アヤ

『理解のある彼くん(笑)との結婚おめでとうございます』

 そのDMを送った時、アヤは胸がすかっとした心地がした。サキはきっと、スクリーンショットを撮って、このアカウントをブロックしてから、泣きっ面で画像ポストをするのだろう。それがこの子のいつものパターンだ。「HSP」「繊細さん」なんて歯の浮くような言葉で自分をコーティングして、「いろいろなものを感じすぎて生きづらいかわいそうな自分」を演出しながら、これからも生きていくのだろう。そして「お仲間」によしよししてもらうのだ。別のアカウントで動向を観察していたら、本当にその通りだったので、アヤは笑ってしまった。どこまでも惨めなやつ。この可笑しさで酒が何杯も進みそうなほど、アヤは愉快だった。


 アヤがサキと知り合ったのは、ゆうに十年以上前のことになる。高校一年生の新学期、誰かに話しかけようとしては躊躇して、結局ひとりでおろおろしているサキが哀れで、声をかけた。おどおどしているけれど、顔はまあまあ――地味ながら――整っているし、それでいて微妙に垢ぬけないのも自分の引き立て役にはふさわしいと思った。それに、これは慈善活動だ。このままでは一生かかってもクラスに溶け込めなさそうな子を仲間に入れてあげようと言うのだから、非難どころか賞賛に値する。私ってばまったく人が好いんだから、とアヤは機嫌よくサキに接した。

 アヤの読み通り、サキはすぐに自分にべたべたし始めた。たまに鬱陶しくなって邪険にすることもあったが、猫なで声を作って「ごめんね、ちょっと嫌なことあって八つ当たりしちゃったの」と言うと、すぐに表情をほころばせるのだから、本当にチョロかった。サキは自分のほかに居場所なんかないし、自分に依存するしかないのだ。その感覚が無性に気持ちよかった。アヤが彼氏をつくると、明らかに不安そうな目をしているのも、可哀想でかわいかった。

 高校を卒業してからは、何事もなかったかのように疎遠になった。あの日の飲み会に呼び出したのは単なる数合わせだ。その日まで思い出すことなんてほとんどなかったのに、急に顔が思い浮かんだのは、あの子なら雑に扱っても構わないという感覚があったからだった。

 最初は躊躇っていたサキだったが、アヤが少し粘るとすぐに折れた。待ち合わせに少し遅れてやってきたサキは、痛々しいほど「遅れてごめん」と平謝りをしていた。大学を経ても服装はやっぱり垢ぬけなくて、この子って本当に致命的に生きるのが下手だよなあと、アヤは半ば同情した。

「大丈夫。無理に呼んじゃったのは私だし。でもでも、久しぶりにサキに会いたかったの。許して?」

 その程度の言葉で、サキの表情はぱっと明るくなった。

 しかし、サキは酒も揃わないうちに音をあげた。「私ってほら、HSPってやつで、少し感覚過敏なところがあって。大きい音とか人混みとか苦手なんだ。ごめん、本当にごめん」

 会費も払わないうちに何それ、とアヤは思った。本当は「はぁ?」と大声で言いたかったが、周りの目があるのでそんなわけにもいかない。空気を読まないユウが駅まで送っていくことになって、ほどなくして飲み会が本格的に始まった。酒の肴はもっぱら、先に抜けた二人の話だった。

「ユウのあれ、絶対狙ってたよな」「あわよくば、っていうのバレバレ」「てかHSPって何?」「調べたら『繊細さん』って出てきた。何これ、『感受性が強すぎて生きづらい』だって」「何それ、めっちゃナルシスト入ってない?」

 誰かがそう言った瞬間、アヤは手を叩いて笑ってしまった。

「そうそう、あの子っていつもそうなの。自意識過剰で、自信ないのに自分のこと大好きで。めっちゃウケるよね」

 話はどんどん盛り上がって、お酒がどんどん進んだ。勢いのついた話題はいつの間にか別の方向に転がって行って、飲み会が終わるころにはもう、二人のことなんて誰も覚えていなかった。


 サキから急に電話がかかってきたのは、その翌週のことだった。残業中でのことだったので、「空気読めよ」とひとつ舌打ちをしてから、アヤは「もしもし?」と声色を作った。

「あのね、私とユウくん、つきあうことになって」という報告は想像していた通りの内容で、「ユウ、うまくやったなー」とほくそ笑みながら、アヤは「本当!? おめでとー!」と高い声を出した。

 サキのSNSアカウントを見つけたのは偶然だった。名前が同じで、プロフィールに称号のように「うつ/HSP」と書かれていたから、直感的に「サキだ」と思った。いざ確認してみると、加工したっぽい自撮りの雰囲気も、服装のテイストも似ている。これは間違いない。ポストをひととおり遡ってみると、なるほど、実にサキらしい自己陶酔がにじみ出ていた。中には露骨に慰めを求めているものもたくさんあって、もはや哀れを通り越してグロテスクだった。

 それからというもの、サキの日常を覗き見することがアヤの日課になった。何かの拍子にバズったポストのおかげで一気にフォロワーが増えたから、それに乗じて複数アカウントでフォローをすることは造作もなかった。時々、むしゃくしゃした時は、誹謗中傷にならないギリギリの嫌味を混ぜたDMを送った。そのたびにサキはそれをスクリーンショットに撮って、一四〇〇人の前に晒しあげた。画像には何もコメントがついていないことが多かったけれど、「私を慰めて」というメッセージは強烈すぎて、痛々しかった。うわ、キツー、と思わず声に出てしまう。見れば見るほど、サキもその取り巻きも、背中がぞわっとするほど気持ち悪い。弱者同士で傷のなめ合いをすることでしか生きられない人たち。でもその気持ち悪さが、なぜだかクセになる。たくさんの虫がいるとわかっていて大きな石を裏返した子ども時代を、アヤは思い出す。

 サキを見ていると優越感に浸れるのは、今も昔も変わらなかった。うつで働けず福祉に生かされているサキと、外資系のIT企業に勤め、仕事でもそれなりのポジションを与えられているアヤ。日陰者同士で慰め合うことしかできないサキと、華やかな交友関係を持っているアヤ。社会的な評価の差は歴然で気持ちがよかった。

 けれどアヤには、ひとつ不可解なことがあった。サキのポストは日常メインなのに、彼氏であるユウの存在を全く感じさせない。不自然なくらいに。なぜだろう、と考えながら、なんとなくサキを観察する日々が続いた。

 そんな折、アヤは、ちょっとしたいさかいが原因で、婚約まで行っていた彼氏と別れることになった。次の男を探そうにも、仕事にはもう出会いなんてないし、知り合いをあたるのもマッチングアプリを使うのも面倒だ。なのに人恋しさだけは無性にあって、アヤはイライラしていた。そのタイミングで、サキからまた空気を読まない電話がかかってきた。

「ユウくんと結婚することになった。アヤのおかげだよ。ありがとう」

 それから、聞いてもいないのに、プロポーズのシチュエーションだの指輪の話だのをしてくる。自分の都合しか考えていないサキの言葉に、アヤは怒りを覚えた。なにそれ、自慢? あんたごときが、私に? そう思うと無性に腹が立った。それでも、怒りを直接ぶつけることはしなかった。次の瞬間に浮かんだ「答え」が、怒りを鎮めてくれたから。

 ――ああ、この子があんなにユウのことをひた隠しにしていたのは、「理解のある彼くん」という言葉が怖いからだ。

 アヤは口角が上がるのを止められなかった。

「……アヤ?」

 サキが怪訝そうに尋ねる。

「ううん、なんでもない。自分のことみたいに嬉しい。式には呼んでよね!」

 アヤは明るい声音を作りながら、次の瞬間には、この幸せをどうぶち壊してやろうかと考えていた。


「理解のある彼くん」という概念が、アヤは嫌いだった。この言葉ができたのは確か、過去の苦しみを吐露する系のエッセイ漫画が発端だった。本人は「苦しみの中で一生懸命生きる私」という体で描いているつもりなのだろうが、やっていることがあまりにめちゃくちゃで、非常識で、そのギャップが面白かった。暇つぶしに読んでいたそれに突然「そんな私にも理解のある彼くんができました」というフレーズが出てきたとき、あまりの脈絡のなさに茫然とした。それからだ。ネットで「理解のある彼くん」が流行り、ミーム化し、いつしか嘲笑の言葉になり果てたのは。


 アヤの予想通り、サキは間もなく結婚報告をした。何者でもないくせに、ちょっとフォロワーが多いだけのくせに、まるで芸能人みたいな格式ばった挨拶が滑稽だった。取り巻きたちの「おめでとうございます!」の嵐を見ながら、アヤは捨てアカの一つを開いた。フォローしているのはサキひとりだけの、一四〇〇分の一の塵芥のアカウント。プロフィール画像もユーザー名も変えていないそれに、ログインする。

『理解のある彼くん(笑)との結婚おめでとうございます』

 アヤがエンターキーを押してから、ブロックされるまでは、数分とかからなかった。急いで別の観察用アカウントにログインする。サキは案の定スクリーンショットを晒している。取り巻きたちがそれを見て気持ち悪い慰め文句を送っている。いつもの光景。

 予想外だったのは、その後のサキのポストだった。

『こういう人って孤独なんだろうな、って思うしかないよね』

 アヤは一瞬フリーズした。今まで一方的にサンドバッグにしてきたけれど、殴り返されたのは初めてのことで、最初にあったのは戸惑いだった。遅れて、腹の底から怒りが湧き上がってくるのを感じた。

「ふざけんなっ」

 アヤは思わずスマホをベッドに投げつけた。一人きりの部屋に、自分の声が響いて、すぐに静かになった。私は孤独なんかじゃない。友達だってあんたよりたくさんいる。彼氏だって、今はたまたまいないだけで、ずっと途切れなかった。調子乗んな。お高くとまりやがって。罵倒の語彙はいつまでも出てくる気がした。

 ――ていうか、こういうこと言うから叩かれるんじゃないの? 馬鹿じゃないの?

 ――ああ、そっか、もとから馬鹿だったか。

 あはは、とアヤはわざとらしく笑った。ベッドからスマホを拾い上げ、当てつけに「いいね」を押そうとしたら、「このポストは削除されました」という画面が目に入った。どうやら、言ってすぐ消したらしい。

 ――意気地なし。

 その行動はとことんサキらしくて、アヤはどこか安心感すら覚えた。

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