中毒

 錠剤をポケットに入れ、帰り道を進む。

 帰ったとしても何もやることはないし、散歩でもすればいいのに……一直線、家に向けて歩く。


 四畳半、寝転がった僕は、包装シートから錠剤を取り出し、眺める。

 取り出されたそのネオンサインは、部屋を毒々しいピンクに照らす。

 紅く染まる青白かった手の先を見つめながら、この錠剤は僕に何を見せて、僕の人生をどう彩ってくれるか思いを馳せる。


 幸福な時間、瞬間……

 どんな状況か、イメージが湧かないな。

 ああ、錠剤が見せる景色は、幸福は。

 きっと、知らないものほど、僕に衝撃と……何か、痕を残していくのだろう。

 その痕がどう作用するかなんて、今の僕にはわかりっこないけど。


 さて、この錠剤を口に含めば、きっと……いや必ず後を引く。

 そんなことはわかっていて、その上で僕は悩んでいる。

 あの、癖になってしまいそうな知らない感覚。

 そう、知らない感覚だ。

 どの錠剤であろうと、僕のものではない感覚を見せてくれるはずなのだ。


 でも、考えてみてほしい。

 この錠剤は、明らかに何かおかしい。

 幻覚が見える、その時点で法に触れていそうだし……何より、この説明し難い……言葉にできない、不思議としか言いようがない錠剤の実態。

 こんなにわからないことだらけの錠剤を口に含むリスクを、わざわざ負うなんてことはするべきではないのだ。

 錠剤を口に含んだ時の僕は、錠剤を購入した時の僕は、きっとどこかおかしかっただけなんだ。


 どんな考えも、自分への言い訳を続けるばかりで結論は出ない。

 それなら、もう、やってしまおうではないか。


 錠剤が口の中で崩れ……味もわからぬまま、どこかに消えてしまう。


 見えたのは、勝利。

 僕はプロボクサーで、目の前に対戦相手が倒れていて、ゴングが鳴る。

 そんな、瞬間の記憶。


 感じたのは、湧き上がるような興奮。

 成功体験など持ち合わせてない僕が味わったことなどない、甘美なる勝利の味。

 

 前とは全く違う幸福に戸惑いつつも、冷めやらぬ興奮に突き動かされて思わず雄叫びを上げそうになる。

 もし叫んだとしても、虫の鳴くような声しかでないだろうけど。


 残った痕は、きっと物足りなさ。

 平坦なこの日常に、刺激を、波を欲する。

 そんな心が、痕として残ったんだろう。





 ……さて。

 僕は今、『幸福屋』に向かっている。

 いや、欲しいわけじゃない。

 幸福なんていらない、そう自分に言い聞かせる。

 いらない、いらないんだ。

 ただ、錠剤に興味が湧いただけ。

 もっと、この錠剤について知りたい。

 それだけなんだ。


 日が暮れ、街が赤く染まる。

 しばらく経って暗くなり……


 路地の奥、いつも通りに光るネオンサインが誘蛾灯のように僕を引き寄せる。

 いつもと違うのは、辺りが暗いこと。

 毒々しいピンクが、路地全体を染めている。


 そして……いつもの胡散臭い声。


「おやおやお客様、1日に2度もご来店とは。用法用量には気を付けていただきたいのですが……」


 御託はいらない。


「Ⅰを10錠」


 そう言って、僕は5000円札を渡す。

 その時……ふと気になって、彼の顔を見てみようと、少し身を乗り出す。


 見えない。

 いや、ない。


 彼に頭部は存在する。

 存在するのだが……


 顔がない。

 のっぺらぼうのように顔のパーツがないわけではない。

 確かに存在するその顔を、認識できないのだ。


 思わず後ずさりをして、そして……懲りずに、また顔を見ようとしてみる。


「お客様、覗いてしまわれたのですか?」


 見てはいけないものだったのだろうか……?


「……はい」


「好奇心とは仕方のないものでございます。この経験を糧に、ぜひご自身の行動を見直してみるのはいかがでしょう? 例えば……錠剤を買う、この状況など」


 うるさい、お前の商売だろう。

 そう言おうとするのをこらえる。


「考えを変えるつもりはありません」


「……そうですか。用法用量に気を付けての服用を心がけてください。私の目安としては、1週間にⅠを1錠、くらいが丁度いいと存じます」


 それだけじゃ足りない。

 足りないんだよ。


「ありがとうございました」


 僕は錠剤を受け取り、店を後にする。

 ネオンに照らされる曲がった背中は、彼にはどう見えているのだろう。


  ……そして、真夜中、四畳半。

 僕は錠剤に照らされながら、部屋の隅に縮こまる。

 包装シート越しでも10錠あれば部屋全体を照らせるようで、照明として使ってもいいんじゃないか、などという馬鹿馬鹿しい考えが浮かぶ。

 ピンクに光る部屋に、誰が住もうと思うだろうか?


 さて……錠剤を2つ、包装シートから取り出す。

 僕は躊躇いなく、それを口に放り込む。

 錠剤は転がり、崩れて……


 ――片手に何かを握りしめている/目の前に誰かが倒れている/甘い匂い/視界は不明瞭――


 2つの映像がごちゃまぜになり、脳裏に浮かんだのはめちゃくちゃな光景。

 風邪を引いた時の夢のように、整合性がなくてぼんやりとした記憶。


 何が何だかわからない僕に、知らない感覚が溢れ出す。

 どんな感覚かといえば、浮遊感のような……?

 いや、言葉で表すこと自体が間違っている、そんな感覚だ。


 その感覚は1錠だけの時よりもずっと強い。

 でも、足りない。

 物足りない。

 Ⅱの幸福を味わった僕は、もうそれ未満の幸福なんて受け付けなくなってしまったのだ。


 慌てて、残りの8錠を口に押し込む。

 今まで崩れて味も知らなかった錠剤が舌に触れ、甘味と苦味が口の中に溢れ出す。

 やがて舌についた欠片すらも崩れ、味は消え去り……


 ――鼓動/不明瞭/冷たい/甘い/暖かい/不明瞭/暗い/白い――

 

 いくつもの映像がごちゃ混ぜになり、自分にはわからない抽象画に囲まれているような、そんな気分になる。


 そして、浮遊感。

 これでようやく足りる、そのくらいの幸福。


 僕はどうやら、ジャンキーとやらになってしまったらしい。

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