理解のある彼くん

澄田ゆきこ

ホナミ

『理解のある彼くん(笑)との結婚おめでとうございます』

 サキがそのDMのスクリーンショットを投稿した時、ホナミが最初に抱いた感想は「やっぱりな」だった。


 闘病仲間のサキが結婚報告のポストをしたのは、一昨日のことだった。唐突だった。交際相手がいることも知らなかったし、ホナミはずっと、自分たちは一生孤独で、だからこそつながっていられるのだと思っていた。

 衝撃の後の感情は、自分では名前がつけられない。仲間だと思っていたのに裏切られたような気持ちもあったし、仲間の幸せを喜びたい気持ちも、なのに喜べない自分に対する自己嫌悪もあった。ホナミが何より目を塞ぎたかったのは、その奥にある「こんな人でも結婚してくれる相手がいるんだなあ」という素朴な驚きだった。そのまま何食わぬ顔で「おめでとうございます!」とリプライをした。サキの結婚報告ポストには似たようなお祝いの言葉であふれていた。サキはそれに一個一個丁寧に返事をしていて、間もなく、ホナミのスマホにも通知が届いた。

『ホナミちゃん、ありがとう。最近がんばってるの見てるよ。学校に行けるようになったの、すごい進歩だよね。えらい!』

 お祝いのメッセージを送ったはずなのに、いつの間にか自分が褒められている。それがむずがゆいと同時に嬉しい程度には、ホナミはサキのことが好きだ。それもまた事実だから、厄介だった。


 サキとはSNSの闘病界隈で知り合った。ホナミがアカウントを作ったのは、学校に行けなくなったばかりの頃だ。ホナミはエスカレーター式の名門校に高校から編入した。ある程度は覚悟していたことだが、入学したときにはすでに中学から持ち上がり組のコミュニティができていた。友達を作ろうという努力は空回りに終わり、ホナミはひとりきりでの高校生活を余儀なくされていた。

 いじめがあったわけではない。ただうっすらと孤立していただけ。その「だけ」がホナミには何よりしんどかった。昼休み、体育のペア決め、席替え、校外学習の班決め。ことあるごとに孤独を痛感する瞬間はやってきて、それでも「学校に行かなきゃ」と踏ん張っていたら、ある日から玄関の外に出れなくなった。意地でも学校に行かせようとする母に無理やり腕を引っ張られた時は、悲鳴を上げながら抵抗した。人間って限界がくると絶叫するんだなあ、とどこか他人事のように思ったのを、ホナミは覚えている。その後連れていかれた心療内科では、「適応障害」と診断された。

 学校に行かなくなったからといって、すぐに心が晴れるわけではない。むしろ自責が心の中でぐちゃぐちゃにわだかまっていて、息がしづらいほど苦しかった。自分の中にある負の感情を吐き出してしまいたかった。そのためにSNSのアカウントを作った。SNSには似たような境遇の人たちがたくさんいた。病名が並ぶプロフィール。名前のあとの「@闘病垢」。その中でもひときわフォロワーが多く、目立っていたアカウントが、サキだった。

 サキからフォローが返ってきたとき、ホナミは信じられなかった。フォロワー数一四〇〇という数字は、ホナミにとっては雲の上の世界に等しかった。そんな世界にいる人が、フォロワー数二桁の自分を目に留めてくれるなんて思わなかったし、本当に嬉しかった。

 ホナミが苦しみを吐きだすと、サキはよく「いいね」をしてくれた。母の何気ない一言から希死念慮に襲われ、「死にたい」を無数に羅列したポストをした時には、「大丈夫?」とわざわざDMまでくれた。「何か吐きだしたいことがあったら、いつでも言ってね」と。

 ホナミはサキが好きだった。確かに好きだったけれど、サキが落ち込んでいる時は引っ張られるように気分が悪くなったし、幸せそうにしていれば妬ましくもなった。無職だと知った時は「ああ」と声が出た。その「ああ」は、納得と安堵と嘲りをはらんだ「ああ」だった。

 サキは優しかった。いい人なのだろうとも思っている。けれど、「うつ」「HSP」とプロフィールに書いてしまう程度には生きづらさを持った人で、フォロワー数が多いのもあってか、匿名の悪意を受け取ることもそれなりにあった。親しくしていたように見えていた人との仲違いも多かった。サキはそのたびにDMやリプライのスクリーンショットをタイムラインに流した。ショックなのはわかるけれど、そういうことをするから反感を買うんだろうなとも、ホナミは思った。それでもホナミは、サキが欲しいのであろう慰めや共感の言葉をサキに送った。このつながりを断ち切ったら、今度こそ自分はひとりぼっちになってしまう。そう思うと怖かった。

 けれどホナミは、ある日突然、「これではサキに依存しているのと同じだ」と我に返った。それは天啓と似ていた。同時に脳裏に浮かんだ「こんな風になりたくない」という気持ちには蓋をした。この界隈が「社会不適合者の傷のなめ合い」と言われているのを――例によってサキのスクリーンショットで――見たことがある。正直、内側にいるホナミも、いい大人が何をしてるんだろうと思うことがあった。

 卒業しなきゃ、とホナミは決意した。まずは玄関の外へ。次は家の最寄り駅まで。次は学校の最寄り駅まで。次は校門の前まで。時々後戻りをしながらも、ホナミは懸命に前に進もうとした。しんどくなった時には相変わらずSNSに逃げ込んでしまったけれど、頑張っているホナミをあたたかく見守ってくれる存在は、ホナミにとって支えだった。見下しているくせに、そこによりかかってしまう矛盾は、自分でも気持ちが悪かった。

 今ではホナミは保健室までは行けるようになっている。サキはそのことを自分のことのように喜んでくれた。なのにホナミは、サキの結婚報告を、自分のことのようには喜べなかった。

 そんな矢先の、あの投稿。

『理解のある彼くん(笑)との結婚おめでとうございます』

 SNS歴の浅いホナミには、「理解のある彼くん」が一体どんな文脈をもつ言葉なのかはさっぱりわからなかったが、その後に続く「(笑)」から、これが揶揄の言葉なのだということは嫌でも察しがついた。

『わかる。理解のある彼くんってなんでいつも急に生えてくるんだろうねw』

 鍵アカのポストが少し上に流れる。以前サキと仲違いをしていたアカウントだった。この人は、言うだけ言って鍵をかけ、サキからブロックされたという経緯があるはずだが、この人はなぜだかサキのアカウントの陰口をずっと言っている。別のアカウントを作って監視しているのかもしれない。執着の強さにぞっとするものの、この人の陰口はある意味的を射ていて、共感できることも多かった。だからホナミは、不快に思うこともあるはずなのに、この人をブロックできない。時々だけど、「いいね」も送ってしまう。これはサキに対する裏切りなのだろうという罪悪感を覚えながら。

 この人があのDMを送ったのだろうか。ホナミはそう考えて、「でも、『わかる』って言ってるってことは違うのかも」と思い至る。サキのスクリーンショットの投稿には「嫉妬ですよ」「気にすることないですよ」「こんな言葉は気にせず、幸せになってください」とたくさんのリプライがついている。

 ホナミも慰めのリプライを送ろうとして、やめた。なんだか今日は見ないふりをしていたかった。本音を言えば、どちらの気持ちもわかってしまうのだ。捨て垢を作ってまでサキに攻撃的なDMを送らずにいられなかった人も、それを晒さずにはいられないサキも、同じようにホナミの心を毛羽立たせた。

 ホナミには恋人ができたことがない。友達すらまともにできないのだから、恋人なんて遠い遠い存在だ。そんな自分と同じコミュニティにいた人が、いつの間にか誰かに愛される。それはシンデレラの魔法みたいに、きれいで、手の届かないもので、残酷だった。

 感情を持て余しながらタイムラインを眺めていたら、ホナミはある言葉を目に留めた。それはサキのポストだった。例のスクリーンショットの、次の投稿。

『こういう人って孤独なんだろうな、って思うしかないよね』

 ぎゅ、と喉の奥が縮こまった感覚がした。自分に向けられた言葉ではないはずなのに、ぐさりと胸に刺さって、抜けない。

『こういうこと、あまり言わない方がいいですよ。余計な敵を作るだけですよ』

 どうしてそんなに不器用なんですか、と打とうとして、やめる。送ろうと思っていたリプライも消す。そうこうしているうちに、先ほどのポストは消えていた。サキもさすがにまずいと思ったのだろう。

『何あれ、感じ悪っ』

 サキのポストを見逃さなかった鍵アカが、そう呟いていた。ホナミはそのポストにそっと「いいね」を押した。いいね欄が見られない仕様でよかったと思いながら。


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