18.螺旋は安眠を守り【蚊取り線香】
大体、予測はつくと思うが、俺はこと屋内に出る害虫の類がとても嫌いである。
黒い何かのようなものなど、絶対に発生させないし、仮に見かけたら本気で殲滅戦を挑む。
いや、俺の部屋は完璧を保っているので、絶対そういうものはわかないとおもうのだが、隣室の蛇王の部屋が危なさそうで、きっと奴らはそこから俺の部屋に攻め込んでくるのだと思うのだ。蛇王は濡れ衣だというが、絶対にそうだ。
チラッと一兵卒の姿を見たが最後、その部屋には軍団が控えているはずだ。そうなった瞬間、俺の戦いは始まる。
しかし、それは俺が中心となり、蛇王の部屋の室内や長屋の衛生環境と徹底的に改めると、それなりに改善していった。いや、まだ満足していないが。
たまに、見かけるからな!
ただ、そんな俺をしても、羽虫の類を殲滅させるのはなかなか難しいと感じている。
黒い何かも羽はあるが(しかも飛ぶと怖いが)、それでもまだどこにいるかわかるだけ倒しやすい。羽虫は飛ぶ上に小さく、視認しづらい。
食品にたかるのも許せないが、人の血を吸い、幸せなら安眠を妨害するのはそのときの感情として最も許せない。
素直に殺意が湧いてしまう。
なので俺は日常、羽虫の類とも、必死の戦いを行っている。
長屋の水桶の水をためないようにしたり、側溝を掃除したり、時に近隣にも協力してもらい、努力で改善してきてはいるのだが。
しかし、あの夏の刺客だけは!
やつだけは本当に手強い!
やつは、俺の鉄壁の防御を超えてくる。ラゲイラ卿に認められた俺の防衛技術を持ってすら、あいつらだけは防げない。
*
「エーリッヒ、寝不足か?」
珍しくひょっこりと俺の部屋を訪れた蛇王は、目を瞬かせていた。
「昨日は蚊が蚊帳の中に入り込んでいてな」
ふふ、と俺は苦笑する。
真夏の刺客、蚊。
ザファルバーンでは場所によっては一年中いるが、夏に特に発生する。人の血を吸い病気すら媒介するあの害虫が、近頃の俺の敵だった。
しかし、敵は手ごわい。俺は文明の利器、蚊帳を吊ることで完璧に防いだつもりだったが、俺の不注意からか、それとも網目をすりぬけたのか、一匹の蚊が中に入っていたのだった。
実に壮絶な戦いであった。決着がつく頃には夜が明けていたからな。
それなりに腕が立つつもりの俺ではあるが、蚊に対して自分の剣技で培った力が、ここまで無力だと落ち込んでしまいそうだ。
「腕利きの剣士だと思い上がっていた自分が、本当に恥ずかしい。蚊の一匹にも通用しないとは」
「蚊はつぶすもので、切るものではないからな」
冷たいほど冷静な蛇王の言葉が、逆に胸を抉る。
「しかし、お前は神経質だなあ。羽虫など無視して眠ればいいだろう」
「無視できぬほどの不快感があるだろうが! どうして貴様はあの音を無視して眠れるんだ」
蛇王は苦笑する。
「お前は蚊に慣れていないからな。蚊よけの技術は現地民に倣うのが一番だぞ。ちなみに、俺の故郷のリオルダーナは、密林などもあったので蚊は非常にたくさん湧いていた」
ふむ、と俺は唸る。
「では、玄人の貴様は、蚊をよけるのはどうしていたのだ」
「蚊よけを塗りたくるのだ。効果のあるものはいろいろあるのだが、薄荷なんかも有名だな。肌に塗るため軟膏化しているのもあるぞ」
ぬう、と俺は眉根を寄せた。
「それはそれで、ものすごい香りがしそうだが。寝るときに刺激の強い香りは嫌だな」
「ふっ、素人だな、エーリッヒよ」
蛇王が嘲笑うように、にやりとする。
「奴らと存亡をかけて戦うのに、多少の刺激を厭うなど。そんな根性では負けるのも必至! そんな根性の貴様になど、安眠はえられぬと思え!」
「ぐ、ぐぬぬ」
痛いところを突いてくる。ぬう、とうなっていると、蛇王はもう一つ付け加えてきた。
「ま、そうはいえど、かわいそうだからな。玄人の俺が良いことを教えてやろう。屋内なら虫よけの香でも焚いたらどうだ。多少、けむたいが、眠れんよりマシだ。ものによっては、香りもまろやかだし、奴等の行動も抑えられるぞ」
「そ、そうなのか?」
珍しく良い情報だ。そういえばその手があった。虫よけの香をたいているのは、宿でも見たことがある。
「例の件の調査でまだ市場を見回っているのだろう。そういうものを売る商人もいるし、参考までに露店でも覗いたらどうだ」
*
蛇王にすすめられたこともあり、俺はさっそく市場に出掛けていた。
(蛇王にしては珍しくまともな意見。あの男もたまには常識的なことを言うのだな)
いや、蛇王はああ見えて幼少期に苦労をしているし、何かと小器用でもある。なので、日常に役立つ情報はたくさん持ってはいた。
子供のころは、それこそ薪拾いから香木の伐採、薬草の採取、釣り、そして狩り、果ては家具を手作りして売るなど、さまざまにやっていたという。
それなもので、長屋に来てからも、俺と違ってやつは潰しがきく。本棚や戸棚を作って売ったり、俺より内職の幅が広い。奴は工芸品が作れるので、何かと強いのだ。
そもそも、やつが弓矢の名手となった理由も、狩りをして生計を立てる必要があったからだというものだ。
そんな生活に役立つ知恵も技術も会得した蛇王だが。
(なぜか時々、感覚やその他もろもろが俗世離れしすぎているのだよな)
何を考えているのか、全く予想がつかない。相変わらず得体がしれない。
あの自由人が! と思うこともしばしばだ。腐れ縁の俺は、何かと奴に振り回されまくってしまっていた。
しかし、今回については、確かに蛇王の言う通りだろう。
虫除けの香は、手軽かつ有効な手立て。
蛇王によると、近頃、東洋からの輸入品で練った香をぐるぐる螺旋状にしたものもあるとかなんとかいっていた。
あまり興味の持てない俺だったが、そう聞くと興味が出てきた。
今日の市場は午前中温度が上がり切らないこともあり、人が多くにぎわっている。
今日は買うものが決まっているので、目当ての商材を扱っていそうな露天商を見繕いながら、俺はぶらぶらと市場を歩いていた。
歩いていると、例の調査の件が頭をよぎる。
(サリフ兄妹から事情をきけたのはよいが、そのエニーとかいう男の情報はまだないのだよな)
うーむ、と俺は唸っていた。
サリフ兄妹については、三白眼の協力も得て、それとなく様子を見ている。しかし、四六時中張り付いているわけにもいかない。いまだに彼らにかかわる男の姿を見ていない。
(サリフ兄妹の母が寝込んでいるので、定期的に様子を見に来てくれる、と少年は言っていた。ということは、何度かは様子を見に来ているはずではあるのだが)
一度がっつりと張り込みをするべきか。
だが俺はやらない方がなかろう。目立つから。
こういうことは、三白眼にさせた方がよさそうだ。しかし、引き受けてくれるかどうか。
「あれ、旦那? もしかして」
と、声が聞こえて俺は足を止めた。
ふと見ると、ロバを連れた男がそこに立っていた。
「この間の旦那ですよね。ゼダさんと一緒にいた」
「ああ。思い出岬の時の……」
それはゼダが俺を伴って岬で商談したときに手配していた人足の青年だ。
「またお会いしましたね」
と青年はにこりとする。青年は以前と同じ愛想の良さで俺に挨拶をしてきた。人見知りしがちな俺にとっては、こういうふうに気楽に声をかけてくる相手は、正直たすかる。
「奇遇だな。今日も運びの仕事か?」
「いえ、今日は自分の仕入れてきたものを売っているんです」
「ほう。それはご苦労だな」
「旦那は何かお探しですか?」
「いや、虫よけを探していてな。近頃、蚊が多いもので……」
そうきかれて、俺は正直に言った。
「肌に塗るものもあるというが、虫よけの香もあるときいたので、そういうものがないかと」
「ああ、それなら取り扱いがありますよ。ちょうど仕入れてきたところなんです」
と青年がいう。
「蚊が多くなる時期ですから、売れ筋かなと」
「おお、それは助かる。見せていただけないか」
助かるのは本心だ。
正直、どこに売っているのかわからないで探していたぐらいなのだから、探す手間が省けた。相場は知らないが、極端に吹っ掛けられなければそれでいいと思う。
青年はロバに積んでいた荷物から小さな袋をいくつか取り出した。
「いろいろあるんですが、どのようなものがいいですか」
そういって青年が出してきたのは、様々な香だ。練り上げたものを小さな三角にしたものや、線香。色や香りも素材によって違うらしい。
「ふむ。思ったより種類があるのだな」
俺はそれを手に取りながら、香りなどを確認する。主に寝所で使いたいので、寝るのに支障がある香りは嫌だが、確かに香りの柔らかいものもあるようだった。
「そういえば、こういうものもありますよ」
そういって青年が出してきたのは、香を螺旋状にした緑のものだった。
「なんでも東方から伝わったものを参考にした新しい商品らしいのですが」
「おお。これが」
そういえば蛇王も、螺旋状の香があるとかきいた、と言っていた。
「なかなか美しいな。しかも、長持ちしそうな気がする」
「ええ。普通のお香より長く使える形ですからね」
成分が何かはしらないが、とりあえず刺激のする香りではなさそうだ。それが効くかどうかは、試してみないとわからないが、それはほかのものも同じ。
それなら、形の気になるこれを試してみても悪くはない。
すっかり興味が出ていた俺は、その螺旋状の香を買うことにした。
「では一つ譲ってくれ」
「ありがとうございます」
青年が愛想よく笑う。相場はわからないが、価格もさほど高くなかったのでそのようなものだろう。
「そうだ。香炉もあるんですよ」
そうして出してきた香炉はなんらかの動物の形をしたものだ。聞けばずいぶん安上がりし、一緒に譲ってもらうことにした。
それも東方から伝わったものらしいが、多分豚……? しかし、犬っぽくもみえるような。なにせ口が丸く大きく空いている。そこに香を入れるらしい。
その動物がなんなのかはしらぬが、ちょっぴりかわいい。そして、急に頼り甲斐のあるもののように思えてきた。
「これで今日から安眠できる。助かった」
「お役に立てれば何よりです」
青年は、にこにこ微笑む。俺はこの青年に気を許してきていて、珍しく俺の方から話を振った。
「しばらく、王都で商売をしていくのかな?」
「はい。この間仕入れた商品を売りさばくまでいようかなと。人足などの仕事もしますが、自分で実績を積んでいきたいですし」
「そうか。では、また良いものがあれば教えてくれればうれしい」
「ありがとうございます」
青年は俺に頭を下げる。
「俺はエンデルといいます。主にこのあたりの市場を回るつもりなんです。見かけたら、お気軽に声をかけてください」
そう言って屈託なく笑う。なかなか気持ちの良い青年だ。
目的のものを手に入れた俺はエンデル青年と別れ、市場を後にした。
「これをこうして火をつけて……」
帰宅して早速、俺は香を試してみることにした。
夜になってから試してもよかったが、興味があったのだ。
動物を模した香炉の大きな口から螺旋状の香をいれて、火をつけてみる。
なぜだろうか。年甲斐もなくわくわくしつつ試してしまった。新しいものは、やはり好奇心もあって気持ちが踊るのだ。
煙の香りとともにかすかに独特の香りがしたが、それは俺が思っていたものより刺激がなかった。このクセのようなものが、虫を避ける成分なのだろうか。
そして、室内にゆるやかに伸びていく薄い煙。
香料の行方を調査していて今更ではあるが、俺は家で香を焚く風習ももっていないような門外漢だ。しかし、実際やってみると、これはこれでなかなか風流な気がする。東洋の香炉も異国風味な上に庶民的で趣深いし、ゆるゆる立ち上る煙を見るのも癒される。
「これはこれで、なかなか楽しいな」
今日は良い買い物をしたものだ。
俺はそう満足し、しばし、ゆるやかに立ち上る煙を見ていた。
もちろん、この香にはしっかり虫除けの効果もあった。その夜から、おかげで蚊の襲来も穏やかになり、いても弱っていて俺の敵ではなかった。
ようやく俺は安眠を勝ち取る。この安眠が、守られたのはとても良いことであった。
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