#001.繋ぎとめるためのもの

 8月XX日。赤くマーキングされたスマホのカレンダーを見て、溜息をもらす。この日までに誰からも連絡が来なければ、そんなな条件だった。もちろんこのスマホが震えることは一度たりともなく、あと数分でその日を迎える。


 最寄りのスーパーに隣接されたホームセンターで買ったフックに、念のため日をずらして買った緑色のロープを掛ける。合わせて831円。こんな状況になっても可能な限り安く済ませてしまう自分に腹が立つ。しかし、たった831円で人の命が奪えるという不思議さに、なぜだか安心している自分もいる。たった一時間でも働きさえすればこの世界からいなくなることができるというおかしな...いや、改めて考えるとそもそも金などかけることなく命は奪えるのだ。ただってだけで。ふと、いつかの誰かの言葉を思い出す。


「いいか、この世界にいる人間は皆、何かをして生きている。言い換えると、何かを生きている。俺だって、おまえだってそうだ。生きてるってことは死なないでいるってことだ。」


 はっとして時計を見る。まだ時間はある。自分の手を見る。ずっとこの手が嫌いだった。骨ばっていて、太い指。結局一度も女性と手を繋ぐこともないどころか、親密な関係になることもなく終わりを迎える。こんなことなら、とは思わない。人生のどの段階においても「自分には関係のないこと」だと思っていたし、そう思って割り切ってもいた。


 思えば、いつだって寂しかった。孤独ではない、何か別の寂しさが陰のようにずっとまとわりついていた。まるで自分だけが感覚。車窓から見える風景のように、いともたやすく次の景色に塗りつぶされてしまう。一人きりではないが独りだった。誰かの一番になりたかった。誰かに一番に心配してほしかった。誰かにその身を委ねられてみたかった。そう考えるたびに、「誰か」に当てはまる人間を思い描けない自らの脆弱な人間関係に嫌気がさす。


 今更過去を振り返って後悔などしたくないと思い、刻まれた記憶が押し寄せる身体ベッドに投げ出した。天井には金属色のフックが鈍い輝きを放っている。賃貸の天井にネジでしっかり留められたフック。そのフックから垂れる緑の輪をくぐれば、この世界から脱出できる。


 徐に立ち上がり、冷蔵庫を開いてみる。外出のストレスと自炊のストレスを天秤にかけ、ほんのわずかに皿の上がった後者の名残を眺める。ピー、と音が鳴り咄嗟に扉を閉める。

「ふっ」


ベッドに戻り、時計に目をやる。


12:01


背筋に冷たいものが走った。後悔しているはずはなかった。だが今この身に確かに感じたものは、生への執着だった。今確かに、死にたくないと思った。死を忘れて生きていたいと思った。


「人生ってのはなぁ...障害物を置くもんだ。人生という長い長い道に、楽しみとか悲しみとか...まあそんないろんなことを置いて庭のように彩るんだ。じいちゃんか?...そうだなぁ、じいちゃんは兼六園くらいにはなったな!がはははは!ん、そうかそうか、また今度連れてってあげるからな。」


いつの記憶だろうか。


「おお...大きくなったなぁ...いつ振りだったかな..ごほッ、ごほッ...すまんすまん、もう悔いは無いと思ってたが...お前の顔を見れなかったら..一つこの世に残してくところだったな...がはは...そう悲しい顔をするでない..じいちゃんは兼六園を自慢しに行くだけだからな...いつかきっと会えるよ」

この日からだ。この日から、自分を縛りつけていた鎖が消えてしまった。手に涙が落ちる。拭うことなく泣いた。


12:05


 思いがけず訪れたロスタイムに後ろ髪をひかれつつも立ち上がり、椅子に上る。ロープを手に取る。ざらついた触感がまだ生きていることを辛うじて伝えている。王冠をかぶるように首に掛け、深呼吸をする。鎖はもうない。だがこの身体を最後に、そして誰かに降ろされるまではずっと、この世に縛り付けてくれるものは紛れもなくこのロープだった。繋がりを失った人間が繋ぎとめられて死ぬのは皮肉な話だな、と思いつつそっと足を前に差し出す。あの世の門をくぐるように。この世の門をくぐるように。



ブーッ、



 嘘だ。右足は宙に浮いたまま、幾らかの時が過ぎた。見るべきか。すでにロスタイムは7分を過ぎている。そんな逡巡をよそに、今見なければもう二度と、開かれるべき人に開かれることのない通知は、再びスマホの小さな体を震わせた。


 だが、もう遅い。


もう二度と中を見ることはない。ポテトサラダも半分の人参も死にかけのピーナッツバターも。

 

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