15.岬の風に心を戻し【岬】


 元々俺は海から遠い場所にすんでいた。

 海というものを見たことがなかったので、最初に海を見た時はなかなかに感動した記憶がある。

 それなもので、その後もなんとなく海のそばを通ると、目をとめてしまう。


「ジャッキール様は、海がお好きなのですね」

 かつてラゲイラ卿について、ザファルバーン太内海側の岬に出かけた時のこと、岬の近くを散策中の彼にそう言われた。

 その岬は景勝地としても有名だった。王都も南下すれば海は遠くないが、太内海のほうが穏やかだ。

 その日は良い天気で、空は青く、海はもっと深く青い色をしていて、岬に打ち寄せる波が白く立っていた。

 きょとんとしていた俺が返答しかねていると、彼は苦笑した。

「いえ、こちらに向かうまでの道でも、景色をじっと見ていらっしゃったので」

「こ、これはお恥ずかしい」

 完全にお上りさんな田舎者なのがバレた。

 せめて咄嗟に警戒して見回している、という言い訳でもすれば良かったが、百戦錬磨のラゲイラ卿に嘘をつくほど愚かなこともない。

「恥ずかしいことはございませんよ。わたくしも海は好きです。本日ここにきたのはもちろん仕事でもありますが、私も立ち寄りたかったのですよ」

 ラゲイラ卿はそういって微笑んだ。

「わが一族は元々はザファルバーン北方の出身でしてね。山岳地帯に近く、海からは少し遠くて。幼少期は私も海に対するあこがれがございました。別荘地に移動するときに海が見える道を通りましてね。その時は嬉しかったものです」

「そうなのですか。実は私も」

 と、話しやすくしてくれるラゲイラ卿の好意に甘えて、俺はそう切り出した。

「私も海がない土地の生まれで。今では海沿いを通ることもさほど珍しくはないのですが、それでも、このように美しい海の景色を見ると、つい目を奪われてしまいます」

 と、慌てて俺は付け加えた。

「い、いえ、今は警備中ですので、……ラゲイラ卿の安全のため、警戒を怠っているつもりはございませんが、その……」

「はは、貴方のお仕事を疑うわけではありませんよ。ただ、貴方もこういう景色がお好きなのだときくと、少しうれしくなりましてね」

 そういってラゲイラ卿は、笑いかけてくれた。

「時には狭苦しい王都を抜け出して、このような自然の中で美しい景色に心を動かされるのもよいことです。私は人為的なものごとも好きですが、こうした手つかずの自然にも心奪われます。こればかりは、どれだけ財力があっても、再現できるものではありませんからね」

「はい。私も、そう思います」

「それに、こうした岬の風景は、人を感傷的にさせるものですよ。はは、普段は人の心を捨てよ、と散々言っている私に、こういうことを言われるのも不本意でしょうが」

 とラゲイラ卿はことわりながら、

「時には、こうした風景をめでることで、自分が人間であったことを思い出すのも、よいことなのではないでしょうか」

「ええ。……そうかもしれませんね」

 ラゲイラ卿は、優秀で油断のならない策士ではあったが、本当の意味で冷酷ではなかった。私情を無理やり押し殺しているのは、近くで仕えていてよく知っていた。

 強くなりたければ、人の心を捨てよ、とは彼の教えであったけれど、俺は本当は彼に人の情を捨ててほしくないと思っていた。私情を殺しているときの彼は、どこか苦しそうな気がしたからだ。

 だから、岬を見ている彼は、彼が自らに課した束縛から解放されているようであり、俺は内心安堵していた。


 吹き付ける風は、かすかに潮の香りを含んでいてさわやかだ。岬の草原をざあっと風がいきわたるのをみやりながら、俺は、その景色をめでたことを覚えている。


 *

 

「遅いな」

 さやさやと風の吹く、岬の草原。

 俺は待ち合わせ場所で、ネズミが帰ってくるのを待っていた。

 ここは王都南部の海岸線。大外洋に接している湾に面したところだ。王都から十分に日帰りで帰ってこられる近さであり、手軽に海を体験できるので王都から物見遊山で来る人間も多い。俺は王都から近いことで、逆に今まで来たことがなかった。

 乾燥地帯にある岬というので、不毛の荒地の断崖絶壁を想像していたが、ここには緑があり、なかなか良い雰囲気の場所だ。

「しかし、遅いな」

 俺がなんでここにきているかというと、ゼダことネズミに急に護衛を頼まれたからである。


「ちゃんと報酬払うし、ダンナ、忙しそうだけど護衛の仕事お願い!」

 いや、お前も十分強いだろ、護衛やとう必要とは? と、思ったのだが、

「いやだって、ダンナみたいな人は外見的にも強そうだから効果高いんだよ。お願い!」

 我ながら俺は甘い。

 つい手を合わせて拝まれると、仕方ないな、となってしまう。先の調査でいろいろ忙しいし、調べることもたくさんあるというのに。

 了承した俺に、ネズミは二食とおやつをおごると約束して、俺を伴って王都を出たのだった。

 王都の出入りについては、正規の門を通る。検問はあるにはあるが、非常時でなければ、身辺調査されることは少ない。それゆえに、俺のようなものでも出入りができる。とはいえ、今の俺は緊急時用の許可証も携帯しているので、なんとかなるのであるが。

 ただ、商人ともなれば、怪しい荷物の出入りは防ぐ必要があるので、それなりに調べがあるらしく、香料の出入りの有無がわかったのはそのせいだ。

「なんだ。伴はいないのか?」

 ネズミは、いつもよりはもう少しちゃんとした格好をしていて、商人とはわかる姿だった。俺は街道を歩きながら、道すがらやつと雑談する。

「向こうで人足を待たせてあるんだよ。一応二人頼んだから、ダンナの手を煩わせることなくて、品物取りに行くだけなんだ。いやー、運ばせてきてもいいんだけどさあ、例の事件とかきくと、最近物騒だし」

 と、ネズミは唸る。

 豪商の跡取り息子であるゼダことネズミは、基本的に熱心に商売はしていないものの、時々こうして自分でやり取りする商談があるのだという。

「店で使う食器とか、単に俺が欲しいものとかさ、今回は陶器だけど、そういうの買い付けた後、自分で取りに行くことがあるんだ。大外洋から王都まで水路で持ってこさせてもいいんだけど、大した荷物じゃないから陸路で運んだほうがいいんだよな。時間も早いし」

「普段、一人で取りに行っているのか?」

「いいや、いつもはザフとかほかの奴がいるんだけどさ」

 ザフというのは、彼の側近の青年だ。普段は彼の影武者のようなことも務め、彼を「坊ちゃん」と呼んで慕う忠実な側近なのだが、それゆえに三白眼や俺のような、どう考えても訳ありの人間と彼が絡むのをよく思っていない。

 そのため、ちょっと面倒なことになると、ネズミはザフを避けがちだ。今回は近頃、俺や三白眼と遊ぶことが増えているのでそれに突っ込まれるのを避けるためなのだろう。

「今回のお取り寄せ、俺のわがままみたいなもんだから、他の奴に仕事中断して手伝えっていうのもかわいそうだしさあ。でも、流石の俺も一人で行くのはよくねえなって。追いはぎにあったら、多勢に無勢だとまずいだろ? そこで、ダンナにお願いしようと思って」

 都合よく使われている気がするが、流石にネズミはそういうところはうまい。

「だってよー、ダンナが一番信頼できるじゃねえか。三白眼は王都から出たがらなさそうだし、蛇王さんはいるかいないかわからないし。ダンナだったら実績も確かだしさっ!」

 そういわれると悪い気はしなくなってしまう。俺もずいぶんちょろいものだ。

「そういやあ、例の件、まだ解決していないんだって? うっすらと続報きいているぜ」

「うむ。……お前の言う通り、少し繊細な事情が入っているようでな」

「子供かあ。……それは話聞くの、確かに難しいよな」

 とゼダは同意しつつ、

「俺の方もいろいろ当たってるんだけど、ダンナに報告できるほどの情報は集まってねえんだ。でも、リーフィが言ってたみたいに、複数の店に取引を持ち掛けているなら目立つだろう。薬問屋とかの情報も集めてみるぜ」

「すまんな」

 やや困ったところもあるが、基本的にネズミは協力的ではある。

「それじゃあ、商談まとめて商品引き取ってくるから、それまでここで待っててくれ。景色いいところだし、遊歩道とか歩いて遊んでてくれよ」

 ネズミはそういって、商談に出掛けてしまったのだが。

 意外と帰ってくるのが遅く、遊歩道を三周した俺は、岬の木の下で待ちぼうけを食っていた。

(様子を見に行った方がいいだろうか。しかし、あのネズミだしなあ。あの男もそう弱くはないわけで)

 帰りが遅いと少し心配にもなる。いや、あんな生意気かつ人を食ったようなネズミなので、放置していても大丈夫なのはわかっているのだが、意外にもうかつなところもあるわけで。

 蛇王からは過保護、といわれがちだが、三白眼を含め、俺としては若者二人の無計画な無鉄砲さは、時にひやひやするものだ。

 そんなこともあって、俺は少しそわそわし、なんとなく木の周りをうろうろしていた。

「た、煙草でも吸うかな」

 俺は近頃はめったと煙草を吸わないが、大体、煙草を吸うときは何かしら落ち着かない事情があるときだ。例えば、どうも気持ちがざわついてしまう戦場の仕事の後など。

 今回はネズミが心配だというのもあるが、先ごろのあの少年サリフの件もあって、むやみに気持ちが重くなりがちだった。

 そんなことを考えていると、声がした。

「あれ?」

 ふと近くで人の気配がしてそちらを見やると、一人の青年がロバをつれて立っていた。

 年齢はネズミや三白眼とそう変わりなく、二十代に見える。どちらかというと童顔に見える顔立ちだ。

「もしかして、ゼダさんの関係者ですか?」

「ああ。そうだが」

 この青年は頼んだ人足の一人だろうか。たしか、ネズミの話では、人足二人とロバと荷車を頼んだとかなんとかいっていたが。

「ああ、良かった。実は待ち合わせ場所を忘れちまって……」

 と彼は苦笑して言う。

「思い出岬、っていうのは覚えていたんで、来てみるとわかるかなって」

「もう一人頼んだときいていたが」

「ああ、もう一人は別行動で……。アイツはゼダさんとうまく落ち合っているんじゃないんでしょうか?」

 ふむ、と俺は唸って、恐る恐る雑談を振った。

「ここでの仕事は慣れているのかな?」

「ええ。ここ小さな港あって小さめの船が入ってこられるんですよ。大きな船はそのまま荷物積み替えて運河を上って王都に入ることも多いんですけれどね。小さな荷物なら、陸路で来る方が早くて、俺の仕事も結構多いんです」

「なるほど」

 このような強面の俺にも屈託なく話しかけてくるとは、愛想の良い青年だ。

 その会話で俺は少し気持ちが落ち着いたこともあり、俺は彼にひっそりと感謝をしていた。どうも一人だと色々考えすぎてしまう俺だ。気楽な会話は、気が紛れていい。

「大外洋側は太内海より海が荒れがちで、長距離の交易はそこそこ大変なんですけれど、遠方の国の珍しいものもはいってくるんですよ」

「ああ、それで、やつはこちら側にも買い付けに来るのだな」

 そういえば、ネズミは今回どうしても欲しいものがあったといっていた。

「ゼダとはここで待ち合わせをしていてな。ここで落ち合えると思うので、もう少し待っていてくれるか」

「はい。ありがとうございます」

 青年はにこりと微笑んだ。よかった。愛想のよい、いい青年だ。

 どうも人見知りの激しく、強面の俺は、年甲斐もなくこういう場面でかたくなりがちだ。少しだけ気を許したついでに、俺はたずねた。

「ここは思い出岬という名前だときいたが、良い名前だな。何か曰くはあるのかな?」

「ああ。なるほど。旦那は、異国の訛りがありますもんね。それなら、知らなくてもおかしくない。北方の方ですか?」

「そうだ」

 確かに俺には、長年ここにいても矯正できない、外国の訛りがある。彼は嫌味なくそれを言い当てつつ、

「俺たちの間では思い出岬って名前で呼ばれているんですよ。大外洋に乗り出す前に、ここで別れを惜しむ恋人や家族たちが多いそうで」

 青年は言った。

「綺麗な景色の場所ですからね。ここでしばらく家族や仲間に会えなくなる前に、思い出をつくるものなんだ、って船を扱う商人たちはいっています」

「そういうことか」

 思い出岬という名前が正式名称であるかはわからない。どうも地元民の愛称のようなので、本来はもう少し難しい名前がついていそうな気配がする。

 ただ、この岬は、そのいささか感傷的な名前が似合う、妙に懐かしいような場所だった。

 青い空、青い海。……草原を渡る風、もっさりと生えた木。

 なるほど、ここなら荒れた海に乗り出す男たちに良い思い出を与えてくれる場所にもなるのだろう。

(ラゲイラ卿と、談笑したことを思い出すな)

 ついついそんなことを思い出してしまう程度に、その光景は俺を感傷的な気分にさせてしまう。

「おーい、ダンナー! お待たせ! 他の書いたかもしてたら、時間食っちまった!」

 向こうからようやくネズミの声が聞こえた。

「あ、きっとゼダさんですね」

 きっとネズミのやつは、俺を散々待たせたことをさほど悪びれもしないのだろうけれど。

 ちょっとだけ感傷的な気持ちになっている俺としては、まあ仕方ないか、という気になっていた。

 こういう気持ちをうまく利用されている気もするが、今日はおおらかな気持ちでいよう。

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