16.湯煙に疑念はかすみ【窓越しの】
水面にうっすらと湯気がたちのぼる。
純水ではないせいか、非常に透明度が高いながらも、底のタイルがなんとなく歪んでいる。
入ってすぐは熱く感じたが、今ではただ心地よく温かい程度の温度。
しかも、今日は俺以外客がいない。湯船独り占めだ。贅沢すぎる。
(楽園だ……。ここに理想郷はあったのか)
どこかで雫が落ちる音がしたが、音は硬質にしかし、ふわふわと響く。
(もう現実に帰りたくない。もう、俺はここの人になる)
俺にもいくつか好きなものはある。
その一つはなんと言っても風呂だ。
前にも言った通り、ザファルバーンの王都カーラマンは、公衆浴場が整備されており衛生的だった。
なにせ水が豊富。しかも、薪などの燃料も運河により北部の山岳地帯から豊富に切り出すことができ、調達が容易である。
それによって、蒸し風呂、水風呂、湯を沸かしての温浴。一通り揃っている。
そして、都合の良いことに、郊外近くの浴場にいたっては、湧き出る温泉水を引いている。これが奇跡的にちょうど良い温度なのだ。
なおかつ、ザファルバーンは古来より伝統的な石鹸の名産地を抱えている。
豊富な銭湯、良質な泉質、そして、それを楽しむための品物も良質かつ安価。
俺は、内心もうここに移住するしかない、と思ったものだ。(そして移住してしまったのだが)
石鹸もやはり重要。今日はお気に入りのオリーブオイルを使った石鹸を使用しているが、薔薇の香りをつけたものなど、香りつきの石鹸もいくつか持ち合わせがある。
なにせ石鹸の名産地。石鹸もピンキリだが、それはそれは質の高いものもあり、王侯貴族しか使わないようなものもある。
なお、贈答品としてラゲイラ卿にいただいた超高級石鹸は、俺が彼の元を離れる時にそっと懐に忍ばせていたので、今も長屋の石鹸貯蔵場所の奥に鎮座させてあり、特別な時に使う。
我ながら、あの混乱、乱戦の中、よくそんなものを持ってきたな、と思うこともあるが、小さかったのと流石にあれだけは捨ておけなかったのだ。
「やはり温浴は良いな。特に温泉は良い」
古傷に有効成分が染みわたっている気がする。過去最高に健康になってしまいそうだ。
ふーとため息をつき、幾何学文様が美しく描かれたドーム状の天井を見やる。
俺は、忙しない現実と一時おさらばしていた。
このところ、再び事件の調査は暗礁に乗り上げていた。
例のサリフ兄妹については、差しさわりのない程度に監視してはいるのだが、そのほかの情報が全く入ってこない。俺はそんな現実に嫌気がさしていたのだ。
*
「あっちも目立つと思って、無差別に取引を持ちかけるのをやめたのかしら」
というのはリーフィ嬢の発言だった。
「いろいろ聞いてみたんだけれど、薬草を取り扱う店に同じような取引の持ち込みは続かなかったみたい。ただ、何件かはあって、それは最初に私が聞いた話の人と、同一人物のようだったわ」
つまり。
まだ若い男。薬草や香料を売り慣れている気配ではない。商人といっても玄人風ではなさそう。だが、それだけである。
「残念ながら、風貌に特徴が強くない人みたいなのね」
「中肉中背。若い男。黒髪に茶色っぽい黒目とか、一般的にザファルバーンにいそうな普通の人だよ。口はそこそこうまいみたいだけど、商人なら普通だよねえ。えっ、マジ個性なしじゃん」
リーフィ嬢宅についてきていた、三白眼ですら悩んでいた。
「ダンナ、これさあ、こんなカス情報だけじゃ個体識別無理じゃない?」
「ぐぬう、お前に言われるとものすごく説得力がある」
俺は思わず落ち込んでしまったものだ。
実は三白眼の方が、こういう人探し的な調査には向いているし、実績もある。そんなやつにここまで断言されると、ますます凹んでしまいそうだ。
「なにさ、ネズミもあんまり情報つかんでなさそうなの?」
「同じ理由なのか、そういった商品を持ち込むものがいるという噂はきいていないそうだ」
「えー、そうなの。それ、警戒されてない?」
「そうかもしれん……」
となると、ちょっとマズイ。俺が調査していることを知られないうちに、迅速に事を起こさねばならない。
「いっそのこと、あの兄妹に直接話聞くのはどうよ?」
三白眼がそう持ちかけてきた。
「しかし、俺が接触すると目立つだろう」
「じゃあ、リーフィちゃんとか……。あ、でまやり方によっちゃあ、オレならいけるな」
リーフィ嬢はさほど酒場娘のスレたような玄人感もなく、自然な感じの女性だが、いかんせん美人すぎて目立つ。三白眼の方は、まあ、存在が不審だが、俺や蛇王より幾分マシだろうか。元から不審者だし、根なし草感を漂わせている彼は、どこにいて誰と話をしようと、かえって不自然ではない。
「そうだな。ネズミも商人であるし、あの兄妹はアイード殿のところに薄荷を売りに行っているぐらいなので、商人となら……と思いもしたのだがな」
「あー、ネズミのやつねー。アイツ、演技はうまいんだけど、無駄に伊達男気取るクセあるからさあ。浮いちゃうことあるんだよねー」
「そうなのだ」
「やっぱ、これ、オレが出ていかないと無理じゃない?」
三白眼は、いけしゃあしゃあとそういいながら、
「流石にダンナかわいそうになってきたし、一肌ぬいであげるから頼んできてよ。普段ダンナには世話になってるし、気にせず」
「そ、そうか。すまんな」
持つべきものは友という。俺はやつの気持ちがうれしくなった。が、その瞬間、三白眼はにやっとした。
「あ、そうそう。お礼はお酒の現物おごりでヨロシクね。お友達価格で二日分ぐらいで許すよ」
「は?」
猛烈にイラっとする。そうだ、コイツはそういうやつだった。
*
とはいえ、あの兄妹への接触は、三白眼が適役そうだ。しかし、そうするにしても準備や機会についても十分考えて行わなければならない。その件について頭を悩ませていたら、だんだんどうしていいかわからなくなり、俺は突発的に温泉に入りに来たのだった。
髪の毛や体を石鹸で洗って流してから、もう一度入浴する。
俺は長湯は平気だ。蒸し風呂に入るのもよいが、今日はとことんふやけたい気持ちだった。
「どこかの偉人が、熱い風呂に入って解決しない気持ちの問題はないといっていたが、本当だなあ」
俺はぼんやりとつぶやいた。
ここは少し長屋から遠いのだが、もっと早く来ればよかった。
洗いたての髪から石鹸の香りがする。良い香りだ。
香料はてんで素人な俺だが、そういえば、石鹸だけは玄人だった。今更そんなことを思い出してしまう俺だ。石鹸に置き換えれば、わかる香りもありそうだ。それに、もう少し早く気づけば、もっと早く幸せになれた気がする。
(やはり、人間余裕がなければだめだ。猛省したい。といって難しいことを考えるもなんなので、……一回溶けてからな)
今日は、もうとことん癒されて帰る。風呂の中で難しいことを考えるのはやめよう。
そう思いながら心地よさに浸っていると、ふいに人の声が聞こえた。
「いい取引だと思うんですけれどねえ」
そちらは明り取りの窓の方だった。
窓の向こうには植え込みがあり、覗きはできないようになっているが、植え込みのさらに外側は道だ。人が通ったり、話をするのは特に珍しくないだろう。
よくある商人同士の商談。
温泉のあるここいらは郊外だが、隊商が旅の疲れを癒すのに使うこともあるため、そうした話題は珍しくもない。俺も立ち聞きする気もないので、聞き流そうとしたとき。
「こんなに貴重なものをそろえてこの値段ってのはなかなかないんですよ。なにせ、現地でしか栽培できない珍しいものなんですから。しかも、精製したものもある」
どきりとして、俺は湯船の中で身を起こした。
「石鹸を扱う業者とつながりのあるあなたなら、引き合いありません?」
「しかし、出所はしっかりしているんだろうな?」
「あなたの側に知識があるなら、偽物か本物かはすぐにわかる話です」
待て待て。これはもしかして、もしかするのか。
ぼんやりとしていた俺だが、にわかに焦り始めてきた。この会話の内容は、もしかしたら、そういうことだろうか。
「しかし、他に一体何がある?」
「薄荷や薔薇などの身近なものの精油から、乳香、白檀、沈香などの取り扱いもあります」
男の声がそう告げる。
「もっと価値のある商品も提示できるんですがね、流石にこれは一度のお取引では。信用を積んでから」
待て。話の方向が怪しい。
乳香、白檀、沈香。そのあたりのいかにも高価な香料の名前をさらっと出したうえに、もっと価値のあるものがあると示唆する商人。
その男の顔が見たい!
俺は思わず立ち上がりかけたが、そこで止まった。
(しまった! 今、俺は風呂に入っているのだ)
窓越しの会話を聞いている分にはよいが、服を着なければ外に出ていくわけにはいかない。露出狂の変態として捕まるのだけは絶対嫌だ。
(ど、っ、どうする! 服を着て表の通りにまで走っていくか。そうすれば顔もみられれば、うまくすれば捕まえられる。いやしかし、急いだとて、服を着ている間に話が終わってしまったり、移動してしまったらどうする?)
俺は風呂に散々あたたまり、紅潮していたはずの顔が真っ青になるのを感じていた。
「確かに、うちはその手の引き合いは石鹸の業者以外にもあるんだ。市場より安いし、話は聞いてみたいとは思うんだがな」
(しかも、こんな時に限って会話が佳境!)
俺は一人で温泉に来たことを後悔し始めていた。せめて三白眼でも連れてきていれば、アイツをここに置き去りにして俺が走っていけたのに。
「それはありがたいですね。では、今回は一度お試しということで」
「ああ。ではこれはその分の代金だ。そして、次は……」
どうしよう、どうしよう。しかし、話が終わりそうだ。濡れた体を拭かずに(個人的にはすごく嫌だが)服を着替えたとしても、重要な会話が終わってしまいそう。それに、いまされている会話を聞き逃したら、それはそれでコトである。
(仕方ない。話を聞き終えたらすぐさま湯から上がって追いかけて……)
「次は手紙をよこしますよ。待ち合わせ場所は先に申し上げた場所と変わらず」
「わかった。それでは続報を待っているよ」
(お、終わったか!)
話し声が途切れ、足音が遠ざかっている気配があった。俺は慌てて湯から上がり、嫌ではあるが濡れた体を拭くのもそこそこに追いかけるべく着替えようと考えたが。
「おー! エーリッヒではないかー!」
いきなりぬっとあらわれた大男が、俺の進路をふさいでいた。
「へ、蛇王っ! 貴様、何故!」
そこに現れたのはよりにもよって、また最近見かけていなかった蛇王だ。調査を続けているのか、いないのかは、俺もよくわからないところだったが、まあやつにはやつの考えもあろうかと、そう思って泳がせていたが、一度会わなければと思っていた。
しかし、別に今現れなくてもいい。
「奇遇だな、エーリッヒ。お前がここの風呂がお気に入りなのは知っていたが、こんな時にのんびりここに来る奴も出なかろうかと思ってな。どうせ貴様はすぐ病むだろうから、気分転換に湯治でもどうだとすすめようかと思っていたところだ。はは、声をかける手間がはぶけたな」
「蛇王、あのな」
「そうそう、ここの温泉は古傷にも効くらしいではないか。近場の銭湯も十分良いところだが、古傷の一つや二つもつ我々には、こういう温泉が実によく効く。なんといっても過去最高に健康になってしまいそうだな。ふははっ」
「待て、俺は急いでいるからな。そこをどけ」
いつも多弁というわけではなく、むしろ、本性は無口な蛇王であるが、こういう時にかぎって雑談を振ってくる。しかも、俺と同じ感想など要らない。
「何を急ぐ? 洗い場で走ると転ぶぞ」
「いや、今窓越しに商人が会話していてな。それが、有効な情報そうで、あとを追いかけようと!」
「何! 裸で!」
あわあわと説明していると、蛇王が眉根をひそめた。
「エーリッヒ、流石にそれは捕まる。お前にそういう趣味があるとは初耳だが、やめておいたほうがいい」
「真剣に答えるな。違う! 先程通行人がー」
俺は窓の方を見た。この無駄な会話の間に商人たちはきっと遠ざかって行ってしまっている。
「あー、あー、そういうことかー」
普段は察しがいいくせに、ようやく事態に気付いた蛇王が苦笑した。
「あー、それは悪いことをしたな。しかし、エーリッヒ、それ、多分、まにあわないぞ」
「なんだと?」
「まともに服を着替えて外にでてから追いかけるとしたら、かなりの距離があるはずだぞ。入口と真反対の場所だからな」
「そ、……それは」
「裸で追いかけず、服を着ても、その窓から出て行くと不審者扱いは免れんなー」
「う、うう、そ、それは、そうか」
そういわれて俺はがっくりと肩を落とした。
「はは、仕方ないではないかー。まだ真実を得る、その時ではないということだな」
蛇王はあくまでののんきだ。
「ま、邪魔をした詫びに風呂上りの飲み物でもおごってやろう。冷えた葡萄の果汁や檸檬水、牛乳がうまいのだぞ、ここ」
「ふん、そんなことは十分知っている」
俺は牛乳派なのだ。いわれるまでもなく、飲むつもりだった。
「だったら慌てて出て行っては堪能できん。諦めて今日は温泉を楽しむぞ」
「むむ、仕方がない」
ふう、と俺はため息をついた。
せっかく温まって癒されていたのに、先ほどの件で一気に体も冷えている。
「そうだな、仕切り直しだ。もう一度あたたまりなおそう」
諦めてぼんやりとそういうと、蛇王がにやりとした。
「それがいいぞ。風呂に入っているときに面倒な俗世のことを考えるのは禁物だ。じゃあな」
俺はむうとやつをにらむが、蛇王はもうとっくに俺に興味をなくしており、さっさと洗い場に行ってしまった。
(こいつ、自由人すぎる)
俺は深々とため息をつきつつ、風呂上りの牛乳をどう蛇王におごらせてやろうか考えつつ、湯船に戻る。
(しかし、……先ごろの商人は、手紙がどうとかいっていたな)
それにほんの少し引っかかるものを感じつつも、俺は湯船に足を入れた。そして、その温かさにひと時、頭からすべてを放り出すことにした。
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