サキ
『理解のある彼くん(笑)との結婚おめでとうございます』
その匿名のメッセージを見たとき、サキは凍りついた。表情も、心も、全てが一瞬で氷点下まで下がり、霜をまとわせた感じがした。
サキが結婚発表をしたのは、一昨日のことだった。闘病仲間と繋がっているSNSで、つき合っている人がいたこと、その人と五年の交際を経て結婚することを告げた。ポストをする瞬間は緊張で手が震えた。
同じような境遇にいる人が「理解のある彼くん(笑)」と揶揄されるのを見たことは何度もあったし、だからこそ、普段のポストには恋人の存在を感じさせないよう神経を使っていた。でも、せっかくの人生の節目だ。報告をしないのもフォロワーたちに不誠実な気がして、迷いに迷った末、サキは思い切って投稿ボタンを押した。まもなく、フォロワーたちから「おめでとうございます!」とリプライがたくさん来たときは、安堵と喜びで涙がにじんだ。陰口も、辛辣な言葉も何もない、優しい世界だった。
はずだったのに。
知らないアカウントからDMが来た時、サキはすでに嫌な予感がしていた。それは、何の気なしに呟いた言葉に大きな反響があり、フォロワーが一気に増えた時の、心無い引用やDMを思い出させた。共感や寄り添いの言葉の方がはるかに多かったはずなのに、思い出すのはそういう刺のある攻撃的な言葉ばかりだ。
いわゆる「バズり」が落ち着いたあとも、フォロワーが増えたことの影響か、嫌なことを言ってくる人はたびたび現れた。それは初期設定アイコンの明らかな捨てアカだったり、時には親しいと思っていたフォロワーだったりした。
いっそこのアカウントを消してしまおうかと、サキは何度も思ったことがある。夫のユウからも、いつか――何か月か前に、誹謗中傷を受け取った時だ――に、「そんなに消耗するならネットやめた方がいいんじゃない?」と優しく諭された。
それでもサキがこの場所に執着してしまうのは、ここには長い時間をかけて紡いできたコミュニティがあるからだ。ほとんどの人は自分をあたたかく迎え入れてくれるし、落ち込んでいれば慰めてくれる。「サキさんのおかげで、学校に行けるようになりました!」と慕ってくれる高校生の子もいる。ここでアカウントを消すのは逃げるのと同じだ。フォロワーのためにも、自分のためにも、ここで逃げたくはなかった。それはひとえに、自分の中にあるプライドのようなものなのかもしれなかった。
ユウはSNSやインターネットの世界には疎いところがある。サキのアカウントのフォロワーが一四〇〇人を超えていることも知らないだろう。「理解のある彼くん(笑)」というのは揶揄のつもりなのだろうが、ことインターネットに関しては、ユウはそれほど理解があるわけではない。SNSから離れてしまったら、体調の波があって働けない自分は、ユウを介してしか社会と繋がれない。それが怖いということも、言葉を尽くして伝えているはずなのに、いまいちユウには伝わっていない。
今回のこの言葉への悔しさも、きっとユウには伝わらないのだろう。人が好いユウのことだ、それどころか、「理解があるって言われてるんだからいいんじゃない?」「確かに『(笑)』には刺があるけど、それ以外は単なるお祝いじゃん」などと言われかねない。そう言われるとサキはとことん追い詰められる。急に泣き出してユウに慰めてもらうのも、ユウに八つ当たりをしてしまって後悔するのも嫌だ。我慢して、我慢して、我慢する。ぐっと苦しみをこらえようとすればするほど、息はどんどん苦しくなる。
悔しい、とサキは思った。「理解のある彼くん」という言葉は、突然湧いてきたようなニュアンスとセットになっているけれど、ユウとの関係はそれ相応の時間をかけて築いてきたものだ。
ユウと知り合ったのは、友人のアヤが開いてくれた飲み会でのことだった。サキは大きい音や人混みが得意ではなく、酔っ払いの喧騒が飛び交う居酒屋は苦手中の苦手だったけれど、アヤから「お願い!」と懇願されると、どうしても断れなかった。だから頑張って店までは行った。それでもやっぱり、店の中に入ると気分が悪くなってしまって、「申し訳ないけど帰らせて」とアヤにすがりついた。アヤは一瞬顔をしかめたが、「ううん、あたしこそ、無理につれてきてごめん」とすぐに申し訳なさそうに微笑んだ。その時、「女の子が一人で夜道は危ないから、僕が駅まで送るよ」と申し出てくれたのが、ユウだった。
「お持ち帰り狙ってんなぁ?」という下世話なヤジを無視して、ユウはサキを店の外へと促した。冷たい水を買ってくれ、約束通り駅まで送ってくれた。下心は一切感じなかった。あるのは純粋な優しさだけだった。
だからだろうか、初対面のユウに、サキはHSPについての話をした。疲れていると音に過敏になってしまうこと、人混みが苦手なこと、感受性が強すぎて色々なことに共鳴しすぎてしまうこと。自分の生きづらさについて、誰かに面と向かって話すのは勇気が要った。ユウは興味深そうに話を聞いてくれた。否定したり嘲笑したりするどころか、ユウは「大きい音が苦手なら、今は電車に乗るのもつらいでしょ」と、タクシーを呼んでくれた。こんなに人に優しくされたのは初めてで、サキは涙が出そうだった。
それからほどなくして、ユウとのささやかな交際が始まった。うつについて告白するときは、HSPについて話す時の何倍も緊張した。サキを「単に繊細な人間」だと思っていた男性が、サキが「病名のついている人間」だとわかったとたん、扱いをまるで変えることは、今までに何度も経験している。一見受け止めてくれたように見えても、最終的に「重い」「手に負えない」と離れてしまった人もいた。
ユウはうつの話を真剣な顔をして聞いてくれた。まずは大丈夫だとサキは安心したが、実際にメンタルを崩して泣いてばかりいると、最初のうちは困った顔をしたりうろたえたりすることも多かった。そのたびにサキは不安になった。ユウは優しいけれど鈍感で、気持ちを察しすぎる自分とは対照的に、人の気持ちを察するのがあまり得意ではない。だからサキは、ちゃんとわかってもらえるように、「どうしてほしいか」を苦手なりに一生懸命伝えた。言葉にしないと伝わらないこともあるのだと、今までの経験から少なからず学んでいた。
こんな風に、サキは歩み寄ってもらえるようにするための努力はしてきた。一方的に支えられるだけでなくこちらからも支えることができるようにと、体調がいい日には家事もできる限り頑張っていた。時にはすれ違いもあったが、その都度話し合いをして、色んなことに折り合いをつけた。本当に居心地のいい関係を作るまでには、ずいぶんと長い時間がかかった。
そうして、宝物のように大事に大事に紡いできた二人の時間を、「理解のある彼くん(笑)」という言葉は一瞬で否定し、嘲笑する。前々から嫌な言葉だとは思っていたが、自分が言われる身になると、想像していた数倍胸が苦しかった。
「嫉妬ですよ」「気にすることないですよ」「こんな言葉は気にせず、幸せになってください」
たくさんのあたたかい言葉も、脳を素通りしていく。「理解のある彼くん(笑)」という揶揄は強烈に頭に焼き付いて離れない。
悲しみでしばらく茫然とした後、遅れて怒りがやってきた。なんて意地の悪い言葉なんだろう、と思う。パートナーと培ってきた信頼、それを形成したり維持するための努力、全てを無視して馬鹿にするためだけの言葉だ。
胸の中がチクチクして、ぐしゃぐしゃして、サキは落ち着かなかった。口に出さないだけで、表立って言わないだけで、きっとたくさんの人が似たようなことを思っているのだろう。悪い想像はいくらでも膨らんでいった。フォロワーの中にも、こういう風に思っている人はいるのかもしれない。そう思うと、一四〇〇人という数字は、そのまま二八〇〇個の監視の目に見えてくる。いったい何人の人が、面白がるためだけに私を見ているのだろう。被害妄想だとわかっていても、思考が転がり落ちていくのを、サキは止められなかった。
『こういう人って孤独なんだろうな、って思うしかないよね』
勢いのままフリック入力をし、画面を見ずに投稿ボタンを押した。そしてすぐにスマホを伏せた。先に石を投げてきたのは向こうなのだから、このくらいのことは言わせてほしい。じゃないと自分の尊厳は永遠に踏みにじられたままだ。抵抗するくらい、反撃するくらい、いいじゃないか。「やり返したら相手と同じになりますよ」という誰のものかわからない声に、サキはそう反論する。
けれど、サキはすぐに我に返った。これではまた攻撃の隙を与えてしまうと気づき、すっと血の気が引いた。すぐに投稿を消そうとしたが、一分前に送信したばかりのポストにはすでに五も「いいね」がついていた。誰かの目には触れてしまったのだ。確実に。底知れぬ恐怖を覚えながら、急いで削除ボタンを押した。
どうして私はこんなに生きづらいんだろう。どうして私ばかりこんな目に遭うのだろう。今私は、世間的にみれば新婚で、幸福で、満ち足りているはずなのに、どうして幸せだと思えないんだろう。サキはぐっと唇を噛んだ。泣き声を殺そうと思っても、嗚咽は口から漏れ出てきた。
「どうしたのサキ、大丈夫?」
異変を察知したユウが後ろから抱きしめてくる。
「ううん、なんでもない。なんでもないの」
嘘だとすぐに見透かされる言葉を繰り返しながら、サキは背中の温もりに身を任せる。
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