9.雨音に香りは爆ぜて【ぱちぱち】

「やれやれ、参ったな。こんな雨の日に、戦うものではないな」

 蛇王は髪の毛の水を払いながら、うんざりと言った。

「エーリッヒが無駄にやる気になるから、つい乗せられた」

「何を言っている! お前がやる気だったんだろうが!」

 そうだ。今回は俺は見境がなくなることなく、終始被害者だった。

 蛇王は切り替えが早すぎる。


 雨の冷たさは高揚した気持ちをすっかり鎮めてしまう。

 かつて、戦場で雷雨の中激しく争った俺と蛇王も、これだけ雨に濡れ、雷に追い立てられては、流石に戦闘を継続できなくなり、勝負を中断して近くの岩屋に逃げ込んでいた。

 お互いの陣は、とっくに引き上げてしまっていて、勝負にのぞんでいた我々は取り残されていたので、雷雨を避けるにはここしかない。

 もうこうなると、敵味方など言っている場合でもなかった。どのみち、我々傭兵は所属が曖昧なのだ。

 しかし、不可思議なことに、その岩屋には生活の形跡があった。

 衣服や生活用品が少しおいてあり、簡易な敷物も敷いてあり、さらに中央で焚火ができるようになっていた。

「流石に寒いな。少し温めて服を乾かすか」

 蛇王は手慣れた様子で、その焚火の後に岩屋の奥から乾燥した薪と枯れ草を持ってくると、種火をつけて火を起こした。

「俺は沐浴は好きだがな、こういう風に濡れるのはあまり好きではない。こういう雨の時は、戦闘中でも雨宿りしたくなるのだぞ」

「何をのんきな」

 やつはそこに置いてあった手ぬぐいで頭をぬぐっていたが、俺の方を見た。

「かわいそうだから、貴様にも貸してやろう」

 ともう一枚の手ぬぐいを俺に投げよこす。

「ああ、安心しろ! 洗濯してある。神経質で潔癖症の貴様でも使えるぞ。蠍がいないかだけ注意しろ」

「さ、流石に、こんな事態になれば、そこまで気にしていない!」

 憮然と言い返しつつ、それを受け取る。しかは、蠍は意地を張っている場合でなく怖いので、一応念入りに手拭いを払っておく。

「ここはお前の隠れ家か?」

「まあ、そういう言い方をすればそうなる」

 やつの起こした火は、安定してきており、豪雨で薄暗い岩屋を照らし始めていた。

 正直にいえば、俺とて流石に寒かったので、火に当たりたい気持ちがあった。濡れたマントを脱いで絞り、岩の突起にかけて乾かしつつ、俺は手ぬぐいで顔や頭を拭いた。

 こういう時の焚き火の温かさは助かる。

「ここに寝泊まりしていたのか?」

「たまにな。いや、雇い主の選別に失敗してなあ」

 蛇王はにやりとした。

「俺にはもはやどうでもよいことだが、昔のしがらみがあってな。いまだに命を狙われることがある。だから気をつけていたのだが、失敗した」

 蛇王は頭巾を外して枝にかけて乾かしつつ、濡れた髪を絞っていた。そして、濡れた髪をかき分ける。かすかにだが、頭皮に赤や青の紋様が見えた。俺がそれを見たのを、やつは気づいたらしい。

「祭祀を司るハイダールの家は、儀礼めいたものに支配されがちだ。ハイダールの嫡男であった俺は、物心もつかぬ幼少期、頭に刺青を入れられている。身分を隠したところで隠しきれんのだな。くくく、腕などなら、なんとか消すこともできるかもしれんが、頭はなかなか難しくてな。髪を伸ばして隠すしかないが、捕まって剃られれば隠せない」

「それで、証拠をとられぬよう、身を隠していることがあると?」

「まあ、時によりけりだ。それに、俺が消えていても、違和感はないだろう」

 確かに神出鬼没の蛇王のこと。

 周りの人間とて、やつがいなくてもさほど気にしないかも知れない。戦闘が始まればいつのまにか、きちんと参加している訳ではあるし。

 ぱちん、ぱち、と火が跳ねる音がする。

 雨に冷やされ、戦闘で疲れ切った体に、焚き火の火は温かく、眠気さえ誘うようだ。

 まだ雷鳴は激しく、時折岩屋にも光が入る。

「やれやれ、なかなか落ち着かんな。雲の上で、竜でも暴れているかのようだ。これはしばらく雨が止まんな」

 ぱちぱち鳴る焚火から、俺に視線を向けて、蛇王はいった。

「ま、むさ苦しいところだが、ゆっくりしていってくれ」

 そうして向けてくる無邪気な笑みは、先程まで、本気で殺し合いをしていた相手に向けるものと思えぬものだ。

「本当にむさ苦しい。住むならもう少し文明的にしろ」

 俺はわざと皮肉を言った。

 そういう表情を向けられると、俺の方も、この男と殺し合いをしていたことを忘れてしまう。

 俺とやつの関係は、俺自身もよくわからないが……、結局のところ、腐れ縁だと表現するのが相応しいと思う。


 *


 足を踏み入れた建物の中は、まだ雨漏りもないらしく、乾燥した気配に満ちている。

 こういった廃屋は、誰か住んでいることも多いが、そこには人の気配はなさそうだ。ただ、土ぼこりの積もった廊下に足跡がある。最近誰かが入ったということは明白だった。

 奥の部屋は暗く、誰もいない様子だ。入ってすぐに階段があり、上に上れるようになっている。踊り場にある窓から稲光が差し込み、すぐ雷鳴がとどろいていた。

 雷雲が近づいているものらしい。外の雨音が激しくなる。

 俺は多少の用心をしながら、階段を上った。

 俺の勘では、ここに『誰か』が入り込んでいるはず。ただ、俺の予想が少し外れた場合、その中にいる人物が俺に害意を持つ可能性もある。

 しかし、俺はほどなく警戒を解いていた。

 ふと鼻を撫でたのは、くすぶるような煙の香り。そして、その香りは、どこかしら特徴的な甘さを伴っていた。それは食べ物の香りとは違う。

 ぱちっ、ぱち、ぱち。

 火が爆ぜる音がする。

 二階の奥の部屋がうっすら赤みを帯びていた。何者かが火を使っているのは明白だ。

「うーむ、なかなか上質だなこれは」

 ふいに男の声が響いた。

 俺は部屋の中に足を踏み入れる。

 大きな窓に向いた土間に黒い服を着た大柄の男が胡坐をかいて座り込んでおり、皿の上で火を起こしているようだった。

「この甘い香り、神殿の香に使われているものだが、それでもずいぶん上質なものだ。なかなかこれはないぞ。そう思わんか? エーリッヒ」

「蛇王」

 俺が声をかける前に、やつの方から話しかけてきた。外の雨の音が一層強くなり、雷鳴がとどろいている。

 ふと胡坐をかいた蛇王が俺の方に顔を向ける。悪びれもせずに、にやりと笑うやつは、どこかしら悪戯っぽい顔をしていた。

「エーリッヒ、よく俺がここにいるのがわかったな」

 蛇王は髭をなでやりつつ目を細めた。

「まさかお前にこんなに早く見つかるとは思わなかった」

「珍しく勘が働いた」

 俺は憮然として答えた。

「お前は雨に濡れるのは好きではないといっていたからな。こんな唐突な雨が降ればどこぞで雨宿りしているのでは、と思ったのだ。……あとは、まあ、勘だ。ごく最近、人が立ち入った形跡があった」

「ははっ」

 蛇王は、ふきだした。

「貴様の勘が当たるとは、珍しいこともあるものだ。そりゃあ嵐にもなろうものだな」

 蛇王はのんきにそう俺をくさしつつ、足元の皿の上で燃やしている木材のようなものを見た。

「で、エーリッヒ。調査の結果はどうだ?」

「どうだもなにも。俺に仕事を一方的に押し付けて、お前ときたら姿をけして」

 俺は若干恨み節になっていた。

「門外漢の俺には、皆目見当がつかんことだぞ。なんという依頼を俺に押し付けるのだ!」

「ははは、きたかー」

 蛇王は苦笑した。

「お前と顔を合わすと、絶対説教だろうなと思っていたのだ」

「なんだと!」

 蛇王はやはり確信犯で俺と顔を合わさなかったものらしい。

(こやつ!!)

 と俺はやつをにらむが、蛇王はてんで反省等した風もない。にやにやしながら目を細める。

「まあ、そういうな。流石に、お前に全部任せるのもかわいそうかなー、と、俺にしても珍しく罪悪感というやつが働いてな」

「貴様にそういう感情があるとは初耳だ」

「ともあれ、俺も独自に調べてはみたのだぞ」

 やつは、俺の皮肉を完全に聞き流してにやりとした。その手に何か木材のようなものがある。

「俺にも皆目見当はつかんのだが、一つ、良い情報を手に入れた」

 そういって、蛇王は皿の上で燃やしている木材の一つを手にした。

「流石の鈍い貴様でも、これが普通の薪でないことはわかるだろう」

 そういわれて俺は空間に漂う香りをかいだ。確かに、木のような、しかしほのかに甘い香りがする。

 ザファルバーン周辺では、来客時に香をたく風習がある地域もあるが、そこで使われるのは沈香だった。流石にそれは何度も経験があるのでわかるが、あれはもう少し重たい香りだった。これは、もう少し柔らかい気がする。

「……白檀か」

「おー、当たりだ。何も知らんとかいいながら、ちゃんとわかるではないか」

 といって、蛇王は木材のカケラを投げてよこす。受け取ると、手のひら大の大きさに切られた端材のようなものに見えたが、注意深く香りをかぐと、木材自体がすでにかすかに香りを放っていた。

「これはな、そこの市場で着火用の端材として、二束三文で売られていた中に混じっていたのだ」

「なんだと?」

 蛇王は木材をもてあそびながら言った。

「ちょっとした知識のある商人なら、すぐにわかろうものだろうが、残念ながら売っていたものは何もわからん薪売りだったからな。出所を探ろうとしたのだが、複数のものからこうしたものを仕入れて売っているとのことで、よくはわからなかった」

 蛇王は言う。

「白檀はリオルダーナ産のものが多くてな。俺はこいつに見覚えがあったのですぐに気づいた。こう見えて餓鬼のころは困窮していた。生活の為の日銭を稼ぐのに、薪拾いから伐採まで色々していたのでな。それゆえに、この街で薪を集めてくるようなものが、これを持ち込むとは考え難いともわかる。この木はザファルバーン領内では採れないはずなのだ」

 蛇王は俺を見上げていった。

「なァ、エーリッヒ。これが何を示すか。貴様はどう思う?」

 外では雨がまだ激しく降っている。

 俺と蛇王のいる廃屋も、そろそろ雨漏りをし始めたのか、どこからかぱたぱたと水が落ちる音がした。

 それ以外はやけに静かな室内に、蛇王の焚いた香木が爆ぜる。ぱちぱちという音が静かに響く。室内を甘やかで上品な香りが支配したが、それはひどく謎めいていた。

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