、別にダンナのせいじゃないし、ダンナが負い目を感じなくてもいいんだぜ。そういうのは、その、こっちの国のえらい奴がしっかりしていないだけのことなんでさ。寧ろ、オレのが無関係じゃない」

「別に、そういうのではない」

 俺はそう言った。

「ただ、俺はあくまで流れ者で、傍観者でしかないからな。何を言ったところで、偽善にしかならんし、求めるつもりもない。それはわかっているが、どうしても口を出してしまった」

 ただ、と彼は言った。

「俺はな、あの青年を斬りたくないのだ」

 俺は言った。

「それどころか、あの兄妹を含めた家族の生活を、できれば侵したくない。……盗品でなんであれ、その金で幸せになるなら、と一瞬思ってしまってな」

「ダンナは優しいよね」

 と三白眼は言う。

「そういうのではないぞ。先ほども言った通り、俺は結局何もしない偽善者なだけだ」

「オレはさあ。ダンナがやりたくないから、それでいいんじゃないかなって思うけどさ。……あの商人だって、役人に突き出せっていってたわけじゃないし」

 三白眼はにやりとした。

「ま、全部丸く収まる方法があるとは思わないけど、……ダンナが相手なんだし、依頼主だって予想ついてるんだろう? 交渉の余地もあることさ。だから、あんま、深く考えるなよな」

 そういうと、三白眼は大あくびをしてふらっと立ち上がった。

「どこに行く?」

「先にかえって寝るに決まってるだろ。あのさあ、まだ真夜中なわけ。丈夫なアンタと違って、繊細にできてるオレは普通に疲れるの。ってことでおやすみ」

 そういうと、やつはひらっと手を振って歩きだした。

「あの兄妹がどうこう、ていっても、売られた喧嘩はどのみち買うだろ。アイツらがいりゃ、あの兄妹も幸せになれるってわけじゃないんだろうし。明日は忙しくなりそうだしさ。だから、先に寝てるわ」

「そうか」

 俺は煙草の煙を、ふーっと長く吐いて目を伏せた。

「すまなかったな。……お前には気を遣わせた」

「べつにー」

 と奴は素直でない返事をよこした。

「起こされたついでに、相手してやっただけだよ。こっちも当てられてイラついちまうし。アンタ心配したわけでもないからな」

「そうか。それはすまない」

 その返答に俺は苦笑したが、やつはまた猫のように去っていった。

 そして、やつの姿が見えなくなってから、俺は煙草を吸い終わり、仕舞い込んでいた。

 夜風が心地よく吹く。そうして初めて俺は、建物の陰に声をかけた。

「いい加減に出てきたらどうだ。いるのだろう?」

 暗がりから、ははっと笑い声がした。

「なんだ。気づいていたのか?」

「最初からな。ふん、それくらい気づく」

 出てきたのは、蛇王だった。その大柄の体をどうやって隠していたのか、闇の中から大きな蛇のようにするりと抜け出してくる。

 そんな彼が、やけにニヤついている。

「よかったな。あの小僧に構ってもらえて。気分がすっきりしたか?」

「何を言う」

 俺がやつを睨みつけると、やつは白々しく言った。

「……俺が相手をしてやってもよかったのだが、俺とお前だといちいち本気の殺し合いになりかねないからな。お前は三白眼が相手だと、無意識に手加減するからちょうどいい」

「は、何を言う。俺は貴様が相手の方が良かった。腐れ縁が断ち切れて良い機会だったのに」

 不機嫌に俺がいうと、やつは平気で答える。

「そうだな。縁切りできなくて俺も残念だ。まあしかし、それも神の思し召しというやつだ」

 蛇王はにやりとした。

「貴様のそばに、あの三白眼がいて良かったな」

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