サキ

 スマホが振動した。この音はDMの通知だ。考えなくてもわかるようになってしまった自分が、サキはどこか憎かった。どうせまたアンチからのメッセージだ。見てもメンタルが削られるだけだ。ユウなら迷わず「無視しときなよ」と言うだろう。見ないふりをするのが一番だと自分でもわかっているのに、DMが誰かからの励ましや共感であることを期待して、サキはついついスマホを手に取ってしまう。

『女はいいよな。彼くんに養ってもらえるんだから』

『批判のDM晒し上げて、「孤独な人」って、何様のつもりだよ』

『結婚したからってそうじゃない人を見下すの、よくないと思います』

 見た瞬間、長い溜息が口から漏れ出た。またこのパターンか、と疲れはするけれど、もはや何も感じなかった。誰がどう見ても激しい攻撃性を感じる一枚目だけをスクショし、タイムラインに投下する。反論はしたかったが、何を言っても言い訳や負け惜しみに聞こえる気がするので、コメントは添えない。

 アンチを晒すのはサキのせめてもの抵抗だった。自分の投下したものにフォロワーたち(アンチからは「信者」と揶揄されている)が憤りをぶつけたり励ましてくれたりすることで、サキはやっと胸がすく。大丈夫、私には味方がいる。そう思って安心できる。

 それでも、一度刺さった言葉の刃はなかなか抜けない。痛みはいつだって遅れてやってくる。今回のDMもそうで、通知欄にぱらぱらとサキを擁護するコメントが流れ始めてきたころ、ようやく自分がショックを受けていることを自覚した。

 自分の言葉で相手に何も伝えず、代わりにフォロワーたちから怒ってもらう。そのずるさをサキは重々承知していた。自分は「言葉にしない」のではなく、「言葉にできない」のだということも。だから、自分は、代弁してくれる誰かを求めているのだろう。そう思って、サキは沈んでいく気配を感じていた。このままでは深いところまで落ちてしまう。急いで頓服薬を飲み、椅子の上で膝を抱えた。自分の肩を抱きしめ、「大丈夫、大丈夫」と呪文のように呟く。うっすら浮かんできた「死にたい」という言葉を打ち消すように。

 時刻は五時半。会社勤めのユウが返ってくるまで、まだ一時間半も時間がある。ご飯、作らなきゃ。そう思うのに身体が動かない。頭が鈍く痛む。思考がまとまらない。ぼた、と雫の落ちる感触がして、サキは自分が今泣いていることに気がつく。

 ――新婚で、優しい夫がいて、今どき「専業主婦でいいよ」って言ってもらえて、仕事をせず好きなことを好きなだけできる時間があって、世間的にみればこれってすごく幸せなことで、なのにわたしは、どうして幸せだと思えないんだろう。

 何度目かもわからない問いを頭の中で反芻する。これは自傷と同じだ。わかっているのに、思考は止まってはくれない。

『女はいいよな。彼くんに養ってもらえるんだから』

 言葉は見知らぬ誰かの声となり、脳内に反響していく。

 そこについては、サキ自身も引け目を感じていた。SNSではよく、「パートナーを持たない選択」や「女性一人でも自立して生きていけること」を先進的なものとする意見が流れてくる。女性が男性と同じように認められ、男の人に頼らなくても生きていけるようになること、それ自体はすごく尊いことだと、サキは思う。それを唱える人たちは応援したいし、かっこいい。SNSでは繋がっていないけれど、例えば友人のアヤもその一人だ。男の人をあてにせず、バリバリ仕事をして、自分の力で生きている。サキにはそれがすごく眩しく見える。

 けれど、その「先進的な意見」を目にするたびに、サキは自分が暗に批判されているような気がするのだった。サキは仕事をしていない。ユウと知り合う前は生活保護を受けていた。今はユウという男性に金銭的にも精神的にも支えられて、庇護してもらって、やっと生きていけている。それは要するに、旧態依然の「男に守られる女」「男に依存する女」であり、「先進的意見」のよしとするような「自立した女」とは程遠い。それは彼らに言わせれば、「家父長制の維持に加担している」ように見えるんじゃないか。サキはこれが怖くて仕方なかった。だから、『女はいいよな』という言葉はまさに痛いところを刺すものだった。

『批判のDM晒し上げて、「孤独な人」って、何様のつもりだよ』

『結婚したからってそうじゃない人を見下すの、よくないと思います』

 この二つについては、明確に自分が招いた災いだ。サキはそう思っていたから、この二つは晒せなかった。確かに「孤独な人」という言葉はよくなかった。攻撃的な気持ちになって衝動的にポストをした自分の落ち度だった。見下しているつもりは全くないが、そう捉えられてもおかしくない表現だった。あるいは、自分が無意識にそう思っていたことの表れかもしれないと思うと、怖かった。

 自責がやまない。ぐるぐる考えこんでいるうちに、玄関の鍵が回る音がした。ユウが返ってきたらしい。サキは涙をぬぐい、「おかえり」と玄関先まで歩いていった。

「ただいま。……どうしたの?」

 ユウが心配そうに眉を寄せる。「え? 何が?」とサキはわざと明るい声色で答える。

「目、赤いよ。ひょっとして、また泣いてた?」

「……ばれちゃったかー」

 茶化そうとしたのに、語尾が震えてしまった。涙は再び堰を切ったように流れ落ちはじめる。ユウはビジネスバッグを置き、サキの背中に手をまわした。ユウの体温を感じたとたん、サキは声をあげて泣きじゃくりはじめた。

「今度はどうしたの?」

 その声色が嫌気をはらんでいないことに、サキは心底ほっとする。


 夕飯を二人で作り、食べている間に、サキは一連のことを洗いざらいユウに話した。「理解のある彼くん」という言葉のもつニュアンスの話から始めて、昨日届いたDMのこと、それに対して自分が言ったことも、なるべく不公平にならないように、きちんと伝えた。全てを話し終わったのは、食後のハーブティーを二人で飲んでいる時だった。

「……SNSをやめるって選択肢は、サキちゃんの中にはないの?」

「それは……前にも言ったけど、嫌なの。応援してくれる人も、あたたかい言葉をくれる人も、たくさんいるから……」

「でも、嫌なこともいっぱい言われるんでしょう。今回みたいに。そのたびにサキちゃんが落ち込んで泣いてるの、僕、見てらんないよ」

「ごめん、迷惑かけて……」

 再び泣き出したサキを、ユウは「そうじゃなくって。ごめん、僕の言い方が悪かった」と慰める。

「僕、SNSのことはよくわからないし、それがサキちゃんにとって大事な居場所になってるってことも、ちゃんとわかってあげられてないかもしれない。でも、ちゃんと距離を取った方がいいことは確かだと思う。だってこのままじゃ、サキちゃん潰れちゃうでしょう?」

「……それって、いじめられっ子に『学校なんか行かなくてもいい』って言うのと何が違うの。どうして攻撃された方が逃げたり離れたりしなきゃいけないの」

「そういうことじゃなくって……」

「でも、そういうことでしょう?」

 声に思わず感情が乗る。言ってしまってから、サキはすぐに後悔した。これは八つ当たりだ。感情をぶつけるべきはユウじゃない。ユウはただ、よかれと思って言っているだけだ。サキは眉間にぐっと力を込め、攻撃的な衝動を押しとどめる。

「わたしは、ちゃんと社会と繋がっていたいの。あそこにいる人たちと、おしゃべりしたり、励ましあったりする時間が、わたしは好きなの。ひとりじゃないんだって思えるから」

「……サキちゃんには、僕がいるでしょう。それじゃ、だめなのかな」

「うん……ごめん。確かにユウくんの存在はわたしの支えで、ものすごく大きい。感謝もしてる。でもそれだけじゃ、だめなんだ。わたしにはあの場所が必要なの」

 ユウは悲しそうに目を伏せる。傷つけてしまったのかもしれない、とサキはまた後悔する。でもさ、わたし、ユウくんと違ってちゃんと社会と繋がれてない。だから寂しいし苦しいんだよ。まっとうに生きているユウくんを見るのが、リアルできちんと人と関係を築けているユウくんを見るのが、時々、たまらなく苦しんだよ。

 そう思うけれど、口には出さない。こんなこと、言えるわけがない。

「……あとさ、『孤独な人』って言い方は、僕もよくなかったと思うよ」

 押し黙っていたら、ユウが沈痛そうな顔のまま言った。

「攻撃されたからって、相手を攻撃していいわけじゃない」

「でも……そうでもしないと自分の心を守れないほど、わたしは傷ついたの。そのくらい嫌な言葉なの。ユウくんと出会えたのが幸運なのは自覚してる。だけど、お互いに信頼しあうために、いい関係でいるために、私たちはたくさん努力もしてる。あの言葉は、そういうの全部を踏みにじる言葉なの。ユウくんのことも。だから許せなかった。それはわかって」

「でも、サキの言い方だと、『孤独な人は努力をしていない』ってことにならない?」

「そんなつもりじゃない」

「だけどそう捉えられてもおかしくない」

 ユウの言葉はまっすぐで、正しくて、だからこそサキはつらかった。反論したかった。ユウの言い分は正論だと思ったが、どこかに違和感もあった。だけどサキは、その違和感をうまく言語化できない。形のないモヤモヤだけが、胸の中で膨らんで、身体を内側から圧迫する。

「……わかった。全部わたしが悪いんだね」

「なんでそうなるかなあ……」

 ユウは困ったように頭を掻く。「でも、ユウくんが言っているのはそういうことでしょう」という言葉は、ユウから滲む苛立ちを察知した途端、喉の奥に引っ込んでしまう。

「……ごめん。お風呂入ってくる」

 サキは逃げるようにリビングから出た。「うん、いってらっしゃい」というユウの声はいつも通りの優しいもので、だけど少しだけいつもとは違って、また胸がきゅっと痛くなる。

 ユウの言う通り、しばらくSNSからは離れた方がいいのだろう。それをわかっているのに、サキはスマホを手放せなかった。気づくと湯船の中でもスマホを触っていた。本アカの通知は見ずに、別の鍵アカを開く。本当に信頼できる人とだけ繋がっているアカウントだ。サキはそこに、ユウに言われたことを長文で書いた。なるべくユウを責めるニュアンスにならないように、一方でモヤモヤしたことは伝わるように、言葉を慎重に選んだ。いつものアカウントとは違う小さなアカウントだから、すぐに反応はつかない。

 髪を乾かし終わって、もう一度スマホを見ると、フォロワーから長いDMが来ていた。「私はサキさん、全然悪くないと思います」という文字列を見た瞬間、サキはまた涙が溢れてきそうになった。

『旦那さんの言っていることは一見もっともらしいですが、石を投げられて投げ返したって、悪いのは最初に石を投げてきた方なのは変わらない。それに、「孤独な人は努力をしていないの?」っていうのも、論点のすり替えです。サキさんが「孤独」と言っているのは攻撃してきた一人に対してなのに、旦那さんはそれを「孤独な人全般への攻撃」って捉えてる。だからモヤモヤするんだと思います』

 読み終わった瞬間、ああこれだ、とサキは腑に落ちた。自分が上手く言語化できなかったものを、フォロワーたちは的確に分析して表現してくれる。それに何度も救われてきた。だからこそ、サキはこの場所を離れられない。依存している。

 胸にスマホを抱きかかえていたら、手の中でまたスマホが震えた。

『だけど私も、あのアカウントにログインするのは、しばらくはやめた方がいいと思います。攻撃が攻撃を生む負の連鎖になってますから。人間って本当に嫌な生き物で、「この人は叩いていいんだ」って認識した相手のことは、とことん踏みにじるものなんですよ。サキさんはその標的になってしまったんです。悲しいことに。だから、離れましょう。これは負けでも逃げでもないです。生きるために、離れるんです』

 その言葉は、夫のユウに言われるよりも、なぜだかすんなりと胸に入った。それでもちくりと胸が痛む。寂しい、と思う。サキは勇気を出して、それをそのまま言葉にしてみることにした。

『でも、なんか寂しいなって思う自分もいて。あのアカウントがなくなって、私、ちゃんと生きていけるのかなって自信なくて。想像以上にあのアカウントに依存してるんでしょうね、私(笑)。そこだけがほとんど唯一社会と繋がれる場所だったから』

 どこか自嘲気味な文章になってしまったが、サキは送信ボタンを押した。なんとなく、この人なら受け入れてくれるだろうという気持ちがあった。それは信頼でもあり、甘えでもあった。

 DMの一番下のふきだしに、「・・・」と表示されている。相手が現在進行形で文字を打ちこんでいることを示すものだ。サキは祈るような気持ちで返信を待った。しばらくして送られてきたメッセージは、予想だにしないものだった。

『サキさん、よければ私と会ってみませんか?』

 サキはどうしていいかわからなかった。喜びもあったし、同時に警戒もあった。今までネット上で知り合った人と会ったことはない。「軽々しくネットで繋がった人と会わないように」というのは、学校の教育でさんざん言われてきたことだ。

『すみません、急にこんなこと言って。怖いですよね』

 相手から慌てたような言葉が続く。落胆と安心、両方が混ざった溜息をついた時、またメッセージが送られてきた。

『サキさん、今、通院以外はほとんど外に出ないって言ってましたよね。社会的なつながりもネットの中にしかない。それってすごく窮屈だし、孤独だと思うんです』

『……正直、そうです』

 たくさんのフォロワーがいても、夫がいても、サキの心は満たされなかった。ずっと寂しかった。それは紛れもない事実だった。だからこそ、反撃に「孤独」という言葉を使ったのかもしれないと、サキは思う。

『今のサキさんに必要なのは、家とSNS以外の居場所だと思うんです。……私の知り合いに、精神保健福祉士がいます。私はその人とサキさんをつなげてあげたい。いかがですか』

 サキは迷った。この言葉はあまりにも甘い蜜で、だからこそサキは怖かった。

 メッセージは続く。

『不安なら、旦那さんと一緒でももちろん構いません。一度直接お会いしませんか。決めるのはゆっくりで構わないので、お返事ください。それがどんなものでも、私は受け入れますから。……すみません、これ、善意でもなんでもなくて私のエゴです。私もサキさんにお会いしてみたいっていうのが本音です(笑)』

 その「(笑)」の文字は、「理解のある彼くん」につく「(笑)」とはまるで違う、どこか優しいものだった。

「サキちゃーん? 大丈夫?」

 ユウの声がする。脱衣所からなかなか出てこないサキを心配しているらしい。

「大丈夫だよー」と返事をして、サキは脱衣所の扉をあけた。リビングに入るなり、ユウは「さっきはごめん」と頭を下げてきた。「ううん、私の方こそごめんね」という言葉は、すんなり口から出てきた。素直な気持ちで謝れたことに、サキはほっとする。そして、ひとつ深呼吸をした。

「あのね、ユウくん。別件で、相談したいことがあるんだけど――」

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理解のある彼くん 澄田ゆきこ @lakesnow

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