6.横切る青さに呼吸を止めて【呼吸】-2


「近頃、お体の方は如何ですか?」

 ラゲイラ卿にそう尋ねられて、俺はやや俯いた。

「このところは随分体調も良く過ごしています。いえ、先日はお見苦しいところを見せて申し訳ありませんでした」

 そう。先日、護衛任務の際、ふとした瞬間に、俺は発作を起こしていたのだ。原因はなんだったか覚えていない。

 急に呼吸が浅くなって気持ち悪くなり、その場に倒れ込んでしまって、護衛対象であるラゲイラ卿自身に介抱までされてしまった。

 あれは恥ずべきことだ。

 その時は、狙われるような場所でもなく、さらに少し離れた場所に他の護衛の兵士もいたことで、比較的気を抜いても許される場所にいたのも、発作を起こしやすかった。

 ラゲイラ卿はゆったりと手を組み替えると、心配そうに言った。

「ご無理なさってはなりませんよ。貴方は私がお助けした時も、命に関わるようなお怪我をなさっていましたからね」

「いえ、しかし、これは私の精神の部分も大きいのではないかと。古傷の影響とは思いますが、私が軟弱でなければ、とっくに克服できて然るべきです」

 俺は視線を彷徨わせた。

「自分の脆弱さが腹立たしい」

「そんなことを言うものではありません」

 ラゲイラ卿は気遣わしげにいった。

「大きな肉体の負傷は精神にも影響を及ぼすものです。貴方のそれも、きっとその影響が深いものだと思います。呼吸がうまくいかなくなるのには、複合的な要素があるかも知れませんけれども、貴方は精神的にも肉体的にも傷つきすぎている。貴方の心の傷がそうさせるものなのかもしれません。何も焦ることはありませんよ」

「は、はい」

 ラゲイラ卿は微笑んだ。

 ラゲイラ卿の細い目は、いつも微笑んでいるように見えた。その目が本当に笑っているのかどうかはわからないところが、彼の恐ろしさだったが……。俺に向けられる、その時の優しさは本心のように見えた。

「呼吸といえば、一つ思い出しました」

 と、彼は話を変えた。

「ジャッキール様は、一目見て呼吸を忘れてしまうほどの人物と出会ったことはありますか。魅力的なあまり、一目で惚れ込んでしまうような人物です」

 そう尋ねられて、俺はきょとんとした。ラゲイラ卿は続ける。

「私はあります。それは先王のセジェシス陛下と最初に出会った時のことです。あのお方は、どこかしら野卑なところのある方でしたが、初めて出会った時に、彼は私の目の前に燦然と輝いて見えたものです。彼が現れた時、私は息をするの忘れて見入ったものですよ」

「それほどに魅力的な方だったのですね」

「ええ。この方なら、この乱れた国をなんとかしてくれる。そんな直感を私は抱きました」

 淡白にも思えるラゲイラ卿にも、それほどまでに惚れ込む人物がいるものなのか。そんな感想を持ち、先王その人にも興味を抱いてしまう。

「似たような経験は、私にも経験があるように思います」

 俺は少し考えてから言った。

「ラゲイラ卿には、実のところ、申し上げにくい人物ですが」

 俺は彼に遠慮しながら続けた。

「それは、シャルル=ダ・フールの東征時代に、彼に随行していた青い軍装の少年です。青兜将軍アズラーッド・カルバーンと呼ばれておりました」

「ほう、シャルル=ダ・フール王子の影武者とも言われていた彼ですか」

 ラゲイラ卿の前で敵対勢力の彼の名を告げるのは、すこし勇気がいったが、ラゲイラ卿の心象が害した様子はなかった。

「ええ、戦場で彼を見かけた時、確かにラゲイラ卿のおっしゃるように、私は呼吸をするのを忘れて、ぼんやり見入ってしまいました」

 俺はその時のことを思い出していた。

 青い空、黄色い砂。

 その世界に現れた真っ青な武装の少年。

「あれはとても美しい生き物でした。あんな主君に仕えられれば、と思うほどに」

 俺は言った。

「あれがシャルル=ダ・フール本人であれば、私は貴方の計画に協力していなかったのかもしれませんね」

 俺が苦笑するとラゲイラ卿は、くすりと笑った。

「それはそうでしたでしょうね。貴方の協力を得られないのは、私としては損失です。その事実には、感謝しなければなりませんね」

 


 青兜将軍アズラーッド・カルバーンと呼ばれていたのは、表向きシャルル=ダ・フール本人であると言われていた。しかし、先に言った通り、シャルル=ダ・フールは病弱と言われており、当時からその軍曹の少年は影武者であるとの噂があった。

 先王セジェシスの長男かつ庶子であるシャルル=ダ・フールは、病弱の身ながら東征を命じられていた。それでなくても狙われやすい立場。任務にあたる上で、影武者を立てていると言われていたのだ。

 そんなこともあってか、青兜将軍は青く染めた孔雀の羽で飾った兜を深く被り、目元に装飾の多い仮面をつけ、素顔をあまり見せないようにしていた。

 刺繍で飾られた、青く染め抜かれたマントと青い軍衣、鎧を纏い、白馬にまたがる少年の姿は遠目にも非常に目立った。

 その時の、俺は彼とは敵という立場であった。

 そして、馬に乗って先陣を切っていた彼は、前線から撤退中に逃げ遅れていた俺の前に唐突に現れた。彼は俺をちらりと一瞥したが、相手にせずそのまま視線を戻して通り過ぎた。

 真昼間の太陽の見せる幻のように、真っ青な軍衣の少年はそこだけ現実感がなかった。しかし、その堂々とした姿に俺は魅せられていた。

(もし、俺がこの少年に仕えられるなら、迷いなく命をかけてやっても良いのかも知れない)

 そんなふうに思えるほど、その人物はあの戦場で輝いていた。

 俺は追っ手から逃げることも忘れて立ち尽くし、おそらく息をすることも忘れていた。

 息苦しくなるほど呼吸を止めて、しかし、それは発作で起こるそれと違い、謎の期待感と高揚感に満ちていた。

 きっと、セジェシス王を前にしたラゲイラ卿も、俺と同じ経験をしたのだろう。

 ラゲイラ卿は、セジェシス王に心酔していた。きっと、救われたかのような気になったはずだ。その気持ちは俺にもわかる。

 だからこそ、彼が戦場で行方をくらまし、死んだこととなったことにどれほど失望したかわかるし、それだからこそ彼の死後に即位したシャルル=ダ・フールを傀儡としたかのような政権が許せなかったのだと思う。


 俺は彼から離反してからも、いまだにラゲイラ卿を尊敬しているし、そんな彼の潔癖さを責める気にはなれないでいる。


 *


「調査を名目に市場に来たが、食材を買い込みすぎてしまった」

 俺は籠いっぱいの新鮮な野菜や果実などの食材をみやり、反省していた。

 リーフィさんやネズミの協力を得たものの、とりあえず、自分でも市場を見回っておこうと出かけたところ、ろくに観察もしないうちに野菜の特売があったのだ。

 突然、あの迷惑な三人の誰かが飯時に押しかけてこないとも限らない俺だ。押しかけられて飯がないというのも、なんだか可哀想。それに安い時に買いだめすると、生活費の節約にもなる。

 俺はついつい張り切って買い過ぎてしまった。

(余ったら、リーフィさんにいつものお礼としてお裾分けしよう)

 そんなことを思いながら帰路に着く。

(しかし、蛇王のやつ、どこに行ったのか)

 どうもこの頃、やつを見かけていない。俺の就寝と入れ違いに部屋に戻っているのか、とも思ったのだが、それもよくわからなかった。

(奴め、俺に仕事を押し付けたので、小言を食らうのが嫌で逃げているのか)

 それもあり得ない話ではない。

 やれやれ、とため息をついて角を曲がろうとしたところ、突然、青い布が目の前を通り過ぎた。

 ふと、俺は息を止めて見入った。

 あの時、戦場で見たように真っ青なマントと黒髪が街を背景に俺の目の前を通り過ぎる。

 あの青兜将軍アズラーッド・カルバーンの仮面の奥の眼差しが、俺に向けられた時のように、その人物が俺に視線を投げた。

「あっ、ダンナじゃん!」

 その男が声をかけてきた。

「いいとこにいた! ちょっと匿って!」

「は?」

 その情けない言葉に俺は現実に引き戻される。俺の目の前にいるのは、あの時の青兜将軍ではなく、例によって三白眼の怪しいシャー=ルギィズだった。

 匿ってとは? と尋ねる間もなく、足音が聞こえ、人相の悪い男たちが現れる。

「てめえ、三白眼! 俺のこと睨みやがって!」

「ひええ。気のせいです。オレ、目つきが悪いだけでえ〜」

 そのやりとりに俺は呆れ返る。

 なんだこいつ、また三下に絡まれているのか。いや、絡まれやすい顔なのはよくわかるが。

 男たちが近づこうとしたので、三白眼は俺の背後に隠れた。男たちが、俺に気づいてぎょっとする。

「な、なんだてめえ」

「通りすがりだが」

 俺はため息混じりに応えた。

「なんでも良いが、往来で揉めるものではないぞ。周りに迷惑だ」

 そう言いながらちらりと睨むと、男達が少し気圧されたようだった。流石に流れの戦士然とした俺に面と向かって絡んでくるつもりはないらしい。今日は俺は長剣はさげていないが、それなりの威圧感はあるだろう。

「くそっ、覚えてろよ!」

 男たちは三白眼にそう言い置いて、去っていった。

 ひょこんと三白眼は、俺の陰から躍り出た。

「いやー、助かっちゃったー。オレさあ、目つき悪いから、すぐ絡まれんだよねえ」

「貴様、いい加減、そういうのはやめたらどうだ」

 俺は呆れたように言った。

「あんな三下、貴様の敵ではないだろうが」

「だってさあ、反撃したら目立つじゃん。オレはここでは目立たないように生きてるのよ。正面切って強いのバレたらややこしいことが起こんの」

 シャー=ルギィズは力説する。

「オレはここでは、ヘタレのシャーで通ってるんだからさ。アイツらに絡まれたら、やられなきゃダメなのよ。ネズミ野郎と違って、オレは徹底してんの!」

「そんなことを言いながら、あちらが度のすぎた攻撃をしてきたら、返り討ちにするつもりだろうが」

「あったりー。流石のオレも一定以上ムカついたら、そりゃーやり返しますよ。でも、許容範囲なら大人しくボコられることもあるわけ。ただ、ボコられて喜ぶヘキはないから、ダンナが助けてくれるなら大助かりさ」

 三白眼は調子の良いことを言って、にんまり笑った。

「ダンナには、感謝してるんだよー。アンタの強面、マジ役に立つよね」

「うるさい。強面は余計だ」

 俺は奴を鬱陶しそうに睨むが、やつは「おー、怖っ」とおどけている。そして、やつは俺の手元を見た。

「なにさ、そんな野菜買い込んじゃって。安いからって、買いすぎたんでしょ、それ。困ってるならオレが食べてあげてもいいよ?」

 馴れ馴れしい!

「別に頼んでいないし、頼まなくても飯をタカリにくるんだろうが」

「ダンナのためを思っていってあげてるんだよー。オレってば、親切だから」

「何がだ」

「ほんじゃ、後でダンナの部屋行くから」

 ぬけぬけとそういってふらっと立ち去る三白眼を見て、俺はため息をついた。

(やれやれ)

 俺は苦笑した。

 あの時見かけた美しい生き物は、一体どこにいったものやら。もはや面影も感じないではないか。

「今更、俺の見立て違いとは、ラゲイラ卿には申し上げられん話だな」

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