キャラメルのおもひで

楠木八之助の最古の思い出は路頭に迷った孤児時代のものだった。


地獄のようなあの日々、思い出すのはそのことばかりで、それ以前の記憶はぽっかりと抜け落ちている。

しかしある春の日。突然その記憶を取り戻したのだった。

黄色い水仙が佇む、あの町に踏み入った時。


明治三十九年 三月


ここは花街、円山町。

芸者たちが増えつつあるこの町に俺は生まれたのだった。


「ハチちゃん?あゝ良かった、またどっか行ってしまったのかと思ったわ!」

「野依姉ちゃん」


野依はこの町の芸者だった。素朴な優しさをもつ容姿と花が舞うような踊りは沢山の殿方を魅了した。

そんな彼女はおれの母代わりだった。


「勝手に外行ったらいけないよ。ここに居たほうがずっと安全だから。」

「でもお香のにおいに飽きちゃったから、ねえたまには外行こうよ。」


そういやずっと外に出たかった。毎日同じ景色、芸者と年寄り、それと金持ちそうな奴らとたまに練兵場の将校が来てたっけ。

それでも彼女は優しく首を振る。


「外はハチちゃんが思うよりずっと広い。迷ったら帰れないわよ?」

「ふん!僕“いろは”もおぼえたんだよ!道なんて迷わないから!」


そう言って俺は木の枝を持つと地面に字を書いた。


「…はち…の…す…け!」

「もう平仮名も書けるの!?読み方しか教えてないけど。」


俺はフンと得意げに二つの文字を書き足した。


「の…い!」

「私の名前!すごいねえハチちゃん!」


野依は感嘆の声をあげてギュウと俺を抱きしめた。母からは受けたことのない温もりに少し悲しくなった。


「…野依姉ちゃん、母さんなおるよね、びょうき…」

「…うん治るよ。治ったらハチちゃんとも遊んでくれるよ。絶対。」


そうだよ。

母さんは俺に酷く冷たくあたっていたけど病気のせいだ。そうに違いない。

だけど俺は、


「…あ!姉さんに呼ばれてたんだ!ごめんねハチちゃん、今日はここまで。」

「はーい…」


そういうと野依は袂から小さな何かを取り出し、俺の口へ転がし入れた。


「!甘い!」

「それねお得意さんがくれたの。きゃらねる?きゃらめる?って言うんだって、忘れちゃったけど。」

「おいしい!ありがとう野依姉ちゃん!」

「はいはい」


そう言うと野依は立ち上がってくるりと背を向けた。

「じゃあ私戻るわね。絶対おうちに入ってること!」

「はい!」


ふふ、と微笑む野依。そして手を振りながら部屋の方へ歩き始めた。

不言いわぬ色の着物と茶色の後毛が遠くなる。


キャラメルの焦げるような味を感じながら野依の後ろ姿を見送った。

母代わりとは言ったがこれは確かに「初恋」の思い出だった。

しかしそのことは誰にも言わない。

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