【完結】寒椿(作品240421)

菊池昭仁

寒椿

第1話

  

             一生を終えるその瞬間まで

             人生の結末を知ることはない



 停滞している温帯低気圧の影響で、だらだらと長雨が続いていた。

 月曜日の飲み屋街は人も疎らで、ヘッドライトに照らされた雨が、キラキラと輝いていた。

 雨に濡れた、スナックのくたびれた電飾看板が、夜の地方都市の哀愁を滲ませていた。


 19時半。

 仕事を定時で切り上げた私は、月曜日のルーティーンを始めた。


 女房の由紀子とは7年前に死別して、ふたりの娘はそれぞれ結婚して家を出て行った。

 ハウスメーカーの支店長になって23年、すでに欲はなく、会社から与えられたノルマだけを無難にこなし、それ以上の成果を求めることはしなかった。

 仕事、仕事に明け暮れた人生。私は妻の由紀子を看取ってやることさえ出来なかった。



 病院に駆けつけると、私は娘たちから激しく罵倒された。


 「こんな時にも仕事なの! お父さんのバカ! ママは、ママはね、もう死んじゃったんだよ!」

 「ママがかわいそうだよ。何でもっと早く来てくれなかったの?」


 そう言って、娘の彩子と遥は私を責めた。

 私はまだ温かい由紀子の頬に触れ、号泣した。



 

 27才で結婚し、私は狂ったように働いた。

 30歳の最年少で支店長になった。

 異例の昇進ということもあり、周囲からは嫉妬まれ、また同時に尊敬もされた。

 1年間で休んだのはたったの二日だけだった。

 

 子供の日と娘たちの誕生日。

 盆もクリスマスも正月もなく、私は働いた。

 家に帰るのはいつも日付が変わってからだった。

 帰宅して風呂に入り、寝るだけの毎日。

 会社からは表彰され、収入も増えたが、私は籠の中に入れられたハムスターのように、毎日必死に鉄輪を回し続けていた。


 女房たちの念願だったマイホームも建て、生活は豊かにはなったが、その家には夫の私も、父親の私も不在だった。  

 その家は「母子家庭」になってしまっていた。



 だが今では「働き方改革」とかで、22時になるとオフィスは自動的に消灯になり、本社とのパソコンのオンラインは遮断された。

 完全週休二日制が鉄則で、余った有給休暇は必ず消化せよと、人事労務から勧告までされる。

 ラクな時代になった。

 そして仕事に面白味もなくなってしまった。


 住宅の営業マンの報酬はいいが、それなりにノルマはキツイ。

 数千万円の住宅は、そう簡単に売れるものではない。

 3カ月で1棟の契約もなければ、会社から退職勧告が申し渡されてしまう。

 年4件の契約は必達だった。

 営業本部から課されたノルマで身体や精神を患う者もいた。

 同僚の支店長は展示場で首を吊った。

 

 住宅営業マンの離婚率は高く、不倫に走る者も少なくはない。

 自分に保険まで掛けて組む、数千万円という住宅ローンの重圧。

 顧客からすれば、家づくりは自分の人生を賭けた真剣勝負だ。

 その顧客の多岐に渡る要望に応えようとすれば、時間などいくらあっても足りはしない。

 そんな営業マンの労苦もお構いなしに、自分本位に浴びせられるクレームやトラブルの数々。

 言った言わないの虚しい遣り取りもある。


 それでも家が完成して、「やっぱり大森さんに頼んで本当に良かったわ」と言われると、すべての苦労が吹き飛んでしまい、またこの仕事を続けてしまうのだ。

 その繰り返しだった。

 岩槻の自宅は長女の彩子が自分の家族と一緒に暮らすことになり、私は福島の小名浜に単身赴任をしていた。



 行きつけの『葵寿司』は雨の月曜日ということもあり、お客は私の他に中年のスーツ姿の男がひとり、カウンターの隅で酒を飲み、大将と話していた。

 大将と女将はいつものように私を温かく迎えてくれた。


 「いらっしゃい大森さん! よく降るねー、いつものでいいかい?」

 「それでお願いします」

 「ハイきた!」


 私は女将の出してくれた生ビールを、喉を鳴らして一気に飲み干した。


 「大森さんはいつも美味しそうに飲むわねえ」

 「女将、お替り」


 私は空になったジョッキを女将に向けて見せた。


 「一杯目のビールは堪えらんねえよなあ?」

 「この一杯のために働いているようなもんですからね?」

 「その旨いビールには地元「目光り」の唐揚げと、ヒラメのお造りだよな?」

 「あとドブ漬けもお願いします」

 「あいよ」



 鮨をいくつか摘まんで腹を満たした私は、傘を差して鈴子ママのスナックに、水溜まりを避けながら夜の街を歩いてた。



 スナック『潮騒』はボックス席が4つあり、スナックとしては少しゆったりとした店だった。

 店の内装は昭和の匂いが色濃く残る、壁には海老茶色のビロードが貼られ、常連客は漁師や港湾労働者が多く、カラオケも演歌歌謡が中心の店だった。


 

 「こんばんは。これ少しだけどおみやげ」

 「あらいらっしゃい大森ちゃん! いつもありがとう!

 また『葵寿司』で食べて来たのね?

 茜ちゃーん、大森さんからお寿司の差し入れよー。

 一緒にいただきましょう」

 「大森さん、こんばんは~。私、お寿司大好き!」


 茜は次女の遥と同じ、23才だった。

 週末はいつも鈴子ママを入れて4人で店を回していたが、平日は茜と鈴子ママのふたりだけだった。


 茜が作ってくれた水割りを一口飲んだ時、店のドアのカウベルが鳴った。



 「おはようございます。椿という流しの演歌歌手です。一曲いかがですか?」

 「ごめんねー、今日はお客さん一人だけなのー、また金曜日にでも来てみたら?」


 鈴子ママは私に気を遣い、その演歌歌手をやんわりと断わってくれた。


 「1曲でいいんです! 1曲1,000円で歌わせて下さい! お願いします!」


 大きな花柄のワンピースが、傘の雫で濡れていた。

 ストッキングには泥ハネもあるようだった。



 「じゃあ1曲やってもらおうか?」

 「あら、やさしいお客さんで良かったじゃない?」

 「ありがとうございます! 何を歌いましょう? どうぞリクエストして下さい!」

 「北島三郎の『兄弟仁義』はどうだ? 歌えるか?」

 「はい! ぜひ歌わせて下さい!」


 (女でこの歌を歌いこなせるのは藤圭子しかいない。

 果たしてカネを払うだけの価値のある歌手なのか?)


 私は然程、期待はしていなかった。

 雨の中、場末のスナックを回り続けるこの流しの女に、若い頃の自分を重ねてしまい、同情しただけだった。

 この歌は歌い手の技量を測る、リトマス試験紙のような物だった。



 イントロが流れ始めた。

 すると驚いたことに、この女は藤圭子の歌う前セリフをしっかりと語り始めたのだ。

 セリフの間合いといい、それを語る演技はある意味、歌よりも難しい。

 彼女はそれをさりげなくあっさりとこなした。



     花は七色 人間十色

     顔は違えど 心はひとつ



 そして椿は歌い始めた。



     親の血を引く 兄弟よりも

     堅い契りの義兄弟・・・


           (作詞:星野哲郎)

           



 鳥肌が立った。

 酒とタバコ、歌いすぎてのハスキーボイス。

 それだけではない、彼女の歌には女の切ない情念が込められていた。


 好きな女を捨て、義理のある親分のために見知らぬ人を切る、男の苦悩と切なさ。

 歌詞の情景が目に浮かび上がって来る。


 この曲は作詞家の星野哲郎がレコード会社を移籍することになり、北島三郎に挨拶に訪れた際、


 「俺たちは義兄弟じゃねえか」


 と言って、北島三郎も一緒に移籍をしたというエピソードに着想された歌詞だと言う。

 まさに『兄弟仁義』なのだ。

 損得で義理を欠かない北島の侠気があった。



 私たちはすっかり椿の歌声に魅了されてしまった。

 それが流しの演歌歌手、椿との出会いだった。 




第2話

 椿が歌い終わっても、私たちは拍手をするのも忘れてしまっていた。

 それは拍手を忘れるほどの歌声だったからだ。


 「凄いわ椿ちゃん。流石はプロね?

 ここのお粗末な音響設備でこれだけ唄えるなら、本物の音楽ホールで歌ったら、みんな泣いちゃうかも」

 「ありがとうございます。よろしければCDもありますのでいかがですか? 一枚1,000円になります」

 「いいよ、10枚買ってやるからもっと歌ってくれ。もちろん別料金でカネは払う」


 私が水割りを飲み干すと、すぐに茜が水割りを作ってくれた。

 私はメンソール煙草に火を点けると、椿に歌のリクエストをした。


 「次は『津軽海峡・冬景色』を歌ってくれ」

 「はい、私も大好きです! 石川さゆり先生のこの曲」


 椿が決意を込めてマイクを握った。

 懐かしいイントロダクション。冬の津軽海峡の景色が目に浮かぶ。

 死んだ妻の由紀子は山口百恵しか歌わなかったが、石川さゆりの『津軽海峡・冬景色』だけはよく歌っていた。

 まだ赤ん坊だった彩子を背負い、洗濯物を干しながら口ずさんでいた歌だった。

 私は由紀子を思い出して泣いた。


 

      上野発の夜行列車 降りた時から

      青森駅は雪の中・・・


               (作詞:阿久悠)



 そしてこの歌にはもう一つ、思い出が沁み付いていた。

 それは私が大学生の時、3つ年上の人妻、真由美と別れ、傷心旅行に北海道へと向かう青函連絡船で見た、冬の津軽海峡の思い出だった。

 船のデッキに出た私は、頬に横殴りの吹雪を受け、海峡の海にはウサギが跳ねるような白波が立っていた。

 歳月は私を待つことなく過ぎ去って行った。


 ひとつの恋が終わる度に、愛が崩れ去っていく度に、演歌が俺の心を締め付ける。

 大人になるということは、演歌の歌詞が理解出来るようになるということなのだ。


 昭和の演歌歌謡には作詞家、作曲家、そして歌手の壮絶な人生が重ねられている。

 様々な苦悩や哀しみが曲に深みを与えているのだ。

 今、演歌、歌謡曲離れが進んでいるという。

 古臭い、ダサいと若者たちは演歌を嗤う。

 そして私たち、昭和生まれの人間も同じだ。

 歳を取るほど若者に迎合しようとする老人たち。実に滑稽だ。

 これ見よがしにスマホを操作し、ジーパンを履き、キャップを被ってユニクロを着る老人たち。

 年寄りには見られたくない。俺は、私はまだ若いと見栄を張る者たち。

 最近のメロディー重視の軽い曲には詩が不在の物が多い。

 だからすぐに廃れてしまい、記憶からも消え去ってしまうのだ。

 歌は歌詞があってこその歌だからだ。

 このわずか5分程度の楽曲の中に、人生ドラマが凝縮されている。

 演歌に限らず、歌は心の叫びなのだ。

 音楽は心から奏でられ、心に戻って心に刻まれてゆく。

 甲本ヒロトも桑田佳祐もユーミンも、そして尾崎豊や矢沢永吉も、詩が聴く者の心臓を鷲掴みにするのだ。

 頬に鳥肌が立ち、落涙が生じるのだ。

 そしてその歌詩を、曲を、その歌い手が自分以外には歌わせまいというプライドがなければならない。

 それが本物の歌手というものだ。

 他の歌手に、ましてや歌の上手い素人にカバーされても違和感がなければ、それは本物の歌手の歌曲ではない。

 美空ひばり、吉幾三、小林旭に裕次郎。中森明菜も松田聖子も山口百恵の歌も、決して他の歌い手ではカバー出来る物ではない。

 彼らこそ、本物の歌い手なのだ。




 椿は石川さゆりを完全に超えていた。

 歌い終わると椿が言った。


 「お客さんも演歌がお好きなんですか?」

 「この歳になってようやく、演歌の良さが分かるようになって来た。

 椿は演歌しか歌わないのか?」

 「聖子ちゃんとか、百恵ちゃん、明菜ちゃんも歌いますよ。

 あと髯ダンとか米津玄師、JUJUや西野カナとかも。

 でも私には演歌が合っていると思っています。もう若くはありませんから」

 「あなたの歌には女の情念とか哀しみ、嘆きに嫉妬、苛立ち、恨みや独占欲、我儘が根底にある「艶歌」だ。

 そこがいいと俺は思う」

 「そうですか? うれしいです、「艶歌」だなんて言っていただいて。

 でも私はいたって普通の人間なんですけどね?」


 椿が笑った。


 「褒めているんだよ、椿がそう言う人間だとは言ってはいない。

 そういう表現が出来る歌手、つまり歌詞をよく理解しているということなんだ。

 それを歌える演歌歌手はそうはいない。

 椿の身体の半分は、演歌で出来ているのかも知れない」


 椿はまた、照れるように笑ったが、その笑顔はすぐに消えた。


 「お客さんは『津軽海峡・冬景色』に何か思い出でもあるんですか?」

 「若い頃、失恋をして津軽海峡を渡ったことがあるんだ。青函連絡船に乗って。

 冬の津軽海峡は凍てつくような寒さだった。その冷たさ、悲しさは今も忘れることはない。

 もう彼女の顔は思い出せなくなってしまったが、あの吹雪の海を進む、連絡船の事は忘れられないよ」

 「私は別れた夫に会うために津軽海峡を越えました」

 「アンタの歌を聴くと、冬の津軽海峡と、そこで海峡を見詰め、涙を流している石川さゆりの姿が目に浮かぶようだ。

 小名浜にはいつまでいるんだ?」

 「需要が無くなれば、また次の場所へと移動します。

 次は仙台の国分町か? 郡山を考えています」

 「じゃあその間はビジネスホテルとかに宿泊するの?」

 「クルマの中が多いですね? お金が勿体無いんで」


 私は財布から椿に5万円を渡した。


 「こんなにいただけません! まだ2曲しか歌っていないのに」

 「いい歌だった。あとは「おひねり」だ。

 明日はゆっくりと湯本温泉にでも浸かってウマい磐城の魚でも食べろ。

 また椿に会うことが出来たら、今度は『銀座の恋の物語』を一緒に歌いたいなあ。

 ママ、お勘定」

 「あらもう帰っちゃうの?」

 「明日は朝から会議なんだ」

 「これから小名浜のソープに行くなら私と茜が相手してあげてもいいわよ、タダで」

 「あはははは その時はお願いするよ、5万でどうだ?」

 「6万円にしてよ。3万円ずつ仲良く半分こにするから」

 「えーっ、私が4万円でママが2万円でしょ? 私、若くてピチピチだもん」

 「馬鹿ね、テクニックでは私の方が上よ」

 「あはは 畏れ入りました!」

 「あはははは」

 「じゃあママ、茜ちゃんおやすみ。ありがとう椿、またいつかな?」

 「おやすみなさい、大森さん」

 「大森さん、お寿司ごちそうさまでした!」

 「ありがとうございました。「銀恋」のデュエット、楽しみにしています!」


 私はそのまま店を出た。

 きれいな満月が海に浮かび、月への「銀の道」が続いていた。




 「ママさん、さっきのお客さんは?」

 「大森さんって言ってね? いわきのハウスメーカーに勤めているみたい。

 いつも月曜日にお店に来るから、いわきに来たら寄ってみたら?

 それから金、土は忙しいから営業しに来てもいいわよ。

 私も椿ちゃんの歌、また聴きたいから」

 「ありがとうございます。お世話になります」


 椿は深く頭を下げた。


 「椿ちゃんは偉いわよ。今どき歌一本で食べて行こうだなんて。

 しかも演歌で。尊敬しちゃう」

 「私なんかよりママの方が凄いですよ。お店を持って頑張っているじゃないですか?」

 「私は高校中退の中卒だから、飲み屋のオバちゃんしか出来ないのよ。

 旦那とも10年前に別れたしね? もう男は懲り懲り」


 鈴子ママはそう言って自嘲した。




第3話

 ようやく月曜日がやって来た。

 今週は比較的のんびりとした週だったので長く感じた。



 「支店長、今日の月曜日はいつもの月曜日よりもウキウキしていますね?

 誰かといいお約束でもあるんですかあ?」


 事務員の霧島礼子に冷やかされた。


 「霧島君も早くあがりなさい」

 「もちろんですよ! 今日は旦那とお寿司の日ですから」

 「寿司か? それは良かったね?」

 「小名浜はお魚が最高に美味しいですから。

 そして小名浜の人は気性は荒いですけど、人情に篤いんです。

 私もそうですけど。うふっ」


 礼子は小名浜出身の女子社員だった。


 「そうだったな? 霧島君は情が深い。

 気性は荒いけどな? あははは それじゃあお先に」

 「支店長ひどーい。それ、モラハラですよ。あはははは お疲れ様でしたー」




 いつものように、私はまず『葵寿司』からスタートした。

 帰り際、私は勘定とは別に、女将に1万円を渡した。


 「女将、以前、ウチの女子社員3人でここに来たことを覚えているかなあ?

 そのうちの一人、霧島君という子が今日、旦那さんと一緒にここに来るかもしれないんだ。

 もし食べに来たら、彼女にこれを渡して下さい」

 「ああ、ロングヘアのいちばん美人のお嬢さんですね?

 かしこまりました。ではそのようにさせていただきます。

 喜ぶでしょうね? そのご夫婦」

 「よろしくお願いします」


 すると大将が言った。


 「俺も美人は忘れねえから大丈夫だぜ、大森さん」

 「アンタは女なら誰でもいいもんね?」


 そう言って女将は笑った。


 「それじゃお前は誰でもいい女だったんだな? あはははは」

 「そうだね? あはははは」


 ふたりとも笑っていた。

 私は急々と『潮騒』へと向かった。

 もしかするとまた、椿に会えるかもしれないと。

 



 「大森さんはいい上司だよね? 部下への気遣いも忘れないなんて」

 「あんな上司なら俺も働きてえよ。

 大森さんくれえだよ、「領収書くれ」なんて無粋なことを言わねえ人は」

 「会社のお金を胡麻化して飲み食いして、美味しいのかしらね?」

 「馬鹿野郎、それくらいしねえと割りが合わねえんだよ。

 サラリーマンは楽じゃねえからな?」


 大将と女将がそう話していると、そこに霧島たち夫婦がやって来た。


 

 「こんばんはー」

 「あら、大森さんのところの社員さんよね? 霧島さんでしたっけ?

 大森さん、今帰ったところなのよ。

 「霧島さんという社員さんが来たら、これを渡して下さい」っておっしゃって、ハイどうぞ、福沢諭吉さん」

 「えっ、支店長がですか?」

 「今どき珍しいよな? あんな上司。

 さあ、ジャンジャン食べてくれよな? どんどん握るから」

 「大森支店長はいつもそうなんですよ。何でも先回りしてスマートにこなす人なんです。

 社員にも、お客さんにも業者さんにも心配りを欠かさない人なんです。

 言わなきゃ良かったなあ、お寿司を食べに行くなんて。

 気を遣わせちゃったみたい」

 「後で何かお礼をしなきゃな?」

 「うん」




 『潮騒』の店の前に立つと、椿の唄が聴こえた。

 嬉しかった。

 私は静かにドアを開けた。


 俺を手招きする鈴子ママと茜。

 マイクを持ったまま、椿が目で会釈をした。


 先週は給料日前の雨の月曜日で閑古鳥が鳴いていたが、今日は漁師らしき男たちが4人で飲みに来ていた。

 椿が唄い終わると指笛を鳴らし、椿に拍手喝采を浴びせた。


 

 「いやあー、やっぱり椿ちゃんの歌は最高だ!

 俺の嫁さんにしたいくらいだぜ! あはははは」

 「何言ってんの山ちゃん、あんなにきれいな奥さんと、かわいい子供が3人もいるのに」

 「離婚するよ離婚! あはははは」

 「すごいなあー、漁に出た時に寄港した、ワイキキのクラブ歌手より凄えよ!」

 「三郎! お前、誰と比べてんだ? このスケベ! がはははは」



 私がカウンターに座わり、おしぼりで手を拭いていると隣に椿がやって来た。


 「先週はありがとうございました。

 いただいた分、今日、たっぷりと歌わせて下さいね?」

 「良かった。もう小名浜から他に移ってしまったかと思ったよ」

 「椿ちゃんに金曜日と土曜日も来てもらって、お店も繁盛して助かっちゃった。

 良かったわね、椿ちゃん? また大森ちゃんと会えて」

 「ママさんには感謝しています。

 大森さん、今日は来てくれないか心配しちゃいました。

 またお会い出来て、凄くうれしいです」


 すると今度は老人がひとりでやって来た。


 「おお、いたいた椿ちゃん。

 今日は都はるみを頼むよ」

 「わかりました。

 では相良さん、歌わせていただきますね?」

 「おう、頼んだぞ。

 じゃあ、はるみちゃんの『北の宿から』な?」

 「ハイ、わかりました」

 

 この曲も椿は完全に自分の物にしていた。

 椿が歌うと、『北の宿から』をどの歌手が歌っていたのかさえ忘れてしまうほどだった。




 午前零時になると、いつの間にか客は私だけになっていた。

 

 「少し休んだらどうだい? ママ、何か椿に作ってあげてよ。

 もちろんママと茜ちゃんもどうぞ」

 「ありがとう、大森ちゃん。

 椿ちゃんは何がいい? でもクルマだからお茶かジュースよね? コーラもあるけど?」

 「じゃあウーロン茶をごちそうになります」


 グラスを持つ着物の袂からすらりと伸びた白くか細い腕。

 マイク一本で生きている、椿の切なさが伝わる。



 「いつも火曜日がお休みなんですか?」

 「そうだよ、火曜日と水曜日が休みなんだ」

 「いい奥さんですね? 毎週外で飲ませてくれるなんて」

 「独身なんだよ、俺は。

 女房は7年前に死んだんだ」

 「そうだったんですか? ごめんなさい、余計なことを言ってしまって」

 「いいんだ、俺も歳だからな?

 そのうち俺もあっちに行くよ」

 「そんなこと言わないで下さい! 長生きして下さい!」

 

 めずらしく椿は語気を荒げた。

 

 「一緒に歌ってくれるか?」

 「もちろんです。『銀恋』でしたよね?」

 「覚えていてくれたんだね?」

 「うふっ 当たり前ですよ」



 鈴子ママが私と椿の前にマイクを置いて、『銀座の恋の物語』のカラオケを入れた。

 裕次郎と牧村旬子のデュエットソング。


 


   心の底まで しびれる様な

   吐息が切ない 囁きだから

   泪が思わず 沸いてきて

   泣きたくなるのさ この俺も・・・


             (作詞:大高ひさを)



 「大森さんって歌、お上手なんですね?」

 「上手くはないけど好きだよ、歌は。

 イヤなことも忘れて、スッキリとした気分になるからね?」

 「もっと歌いましょうよ」

 「そうだな? 歌おう」



 私たちは『愛が生まれた日』や『ロンリーチャップリン』などを歌った。


 

 「今日はとても楽しかったよ。

 じゃあまた、会えるといいな? 椿と。

 ママ、お会計して下さい」

 「はーい」

 「椿、元気でな?

 年末の紅白歌合戦、いつか出られるといいな?」

 「またどこかで会いたいです。大森さんと」

 「これ、餞別だ」


 私は椿に3万円を渡した。

  

 「いただけません、こんなに!

 先日もいただいたばかりだし」

 「いいから貰っておきなさいよ、大森ちゃんの気持ちなんだからさあ」

 「投資だよ、椿が大スターになったらメシでも奢ってくれればいい。

 楽しみにしているよ」

 「それじゃあご厚意に甘えて遠慮なく、ありがとうございました」


 椿は大事そうに紙幣を抱いた。




 店を出て歩き始めると、携帯番号くらいは交換しておけば良かったと後悔した。

 すると、


 「大森さーん!」


 椿が私を走って追いかけて来た。


 「あのー、一緒にラーメン食べに行きませんか? はあはあ

 ママから美味しいお店を聞いたので」



 その夜、私たちはラーメンを食べ、椿は私のマンションに泊まった。




第4話

 「着物の帯を解くなんて、久しぶりだ」

 「私も男の人とこんなことをするのって久しぶり」


 私はゆっくりと慎重に椿の帯を解いていった。

 着物は彼女の商売道具だから、汚したり傷付けるわけにはいかない。

 ゆっくりと着物を脱がせ、椿を肌襦袢だけにした。


 濃厚な余裕に満ちた大人同士のキスをした。

 私と椿はベッドへ移動した。


 「襦袢だから布団の方が良かったか?」

 「早くしたいからこのままでいいわ。

 布団敷くのは面倒だから」


 私たちは笑った。

 襦袢を脱がすと椿は白いTバックを履いていた。


 「ノーパンかと思ったよ」

 「ノーパンの方が良かった?」

 「いや、この方がいい。椿の綺麗な尻が引き立つからな?」

 「ありがとう。お尻には少し自信があるんだけど、胸がないの」

 「俺はこの方が好きだよ。形のいい胸だ」


 私は椿の乳首を甘噛みし、舌で転がしてみた。


 「あん・・・」


 椿はカラダをのけ反らした。

 私はもう片方の乳房を揉みながら、優しいキスをしてそのまま耳に、そして脇の下へと舌を這わせた。


 「くすぐったい」

 「くすぐったいということは、そこが感じやすいってことでもある」

 「そう? でもくすぐったいわよ」

 「それじゃあここはどうだ?」

 

 私は椿の下腹部へと手を伸ばした。


 「うっ、あっ、んっ、あ・・・」

 

 椿の耳元で私は囁いた。


 「洪水になっているよ、ここが」

 「だって、あなたが好きだから」

 「吸ってあげるよ」


 私も服を脱ぎ始めた。

 そして私の身体を見て、椿は自分の口を押えた。

 

 「唐獅子牡丹? 大森さんって・・・」

 「もう足は洗ったんだ。若気のいたりというやつだ。嫌なら止めてもいいぞ」

 「そうじゃないの、とてもキレイな入れ墨だと思ったから。

 私の死んだ夫もね、極道だったの。背中には龍の入れ墨をしていたわ。

 網走に服役していてね? 私は夫に面会するために東京を離れ、網走のスナックで働いた。

 最果ての地、網走で」

 「だから『津軽海峡 冬景色』には情感が込められていたんだな?」

 「彼ね、出所してすぐに殺されちゃったの。

 私の目の前で」


 私は静かにベッドに腰を降ろした。


 「ごめんなさいね、ヘンな話をしてしまって」

 「聞いておいてよかったよ」

 「どうして?」

 「お前に惚れたから」


 椿は俺に抱き付いて来た。


 「私も大森さんが大好きよ。だからお願い、私を抱いて」


 私が椿の足の付け根に顔を移動させると、椿の顔にはペニスが掛かり、椿はそれに手を添えると口に含んでくれた。

 そして淫らな音を立ててそれを上下させた。


 私も椿の大きくなったクリトリスの皮を剥くように、丹念にクンニリングスを始めた。

 私たちはしばらくそれを続け、お互いのカラダを労わった。

 そして傷付いた心も慰めあった。


 挿入することだけがSEXではない。

 セックスとはお互いの快楽を追求し、労わり与え合うことだ。


 ゆったりと熱い前戯を終え、私たちはカラダを合わせた。

 お互いを強く感じられる正常位で、私は定速の律動を繰り返した。


 「はっ、ごめん、なさい、もうダメかも、イキそう・・・私」

 「いいよ、好きな時にイッてくれ」


 私の腕を掴んだ椿の指に力が入り、椿の白いカラダは弓なりになり、ガクガクと震え始めた。


 そして彼女の意識が戻ると、


 「今度はあなたの番、中に頂戴」

 「いいのか? 中に出しても?」

 「うん。今日は大丈夫な日だから」


 私は再び挿入を開始し、椿の中で果てた。

 今度はふたり同時にイクことが出来た。



 「はあはあ すご、く、感じちゃった」

 「俺も年甲斐もなく興奮したよ」

 「いつ足を洗ったの? 極道?」

 「20才の時だ。組長が逮捕されて組が解散したんだ。

 それから基礎工事の職人をしながら夜学に通った」

 「高校は出たんだ?」

 「かろうじてな?」

 「偉いね? 大学まで行くなんて」

 「家の基礎を作っていると、家を作ってみたくなったんだ。それで大学で建築を学んだ」

 「あなたのスーツ姿、似合っているわ」

 「ヤクザには見えないだろう?」

 「背広を着たヤクザはたくさんいるけどね?

 公務員の人とか「先生」と呼ばれる人」


 すると椿はベッドから降りて、妻だった由紀子の遺影の前に立った。

 

 「この人が亡くなった奥さんなの? きれいな人」

 「しあわせにしてやれなかったけどな?」

 「そうかしら? 何だかとてもうれしそうに笑っているけど。

 あなたが撮ったんでしょう?」

 「そうだ」

 「愛してるって書いてあるみたいな笑顔をしているわ・・・」

 「椿は今までしあわせだったのか?」

 「しあわせって言葉なんか、もう忘れたわ」

 「旦那のこと、愛していたんだな?」

 「でも死んだ人はもう私に何もしてはくれないわ。

 こんなふうに抱いてもくれない」

 「ごめんな? 嫌な事を訊いて」

 「ううん、こんなこと誰にも言えないから、大森さんに聞いてもらってスッキリした」


 椿は再びベッドに戻ると私に寄り添った。


 「私ね、福島県の柳津で生まれたの」

 「あの会津のか?」

 「そう、虚空蔵様がある小さな温泉街。

 5歳の時、母親は私を置いて家を出て行った。

 その時のことは今でも覚えている。

 父親は腕のいい大工だったんだけど酒乱でね、いつも私と母はビクビクしていたわ。

 そして地元の高校を卒業するとすぐに、私は新宿のデパートに就職した。

 そして夜、音楽学校へと通った。

 私、歌が大好きだったから歌手になりたかったの。

 母はね、よく私に歌を歌って聴かせてくれた。やさしい母だった。

 そして今では売れないドサ回りの演歌歌手・・・」


 私と椿はそのまま抱き合って眠った。

 お互いの古傷を舐め合うかのように。




第5話

 いつものように私は6時に目を覚ました。

 それは休みの日も変わらなかった。

 休みのない生活が何十年も続いたので、それがいつの間にか習慣になっていた。

 

 熱いシャワーを浴びて髭を剃り、洗面所でシェーブローションをつけていると、椿が肌襦袢でやって来た。


 「おはようございます大森さん。

 私もシャワー、お借りしてもいいかしら?」

 「ゆっくりバスタブに浸かるといい。

 シャワーだけでは疲れが取れないからな。

 今、湯を入れてやるから少し待ってろ」


 私がバスタブに湯を張ろうとすると、椿がそれを制した。


 「ううん、シャワーで十分です」

 「そうか? じゃあ着替えたら朝飯を食べに、小名浜の魚市場へ行こう」

 「うれしい。こんなに早起きしたのは久しぶりです」

 「今、旨い珈琲、淹れてやるよ」

 「はい、楽しみです」


 私は椿にキスをし、洗面所の扉を閉めた。

 椿がシャワーを使う音が聞こえ始めた。



 私は椿が化粧をして出て来るタイミングに合わせて、珈琲豆をミルで挽き、サイフォンの準備をした。

 今日は少し粗目に豆を挽いた。



 長い黒髪をアップにし、薄化粧をした椿が洗面所から出て来た。



 「凄くいいコーヒーの香り」

 「今日は少し深煎りにしたんだ」

 「サイフォンなんてレトロですね?」

 「俺はサイフォンで淹れる珈琲が好きなんだよ。

 アルコールランプを灯して、沸騰した湯が上に上がり、そして珈琲を蒸らしながら落ちて来る。

 これを見るのが好きなんだ。この方が香りもいいしな?」

 「私もペーパーフィルターは好きじゃありません。紙の匂いがして」

 「俺のよく行く喫茶店のマスターはそれがイヤで、ネルドリップに拘っている。

 珈琲は蒸らしも重要だからな?」

 「珈琲、お好きなんですね?」

 「珈琲を淹れるのが好きなのかもしれないな?」


 私は椿と自分の珈琲カップにモカ・マタリを注いだ。

 


 「美味しいです! この珈琲!」

 「そうか? 今朝はモカ・マタリにしたんだ。

 珈琲を飲んだら市場の2階にある、『朝市食堂』に行くぞ。

 刺身が凄く旨いんだ」

 「朝からお刺身なんて贅沢ですね?」

 「下が魚市場だから魚は新鮮なんだ。

 これから行くと丁度空いている頃だろう」


 

 身支度を整え、私たちはクルマで市場へと向かった。


 「お日様が眩しい。少し窓を開けてもいいですか?」


 私はパワーウインドウで助手席の窓を少し開けた。


 「冷たくて風が気持ちいい。

 みんな輝いて見えます。私、夜の女だから」

 

 「夜の女」。椿は自分のことをそう言った。




 小名浜港に近づくと、磯の香りがして来た。


 「あそこが魚市場だ」


 私は駐車場にクルマを停めた。カモメが低く飛んでいた。

 椿は着物姿だったので、


 「階段、大丈夫か?」

 「お姫様抱っこしてくれますか?」

 「いいぞ」


 私たちは笑った。


 朝8時。食堂に人は疎らだった。

 市場で働く人や漁師たちはすでに仕事を終え、食事も終えていた。


 「刺身定食を2つ」

 「ハイ、刺定2丁!」

 

 エプロンに姉さん被りをした仲居が厨房にそれを伝えた。

 お茶を飲みながら椿が訊ねた。


 「よく来るんですか? ここの食堂に?」

 「年に数回だ」

 「朝ご飯なんて何年ぶりかしら? いつもこの時間は寝ているから」

 「お天道様の下で生きるのはしあわせなことだ」

 「そうですね・・・」


 椿は寂しそうに笑った。


 「でも夜に生きる椿だからこそ、いい演歌が唄えるのかもしれない」

 「ありがとうございます。

 私、『紅白』に出られますか?」

 「それは椿次第だろう? 出たいと思えば出られるし、無理だと思えば無理だ」

 「私、紅白に出て母に会いたいんです。

 何処にいるかも分からない母に。

 もう、死んでるかもしれませんけどね?」


 自分を捨てた母親に会いたいという椿。


 

 「おまちどうさまでした。お刺身定食です」

 「美味しそう! お刺身が艶々してとてもキレイ!」

 「それじゃあ食べよう。いただきます」

 「いただきます。うわーっ、こんな美味しいお刺身、初めて食べました!」

 「それは良かった。

 今日はこれから会津に行ってみようと思うんだ」

 「会津ですか?」

 「椿のふる里、柳津を見に行こう。イヤか?」

 「いいえ、うれしいです。でもいいんですか? そんな遠くまで?」

 「高速を使えば大丈夫だ。

 帰りは会津若松や猪苗代にも寄ってみるか?」

 「何だか夢みたいです。ずっと帰っていなかったから」


 椿はそう言って、嬉しそうに朝食を食べていた。

 朝日に照らされた海が、キラキラと銀色に輝いていた。

 船の霧笛が聴こえた。




第6話

 湯本から自動車道に乗り、会津柳津へと向かった。


 いくつもの山間やまあいのトンネルを抜けると、左手に猪苗代湖が見えて来た。


 「何年ぶりかしら? 猪苗代湖を見たのは。

 会津には海が無いでしょう? だからね、こんな笑い話があるの。

 猪苗代湖の広さに感動した幼い子供がね、父親にこう言うのよ。

 「父ちゃん、これが海なんだべ?」って。

 すると父親が言うの、「バカこけ。海はこの三倍もあるんだぞ」

 「海ってそんなに広いんだべか!」って息子が驚くっていうお話。

 でもこうして見ると、なんだが瀬戸内海みたいな気もするわ」


 

 今度は右手に磐梯山が見えて来た。


 「磐梯山だ。どうだ、懐かしいか?」

 「なんだか泣いちゃいそう。磐越西線で田舎を出る時、「必ずまた戻って来ます」と磐梯山に誓ったわ。

 私にとって磐梯山はお父さんで、猪苗代湖はお母さんなのかもしれない」


 

 その時、私は子供の頃のことを思い出していた。

 

 父親はろくでなしで、いつも酒ばかり飲んでいて、母が家計を支えていた。

 私はよくそんな父親から折檻をされていた。

 両親は私が小学校3年生の時に離婚した。

 私と妹は母親に引き取られた。


 妹はまだ幼稚園だった。

 母は私たちを育てるために昼夜ちゅうやなく必死に働いてくれた。

 だがそれで無理を続けた母は病気になり、私たちを残してあっけなく他界してしまった。

 頼る親類縁者もなく、私と妹は施設に引き取られた。

 高校を出た私は施設を出なければならず、妹の幸子とふたりで暮らし始めた。

 必死に働いたが生活は苦しく、このままでは幸子を高校に通わせることが出来ないと考えた私は、施設で一緒だった山崎に相談をした。


 「ヤマちゃん、何かカネになる仕事はないかな?

 妹の幸子を高校に行かせてやりたいんだ」

 「それならいい仕事があるぜ」


 そして紹介されたのが、借金の取り立て屋だった。

 私は金貸しのヤクザになった。


 そもそも闇金からカネを借りる連中はサラ金からも見放された、どうしようもない多重債務者たちだった。

 始めから返済出来る宛など無い。

 そんな人間から「トイチ」や「トゴ」、つまり10日で一割り、10日で五割りの利息でカネを貸す。

 それはまさに乾いた雑巾から水を絞るようなものだった。

 たった数万円のために厳しい取り立てをされ、一家心中をする家族もめずらしくはなかった。

 俺は思った。



     カネを借りる奴が悪いんだ



 そして俺は背中に入れ墨を入れた。

 良心の呵責から逃れるために。


 ほどなくして組は抗争により消滅し、私は妹を連れて富山へと逃げた。

 しばらくは住宅の基礎工事をする職人として働いていた。


 仕事はキツかったが精神的にはラクだった。

 そして次第に建築の仕事に興味を持つようになった私は、夜学の建築学部へと進学した。

 

 大学を卒業して今の会社に営業マンとして入社することが出来た。

 営業は高額の歩合が貰えたからだ。

 二級建築士を取得し、現場経験もあった私はすぐに成績を上げ、最年少で支店長になった。

 私は入れ墨を隠すために夏でも黒の長袖のシャツを着て、その上に長袖のワイシャツとスーツを着ていた。

 忘新年会や社員旅行での宿泊行事には参加しなかった。

 そんな私ではあったが、先代の社長だけは私をかわいがってくれた。


 「大森、人はいつでもやり直せるんだ。

 俺のところで安心して働け」


 そう先代の社長は言ってくれた。

 家を造ることは私にとってまさに「天職」だった。




 やがてクルマは坂下ばんげICで高速を降りると、柳津へ到着した。



       水の柳津 お化粧するときゃ 水鏡



 と謳われるように、柳津は只見川と支流の合流地点になっていた。

 椿は興奮していた。


 

 「あまり変わってないわねえ。

 あっ、あわまんじゅうのお店、小池さんもまだあるんだあ」

 「あわまんじゅう、買って行くか?」

 「うん! 蒸かし立てで凄く美味しいんだよ」


 店の向かいの駐車場にクルマを停め、私と椿は店に寄った。


 「このあわまんじゅうを3箱下さい」

 「大森さん、そんなに沢山買うんですか?」

 「ああ、ひとつは会社に、そしてスナック『潮騒』にな?

 そしてもう一箱は椿、お前にだ」

 「うれしい。ありがとうございます」


 すると店主は私たちに別の蒸かしたての粟饅頭をふたつ、渡してくれた。


 「熱いうちにどうぞ」


 私たちはお茶を貰い、ベンチに座ってあわまんじゅうを食べた。


 「旨いなこれ? 初めて食べたよ」

 「昔はお米は貴重でしたからね? 粟とひえが主食でしたから。

 でも小さくてモチモチして、甘さ控えめの餡が最高ですよね?」


 椿は満足そうに黄色いあわまんじゅうを食べた。




 その後私たちは空海が開山したという圓藏寺、柳津虚空蔵尊などをまわり、椿の生家へと向かった。

 椿の家はすでに更地になっていた。

 椿は呆然としていた。


 その時、老婆に声を掛けられた。


 「椿ちゃんじゃねえのか?」

 「木村のばあちゃん・・・」

 「どうした? 帰って来たのか?」

 「ううん、ちょっと寄ってみただけ」

 「そうかい? もうアンタの家はなくなっちまったけどな?」

 「なんだか淋しいなあ」

 「よかったらお茶でもどうだ?」

 「ありがとう、今日はもう戻らないといけないからまた今度ね?」

 「そうかい? いつでも寄りなよ」

 


 クルマに乗ると椿は言った。


 「あの人、苦手なの」

 「そうか。会津若松で『白孔雀』のソースカツ丼でも食べて帰るか?

 旨いまんじゅうを鈴子ママと茜に食べさせてやりたいからな?」

 「はい」


 私たちは再び高速に乗り、会津若松に向かった。




第7話

 会津若松で高速を降りた。若松と柳津は比較的近い。

 市内をクルマで走っていると、椿が言った。


 「なんだか街の風景がかなり変わってしまって、戸惑うばかりです」

 「昔の会津の方が良かったか?」

 「はい、何だか観光客にびているような気がします。

 どこにでもある観光地みたいで」

 「そうか。理想的には古い物を残しながらの都市開発にしなければならないからな。

 特に会津には幕末の歴史の舞台だからな?

 メシにする前に鶴ヶ城に寄ってみるか?」

 「はい。お願いします」



 

 平日ということもあり、お城は観光客はまばらだった。

 

 「鶴ヶ城は正式には若松城というらしいな?

 鎌倉時代に葦名直盛が東黒川館をその前身として築城し、伊達政宗に葦名が滅ぼされ、その後、藩主が次々と変わり、最期は保科正之、松平容保公となった。

 この追手門から城門へ入ると「皆殺し丸」という物騒な石垣階段がある。 つまりここで敵を迎撃するというわけだ」

 「ここが戊辰戦争の会津戦の舞台になったお城ですからね?」 

 「8月末から9月末までの約1ヶ月間、ここに5,000人以上が籠城したそうだ」

 「1ヶ月も・・・。苦しかったでしょうね?」

 


 俺たちは城の敷地内をゆっくりと散策した。


 「この離れの茶室『麟閣りんかく』は千利休の子供、千道安をここへ招き、秀吉に切腹を命じられた千利休の茶道を絶やさぬようにと蒲生氏郷が建てたものだそうだ」

 「会津藩は千利休ともゆかりがあるんですよね?」



 それから私たちは『荒城の月』の石碑の前にやって来た。


 「土井晩翠作詞、滝廉太郎作曲の『荒城の月』だ。まさに「国破れて山河あり」だな?」


 すると椿は美しい歌声で『荒城の月』を歌い始めた。



        春 高楼の 花の宴

        めぐる盃 かげさして

        千代の松が枝 わけ出でし

        むかしの光 いまいずこ


        秋 陣営の 霜の色

        鳴きゆく雁の 数見せて

        植うる剣に 照りそいし

        むかしの光 いまいずこ


        今 荒城の 夜半の月

        かわらぬ光 誰がためぞ 

        垣に残るは ただかつら

        松にうたうは ただ嵐


        天上 影は 変わらねど

        栄枯は移る 世のすがた

        写さんとてか 今もなお

        ああ荒城の 夜半の月



 会津の栄華盛衰を感じ、私と椿は泣いた。



 しばらく行くと、『椿坂』へ出た。


 「ここが椿坂ですよね?」 

 「そうだ。この坂を制した者が城を制するといわれた坂だ」

 「椿はイサギの良い花ですから・・・」


 椿はそう言って、寂しい横顔を見せた。


 「戊辰戦争では城が開城された9月からその翌年の2月まで、薩長は戦死者をとむらうことを許さず、会津の街には数千もの死体が転がり、野犬や鳥に食われていたそうだ。

 さあ、そろそろ会津名物、ソースカツ丼でも食って帰るとするか?」

 「はい」





 私たちはソースカツ丼の元祖、『白孔雀食堂』へと入った。



 「すごいボリュームですね? 丼の蓋が閉まりませんよ」

 「あはははは 食べ切れない時は持ち帰り出来るから安心しろ」


 

 結局私たちは完食した。


 「ああ、美味しかった。お腹いっぱい。ごちそうさまでした」

 「帰りは寝ていってもいいからな?」

 「運転、代わりましょうか?」

 「大丈夫だ」


 私たちは高速に乗り、帰途についた。

        



第8話

 スナック『潮騒』に粟饅頭をみやげに持ってやって来た。


 「鈴子ママー、これ、大森さんからおみやげです」

 「あら粟饅頭じゃないの! 私、あわまんじゅう大好きなのよお。

 ありがとう。大森ちゃん。柳津に行って来たのね?」

 「大森さんに連れて行っていただきました」

 「天気も良かったから少し遠出したんだ」

 「良かったじゃないの椿ちゃん、何年ぶりなの? 故郷ふるさとに帰ったのは?」

 「もう10年以上前になります」

 「10年といえば一昔だからね? だいぶ変わっていたんじゃないの?」

 「住んでいた家はもうなくなっていました」

 「そう・・・。でも住めばそこが故郷だから。

 この小名浜をふる里にすればいいじゃない?」

 「そうですね? ありがとうございます」

 「茜ちゃん、せっかくだからごちそうになりましょうよ」

 「わあ、粟饅頭大好き!」


 俺たちはみんなで粟饅頭を食べた。



 


  

 その日の土曜日は比較的『潮騒』は閑散としていた。

 給料日前ということもあり、鈴子ママ目当ての漁師がひとりで飲んでいた。

 


 「今日は暇だから、茜も椿ちゃんも上がっていいわよ」

 「今日は給料日前ですからね? それじゃあお先でーす」

 「では私もお先にあがらせていただきます」

 「何だい? みんな帰っちまうのか?」

 「鉄次さん、アタシがいるでしょう? この美人ママが」

 「まあな。それもアリだな?」


 茜があがって椿も帰ろうとした時、『潮騒』のドアが開き、三人の男たちが入って来た。


 「おう、今日は開店休業か?」


 紅鮫組べにさめぐみの小野寺修二組長とその子分たちだった。

 漁師の鉄次はすぐにそれを察知して店を出ようとした。

 紅鮫組は地元では有名な武闘派の荒くれヤクザだったからだ。


 「ママ、チェックしてくれ」

 「あらもう帰っちゃうの?」


 鈴子ママは組長とサシ飲みになるのはマズいと思った。

 『潮騒』は以前から紅鮫組に目を付けられていた。


 「ああ、今日はもうだいぶ酔ったからな? おやすみ鈴子ママ」

 「おやすみ鉄ちゃん。また来てね? 待っているから」

 

 鈴子ママは鉄次を無理に引き留めるのはかわいそうだと思った。

 椿はママをひとりにするのは危険だと判断し、帰り支度を止めた。

 鈴子は椿に目で詫びた。


 (ごめんね、椿さん)


 「随分いい女じゃねえか? 新人か?」

 「はい、椿といいます。お飲み物は何にしますか?」

 「お前がいいなあ」

 「あはははは 私は飲んでも美味しくありませんよ」

 「それは飲んでみなけりゃわかんねえだろう?」


 小野寺は椿を舐め回すように値踏みした。


 「この店でいちばん高いボトルをくれ」

 「そうなりますと、『知多』になるでしょうか?」

 「それじゃあそれを水割りでくれ。ところでこの店の「ケツ持ち」はたちばなのところだったよな?」

 「はい、橘さんにいつもお世話になっています」


 ケツ持ちとは店の用心棒のことである。

 だが紅鯱組の方が格上だった。

 どうやら小野寺はそれを知りながら店にやって来たらしい。

 

 「どうだママ? ケツ持ちを増やしてみる気はねえか?」

 「ウチはそんなに儲かっているお店じゃないので勘弁して下さい。組長さん」

 「勘弁して下さい? 俺はロシア語がよくわからねえ。ちゃんと日本語で言ってくれよ。

 月5万でいいんだ。店にお客をどんどん入れてやるから心配すんな」

 

 椿は小野寺たちに酒を出した。


 「何か一緒に歌いませんか?」

 「それじゃあ『ロンリー・チャップリン』を入れろ」

 「はい」


 椿は組長にマイクを渡し、一緒にデュエットをした。

 


 少し歌うと小野寺はマイクを置いて歌うのを止めた。


 「姉ちゃん、歌、上手いなあ。

 石川さゆりの『天城越え』を歌ってくれよ」

 「いい曲ですよね? 私も好きです、石川さゆりさんの『天城越え』」



      隠しきれない 移り香が

      いつしかあなたに 浸みついた・・・



 椿が『天城越え』を歌い始めた。女の切ない情念が伝わる。


 歌い終わると組長が拍手をした。


 「ウチの事務所で歌え。アイツらにおめえの歌を聴かせてやりてえんだ」

 「個人のお家へは出張出来ないんですよお」

 「デリヘルの姉ちゃんは来るぜ?」

 「あはははは こりゃいいや。デリヘルの姉ちゃんにも近頃飽きましたからね? 親父」


 椿は困惑した。

 すると見兼ねた鈴子が言った。


 「わかりました。お店のことはよろしくお願いします」

 「そんなのあたりめえだ。俺は今、この女と話しているんだ。ババアはすっこんでろ」

 「このには旦那がいるんです」

 「だから? そんなの関係ねえよ、小名浜は俺のシマだ。

 それに何もタダで来いなんて言ってねえ。おい」

 「へい」

 

 すると隣にいた男が10万円を椿に渡そうとした。


 「困ります! そんなお金なんかいただけません」

 「いただけない? するとタダでやらせてくれるというわけだな? 連れて行け」

 「へい」

 「待って! それなら私が相手してあげるからその娘は離して!」

 「だからババアに用はねえって言ってんだろう!」

 

 小野寺はグラスを床に叩きつけた。


 「た、たすけて!」

 「ヤメて! その娘だけは許してあげて!」


 男たちは椿を両脇で抑え、店の前に置いたワンボックス・カーに椿を押し込み、去って行った。

 

 鈴子はすぐに大森に連絡をした。


 「大森さん、たいへんなの! 椿ちゃんがヤクザにさらわれて・・・」


 俺は椿を取り戻すための準備をはじめた。

 



最終話

 組事務所に連れて来られた椿は服を脱がされ、ストッキングや下着を剥ぎ取られ、髪の毛を掴まれて奥の組長専用のベッドルームへと連れて行かれた。


 「さあ楽しもうじゃねえか? もあるぜ」

 「いやあー! 止めて!」


 組長の小野寺は椿を押さえつけると、覚醒剤の入った注射器を椿の腕の静脈に刺した。

 注射器に椿の血液が少し逆流して来た。


 「これを使うとな? もうお前は俺から離れられなくなる。

 宇宙食が欲しくて欲しくてたまらなくなるんだ。

 これから三日三晩、お前を調教してやる。

 最高のエクスタシーをお前に教えてやるぜ」


 椿は次第に抵抗するチカラを失っていった。





 大体の状況は把握出来た。

 俺はキッチンのシンク下の扉を開け、キッチン収納の上に新聞紙に包んで粘着テープで留めて隠しておいた、トカレフと実弾10発を取り出し、釣竿のケースに入れておいた日本刀を鞘から抜き、慎重に刃を確認した。


 そして刃物避けるために新聞紙を重ね、上半身に晒布さらしを巻いてそれを固定した。

 女房の遺影に手を合わせた。


 「女を取り返して来る」


 俺は紅鯱の組事務所へとひとりで向かった。



 

 途中、会社の人事宛に辞表をポストに投函した。

 会社に迷惑を掛けたくはなかったからだ。




 組事務所に着くと、俺はインターホンを押した。


 「どちらさんですか? こんな時間に」

 「俺の女を返してもらいにやって来た。ここを開けろ」


 すると遠隔でドアが解錠された音がした。

 俺は階段を上がり、二階の事務所の扉を開いた。

 事務所には組員が4人いて、俺を威嚇いかくした。

 

 「椿を返してもらう」

 「誰だそれ? ここにはそんな女はいないぜ。ここは紅鯱のだ。

 怪我しねえうちに早くけえんな」 

 

 俺はその組員の顔を殴りつけた。うずくまる男。

 事務所が騒然となった。


 「オッサン、タダでここから出られると思うなよ!」

 「極道に喧嘩売るとはいい度胸だ!」

 「もうここから生きて帰ることは出来ねえぜ?」


 男たちは金属バットや木刀を握り、俺に近づいて来た。

 

 「なーんだ。お前も同業者か?」


 俺のワイシャツの袖から入れ墨が透けて見えたようだった。


 「どこの組のモンかしらねえが、手加減はしねえ。

 覚悟は出来ているんだろうな!」


 俺は釣竿のケースから日本刀を取り出して上段に構えた。


 「やる気か? 面白えじゃねえか? ちょうど退屈していたところだ!

 容赦しねえぞこの野郎!」


 俺はその男の左腕を切り落とした。


 「うぎゃーーーーっつ!」


 男たちがひるんだ。

 そして俺は腰のベルトからトカレフを抜いた。


 「コイツ、チャカまで持っていやがる!」

 「女はどこだ?」


 組事務所内に緊張が走った。

 その時、奥の部屋から椿の声がした。

 奥に進み、俺はドアを開けた。


 

 椿が口から涎を垂らし、男に犯されていた。


 (シャブを打たれたのか?)


 「何じゃお前!」

 「あなた・・・、助けに、来てくれたの、ね? うれ、しい・・・」


 俺はためらうこと無く組長の額と左胸を撃ち抜き、仰向けに転がった男の股間に銃弾を撃ち込んだ。


 そこへ男たちがなだれ込んで来た。


 「往生せえや!」


 男たちは俺に切り込み、銃弾を浴びせた。

 

 「キャーーーーーッ!」


 大森の亡骸なきがらに縋って椿は大森の血を浴び、狂ったように泣き叫んだ。


 


 

 1週間後、警察の聴取も終わり、椿は柳津虚空蔵尊の前に架かる瑞光寺橋の中央に立っていた。

 椿は美空ひばりの『川の流れのように』を呟くように歌った。


    

      

        知らず知らず 歩いて来た

        細く長い この道

        振り返れば 遥か遠く

        故郷が見える

        でこぼこ道や 

        曲がりくねった道

        地図さえない

        それもまた人生・・・



 翌日、椿の遺体があがった。

 椿の実家跡で出会った老婆がポツリと言った。


 「あの娘の人生は、生まれてからずっと、不幸続きの人生だったな・・・」


 椿の一生は、椿の華のように咲いて、儚くポトリと落ちた短い人生だった。

 


                             『寒椿』完

 




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【完結】寒椿(作品240421) 菊池昭仁 @landfall0810

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