24.朝凪の如くに澱みなく【朝凪】


 海もろくに見たことのない俺にとって、朝、海が凪いでいるのをみたのは、結構な衝撃だった。

 海といえば、波がさざめき白波を立てて押し寄せる、という印象が残っていた俺は、べったりとした変化の少ない海の様子に正直戸惑ったものだ。

 その時はラゲイラ卿に付き従って太内海沿岸の避暑地に逗留している時で、爽やかな気候が心地よかった。

 ラゲイラ卿の朝の散策に身辺警護の名目で付き添っていたのだが、実際に危険な目にあう可能性も少なく、俺は彼の雑談の相手も兼ねていた。

 それは俺にとっても楽しいことだ。

「凪とはこのようなものなのですね。まるで風がないようです」

「はは、ここは特別ですよ」

 素直な感想を述べると、ラゲイラ卿は柔和な笑みを浮かべた。権謀術数を司る腹黒い男であるはずの彼だが、普段の彼はこの朝凪のように上品で穏やかで剣呑な雰囲気はなかった。

「大外洋に面するところでは、もう少し荒々しいのですけれど、こちらは内海ですからね。波風が元よりたたないので、朝の凪の時分はこのように目に見えて穏やかなのですよ」

 ラゲイラ卿は目を細めた。

「まるで大きな湖のようですね。ここまでの風景はそう簡単に見られるものではないので、貴方はついていますよ」

「本当ですね」

 そう言われて俺は少し嬉しくなっていた。

「ただ風がないだけなら澱んでいるものですが、朝の凪は清らかに澄んでいます。心のありようもこうでいたいものですね」

 ラゲイラ卿は感慨深そうに言ったものだ。

「心のありようですか」

「そうです。武芸を極めた貴方には、既に備わっているかもしれませんから、私からお伝えするのも的外れと思いますが」

 と彼は謙虚に断り、

「戦う時にこそ、心はつとめて平静でいる必要があります。この凪のようにさざめく程度の動きしか見せてはいけません」

「さざめく程度の動きですか」

「ええ。そうです。見かけは小さな動きですが、その実、強い力を内側に秘めている。戦うときには、相手に対する敵意と凶暴さの牙を持たねばなりません。しかし、牙をむき出しにしすぎてしまうのはいただけません。自分の手を明かしてしまうからです」

「それは私も理解できます。確かに剣の勝負においても、相手への敵意をむき出しにし、その攻撃性のみすべてを傾けると、足をすくわれることがあります」

「そうでしょう。それは剣を用いない、他の戦いにおいても同じなのですよ」

 俺が真剣に聞き入っていると、彼は言った。

「たとえ動揺していても、相手に読ませない工夫が必要です。それさえできれば、必ず勝機を見出せます。といっても、私が貴方に武芸のことを語るのは僭越ですし、勝手も違うことでしょう。私がお伝えできるのは、主に謀を用いる時ですが、相手を謀る時は、最後まで感情を見せてはいけません。良い感情も悪い感情も、全てスキになります。その場で勝ち誇ることも狼狽えることもしてはなりません。はかりごとを行う勝負の場では、感情は判断を鈍らせます」

 ラゲイラ卿は言った。

「感情をどれほど揺さぶられようと、この朝凪の海の如く、澱むことなく、穏やかで慎重に、しかし、さんざめく波のような敵意と凶暴さを内に秘め、ことに臨むことが肝要ですよ」

 ラゲイラ卿は策謀家ではあったが、俺から見るととても高潔な方だった。彼はいつでも凪いだ海のように穏やかで、それでいて清らかな一面があった。

 俺と彼の関係は、金銭を伴う契約による主従関係だったのだが、それにとどまることはなく師弟の関係に限りなく近かったのだと思う。

 だから、俺は、折に触れて彼に教えられたことを思い出すのだ。


 *


 そこは少し高台になっていて、城壁の向こうの砂漠が見える場所だった。

 まだ気温が上がり切ってはいない朝の砂漠は、その日は風もなく静かであった。薄くかすんだ空と動かない砂丘と風の波紋の繰り返しは、俺にかつて見た朝凪の海とあの時の彼の言葉を思い起こさせていた。

 怪しげな花売り娘に連れられて、俺はまず雑貨商たちの立ち並ぶ市場を通り抜けた。彼らのスジが悪いのは、一目でわかる。

 エンデル青年自体は、見た目でわかるような不良ではなかったし、少なからず三白眼やネズミと比べてみてもスレた感じはしなかったが、いざ手紙を渡して連れられた先の人間は、俺からみても十分怪しい者たちばかりだった。

 連中も、俺を不審そうに注意深く見ていた。それは仕方がない。

 この国の成人男子は帯剣する。しかし、俺の姿は戦士そのものだ。

 俺も本格的な武装をしてきたわけではない。しかし、普段は小剣を腰に一本さしている程度のところ、今日は腰に俺の愛刀である魔剣フェブリスを提げている。そんな大剣を携帯している俺に、彼らは明らかに警戒している。

 しかし、それは折り込みだった。俺は、今日は決着をつけるつもりでここに来た。争い事も辞さない覚悟だった。

(エンデル青年は、香料による利益を独占しているわけでもないらしい)

 狐目の隊商から依頼を受けた聞き取りからは、主犯に香料を託された人物は一人である様子だった。しかし、思えばまだ世間知らずのエンデル青年が、一人で何とかできるシロモノでもなかったのだろう。

 事実、彼はここに来るまで、香料を売りさばく先を見つけられずに苦労している。あの石鹸店の老主人や自分の古巣の奉公先のような、しっかりしてまともな商人たちに盗品の香料は持ち込めないし、相談もできなかったのだろう。となると、彼がかかわる先が、こんなふうな連中になることは予想されていたことだ。

 案内されるまま、市場の向こうの荒れて壊れかけた建物の居並ぶ路地を通り過ぎ、そしてこのやや高台になった場所にたどり着いた。

 そこには小屋がいくつかあったが、どうやら家畜の餌の干し草を保管しておくところのようだ。近くに運河が流れていると見えて、川の音がする。

 と、不意にその道の前に少年が立っていた。

 彼は俺を見つけると、「あ」と声を上げる。それはサリフ少年だった。今日は妹を連れていない。

「あ、まあちゃんの先生」

「こんなところまで来ているのか?」

 サリフは俺の顔を覚えていたらしい。足を止めて、声をかけると、なぜか彼はどぎまぎした様子になった。

「はい。ここに、草を運びにきたんです。ここでも、買い取ってくれるので」

 サリフ少年は、丁寧に俺にそう答える。確かに家畜用の干し草を保管する小屋がある。彼のいうこともおかしくはなかった。

「まあちゃんの先生は、どうしてここに来たんですか?」

「少し用事があってな」

「そうですか……」

 少年は動揺した様子になる。

「何してんだい!」

 不意に花売り娘のはすっぱな声が聞こえた。それに俺ではなく、少年の方がどきりとしたようだ。

「なんだい、アンタ。まだこんなとこうろついてんのかい! 用事が終わったら帰れっていってたろ」

「ご、ごめんなさい」

 サリフ少年は花売り娘に慌てて謝り、俺の方をちらちら見ながら去っていく。

(なんだろう。あれは……)

 最初は、俺に警戒したのかと思ったが、なんだか様子がおかしい。しかし、俺はそこで彼を追いかけるわけにもいかず、花売り娘の方を向いた。

 荒んだ様子の花売り娘は、小屋の一つを指さした。

「エニーはここだよ」

 花売り娘にそう言われて、俺はたずねた。

「普段からここにいるのか? 手紙には時間の指定がなかったようだが」

「さあ、たまにいないこともあるけど、朝のこの時間はいることが多いよ。今日はいるんじゃないか?」

 花売り娘はぞんざいにそういうと、役目が終わったとばかりに戻っていく。

 一人になった俺は示された小屋を見た。いくつかの壊れかけた小屋のうち、その一つはかろうじて建っているという感じだ。

 ところどころ、壁には穴が空き、向こう側が見えている。しかし、屋根はしっかり補修してあり、雨風はしのげそうな上、隣に厩らしき建物もあった。

 そこにはロバがつないであったが、確かにその毛色には見覚えがあるように思う。

 俺は小屋の中に入った。中からは干し草の香りがしていた。

「あれっ」

 と声が聞こえた。

 俺は小屋の暗がりにいる人物を見ていた。

「これは困ったなあ。誰が来るかと思ったら、旦那じゃないか」

「エンデルだったな。どうも我々は縁があるらしい」

 と俺は声をかけた。

 ため息交じりのその意味は、彼に伝わっていないだろう。

 小屋の暗がりに粗末な敷物をしいて休んでいたエンデルは起き上がり、俺を少し警戒した様子でみた。

「そうか。商家の小間使いみたいな人がくるって、きいてたんだけどな……。これって、罠なんだよね。旦那を取り次いだ子は、ちゃんと彼等に伝えてくれてるかな?」

 エンデル青年はそういって俺を見上げる。

「そんな風に言うところを見ると、お前は俺がここに来た理由が何かわかっているのかな?」

 エンデルは悪びれずに苦笑した。

「探されているらしいことは知っていたよ。俺を雇っていた隊商はボンクラでひどい奴だったけれど、あの狐目の奴は抜け目のない奴だって聞いていたし、隣の金髪の大男も腕がたつときいていた。だから、うまく隠れなきゃなって……。アイツらが王都から出て行ったっていうから、安心していたのにな」

 彼は言った。

「石鹸の店で旦那を見た時、もう少し注意すればよかった。……旦那はだって、普通の人じゃなさそうだもの。きっと、旦那は雇い主がいるんだろう? 多分狐目のやつ。あいつ、やっぱりやり手なんだね」

 俺が答えないでいると、彼は立ち上がる。

「旦那みたいな人がやってくることも、考えてはいたんだよね」

「エンデル」

 俺は再びため息をつきながら声をかけた。

「輸送の際の人足として、お前は雇われただけのはずだ。どうして盗品だと承知の上で積み荷を持ち去ったのだ。金が欲しかったのか?」

 そういわれてもエンデルには、好青年の彼と同じさわやかな感覚があった。しかし、彼の顔にさっと暗い気配が走った。

「旦那は、俺の雇い主の隊商のことを知らないでしょ。最初に持ち逃げしようって言いだしたのは、その隊商の直属の部下だったよ。それが捕まった奴。だって、仕方ないじゃないか。俺たちの雇い主、すごく嫌な奴だったんだ。この仕事にしたって間でいろいろ間引かれて、最初約束したときと報酬が違って、俺の手元には割に合わない金額しかなかったんだ。でも、断れるような余裕もなかった。それに、アイツ、もう断れないところでそうするんだ。搾取されるの、これが初めてじゃない。いつもそうだ。でも、俺たちは断れない。そうだよ。俺たちには金が要るんだから」

 彼は顔を上げる。

「でも、その時はあんまりひどくてね。その時、直属の部下の商人がいったんだ。困らせてやろうって。主人に一泡吹かせてやるってさ。そいつは人足の俺たちにそれぞれの積み荷を預けた。アイツは主人に対する恨みでそうしただけだったから、荷物を独り占めにする気がなかったんだ。だから、俺たちに適当に積み荷を割り振って持たせてバラバラに逃げさせた。でも、主犯だった奴はあっさりとつかまっちゃう。となると、他の奴らは転売したらすぐ足がつくもので捕まったり、はたまた途中でこわくなって申し出たりして、結局、あの狐目の奴が回収しちゃったんだよな」

「ところがお前だけは逃げ延びていたのだな」

「俺の荷物が良かったからね」

 と彼は言った。

「俺のも換金しづらいけれど、俺はその価値をちょっとだけ知っていたし、他の奴らのより嵩張らなかったんだ。詳しくはないけれど石鹸の旦那様に、そいつが高価はことは聞いていたし。それにほかの奴らと違って、俺は王都に土地勘があったから」

「先ほどの連中に協力してもらっていたのか」

「一人ではどうにでもできないからね。事情を話して、分け前さえ約束すれば、協力してくれたよ。でも、やっぱり分不相応な売り物をするものじゃないな。専門の知識がないから、すぐに怪しまれてしまう。細々と削るように売ってはみたけど、思ったような値もつかなくて」

 とエンデルは言った。

「それでも、なんとか石鹸関連でよい買い手がつきそうで、ようやく移送できそうって時に、旦那がきてしまうんだもの。うまくいかないもんだな」

「エンデル」

 ふと俺は声を低めて一歩足を踏み入れた。

 エンデル青年が緊張した気配がした。俺は自分が重い殺気を放っていることを知っている。

「事情はわかった。お前は金が必要であったし、依頼主も最低だった。少しぐらい自分のものにしてもよかろう。そう思ったのはわからんでもない」

 俺は足を進めて、すっと腰のフェブリスに手をかけた。指で軽く柄をたたいた。

「しかし、お前は俺に一つ真実を話していないだろう」

 エンデルは俺の凄味を感じたのか、急に身を固めた。

「その返答次第では、俺はお前を斬らねばならぬ」

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