第5話 オオカミ男

 前述の、

「731部隊」

 にいた、

「もう一人の科学者」

 ということで、名前を、湯川という。

 彼も、別の研究を、竹中とは隔絶されたところで行っていた。

 科学者というのは、それぞれ、別の研究をしている人を、そばに置きたくないという考えがあるようで、二人とも、

「同じ部隊に、それぞれ極秘に研究をしている人がいる」

 ということは分かっていたが、一緒にはなりたくないと思っていたのだ。

 研究の邪魔になるということでも、まさかではあるが、

「研究が盗まれる」

 ということに対しての危惧もあっただろう。

 しかし、どちらも、

「自分であれば、相手の研究を盗むようなことはしない」

 と思っていた。

 そんなことをして、自分が研究成果を発表したとしても、それは自分の成果ではないということは分かり切っているのだ。

「それだったら、営業のような、口八丁手八丁と同じではないか?」

 と思っていたのだ。

「人が開発下ものを売ることで、自分の成果にする」

 という営業的なやり方が、二人とも大嫌いだったのだ。

「あくまでも、発明家というのは、そのすべてが、自分の手で、開発されなければならない」

 ということを考えていて、開発後、国家に徴収され、いかに営業にかけられようとも、

「開発は自分たちがしたんだ」

 ということさえ証明されていれば、文句があるわけではない。

 というのも、一つのことを開発したというところで、とどまっているような性格ではない。

「一つのことができれば、次に向かう」

 という意思が強くなる。

 つまり、

「開発がうまく行った時が一番の有頂天であり、今なら何でもできそうだ」

 という自分への自信が溢れているので、

「一番やる気が漲っている時なのだ」

 ということになるだろう。

 だからこそ、

「開発したものを、いかに国家が扱おうとも、それはすでに、過去のことになるのだ」

 ということであった。

 そういう意味では、前述の竹中も、今回のお話である湯川という人物も、基本的なところで同じなのだ。

 磁石においても、

「同じ極であれば、反発し合う」

 というではないか。

 同じ性質や、特性を持っているのは、それだけ、個性が強く、反発がハンパないといえるのではないだろうか。

「湯川博士と竹中博士」

 同じ目的をもって研究をしていたのだが、決して、二人を一緒にしようとは、関東軍は考えていなかtった。

 前述のように、

「反発し合う」

 というのも、その理由なのだが、それだけではない。

 二人をまったく一緒にしないというのは、それぞれの最初が同じところから来ているということであった。

 それぞれへの課題は、それぞれに話をしている。

 しかもその時に、

「君以外にも、同じような発想にて、研究を任せている」

 ということを敢えて言っていたのだ。

 ここには、二つの理由があり、一つは、

「お互いに、けん制し合うことで、新しくできるものが、洗練されたものである」

 ということを目指したからだ。

 もう一つの考え方としては、

「一つのものだけではなく、二つを同時に研究させることができれば、一つがダメでも、もう一つを使うことができる」

 という考えであった。

 どちらも、

「二人を競わせる」

 ということの典型的な理由というものであり、それによって、

「モチベーションを高める」

 ということができ、出来上がったものが、

「さらに高みを目指せる」

 ということであった。

 高みを目指す」

 というのは、

「上に限界がない」

 ということであり。

「彼らのような科学者が、一般人と違うというのは、ここにある」

 といえる。

 一般人であれば、高みを目指すというと、まず、

「下を見てしまう」

 といえるだろう。

 下を見ると、ある程度、下が見えないところまできたことで、自分に自信が持てるのだが、今度は上を見ると、そこには、何もない空しか広がっていない。

 だから、

「いくら目指しても、空の向こうには、何もない」

 ということになる。

 これは、堂々巡りを繰り返しているようで、

「やればやるほど疲れてくる」

 ということになり、必ずどこかで挫折をすることになる。

 それでも、

「あくまでも、目的は一つ」

 ということであれば、継続できるのだが、そこで、いろいろ考えると継続は無理になるのだ。

 しかし、これが、学者肌で、さらに、天才肌の人間であれば、

「上を見た時、一般人には見えない何かが見える」

 という。

 それが、目的物だということが分かるので、継続もできるし、その都度力も湧いてくるというものだ。

 それが、ここで登場する、

「湯川博士」

 であり、

「竹中博士」

 ということになるのだろう。

 しかも、二人が見えている光景というのは、それぞれ別なのだが、ただ。見ているものは、同じものなのであった。

 それが何かというと、

「月」

 というものであった。

 月というものは、いろいろな現象や恩恵を、与えてくれる。

 例えば、前述の、

「女性の月経」

 と言われるものも、その一つである。

 そして、

「海の潮の満ち引き」

 というのも、月の引力によるものだというではないか?

 また、

「超高速で、地球が自転する」

 あるいは、

「海洋生物の多様性が失われる」

 などという、

「もし、月がなくなったら」

 ということで、言われていることもあると言われるのも事実であった。

 これらは、

「一つの現象から、考えた、いろいろな可能性」

 ということであり、その原点となるものが、

「潮の満ち引き」

 というものである。

 つまりは、

「潮の満ち引き」

 というものが、月の引力によるものであるから、その引力がなくなるわけだから、地球を引き付ける月がなくなれば、地球はその抑えがなくなり、自転も高速になるというわけである。

 そして、自転が早くなると、地表で嵐が起こり、それによって、潮の満ち引きがないのだから、干ばつというものがなくなる。

 そうなると、プランクトンなどの海の生物の種類も、減るということになるのだ。

 まるで、

「わらしべ長者」

 のような発想であるが、

「一つの垣根や結界がなくなると、抑えが利かなくなる」

 というのは、当たり前のことであろう。

 そもそも、

「月というのは、人間を活性化させる」

 と言われている。

 それが、女性の月経に関係しているのだとすれば、何か理屈に合うことも出てくるだろう。

 よく言われることとすれば、

「出産率が高い」

 ということも言われている。

 つまり、

「子供が生まれる日は、満月が多い」

 ということだ。

 昔から言われていることとして、

「犯罪が起こるのは、満月が多い」

 とも言われているが、普通なら逆ではないだろうか?

 満月は、新月と違って、明らかに明るいのだ。足元から影も伸びているし、何かの犯行を犯したとすれば、一番発覚しやすいということになるはずなのに、そうではなく、

「一番犯罪が起こる確率が高い」

 ということになるのだ。

 それを思えば、一体どういうことになるというのか?

 考えれば実に難しいことである。

「月と、人間」

 あるいは、

「月と地球」

 という関係は、

「太陽」

 のそれとは、かなり違っているものではないかということであろう。

 そんな中で、

「月」

 に関係のある

「エピソード」

 として、一つ考えられるのが、

「オオカミ男」

 の話であった、

 前述の、

「ドラキュラ伯爵」

 の話としては、血液という意味での繋がりがあった。

 ドラキュラというのは、吸血鬼であり、血を吸われた人間は、、吸血と化すということであった。

 この話の元になっているのは、

「蚊」

 というものえはないだろうか?

 蚊は、刺されると、人間の血を吸う。そして、吸われた血の代わりに、蚊が持っている毒素を、相手の身体に注入するという。

 だから、痒いと感じるのであり、その蚊によって、伝染する深刻な病気が多いということである。

「マラリア」

 であったり、昔存在していた、

「日本脳炎」

 なども、蚊が媒体になっているということを聞かされたというものである。

 そんな蚊というのは、いろいろなところで、

「人間にとって、兵器として利用される」

 ということが、未来である今の世界では言われている。

 もちろん、

「731部隊が存在した」

 というこの時代においては、

「生物兵器」

 として、研究されていたに違いない。

 さらに、もっといえば、今の時代では、

「ステルス」

 というものに使われている。

「ある一定の年齢の人間には聞こえない」

 ということで、研究されている、

「モスキート音」

 というのは、蚊の飛ぶ音のことである。

 実際、

「レーダーに引っかからない」

 と言われる、

「ステルス機能」

 に応用されているということから、

「蚊というものには、まだまだ、人間が利用するに値するものが潜んでいるのかも知れない」

 ということで研究している人も多いのだ。

 何と言っても、

「血を吸う」

 ということが、

「いかに人間というものを惑わせるようになるのか?」

 ということが分かっているのか、

「吸血鬼ドラキュラ」

 というものが書かれた時代には、もうすでに、蚊の毒というものが、人間に及ぼす害というものの存在を証明していたのではないかと思うと、

「実に、蚊と人間のかかわりというものが、神秘的なものだったのか?」

 ということが分かるというものである。

「蚊と人間のかかわり」

 それは、言わずと知れた、

「血液の問題」

 であり、それがさらに。月というものを想像させると考えると、やはり、

「月というものは、人間にとって、神秘的なものだ」

 といえるものなのかも知れない。

 そんな月の話において、

「オオカミ男」

 というのが、なぜ出てきたのか?

 昔から、

「オオカミのような人間」

 という発想はあった。

 中には、

「オオカミに育てられた人間の子供」

 などという発想の話があったのを何となく覚えているが、そのシチュエーションがどういうものだったのかというと、正直ピンと来なかったりする。

 オオカミ男」

 などの話がどこから起こったのか?

 というのも。難しいところである。

 確かに、

「オオカミという動物は、月に吠える」

 というイメージがあるが、そこから来ているのか、それとも、オオカミ男のような伝説が起きる時というのが、

「満月の時に多い」

 ということなのだろうか?

 そのどちらも、完全な信憑性はないまでも、

「まったく火のないところに出てきた煙」

 というわけでもないようだった。

 ただ、

「人狼」

 であったり、

「半狼半人」

 であったり、さらには、

「オオカミに憑依する」

 というような話が取りざたされているのだが、

「オオカミ男」

 の話ということになると、最後の、

「オオカミに憑依する」

 というものであろうか。

 満月の夜になると、人間が苦しみだして。オオカミの顔や身体に変身するというのは、ある意味、

「吸血鬼ドラキュラ」

 と、似ているところがあるのかも知れない。

 特に、吸血鬼に血を吸われた人間は、そのまま死ぬのではなく、吸血鬼になってしまうということで、こちらも、考えていれば、

「人間の姿だったものが、血を吸われたことで、吸血鬼に変身する」

 ということだ。

 どちらにしても、

「変身ものである」

 ということには変わりはないのだ。

 この発想は、元々、アメリカで、ちょうど、大東亜戦争下の頃に、公開された映画で、

「満月の夜にオオカミ男に変身し、自分の意思に関係なく。殺人を犯していく」

 というような話だということである。

 今から。80年近く前にあった話であるが、当時は、ドラキュラや、フランケンシュタインなどの話と一緒に、

「ホラー映画の傑作」

 と言われていたようだ。

 何となく。ドラキュラの話と似たところもあり、そのあたりは興味深いということになるのだが、話としては、

「ホラー、オカルト、ゴシック系の話は、結構昔からあったのだ」

 と思うと。そこに、

「心理学的な話」

 というのが関わってくると、今の時代であれば、精神疾患などの問題に密接にかかわってくるものもあるのではないだろうか?

 そんなオオカミ男という発想は、湯川博士を夢中にさせた。

 竹中博士が、

「吸血鬼ドラキュラ」

 というものの中に、

「不老不死」

 というものを見出し、

「それが人間ではなく、サイボーグとして使えるようになれば」

 という発想を抱いたことに対して、この湯川博士は、

「オオカミ男」

 という発想に、自分が作り上げる薬品を使って、

「ロボットのような肉体を持てる」

 という発想を持つことで、今度は、

「その力というものが、月によるものであり、さらには、血液を使うことが必要だ」

 というところまで気づいたのだ。

 湯川博士の開発していたことは、それから20年近く経った時に、アメリカのSF作家によって、提唱されるようになったのだが、それ以前から、ロボット開発において、その人工知能であったり、電子頭脳と呼ばれるものの開発に何が引っかかってくるのかということを、この湯川博士は、分かっていた。

 その一つとして、問題になるのが、

「フレーム問題」

 であった。

 湯川博士は、科学者であり、SF作家ではない。

 しかも、まだ当時は、ロボット工学という考え方は、正直表には出ていなかった。

 というのは、

「表に出ていないだけで、考えられることではあった」

 というだけ、日本における、科学というものは、世界水準を超えていたといってもいいかも知れない。

 悲しいかな、それを戦争に使用しようとする目的が明らかであったことで、

「自由場発想」

 というものが許されなかった。

 特に、湯川博士や、竹中博士たちが研究することは、あくまでも、

「戦争に勝利」

 するための科学力の利用でしかなかったのだ。

 世界を震撼させたゼロ戦の開発などが、そのいい例であっただろう。

 世界水準を超えた戦闘能力を持ったゼロ戦であったが、その性能を出すために、犠牲になったのが、

「安全性」

 というものであった。

 打たれて、相手の弾が当たってしまうと、その薄い機体では、あっという間にやられてしまう。

 相手はその弱点を知らない間は、

「ゼロ戦と、ジェット気流に遭遇した時は、迷わず逃げろ」

 と言われていたくらいなので、戦わずして逃げるというのが相手の作戦だった。

 しかし、それは考えてみれば、日本軍がしなければいけないことだったのだ。

 ゼロ戦の操縦は難しい。

 というのは、極限まで戦闘に特化した機体なので、その軽さであったり、不安定さというのは、パイロットが熟練でなければ、その特化した機体を操ることはできないのだ。

 だから、どんなに優秀な機体であっても、パイロットが優秀でなければ、

「操縦はできない」

 ということになる。

 そうなると、一番の問題は、

「熟練のパイロットを失ってはいけない」

 ということであり、それがうまくいかないと、ゼロ戦というのは、ただの箱になってしまうのだった。

 特に、艦載機なので、空母の甲板にいるところをパイロットごと、飛び上がる前に、攻撃されれば、ひとたまりもない。燃料が誘爆して、空母ごと、乗組員もろとも、海に沈んでしまったのだ。

 この時、物理的に失った機体や空母よりも、ゼロ戦に関しては、

「優秀なパイロット」

 を失ったことで、大東亜戦争の戦略的な優位が、完全に逆転したということだったのである。


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