6.横切る青さに呼吸を止めて【呼吸】-1
特に戦場においてだが。
俺には発作的なものがあって、急に呼吸が乱れることがある。過呼吸のようなものだ。しかし、それが起こるのは、戦場で俺が正気を失う前兆であることが多いが、平時ではただ単に体調不良に繋がって倒れ込んでしまうこともたまにある。
どちらにしろ、呼吸がうまく制御できなくなってしまうのだ。
俺は戦場において極度の興奮状態に陥り、見境がつかなくなることがしばしばある。
かつて戦場で頭部を負傷し、瀕死となって以降、俺はそういう発作と付き合わねばならなくなった。
目の前が真っ赤になり、体温が急激に上がるような感覚と共に、息苦しくなる。戦場にいれば、それはそのまま暴力衝動につながって攻撃的になり、息苦しさは解消されるが見境がなくなってしまう。
平時においては、正気を失うことは少ないが、息苦しさに耐えて呼吸が落ち着くまで耐えねばならない。
悪魔憑きとまで言われるその症状は、俺をまともな生活から遠ざけた。それが故に身を持ち崩して今のような身分。本来なら、宮仕えして、将軍を目指して同期の武官と鎬を削っていただろう。
今では俺もある程度許容できているが、かつては、俺も失われた栄光への道にギラギラとした未練を抱いていた時期があった。
そして、実際問題、俺の目の前には失われた栄光を取り返す選択肢も用意されていた。
俺にも、正規の出世街道に戻る手段はあったのだ。ただ傭兵として身を起こした俺がそうすることは、多量の敵を作る行為だった。
特にザファルバーン隣国かつ敵対国のリオルダーナ国に雇われ、その時の王子に目をかけられていた頃。権力闘争に飛び込む覚悟さえあれば、将軍への道もやぶさかではなかった。
ただ、それは俺の精神にも負担が大きかったらしく、俺はよく発作を起こしていた。
その影響は、リオルダーナから離れ、ザファルバーンの反体制派貴族、ジェイブ=ラゲイラに雇われてからも残っていた。
ラゲイラ卿のもとにいて、自分の脆弱さを理解しながらも、俺はいまだに掴み損ねた栄誉にどこかしら未練があったのかもしれない。
*
「ジャッキール様、お待たせしました」
要人との会合を終え、待っていた俺に会釈してそう声をかけてきた彼は、一介の傭兵である俺にも丁寧だ。
ラゲイラ卿はとりたてて美男子というわけではなかったが、ふくよかで上品で紳士的な中年男性だった。貴族の中でも名門中の名門の出身なだけはあり、他の貴族と比較しても、ずば抜けて振る舞いが洗練されている。
その時の俺は、彼に雇われ、現王シャルル=ダ・フールの暗殺計画に携わっていた。
「首尾は如何でしたか」
「まずまずでしょうか。しかし、貴方を待たせるほどの価値はなかったかもしれませんね」
苦笑するラゲイラ卿に俺は道を先導する。
「それはお疲れでしょう。実のない長いやり取りほど疲れるものもございません」
「いえいえ、待たせている貴方ほどのことはありませんよ」
「馬車を待たせてあります。参りましょう」
ラゲイラ卿に雇われたのは、ちょうど、ザファルバーンとリオルダーナとの戦争終結直後。前述のリオルダーナでの権力闘争に巻き込まれた俺自身も、まだ何かと狙われることが多く、今では短く刈り込んでいる黒髪を伸ばし、姿を少し変えていた頃のことだ。
ラゲイラ卿は、ザファルバーン先代の国王セジェシスに魅せられた旧王朝派の貴族の雄だった。
ザファルバーン北方の有力な名門貴族。それでいながら、権謀術数に優れ、伏魔殿の旧王朝をその身一つで生き抜いてきた政治家でもあった。
いうなれば、黒幕。実際に腹黒いと噂される人物ではあったが、彼自体は油断ならなさそうな外見ながらも、どこか上品で知的であり、実際はかなり紳士的な人物だ。
彼は、腐敗し荒れ果て旧王朝を救ってくれた先王への期待が激しかった分、その後のシャルル=ダ・フール王の体制に不満を抱いていた。
シャルル=ダ・フールは、先王の庶子でその出自のはっきりしない人物ではあった。東方遠征で名をあげていたが、本人は病弱であるとされ、表に出てこない、謎の多い人物である。
断っておくと、ラゲイラ卿はシャルル=ダ・フールの身元が怪しいことだけを理由にして、反旗を翻したわけではない。どちらかというと、シャルル=ダ・フール擁立に動いた将軍たちの影にいるかつての宰相に反目した部分があるようだ。シャルル=ダ・フールは彼の傀儡となりうる人物でしかなかったからだ。
そしてラゲイラ卿は、現国王の暗殺計画を立てるに至り、当時、彼に雇われていた俺はそれに指揮官として参加した。
まあ、それから色々あり、結果的に任務に失敗した俺は彼の元を離れて、今のように王都で平穏かつ平凡な日々を過ごすことになるのだが……。
離れたとはいえ、俺は今でもラゲイラ卿には感謝しているし、考えは違ってしまったが今でも尊敬をしている。
俺と彼の関係は、ただの金銭による契約から来る主従の関係ではなかった。実際問題、我々の関係は、主従関係よりは、友人や師弟関係に近いもので、周囲から見ると不可思議だったと思う。
「この間、お借りした詩集ですが、表現がとても繊細で素晴らしいものでした。良いものを読ませていただきました」
馬車の中で俺は彼に言った。
「それは良かった。ジャッキール様も、この国の古典に随分とお詳しくなられましたな」
「ラゲイラ卿にご教授いただいたおかげです」
俺は彼から借りた本についての感想を伝えてひとしきり楽しく話をしていた。
ラゲイラ卿とは俺を正式に雇用してからも、比較的に対等な関係の会話が許されていた。
どこの馬の骨ともわからぬ傭兵の俺が、この旧王朝貴族の大物と対等に口をきくなど、本来許されぬことだろう。
そもそもは、負傷したところを彼にたまたま救われたのが、彼と知り合うきっかけだった。
ラゲイラ卿には、傭兵としては名の知れていた俺に恩を売って利用するつもりも多少はあったとは思う。しかし、その時、助かる見込みが低かった瀕死の俺を拾ったのは、それだけではなかったろう。俺の知るラゲイラ卿は慈善家であった。
傷が回復するまで、彼は俺を自分の別荘で逗留させてくれた。そして、その間に、俺と彼は意気投合した。
上品な貴族趣味を持つラゲイラ卿は、たくさんの蔵書を抱えており、俺と本の趣味でも気が合ったのだ。彼は俺にこの国の古典詩集の読み方を教えてくれたものだった。
以降、彼は俺にさまざまなことを教えてくれた。
それは、古典文学の読み方、絵画や芸術作品の良し悪し、果てはこの国の上流階級の振る舞い方から戦略の立て方、政治的な判断の是非、といったものまで。
正式に傭兵として彼と契約してからも、その関係は変わらない。
彼は俺に護衛を任せたが、上流の貴族が参加するような宴席にまでも俺を連れて行って、時には俺のことを、有能な部下であるとして周りに紹介した。
「貴方はまだお若いし、才能もあるのですから、今のうちにさまざまな経験を積んでおくのが良いでしょう。いつか要職に就くことがあった時にも困りませんし、顔を売るのも仕事に役立ちますよ」
と彼は言ったものだが、それは一介の傭兵の俺には傍目から見ても些か過分なものだった。それゆえ、周囲からやっかみをうけ、「あの男はラゲイラ卿に身を捧げたのでは」「あれが新しいお気に入りの犬か」「口では立派なことを言いながら、ラゲイラ卿も良い趣味をしている」などと聞こえよがしに下世話なことまで言われたものだ。
別に俺のことはなんと言われようと良かったが、ラゲイラ卿について言われることは苛立たしい。しかし、憤る俺に、ラゲイラ卿は雑音は気にしなくて良いと言って捨て、陰口を叩くものをやんわりと、しかし、確実に牽制した。
当初は、ラゲイラ卿が俺の忠誠を得るために、そうして俺を厚遇するのだと思ったこともあったが、ラゲイラ卿が不利なことを言われてまで俺を取り立ててくれるのは、けしてその為だけでもなさそうだった。
彼の真意など測れるものではなかったが、彼が俺に期待を寄せてくれているのは間違いのないところで、俺はその時、素直に彼の期待に応えたいと思った。
ただ彼に失望されたくなかった。
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