4.乙女は魚を愛でながら【アクアリウム】
俺は正直言って俗にいう文系というやつだ。
本を読んだり、詩集を読んだりするのは好きだし、古典なども読むようになった。
時には詩をコソッとしたためたりすることもある。もちろん、他人には絶対に魅せられないが、手帳の片隅にそっとそういうものがある。よって、俺の手帳は鍵がかかるようにしてあり、絶対他人には見せないし、肌身離さず持っている。
なにせ、油断ならぬ環境だ。
面白がって手帳を覗こうとする不逞の輩がわんさかいる。
一方、数字を使ったものや、薬学や博物学にはまあまあ疎く、それゆえに、旧知の商人から依頼された香料の調査に苦戦しているわけだった。
こういう時は、もっと別の方面でも勉強をしておくべきだったと痛感する。
ただ、俺は恵まれてはいた。俺はそういうものに疎いが、実は俺の近隣にはそうしたものへの造詣が深い人物がいた。
今、その件で話を聞くために訪れた女性の部屋の机の上には、ガラスの小さな容器が三つ置かれ、水が入れられていた。
そこには綺麗な白い砂と水草、そして色鮮やかな貝殻が沈められている。その砂は砂漠の砂ではなく、北の太内海の砂浜から取り寄せた砂であるらしい。
そこに岩を模した小石と貝が沈められているのは、遠くの海の浜辺を思い起こさせる情緒のあるものであった。
「ジャッキールさん、ちょっと待ってね。知人の旅行中、お魚の世話を頼まれていて、水を換えていたところなの」
彼女はこのところ、家の涼しい場所においてあるタライで、魚を飼っているらしい。その水替えの最中、このガラス容器に魚を一度避難させておくのだという。
「汲んできた水はこちらでよいかな?」
俺は指定された通り、井戸で水を汲んできて彼女の前に置いた。
「ありがとう、手伝わせてしまって悪いわ」
「いや、俺の頼み事を聞いてもらうのにおしかけたのだから、これぐらいは」
彼女は組んできた水で、タライに張っている水を半分ほど入れ替える。
中には水草が揺蕩っており、なんとなく涼やかだった。そして、タライを覗くとキラリと背や腹が虹色に輝く美しい小魚が三匹ほどいるのが見えた。
「お魚は本当は池なんかで飼うのだけれど、数を管理して、ちゃんと水を換えてあげると室内でもなんとかなるのよ。最近は、飼育方法の本も出ていてね。前より簡単に飼えるようになっててね」
彼女は魚をさらりと網ですくって、くだんのガラスの容器に入れた。魚が暴れたのか、ぴちぴちと水が跳ねる。
「本当はもっと大きなガラスの入れ物が良いのだけど、高価だからね。一匹ずついれているの。短い時間ならこの小さな容器にうつしていても大丈夫。ここに移している間に鑑賞するのよ」
「ほう、確かにこれは綺麗な物だな。観賞魚はいくつかみてきたが、こんなに美しいものはまれだ」
まあ魚も美しいが、世話をする彼女自体も見惚れるほどに美しい人なのだが。外見だけではなく、理知的な態度や専門的な解説をする姿も美しくて格好良い。
こう、無表情に水換えをテキパキ世話しながら、あれやこれやと論理だてて語ってくれる彼女を見ながら、「理系」というのはこういうのをいうのか、と謎の感心をしていた。
(格好良い。リーフィさん、本当に格好良い)
自分があまりにも文系である俺は、そんな理系らしい彼女にちょっと無責任な憧れがある。
彼女、リーフィ嬢は、俺の行きつけの酒場の看板娘だ。
看板娘といっても、世の看板娘の一般的な印象とは違い、愛嬌で売っているような娘とはちょっと違う。
彼女はあまり愛想が良くない。不愛想というわけではないのだが、無表情に見えるのだ。ただ、悪気があってそうしているのでないことも確かであり、彼女は十分に親切である。
彼女と少し付き合えば、彼女が感情表現が苦手なだけの娘だということがよくよくわかる。そんな彼女がちょっと笑うと、実にかわいらしく感じる。
ただ、初対面だとこちら側が嫌われているのではないかと不安になることがあるとは思う。
そんな彼女が看板娘を張れる理由はいくつかあり、まずは彼女が美しい舞姫であることだ。
彼女はなんと言ってもその美貌で知られている。硝子細工のような、透明感のある美しさは場末と言っては失礼だが、あんな酒場にいるのもいっそ場違いなほど。さらに舞踊の技術もずばぬけて優れていて、色気はあまりないかもしれないがとにかく舞う姿が美しい。
そして、ここからは彼女としばらく付き合ってわかることだが、彼女は性格が良い優しい娘で機転もきくし、教養もあるのだ。それを知って、なんだかんだと彼女を目当てに酒場に来る男も多いことだろう。
そんな彼女の教養の高さは、ただの酒場娘のそれではなく、おそらく彼女は高級妓楼で養成された女性なのだろうと思う。詩歌から博物学に至るまで、彼女はちょっとした学者張りの知識を持っていた。
第一、この目の前のキラキラしている魚。この魚は、王都の川で泳いでいるような魚ではなく、品種改良された観賞用の魚のうちでもごく珍しいものだ。おそらく、飼育も難しい種類だろうに、本を読んでさらさらと世話をしている彼女だ。
そもそも、彼女にはこの国の上層の知識人層の知り合いがとても多く、家族のように付き合いをしている古典や将棋を教えたという師匠も知識人層だったはず。この魚を預けた人物も、そうした関連の人物なのだろう。
そんなよくよく考えると謎の多いリーフィ嬢だが、もちろん、魚だけでなく他の動植物などにも詳しい。特にこと薬草には詳しく、軽い医術の知識もあるほどだ。
自分で薬草を煎じている彼女は、オシャレの一環として、原材料から香料の精油を抽出したりもしているらしく、部屋には見慣れない錬金術師が使うような器具も置いていた。
しかし、普通の整理された部屋にある怪しげなガラス器具などは、なかなか印象が強い。ともあれ、アイード殿がいう通り、例の香料の事件では彼女の協力が不可欠だろうというアイード殿の意見は的を射ている。
「しかし、ジャキのダンナさあ、なんでそんな自信ない依頼受けちゃったわけ?」
魚を見ていると、いきなりにゅっとガラス容器の向こうに男の顔が現れて、俺はぬっと眉をひそめる。
歪んだガラスの向こうに現れる三白眼の凶相は、なかなかこちらをどきりとさせる。しかも、この男の場合、目がうっすらと青く見えることがあり、それも相まってぞわっとすることがあるのだ。
三白眼の男、シャー=ルギィズは、頭の上で束ねたくるくるの長髪を揺らしながら立ち上がった。いつもながらあの髪、鬱陶しい。やはり、付け根をそのままちょん切りたい。
「断っちまえばいいのにさあ」
「そう軽々しく断れるものではないから、こうなっている」
俺は憮然と答えた。
リーフィ嬢の部屋にこの男が何故いるのかと言うと、通りすがって見かけた際に俺についてきたからである。事情があるとはいえ、住所不定無職。酒場でたかって飯を食っているか、楽しく踊っている他、あまり何もしていないやつは、何のかんのと暇をしており、 俺の動きに何か面白いことでもありそうだと乗っかりにきたらしかった。
そして、リーフィ嬢にわかりやすく懸想をしているこの男は、俺が彼女に会いに行くのに同行するのを口実に、彼女と話をしたかったのだろう。
全く、不埒なものである。第一、話がしたいなら、俺などを頼らず正々堂々と行けばいい。そうしないから、いつまでたっても、もだもだとしているのだろう。正直はた目で見ていてじれったい。
そんな俺の想いに気付いていないらしく、三白眼はのんきにつづけた。
「でも、昔からの知り合いでしょ。ダンナの性質なんて、あっちもわかってるんじゃないの?」
「そ、それはそうかもしれんが……。成功報酬でダメ元でもよい、とまで言われると」
俺は奴の質問に憮然として答えた。やつはへえと唸る。
「その割に熱心じゃん。まあ、ジャキジャキってば真面目だから、一度依頼受けてしまったら最後、解決できなきゃ名折れとか思ってそうだよねー」
それはやや図星。ぬぬぬ、と俺は唸る。
「う、まあ、その。蛇王が探してきた仕事であるからな。あの男、それなりの報酬条件の交渉まではしてくるし、相手の身元も確かではあるし、となると仕事としては悪い条件ではないからな。それに、俺はお前と違って遊んでいるばかりとはいかん。報酬が出るなら、それなりに真面目に取り組もうというものだ」
「報酬って? ダンナ、生活困ってるわけじゃないでそ?」
三白眼は、大きな目をぱちくりさせた。
「ダンナ、傭兵隊長時代は高給取りだったんでしょ。だったら、昔の仕事でしこたま溜め込んでそうじゃん。今だって内職してるしさー、薄給でも生きてけるんでしょ。そもそも、ダンナ、質素倹約絵に描いたような生活してんのに、お金なんかいんの? オレなんて素寒貧でも平気なのに、気にしすぎなんじゃない?」
お前と一緒にするな! お前は働け!
とそこまで出かかったのをなんとかとどめて、俺はため息をつく。
「多少のたくわえはあるが、いくら倹約しても先立つものがないと不安になることもあろう。それに、かつての蓄えといっても、着の身着のまま逃亡せざるを得ないこともあったからな。となると、今の稼ぎでは将来が不安になる。少しでも貯蓄がある方が良いだろうが」
「将来って? なんの将来よ?」
「そ、それは、ろ、老後の生活資金とか……」
思わず正直にそういうと、三白眼が吹き出した。
「は、老後? 老後ってなにさ? えー、ダンナ、死に場所探して生きてるとか言ってたオッサンなのに、老後心配なの? 超生きる気あるじゃん! うわっ、だっせえ!」
三白眼が爆笑しはじめる。
「な、何を言う! ろ、老後の資産運用は誰だって心配になるだろうが! お、俺とて長生きできぬと思っているが、うっかり死に損なったらどうするのだ! そういう可能性も十分あるではないか!」
俺は思わず力説してしまう。
「第一、俺は今まででも死に損なってここまで生き延びてしまっているのだぞ! もはやこれも予定外。となると、今後、生き延びてしまって、生活資金難で路頭に迷うのなど断じて避けねば! それを考えると夜も眠れんこともあるほどだ!」
「ちょ。アンタ、マジ心配性だよねえ……」
三白眼が本気で呆れたような顔になる。
「そんなに心配性なヒト、路頭に迷わないと思う」
「黙れ」
不本意だ。そんな顔をされるいわれはない。大体、俺から言わせれば貴様らが刹那的なだけなのだ。
「あら、なんだか楽しそうね。何のお話をしているの?」
そんな会話をしていると、魚の世話を終えたらしいリーフィ嬢が涼やかに戻ってきていた。
なんだか世俗的な会話をしてしまった俺とは対照的に、リーフィ嬢はガラス容器ですいすい泳ぐ虹色の魚と同じく、別世界にでもいるように美しかった。
そんな姿を見ると、リーフィ嬢のそうした冷静さと世離れした姿に彼女が掛け値なしに女神に見えるのであった。
「ジャッキールさん、お待たせ。香料のお話だったわね。私でお役に立てることがあるといいのだけれど」
リーフィ嬢はそう言ってほんの少しだけ微笑むが、なんだか涼やかで、部屋の中があの小さなガラス容器の水槽のようにさわやかな空気で満ちていた。
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