第5話「魔導師と戴冠」
誰も貴方に逆らわない。誰も貴方を貶めたりはしない。
その御手はあまりに遠く、手を伸ばしても届く事はないというのに。
嗚呼、貴方よ。何故そんなにも。何故そんなにも、我らを恐れるのか。
――遠ざけるのか。
春を取り戻したヴァイスの朝は、心地良い日差しに包まれていた。すぐそこに軍勢が迫っているなどと、想えない程に空が青く美しい。
屋敷の庭には様々な植物が生い茂り、花を咲かせている。
薔薇も、芳しい薫りは放ち、アーチに大輪の花を咲かせていた。
極寒の地を一瞬で春の空気漂う大地に変えてしまう力。先王にはなかった、奇跡的な力だ。
レオンは執務室で、先を案じていた。
王国軍はあまりにも堂々と進軍してきている。当初より数は増え続け、制圧部隊も追加されたとの報告が上がっている。
「一度滅んだ国に三万人も投入しマスか普通」
「竜を警戒しているんだろう」
ヒルは地図を見つめ、腕を組んでいる。
「前線部隊には『彼女』が行ってくれマシたが、結果は言わなくても分かりマスね」
「大地が元通りになったとはいえ、こちらの民の安否はまだ確認できていない。城にはライザーが行ったが、……まだ連絡はない」
「こっちの軍隊は使えないってことデスか」
人差し指で机をトントンと叩く。苛立ちより、面倒だという様子だ。
「レオン、足止めもいつまで保つか分からないぞ」
分かったような口ぶりでヒルが言う。
彼は昔から試すような言葉でレオンをからかう。
それを分かっているレオンは、軽い口調で肩をすくめた。
「うへえ。ひっじょーに不本意デスが、やっぱ彼らにお願いするしかないデスねえ」
途端、ガタガタと屋敷の窓枠が揺れた。連動するように全ての窓ガラスが震え、巨大な影が窓を横切る。
二人は目線だけ外にやると、何もない青空の様子を伺った。
「ありゃ、もう来たんデスかね?」
* * *
轟音が耳に鳴る。遠くで、地鳴りが聞こえる。戦いが迫っていることを示す空気の震えだ。
もしもの時に腰に備えている細身の剣の鞘を握りしめた。そうすると、少し心が強くなる気がする。
リリーは屋敷の薔薇の庭園にいた。目が早く覚めすぎて、だがベッドにいると体が気持ち悪くて外へと出ていた。
黙って部屋を出たつもりだったのに、いつの間にか二人ほど侍女が付き従っていたので、彼女らがただ者ではないことを感じ取った。
「リリー様」
ミリアがブランケットを差し出しながら、近づいてきた。
相変わらず優しい笑顔で、リリーの体を気遣う。
「常春を取り戻してくださりありがとうございます。しかし風に当たりすぎると、お体に障ります」
ミリアの言う通り、風は冷たい。誓約を交わしてから、何故かずっと体がだるいので、確かに良くはないだろう。
だが、一人部屋でじっとしているのが落ち着かなかった。うろうろしたからといって、何かできるわけではないのは百も承知しているのだが。
「ありがとう。ところで、聖王国軍は今どこまで来ているのか知ってる?」
「はい。既にアルゲオ山脈を越えたと伺っております」
「えっ!?」
落ち着いた様子で答えるミリアに、リリーは驚嘆した。
サービングカートに紅茶とケーキまで用意している彼女に、あたふたとして言う。
「こんなことしている場合じゃないでしょう。ヒルは……、レオンはどこにいるの?」
「お二人は、確か執務室にいらっしゃるかと」
「行ってくる!」
「あっ! リリー様!」
リリーはミリアの横をすり抜け走り出した。赤い花びらが、彼女の後を追うように舞う。
ミリアはブランケットを畳み直しながら、他の侍女と揃って、深々とお辞儀をした。
庭園の薔薇を左右に、ブーゲンビリアの並木を越えていく。色彩豊かな庭園はまさに春の楽園。その美しさに、目が眩みそうになる。
振り切るように走りぬけていると、行く手を阻むように突風が吹き荒れた。
「っ!?」
空が暗くなったかと思うと、薔薇の花弁が一気に舞い上がり、ざわざわと音を立てて揺らいだ。
突然の突風に重心が揺らぎ、体勢を崩す。
耐え切れず転びかけたリリーだったが、何者かの手が彼女を支えた。
「すまない、ヒル……」
ヒルだろうかと、そっと振り返る。だが、そこには誰もいない。
見ると、視界の下の方で何かがはためいた。そこには、陽に照らされて紫に揺らめく大きい対の蝙蝠羽根があった。
「大丈夫、ですか」
蝙蝠羽根の持ち主は、幼い少女だった。少女は薄紅色の髪を耳の上で二つに結び、肩と足が大きく出た衣服を纏っている。ぷっくりと丸みを帯びた頬の横には、尖った耳。髪と同じ色をした瞳は、瞳孔が縦に割れていた。
背はリリーの胸のあたりまでしかなく華奢で頼りない。だが、腕はリリーをしっかりと支えており、その重心が揺らぐ様子はない。
「あ、ありがとう」
リリーは身なりを整えつつ、少女に向き直る。
「転ばなくてよかった、です。地面は痛いから」
少女はたどたどしい口調で喋る。言葉の発音が少し違う気がした。
「えっと……」
リリーが言葉を探していると、少女はその大きな目を少し伏せた。
「……私はこれで」
「ま、待って!」
リリーは思わず少女の手首を掴む。
少女はぎょっとして、リリーと、掴まれた己の手を交互に見た。
爬虫類のような瞳孔と、背中に生えた蝙蝠羽根。そのような特徴を持つ種族は僅かだ。
仄暗い炎を思わせる紅(くれない)の瞳が戸惑っているのが目に見えたが、思わず聞かずにはいられなかった。
「あ、その、お前は、……お前も、竜なの?」
「……そう、です」
怯えたように、少女は答える。
リリーは、少女の手をそっと離した。
風がふわりと優しく吹き、ブーゲンビリアの花が舞う。
「そう、か」
短く発した一言を、笑顔で飾った。
春の陽射しに、揺れる蒼い髪。遠く白んだ記憶が、少女の瞼に蘇る。
"そう、貴方も竜なの"
響く声は温かく、陽だまりの中にいるようだった。
そこにいたはずのひと、いなくなったひと。少女の記憶にある情景が、リリーと重なった。
急に黙り込んでしまたった少女を気遣い、リリーは首を傾げた。
「えと、私はリリー。その、お前は……」
「お~い、リリーちゃ~ん」
リリーの問いを遮るように、石畳の向こうからレオンが歩いてきた。
飄々とした様子で、紙束を持った手を左右に振っている。
レオンの方に振り返ったリリーは、彼の余裕綽々の様子を見て苛立つ。
「なに笑ってるんだあいつ……」
駆け寄ろうとして、ふと振り返る。
だがそこには、もう少女の姿はなかった。地に落ちた紅のブーゲンビリアの花びらが、所在なさげに風に揺れていた。
「……いない」
「誰かいたんデスか?」
歩み寄ってきたレオンが、リリーの向こう側をのぞき込む。
「今、小さな女の子がいたんだ。羽根の生えた……こう、髪を結った感じの」
「おやまあ」
レオンは何やら含んだ笑みを浮かべる。
「まあ、その子にはあとで会えると思いマスよ」
尖った耳に、割れた瞳孔。あの特徴はカイムとよく似ている。
もしかして彼女も──。
「ところでリリーちゃん、ちょっとこんな時になんデスけど」
「なに?」
「すこーし、お付き合いして頂きたい用事がありマシて」
レオンに連れられて、リリーはとある部屋に案内された。
花びらを模した洒落たランプが壁に光り、床の絨毯などは幾重にも連なる花の文様が織り込まれている。
ランプの下に立てかけられた大きな鏡は、年季の入った金縁で。今にも鳴りだしそうな振り子時計は、不自然な時間で針が止まっていた。
しばらく使われていなかったのだろう。ぼうっとしたランプの色が、他の部屋と違うように見えた。
ミリアと同じ服装をした女性が二人ほど壁際に控えており、リリーを認めるなり恭しくお辞儀をしてみせた。
「この子たちはミリアさんの部下で、屋敷のメイドさんたちデス」
「よろしくお願いします」
声を揃え、上品に笑みを浮かべる。リリーは、反射的に会釈を返した。
「何をするんだ?」
「お召替えデス」
「は?」
レオンが言うや否や、メイドたちはリリーを椅子へと導いた。さっと手早く姿見を動かし、リリーの目の前にどんと据える。
呆気にとられた顔で鏡に映る自分と目が合ったリリーは、居心地の悪さに口を歪めた。
「お召替えって、別にこのままでも」
「いやいやいやいや何言ってるんデスか。着たきりスズメみたいな恰好して」
「なんだそれ」
「やっぱり戴冠式をするにしたって、見た目って重要デシてね。兵の士気にも関わりマスし」
「ああ……そういう」
納得しかけて、リリーは勢いよく振り返った。
「戴冠式!?」
背後にいるレオンに、食い掛るように叫ぶ。その両側で、ヘアブラシや化粧品を持ち、既に準備万端といった様子のメイドたちだったが、突然の大声に目を丸くして驚いた。
「すぐそこに軍が迫ってるんだろう!?」
「まあそうなんデスけど」
「そっちの準備の方が先だ! それに……私はまだ城に行く資格なんて」
ヒルと誓約を交わした時に見上げた王城。まだ王位を継ぐものとして不十分で不完全だ。
おどつくリリーに、レオンは困ったように眉を下げた。
「どっちにしろ、王城に行かないといけないんデスよ。軍備も兵も全部そこなんで」
脳裏に、リュシアナ王アルフレッドの顔が浮かぶ。アルフレッドは昔から、大人よりも賢く、今にして思えば狡猾な面があった。のんびりしているこの時間でさえ、既に先の先を考えて準備をしているはずだ。
力なく座り込んだリリーの両肩に、レオンがそっと手を置いた。
「陛下。いや、まだリリーちゃんって言った方が君にとってはいいんデスかね」
皮肉かと鏡の先を睨みつけたが、そこには困ったように微笑むレオンがいた。
「君を王という立場に担ぎ上げたのは俺デス。デスから、君が何も知らない他からあーだこーだ言われることだけは嫌なんデスよ。だから見た目なんてと言わず、俺のわがままに付き合ってくれマセンかねえ」
「レオン……」
「綺麗に飾り立ててみたいんデスよ。お願いしマスよ~ねっ」
「いや、えっと……けど」
「さ、メイドさんたちの言うことを賢く聞いてクダサイねえ」
レオンがぱっと手を離す。いそいそと近寄ってきたメイドたちが、リリーの髪を梳かし始めた。
大人しくなったリリーを見たレオンは笑みを浮かべると、両手をひらひらとさせながら扉へ向かう。パタンと静かに扉が閉まった時、暫しの沈黙が流れた後、リリーははっと目を見開いた。
「……うまく躱された」
呆気にとられるリリーをよそに、メイドたちは粛々として髪を編み込みんでいくのだった。
レオンが部屋の外に出ると、ヒルが腕を組んで壁にもたれかかっていた。
入る機会を逃していたのだろう。ちらっとレオンを見る彼の顔は少々不満げだった。
「そんなとこいないで入ってきたらよかったのに」
「リリーは大丈夫か?」
「だからそういうの自分で見たらいいデショ。何の遠慮デスかそれ」
ヒルは歩き始めたレオンに続き、軽くため息を吐いた。
「何も知らないまま、言いくるめたような形で誓約を交わしてしまったことが心配だ」
「代々ヴァイスの王と誓約を交わしてきた偉大な剏竜様が何言ってんだか。約束したんならあとはずっと一緒にいて守るだけ。デショ?」
まったくもってその通りだが、ヒルは静かに、少し悲しげに微笑む。
苛立ちを感じたレオンはヒルの胸元に軽く拳を当てた。
「君はもうあの子の特別な存在デスから自信持ってればいいんデスよ!」
「そうじゃないんだ、ただ」
「なんデス」
「リリーのあの力、今まで見たことがないものだった」
「……王だけが持つ力デスか?」
リリーとヒルが誓約を交わした瞬間、ヴァイスは一瞬にして氷の牢獄から解き放たれた。
当時のままの姿を取り戻し、天候さえ変えてしまったのだ。
「王によって、その力は多様に変わると聞いていた。リリーの力は今までにない不思議なものだ」
「検証しないとなんとも言えマセンが、見たまんまだと「再生」の力って捉えていいんデスかね?」
「いや」
ヒルは自身の肩を触る。背中がつきりと痛みを帯びた。
「この世界で、無から有を作る術はない。だからリリーの力は、そこにあるものを消して、『本来の姿に戻す』ような……」
「それ、再生デスか。破壊デスか」
ヒルは答えなかった。柔く微笑んだその赤い瞳には、静かな覚悟が浮かんでいた。
* * *
ヒルとレオンがそんな話をしている頃、ライザーは一人先立って王城に来ていた。
凍り付いていた筈の城の外壁は、すっかり彼が知る以前の姿を取り戻していた。
小さな蔦が這い、そこに虫や蜥蜴がいるのを見た彼は、不可解だと言わんばかりに顔をしかめた。
「俺たちを閉じ込めた魔導術が全部消えてやがる」
リリーが放った光が空を渡る時、確かに魔導術の術式が破壊されていくのを見た。いや、巻き戻っていったと形容した方が正しいかもしれない。
乗ってきた馬が草を食む様子を見たライザーは、その地面にそっと触れた。春の土だ。暖かく、弾力がある。
立ち上がり、再び王城を見上げる。高い空に鳥が飛ぶのを見て、妙な不安感に襲われた。
「ぐるっと見てみるか」
馬に乗り、城壁沿いに走らせる。念のためと羽織ってきたローブだったが、あまり必要はなかった。額に汗が滲むほどには気候がいい。
城壁も一回りすると、暗い影に入る。灰の城壁に規則的に並ぶ狭間も暗く、頼りない旗棒には鳩がとまっていた。
あの石壁の上に、かつては見張りをする兵士が幾人もいて。よく親に連れていってもらっては、落ちるなよと注意をされた。
実際に落ちそうなほど身を乗り出していたのは、妹のマイアだった。
『お兄ちゃん!』
聞こえる筈のない声だ。だが、まだその声音を忘れてはいない。
「静かだな……」
もしあのリリーの力が、城や大地を蘇らせたというのなら、この中には閉じ込められていたヴァイスの兵たちが、生きて蘇ってる筈だ。それなのに、出てくる気配がない。
最悪の事態を想定したライザーは、一人ここに先駆けたのだ。
ふと、搭状の楼閣の頂きに、揺らめく影を見えた。見間違いかと目を細めるも、やはり何かがいる。
期待に胸を膨らませたライザーは、裏門へと馬を走らせた。塔へ上がる一番の近道だ。
馬を扉の前に繋いで降り、中へ滑り入る。警戒を怠ってはいけない。城にいるからと言って味方とは限らない。
だが、胸が期待に踊る。もうずっと顔を見ていない臣下たちが、この景色を喜んで外を見回っているのではないだろうか。
塔の上に上がる螺旋階段。できるだけ足音を消して、歩みを進める。
ぼんやりと注ぐ光に、小さなほこりが舞う。それとは別に、細かな光の粒があるような気がした。
「ん?」
ことり。上から足音がした。足音は軽く、こつこつと響く。兵士のものにしては、妙に軽い。城の侍女だろうか? いや、無事だった侍女は全員屋敷にいるはずだ。
足音の主はライザーに気付いていないのだろうか。光を遮る影が、左右に動いている。
嫌な気配はない。ライザーは思い切って、歩みを速めた。
残りの階段を一気に駆け上がり、塔の頂きへと出た。
遮るものは何もなく、青々と蘇ったヴァイスの大地が一望できる塔の上。
陽は高く、空気は澄み渡っている。だが風は、薄く白い空気の膜を孕み、不思議な光の粒をまとっていた。
ライザーの存在に驚いたのか、群がっていた無数の白い鳩が急にバサバサと飛び立ち、空の青へ向かう。
「っぷ!」
抜け落ちた羽根が、ライザーの視界を塞ぐ。口に入った綿毛をぺっと吐き出していると、不思議な気配が彼に問いかけてきた。
そこには、大平原を見渡す華奢な後ろ姿があった。白く厚みのあるローブと、細い杖。その先端には、蒼い宝玉が光っている。淡い桜色の髪は長く、腰より下まで波打っていた。
その存在はライザーに気付いたのか、ゆっくりと振り返る。灰の瞳が、澄んだようなその眼が、こちらを射抜いた。
女性の唇は小さく、きゅっと引き締められている。誰だと問いかけることはできなかった。逆光の中で、無表情にこちらを見るその女性は、今までライザーが出会ったことのあるどの女性よりも気高く、そして心に厚いヴェールを纏っていたのだった。
視線が合わさった時、まるで糸に縛られたように足が動かなった。ただ見つめ返すしかできずに、言葉を失ったライザーだったが、その女性もまた言葉を探しているようだった。
だが、次の瞬間。
「きゃーーーー!!!」
先ほどまでの女性がどこかに消えたのかと勘違いをしてしまうような、若く高い声。
灰の瞳が丸く大きく見開かれ、口は大きく開いて無防備に声を発する。
突然のことに驚いたライザーだったが、ハッと我に返った。
「だ、誰だてめえ!!」
「あんたこそ誰よ~!! どうやって入ってきたの!?」
「てめえこそどうやって入った!」
「あたしはこの城の――……、っと、その、探し物があってきたの!」
「なんだそれ! 怪しすぎんだろ! そこ動くなよ!」
ライザーがずんずんと歩み寄ると、女性は青ざめて杖を握った。
「ちょっとやだこっち来ないでよ!」
「勝手に人ん家入っといて何言ってやがる!」
「人ん家?」
「そうだよ! っていうかお前まさか人間じゃ……」
ライザーの手が女性の腕をつかむ。細い手首を掴み、引き寄せる。
だがその前に女性の方からライザーの懐に入り込んできた。
一瞬にして鼻先に迫る、丸い瞳。情けない自分の顔が、その中に映り込んだ。
「あんたヴァイスの民ね!」
「は……」
「ねえ! ここにリリーが来てるんでしょ!」
「はあ!?」
「分かってるのよ! お願い! あたしをリリーのところに連れていって!」
* * *
その葦毛の馬は、大人しかった。
初対面にも関わらず、こんな重いドレスで、こんな動きが鈍くなったやつを素直に乗せてくれるのだから。
「馬に乗るのは初めてだったか?」
からかうようにヒルが言う。馬上で固まるリリーを見て、それは楽しそうに笑ってみせた。
「ドレスってこんなに重いんだな。一人で馬に跨がれないなんて初めてだ」
リリーが纏うドレスは、白と夜色の、腰から下が大きく広がったドレスだった。作りは簡素であるが、腰の飾り布には細かい金刺繍が施されており、二重に重なったスカート部分は重厚で光沢のある布が使用されている。
胴体部分は体のラインが分かるほど細身だが、袖口に向かって長く広がっているため、上品さが際立つ。
腕に受けたリリーの傷も、すっかり隠してくれる。
「頭が重い」
きっちり髪を編み込んでまとめているので、首が寒い。そのくせなんだか痒いような気がして、しきりに耳たぶをいじる。すると馬の傍にいたミリアが無言で諫めてきたので、さっと腕を下ろした。
「似合っている。可愛い」
惜しげもなくヒルがそんなこを言うものだから、リリーは耳まで真っ赤にして目を逸らした。どこか悔し気なのは、精一杯の抵抗だろう。
ヒルはというと、自分の上背にも匹敵するほどの長さの大剣を背負っておはいるものの、その装いは黒と銀を貴重とした衣服に身を包んでいる。紅く長い髪は、同じく銀色の髪留めで一つに結び、胸元には八重の花を模した紋章が光っていた。
ついまじまじと見てしまう自分に気付いたリリーは、また悔しそうに俯いてしまった。
「こ、これから王城に行くの?」
「ああ」
答えながら、ヒルはさっとリリーの後ろに跨った。そのままリリーを抱え込むように手綱を握る。
まさか同じ馬で行くとは思っていなかったリリーはぎょっとしたが、既に腕の中に捕えられておりどうすることもできなかった。動けないのはこんなドレスのせいだと、一人繰り言を言う。
「陛下、本当にお似合いです。そのドレス、今日という日まで大切にお手入れをしてきた甲斐がございました」
ミリアがうっすら涙を浮かべる。髪を結ってくれていたメイドたちも、顔を見合わせて笑っていた。
「耳飾りも、御髪の宝石も、全て前王妃ユティリア殿下の物です。本当に、本当にお似合いですわ」
「お母様の……」
本当の母。聞けば、髪も目の色も同じらしい。
彼女たちは心からこの王家に仕えていたのだろう。それはこの装いの準備をしている時から、痛烈に感じていた。ドレスを整える手、化粧をする筆の運び。そのどれもが、かつてそうしていただろう腕のいい侍女たちのもので。
まるで人形のように固まり、せめて彼女たちの邪魔をしないように気を付けることしかできなかったリリーは、やはり恥ずかしい気持ちになった。
いくら遺児とはいえ、昨日今日知り合ったばかりの者に、どうしてここまで優しくできるのか。
「リリー」
ふと、背後から低く優しい声が響いた。振り返ると、ヒルの指先が赤い花をつまんでいた。
「庭のブーゲンビリアだ。ここはよく風が吹くから」
その一片を、リリーの手に乗せる。花びらに見えた部分は実は苞葉で、その中に小さな花が三つほど集まっていた。
「可愛い……」
「ああ。可愛い花だ」
慈しむようなヒルの微笑みは、リリーからは見えていない。ミリアたちは顔を見合わせて微笑んで、深くお辞儀をした。
「さてさて。そろそろいいデスかね」
栗毛の馬に乗ったレオンが、向こうからやってきた。
彼もまた白く、同色の細かな刺繍が施された正装に身を包む。長い裾が知的な雰囲気を引き立たせ、その胸にはヒルと同じ八重の花の紋章が輝いていた。
「行きマショ陛下。俺たちの王城へ」
「――うん」
目の前に、どこまでも広がる大平原。風は後ろから吹き荒び、まだ見えない未来へと誘うようであった。
王弟アーヴェントロードが治める領地より馬を走らせ少しすると、あの王城が再びリリーたちの目の前に姿を現した。
ヒルと誓約を交わした時よりも、なんだか雰囲気が明るくなったような気がする。
「先にライザーが来ている筈だが」
ヒルは手綱を引き、馬を正面へと走らせる。跳ね橋は降ろされているが、誰かが迎えてくれる気配はない。
ヒルとレオンが視線を交わす。先にレオンが橋を渡り、城門をくぐった。
「うわ、本当に変わってないデスね」
「今まで入れなかったの?」
「謎に凍り付いていマシてね。入るだけでも危険デシた。……ここには、仲間がいるんデスが」
すべて無事ではないだろう。横顔でそう言った。
「ヴァイスは昔から寒い大地だったと聞いたのだけど」
「人間の大魔法。それ以来、城の中までも凍り付いたんデス。永久凍土のように」
馬が歩むそこは、豊かな草原。緑輝く木々たちが、陽だまりの中に木陰を作る。
朽ちかけた銅像と、かつて民が暮らしていただろう民家。
巨大な城塞、王がおわす堅牢な城。今は誰もいない、空っぽの城。
だが、自由の空には鳥たちが飛んでいる。始まりの時に咲く白い花も、そこら中に咲き誇っている。
リリーを乗せた馬はゆっくりと歩を進め、王城の入り口までたどり着いた。見上げると、美しい旗がその両側に掲げられていた。
それは目覚めたばかりの城を祝うように風に靡く。まるで昨日までずっと手入れをしていたような、美しい光沢を放っていた。
「おや、ライザー君が出してくれたんデスかね?」
「……あいつがそんなことをするだろうか」
ヒルが呟く。とりあえず馬を進めようとした時、リリーはその門の真下に何者かがいることを認め、声を上げた。
「ヒル、あそこに誰か倒れてる」
見ると、そこには男性が一人、うつぶせに横たわっていた。
「リリー、待て」
「ここにいるなら仲間でしょう」
ヒルの制止も聞かず、リリーは無理やり馬から降りようとする。すぐにヒルが先に降りて、リリーの腰を持ち上げて地面へと降ろした。
降りるや否や、リリーはその人物の元へ駆け寄った。触れることを一瞬躊躇ったが、背中を軽く揺すった。よかった。まだ暖かい。
「おい! 大丈夫か!?」
数回揺すると、青年の体がぐぐっと動いた。
「だ、だいじょうぶ……っス~」
頭を抱えながら、ゆっくり顔を上げる。
そこには、太陽の光を集めたような髪の青年がいた。
「いや、ははは……久しぶりすぎて転んじゃって」
はにかんだ笑顔を見せるが、青年の声は弱々しく、寝起きのように掠れている。
だが、暁の瞳がきらきらと輝いていた。
彼が纏う黒い軍服には小さな花の紋章が縫い付けられており、そこから伸びた銀の飾緒が肩にかかる。
そんな彼の容貌の中で、一点だけ気になる箇所があった。
「その耳……」
青年の耳は尖っており、瞳の瞳孔は縦に割れていた。
そう、あの竜の長カイムと同じように。
「って、あれ。君……誰っスか?」
青年はリリーを見つめながら、丁寧に上半身を起き上がらせる。そしてすぐに立ち上がると、リリーに手を差し出した。
「ここの……というか、なんといえばいいか、私は、その」
助けを求めるように、ヒルを見る。だが、ヒルとレオンは離れた場所でじっとしてこちらを見ているだけだった。
なぜこちらに来ないのだろうか。青年は二人の存在に気付いていないのか、にこにこと笑っている。
「俺はレイムって言うッス。まあその、実はさっき起きたばっかりで、城壁に旗を出しただけでお腹が空いちゃって! んで、そしたらこんなことになってるし! やっぱこれってアレッスよね。王様が戻ってきたってことッスよね!」
「あの……えっと」
「君はどこの街から来たッスか? もしかして起きたばかり?」
「その、来たばかりなのはそうなんだけど」
「ん~でもその恰好だと、どこかの令嬢ッスよね。でも見覚えないんスよねえ」
言う機会を見逃してしまったリリーは、恥ずかしそうに口ごもる。あまりに明るい言葉に、目がちかちかとする。
それが青年の目には不安げに映ったのだろうか。青年は首を傾げた後、あっと思いついてズボンのポケットに手を差し入れた。
「よいしょ」
何かを取り出した青年は、リリーの目の前に拳を突き出す。
「これどうぞ!」
「えっ」
「ほら、受け取って!」
リリーが手のひらを差し出すと、青年の拳の中から小さな宝石が転げ落ちた。
花の形に加工されたそれは、七色に光る水晶だった。
「ずっと前に集めてた石なんだ。それあげるから元気出すッスよ! 俺がこれからまた、ヴァイスを元の王国に戻してみせるッス! だから、安心して!」
青年は、先程からずっと笑顔を絶やさない。それが地の顔なのだろう。カイムと似た風貌をしているのに、全く真逆の雰囲気だった。
リリーはそれを受け取ると、こくんと頷いた。
「ありがとう……」
「何をしているんだレイム」
その声で、風が止んだ。
軍靴の足音がして、大きな影がリリーの背後からかかる。異様なほどの雰囲気に振り向くと、黒い軍服に身を包んだヒルがいた。
「えっ、嘘! ヒルさん!!」
「……知ってるの?」
「知ってるも何も、俺はヒルさんの――」
「部下が大変失礼をしました陛下」
ヒルがそう言って胸に手を当てる。
「へいか?」
レイムはきょとんとしてリリーを見た。
間近に顔を近づけ、驚いた顔をする。
距離が近いせいで、後ろに転んでしまいそうになる。
「君、まさか、ジオリオ陛下の!!」
リリーの二の腕を両手で掴み、驚嘆の声を上げる。そうだという返事を待たず、レイムはリリーの顔をまじまじと見る。
「え、マジっすか! うわーうわー! ヒルさん良かったッスね!」
「いいから離れろ」
ヒルはリリーとレイムの間にずいと割り込んだ。
「お前も目覚めが良いようで良かった。もう一度寝てきてもいいんだぞ」
ヒルが剣の鞘でレイムをつつく。
「ちょ、なんでそんな怒ってるんスか!」
「無事で何よりだ」
「言ってることとやってることがおかしいッス!」
呆然とリリーがその様子を見ていると、レイムはハッとして姿勢を正した。
そして胸に手を当てて、元気よくお辞儀を見せた。
「改めてご挨拶するッス! 俺はレイム! 竜族ッスけど、ヴァイスの国王護衛部隊ドラフェシルト所属ッス!」
きっちりとした口調でハキハキと喋り、ぴっと敬礼すると歯を見せて笑う。
それは底抜けに人の良さそうな笑顔だった。
「それにしたってちょっと起きるのが遅いんじゃないデスか~」
「レオン軍師だ! 久しぶりッス! ていうか、ひどいッスよレオン軍師! 助けれるなら早く助けてほしかったッス!!」
「見たことも無い永久凍土の魔導術の解析なんて、どんだけ難しいか知ってマス? どんだけ人手がいるか分かってマス? みぃーんなカチコチに凍って研究所もなんもないのに出来ると思いマス?」
「え、じゃあ誰が俺たちを助けてくれたッスか?」
「そりゃあこの陛下に決まってるデショ。陛下の誓約の力で、気候も全部戻ったんデスよ」
「……そう、ッスか?」
何か奥歯にものが挟まった言い方をするレイムだったが、まあいっかと笑った。
「リリー、こいつはレイムと言って俺の部下だ。竜族だが、ずっとヴァイスで育っている。そしてカイムの弟だ」
「カイムの!?」
それを聞いて、リリーは思わず大きな声を上げそうになった。似てると思ったがまさか兄弟だとは。
レイムは、嬉しそうに微笑みを返した。なるほど、似ていない。似ているのは瞳と耳くらいのものだ。
「ところで陛下、お名前はリリー……なんて言うんスか?」
「あ、えと。リリー。リリー・ウルビア」
「へー、向こうじゃそう呼ばれてたッスか!」
その声の大きさに、リリーは押され気味に体を後ずらせる。
「あっと! すんません! 俺久しぶりでなんかはしゃいじゃって」
「いや、違う。その……カイムと似ていないから驚いてて」
「カイムさんに会ったんスか! どうッスか! 優しかったでしょ!」
何を言っているんだと思わずつっこみたくなったが、リリーはぐっと堪えた。
傍らでレオンが笑っている。
「まあ竜の感性は俺たちとは違いマスから」
「優しいがどういう意味かは分からないけど、その、お前に会えてよかった、レイム」
リリーがおずおずと言うと、レイムは頭がもげそうなほど頷いた。
「俺も陛下に会えて嬉しいッス!」
「ところでレイム、お前が此処に来たということは、王城の他の者達も無事なんだな?」
ヒルが尋ねる。
「はい! ちょっと体は動かしにくそうッスけど、生きてはいるッスよ!」
「そうか……」
ヒルは、心から安堵した顔を見せる。その顔を見ると、リリーもなんだか嬉しくなった。
ヴァイスの氷の封印が解かれるまで、彼は王城の中で氷漬けにされていたのだという。
それが突然先ほど目が覚めて、急いで準備を始めたのだと。
つまり、昔に人間がヴァイスに放った大魔法当時、なにもわからぬまま今まで仮死状態にあったということだ。
それがリリーの力により元に戻ったというのだが、リリーにはその実感がなかった。本当に彼を助けたのは、自分の力なのだろうか。
裏表のない笑顔を向けられて、リリーは少し胸が痛んだ。振り返らないと決めたはずの過ちが疼く。
「しかし、永久凍土の中でよく無事デシたね」
レオンは、レイムの体を観察する。
「服は着替えただけッスけどね。それ以外はあの頃と変わんないんスよねえ。だから生き残った民も無事ッスよ。他の軍師さんがみんなを取りまとめてくれてるはずッス」
他の軍師という言葉にレオンが僅かに気を揺らしたが、それは誰にも悟られなかった。
「ところでレイム、ライザーを見なかったか?」
ヒルが問いかけると、レイムはきょとんとする。
「へ、ライザー卿もここに来てるっスか?」
「先に来ていた筈だが」
「いたら気付くと思うんスけど……」
「ヒルシュフェルト隊長!!」
奥から、けたたましい足音を立てて、数人の兵士が現れた。彼らはレイムと同じ軍服に身を包んでおり、腰には細い剣を携えている。
彼らはヒルの前に並ぶと、規律を乱すことなく横一列に並んだ。
「お前たち……」
兵の中でも、少し若く見える青年が頭を下げた。ヒルを見るなり泣き出しそうな顔で笑うが、すぐに気を引き締めた。
「再会の喜びの言葉を申し上げたいところですが、急ぎご報告いたします」
「何があった」
「侵入者です。城内地下に逃げ込んだようで、現在ライザー殿下が追って地下へ……」
「分かった」
ヒルはレオンを見遣り、リリーの背中を押した。
「陛下を安全な場所へ」
「りょ~かい」
「待って、私も……」
立ち去ろうとするヒルの袖をつかむ。ヒルはリリーに振り返ると、その頬を撫でた。
「陛下が自ら対応するようなことではありません」
敬語を使う時は、子ども扱いをされている時だ。リリーは不満げに睨み上げる。
「王城に侵入者がいるっていうのに、私だけ安全な場所でいるわけにはいかないだろ!」
「ヒルシュフェルト隊長、こちらの方は……」
「我らが女王陛下だ。軍師とともにお守りしろ」
兵たちがどよめく。皆が顔を見合わせてひそひそと話すその様子に、リリーは所在なさを感じた。だが、すぐにヒルと話していた青年が、恭しく騎士のようなお辞儀を見せた。
「貴方様が……そうですか……そうでしたか……!」
「リリーちゃ……じゃない、陛下。とりあえず俺たちと一緒にいてクダサイ。正体が分からないうちはヒル君に任せた方がいい」
レオンはそう言うが、リリーは納得がいかなかった。王たる身分のものがどう振舞うべきか、アルフレッドを見ていたのだから理解はできる。
だが、自分の重いドレスや装飾品が、どうにも必要であるとは思えなかった。
それに、何者かも分からない者を相手に立ち向かおうとする彼を見ると、妙に胸がざわつくのだ。
だが、大剣を背負う彼の背中は大きく、手を伸ばしても届くものではなかった。
「ヒル、あの」
気を付けて。そう言えばよいのだろうが。
「すぐ戻る」
リリーは何も言えず、無言にヒルの背中を見送った。
強固な城壁のように自分を囲む兵たちの波が、やがてヒルの姿を視界から消していった。
「大人しく待ってマショーね」
念を押すように、レオンが言う。だがリリーはぎゅっと手を組み合わせると、その場から走り出した。
「陛下!」
兵が制止しようとしたが、その走りに間に合わず追いかける。
「……聞くわきゃないか」
諦めたようにため息をついたレオンもまた、駆け足でその後を追った。
ヴァイス王城の地下には、水路が広がっていた。だが不衛生さはなく、むしろ水は美しく透き通っていた。
いつのまにか群生していた白い花が石壁に蔦として這いまわり、火の消えた燭台には蜘蛛が巣を張っている。
その地下を、必死に走る影が二つ。片方は、杖を持ち走る華奢な体躯。そしてそれを追いかけるのは、ライザーだった。
「いい加減止まりやがれ!」
吠えるライザーの声は空しく響く。女性はその声を無視し、石壁の各所を見ては、何かを唱えていた。
「ここも、術式が根強い。ここもここも。信じられない。こんな長く保つなんて……」
「聞いてんのかてめえ!!」
やっと追いついたライザーが、女性の肩をひっつかむ。だが女性は、ライザーに自身の杖を投げるように預けて、また何かを唱え始めた。
まさか何かの魔導術をかけているのではと警戒をしたが、その不安は杞憂だった。
女性が唱えた場所から、まるで鎖のように絡まった文字たちが、浮き上がっては消えていくのだ。
消し炭のように弱々しい文字たちだったが、女性が唱えるまではその存在すらも見えなかった。しかし、文字が消えた後はその一帯は確かに澄み渡り、淀んだ空気が消えているのだ。
「お前、何やってんだそれ」
「残ってるだろうな~って思ってたけど、やっぱり予想通りだよね。ほっといたらここだけ魔導元素が歪んで、変な斑点になっちゃうから解除しないと」
女性は手に持った書物を目まぐるしく捲る。見たこともない術式の羅列がメモをされたそれは、理解に苦しむ記述も多く見受けられた。
「……何のために」
なぜお前がそんなことを。そう言いたかったのだが、言葉は意味をなさなかった。
振り返った女性は、ライザーを見上げると怪訝な顔を見せた。
「ここにリリーがいるんでしょ。だから助けにきたの」
「それは分かったけど、お前は誰だって言ってんだよ!」
「あたしがやってることを黙っ見てるってことは、あんたも魔導師なんでしょ~。なら、人に簡単に名前教えるなって習わなかった?」
ぐっとライザーは言葉を詰まらせる。確かに、警戒を解き名を教えるのは魔導師としては非常識だ。魔導術には、他人の意識に入り込む術もある。
「名前は人を縛るでしょ。あんたが誰だか知らないけど、あたしだって逆にあんたを縛ったりしたくないの~。……っと、これでここは最後かも」
ふうと額の汗を拭い、女性は立ち上がる。裾の誇りをぱしぱしと掃うと、ライザーから杖を受け取った。
「さ、リリーのとこに連れてって!」
「ああそうだな、って案内してもらえると思ってんのかてめえは!」
そもそも人間たちが恐れるこの悪魔の大地にある王城に単身で侵入し、挙句訳の分からない魔導術の解除をしてまわっている時点で十分に怪しい。
だが女性は大きな目を丸くするだけで、首を傾げていた。
「え~!? だって害のある魔導術の残りを目の前で解除していったんだよ。味方じゃん!」
「それが通るなら城の掃除してりゃ全員味方じゃねえか!」
「そりゃそうだ。本当だね~!」
けらけらと笑う女性に、ライザーは怒りが収まらない様子で睨みつける。
ふと、女性は笑うことをやめ、彼方を睨んだ。
「誰かくる」
「は?」
女性が見る先は、地下の暗闇だった。幾重にも伸びた柱の向こうは、灯りも何もなく闇が水路を飲み込んでいるだけだ。
足音も何もない。だが女性は、そこにいる何かに向かって杖を構えた。
ライザーは目を凝らすが、何かいるようには見えない。だが、女性の横顔は、あの時塔の頂きで見た時のように少し鋭く、別人のように目尻が吊り上がっていた。
そして、その存在はゆっくりと姿を見せた。闇の向こうから染み出すように、足音もなく出でる。
柱の燭台が、向こう側から順に灯り、橙色の光が地下を照らしていく。
「ねえねえキンパツ、あれなんかやばいんだけど、もしかして知り合い!?」
女性はライザーの後ろに回り、隠れるように身を潜める。
「やばいってなんだよ。っていうかなんだキンパツって!」
「逃げた方が絶対いいと思う。そういうわけであとはお願い!」
女性はそう言うと、後ずさりを始めた。
「逃がすか馬鹿!」
だが、すぐさまライザーがその手を掴む。その瞬間、地下の濡れた石畳がライザーの足を掬った。
手を掴んだまま、女性の方に前のめりに倒れこむ。
「えっ、わわわ! ちょっと~!」
踏ん張ろうとするも逆効果でしかなく、女性は杖を放り投げた。隠し持っていた様々な道具が辺りに散らばる。
魔導書、鍵、薬の革袋、何に使うかわからない宝石。戒めの装飾具。暗闇の中に音を立てて散らばったその上に、二人は折り重なるように倒れこんだ。
「っ……」
意図せずして、覆いかぶさるような体勢になった時、ライザーは改めて女性の顔を見ることになった。
暗闇でよく見えなかった顔は、近づいてきた灯りに照らされてぼんやりと浮かび上がる。
やはり、先ほどまでとは違う。丸い瞳ではなく、少し目じりのきつい、意志が強固な印象の瞳。瞳は灰色ではなく、水面に揺らぐように光る銀だった。
怖じるわけでも、嫌がるわけでもなくこちらを見つめ返す女性は、すっと人差し指をライザーに向けた。
「『アクラフラット』」
小さな水の塊が、ライザーの頭上から降り注ぐ。
「っ冷て!」
髪から伝い落ちる水滴が、女性の顔にも降り注いだ。白い頬を伝い、首元へつうっと流れていく。
片手で簡単につかめてしまいそうな首筋に、桜色の髪が張り付いていた。
「見すぎ」
かっと顔が熱くなるのを感じ、ライザーは言葉を失った。
「……そこにいるのはライザーか?」
するとようやく、灯りの主が声を発した。そこには手にランタンを持ったヒルがいた。
後ろには数名の兵士を引き連れている。
「何をやっているんだお前は」
その状況を見れば、誰もがヒルのように呆れて首をすくめるだろう。
ライザーは慌てて女性から身をよけると、「違う!」と大声を上げた。
「それで、そこにいる女性が侵入者か?」
女性もまた、散らばった荷物を集めながら起き上がった。
ヒルを見つめると、腑に落ちないといった顔をした。
「おかしいな……もっと怖い感じだと思ったのに……」
誰の耳にも入らないように、小声で呟く。
「すまないが身柄を拘束させてもらうぞ」
ヒルの言葉で、兵たちが縄を取り出す。近づこうとすると、彼女は凛として声を上げた。
「勝手に侵入をしたことは謝罪するわ。でもあたしは敵じゃない」
「ほう?」
「ここの地下にある魔導術は全部解体したわ。地上は元に戻っていたけど、ここだけは残っていたのね」
「どうしてそんなことができる」
「……魔導師だからとしか、言えない。でも信じて! あたしはリリーを助けにきたの。お願い、リリーに会わせて!」
恐らく嘘は言っていないだろうということは、ヒルもライザーも分かっていた。彼女の言う通り、地下の空気が澄み渡っているのは一目瞭然だった。
ここには地上と同じく何らかの凍結魔法が残っていて、放っておけばまたそれらが広がってしまっていたのだろう。
そんな複雑で視認しにくい魔導術をあっさり解除してしまえるのなら、よほど優秀な魔導師なのだろう。だが、或いは――……。
「会ってどうする。連れ戻すのか」
「リリーが悲しい思いをしているならそうするよ」
「堂々としたものだな」
「貴方はたぶん優しいんだろうけど、リリーにとってはどうかが分からない。だから会わせて」
「俺たちのところから連れ去ってしまうかもしれないと分かっていて、会わせることはできない」
ヒルは、ライザーと同じことを言っているのだが、女性は喉の奥に息苦しさを覚えた。
指先にぴりっとした痛みが走り、熱のように広がる。
微笑んでいるようにも見えるのに、彼から感じるこの妙な気配はなんだろうか。
異質で、不確かな存在の揺らぎ。近くで慣れ親しんだようにも思うのに、全く知らないものでもある。
「……会わせてくれないなら自分で探す!」
女性の足元が光り輝き、幾重にも重なった魔導術の文字が浮かび上がった。ライザーが咄嗟に手をかざしたが、発動の方が早く弾き飛ばされる。杖から多量の水が溢れだし、渦を巻いて四方に広がった。
だが、それを凌ぐ速さで接近したのはヒルだった。水の合間をかいくぐり、あっという間に女性の間合いに入り込んだ。
「嘘でしょ!?」
女性が驚くのも無理はなかった。魔導術の発動は瞬時のもので、同時に動いたとしてもここまで距離を詰められるわけがない。
水の流れよりも早く飛び込んできたヒルに更なる対処をしようと試みるが、あっさりと両腕を掴まれてしまった。
片手ひとつで両手首を掴み、もう片方の手で唇を塞ぐ。杖は、無残に地面へ転がった。
「次は何を使うんだ」
ヒルは微笑んでいる。柔らかく深い、血色の瞳で。
女性は自らの体から抜け落ちた血液が、まるでその瞳に吸い込まれてしまったような、激しい悪寒に襲われた。
「待って!」
向こう側から石を蹴る音がして、リリーが走ってきた。せっかく着飾った髪は乱れ、ドレスの裾は泥に汚れている。
声を聴いたヒルはその体制のままリリーに振り返る。その時、彼の瞳に温もりが戻った。
「リリー!」
ヒルの手の隙間から、もごもごと名前を呼ぶ。
聞きなれた声色に気付いたリリーは、転げそうな勢いで駆け寄ってきた。
「ベリー!?」
リリーが駆け寄ると、ヒルはあっさりとベリーの拘束を解いた。
自身がいた場所を明け渡し、少し下がる。
「なんで……どうしてこんなところに!」
久しぶりに見た友人は、戦うための魔導師の装いをしていた。
見慣れない装飾具を幾つも身に着けているのは、魔導術を増幅させる媒体だろう。
いつも軽装だった彼女に似つかわしくない、膨れ上がった腰のバッグ。散らばった魔導書と紙切れは皺だらけで、急いで荷造りをしてきた様子が伺える。
「リリー……リリーだ」
連れ去られたはずの友人は、美しいドレスと飾りで、今まで見たどの彼女よりも綺麗だった。肌も汚れていない。表情に恐怖はない。
ベリーはそっとリリーの手を取ると、その美しく整えられた爪先を見て安堵の息を吐いた。
「……っ、よかった……」
「ヒル、ライザー。彼女は私の友人だ」
「そうだったのか」
あっさりと納得をするヒルに、ライザーが何か言いかける。ヒルは首を横に振った。
「リリー、あたしリリーを助けにきたの」
「ベリー、だけど私は」
「分か……ってる。分かってるよ」
ベリーは震える唇を噛みしめた。ふうっと大きく息を吸い込むと軽く吐き、心を落ち着かせる。
そうしている内に、先にリリーが口を開いた。
「ベリー、貴方は私を連れ戻しにきたの?」
「リリーが辛い思いをするのが嫌。もしリュシアナでなくても、人の世界はたくさんあるんだよ。ここだけを選んでしまうことはない」
「ごめんなさい、……それはできない」
「えっ……」
「私はもう、そちらの世界には戻らない。私はここで、自分がやるべきことを見つけたの。それは私の責任。私が、自分で決めた道なの」
リリーの翡翠の瞳が濃さを増し、鮮やかに輝いていた。
最後に会った日からそう時間は経っていないのに、まるで別人のようだ。口振りから冷たさや気だるさが消え、芯の通った強い説得力のあるその言葉は、強い意志に突き動かされている。
「悪魔になるんだよ。人の敵になっちゃうんだよ。セイレだってそんなこと!」
「ベリー、貴方は私にとっても大事な友だちよ」
「だったら! ねえ行こうよ! 人間が皆、リリーの敵に回ってるんだよ!」
だが、リリーは静かに首を横に振った。その表情はどこか悲しげで、しかし強い決意に満ちていて、何者をも恐れぬ目をしていた。
「それでも私は、ヴァイスの王の子なの。その事実は、ここから逃げたとしても何も変わらない」
あの時、ヒルと誓約をした時から、自分の道は決めている。誰に何を言われようとも、リリーはもう進むべき道を変える気は無かった。
ベリーは何か、リリーを考え直させる効果のある言葉を頭に巡らせていた。しかしどの言葉も、もう彼女に届く気がしない。
そしてベリーは、暫しの沈黙の後、こう言った。
「――わかった。もう、言わない」
納得したか。リリーが安堵の息と共に返事をする。しかし、ベリーの真意はそうではなかった。
「あたしも、ここにいる」
「は?」
「いやもう今決めたから。ここにいるから。決定」
「な、何を言って……。あなたはリュシアナの」
「辞めてから来たに決まってるでしょ!」
ベリーは強くリリーを抱きしめた。首筋に顔を埋め、ぎゅっと目を瞑る。
「ここにいる。絶対リリーの傍にいる! リリーがいるとこに、絶対についてく!」
「ベリー、駄目、駄目だ!」
ベリーをそっと引き離す。
「そんなこと受け入れられない。戦争が始まるんだ! 私の傍に来たら、お前まで裏切者になる!」
それだけで済めばいい。戦いの中で、殺されるかもしれない。彼女にも家族がいるはず。その家族まで、全て処刑されるだろう。
不幸になることを分かっていて、みすみす受け入れられるわけがない。
「私だってベリーに悲しい思いをしてほしくないんだ!」
「知らない知らない聞かない! あたしはここにいる! 兵士少ないんでしょ? 魔導師だって絶対少ないよね! あたしがいると役に立ちますけど! どうよそこの高官っぽいひと! 利用価値あるでしょ~!?」
ベリーは柱の影を指さす。そこには、隠れていたレオンがひょっこりと顔を出した。
「おや目ざとい」
「あたしは大魔法も使えるし、リュシアナ軍の編成もある程度頭に入ってる。損はないと思うけど!」
「君が敵の間者じゃないって証拠はありマス?」
すると、ベリーはおもむろに纏っていたローブを脱ぎ捨てた。傍にいたライザーに投げつけると、次に身に着けていた首飾り、腕輪、腰のバッグ全てを外しまたライザーに投げる。
「なんで俺に渡すんだ! うわっ! ちょ、オイ!」
文句を言いつつも、ライザーは律儀に受け止める。ベリーは構わずどんどんと服を脱ぎ始め、ついには靴まで脱ぎ捨てて、薄手のワンピース一枚になった。
「今ならあたしは何の術も使えないし、使おうとしたらそこの大きい人が止めるでしょ。この隙に魅了でも制御でも魔導術を使えばいいじゃない。待ってあげる」
そこには、いつものんびりとした口調で喋るベリーはいなかった。心なしか、目つきが違う気がする。
「やるの!? やらないの~!?」
迫られ、手を挙げたのはヒルだった。ライザーからローブを取り、ベリーの肩にかけた。
「リリーが悲しむことはしない。それは俺たちも同じだ」
ふむ、と口をへの字にしたレオンが、つかつかと歩いてきてベリーの顔を覗き込んだ。
品定めをするような視線に、ベリーがむっとする。
「人間の魔導師がどこまで役に立つもんだか知りマセンけど。……陛下はそれでいいんデスね?」
「私は……」
リリーはどう返事するべきかと、ヒルとベリーを交互に見た。そのうちヒルが笑顔を見せたので、妙に恥ずかしくなり顔をそらした。
「だそうだ、レオン」
「ん~ヒル君が責任取るってことデスねつまりは。ライザー君はいいデスか?」
レオンが眼鏡を上げながら傍らのライザーに問うと、ライザーは大きく長い溜息を吐いた。
「俺は俺に被害がねー限り何も言わねーよ」
「君らしいデス」
ライザーはふん、と鼻を鳴らした。気に入らないが、ヒルの決定に逆らう気はないらしい。
「……ってことは、再就職だ!」
ベリーが両手を上げて飛び上がる。短いワンピースの裾が捲れ上がるので、リリーは慌てて制止をした。
「ベリー、ちょっと!」
「ありがとう信じてくれて! あたしがんばるよ~!」
くるりとベリーが体を回すと、それまで離れていた装飾具や衣類、魔導書のすべてが元通り収まっていった。
急に荷物がなくなったライザーがぼうっとしていると、ベリーが声をかけた。
「ところでさ、キンパツって魔導師なの?」
「だったらなんだよ。あと俺はキンパツじゃねえ。ライザーだ」
「そうなんだ~よろしくねキンパツ!」
「ライザーだ!」
地下に響くライザーの怒号は空しく響くだけで、ベリーは笑ってリリーの影に隠れる。
ふと、リリーと目が合う。
やはり心配そうにするリリーに対し、ベリーはめいっぱいの笑顔を見せ、頬を摺り寄せた。
「あたしなら大丈夫だよ。よろしくねリリー!」
「……ん」
触れた頬は暖かく、リリーは言葉少なに頷いた。
それから、一行に追い付いてきたミリアたち侍女が、リリーのとんでもない様を見てこの世の終わりかのように項垂れたのは言うまでもなかった。
* * *
「戴冠ですのに……戴冠ですのに!」
急いで整えたであろう、一室。そこにたくさんの荷物を抱えて待ち構えていたミリアは、リリーを見るなり溜息を吐いて悲しんだ。
それもそのはず、今朝整えたばかりの衣服の裾は汚れ、髪は乱れており、なんなら蜘蛛の巣まで飾っているのだから。
「キンパツがあんな地下に行くから悪いんだよね~」
「てめえが逃げ込んだんだろうが!!」
衝立の向こうでは、ソファに座ったベリーとライザーが言い合いをする。
ヒルとレオンは、準備を整えるためか、先に玉座の間に向かったらしい。
「略式とはいえ、王位を継承する大事な式です。陛下におかれましては、今一度その意味をお考えくださいますようお願い申し上げます」
「はい……」
まるで母か姉に怒られているような気分になって、リリーは小さくなった。
そう話しながらも、みるみるうちに髪を整えていくミリアは、まるで魔法使いのようだ。
ドレスはというと、一番最初に脱がされ、抵抗することもできず、一気に着替えさせられている。
「さて、できました。今度は乱さないでくださいませね。無事に終わりましたら、次は戦いに備えたお召し物をご用意しておりますからご安心ください」
「ありがとう。気を付ける」
リリーはすっと立ち上がる。今度は髪に、百合の髪飾りがあった。
「わっ、可愛いねリリー~!」
ベリーがはしゃいで、周囲を回る。ドレスはやはり夜明けのような麗しいドレスであったが、今度は長く透ける、空色のマントがかけられた。
「我が国には王笏(おうしゃく)はございませんが、代わりにこちらを」
「……ペンダント?」
ミリアはリリーの後ろに回ると、その首に付ける。
鏡を見ると、透明な涙型の宝石が光っていた。
「前王妃様が好んでお召になられていました。その昔、ジオリオ陛下より賜ったものだとか」
「……私がもらってもいいの?」
「何を仰るんですか。貴方様は、お二人の御子でございますよ」
会ったことも、話したこともない本当の父と母。
もし二人の元で育っていたなら、こんな切ないさみしさに胸が痛むことはなかったのだろうか。
ペンダントを握り、決意を固める。唇を結んだリリーの背中を、ミリアは優しく、そっと撫でた。
「行こう」
ベリーとライザーを伴って、リリーは部屋を出た。扉を開けたミリアとメイドたちは、お辞儀をして見送る。
ヴァイス王城は広く、回廊などは先が見えないほどに遠い。柔く差し込む光の先に、道しるべのように衛兵たちが立っていた。皆、白い軍服に身を包み、リリーを見るなりお辞儀をした。隠し切れないのか、口元に喜びの笑みを浮かべている。
リリーは無表情を装うことに必死だった。これから王としてこの国を治めるのだから、戸惑ってはいけない。情けない顔を見せてもいけない。
アルフレッドは、どうしていたか。今はもう敵だが、あの人は王らしく凛としていたように思う。
いや、違う。私がなりたいのはアルフレッドではない。ヴァイスという国の、最後の一人としての王だ。
たとえどんな困難がこの先待ち受けていたとしても。民が、自分を受け入れてくれなかったとしても……。
必ず、この国の礎として、報いるのだ、
「陛下、こちらへ」
長い長い回廊の先では、ヒルが待っていた。
先ほどまでは無かった、長い裾の黒いマントを纏っている。光に当たると銀色の光が揺れて美しい。
差し出された手は、もう恐ろしくはなかった。右手で彼の手を取り、扉の前に立った。控えていたレイムが、目配せをして笑ってくれたので、緊張が少し解けた気がする。
するとレイムは、扉に手をかざし上から下へと一振りした。その手の軌跡は赤い光を放ち、扉の中央に、筆が走るように紋章を浮かび上がらせた。それは、外に飾られていた旗に描かれていたものと同じ。そう、ヴァイス王家の紋章だ。白き鳥の羽根と花を象徴とした神聖な紋章だった。
扉が音を立て独りでに動き出し、光をまき散らす。白い光が一行を包み、リリーは眩しさから目を庇いつつ顔を背けた。扉が完全に開ききると、レイムは先にその部屋に飛び入り、こちらを向き悠々と両手を広げた。
「陛下!」
目を擦り、光に目が慣れてくると、リリーはレイムの呼びかけに応え部屋の中へと足を運んだ。
まず視界に飛び込んできたのは、その部屋いっぱいに犇めく、武装したヴァイスの軍。そこは、王の帰還に歓喜する軍隊の大歓声に揺れる玉座の間だった。王座の間の床は、全てが青灰色の大理石でできている。中央には深い蒼の絨毯が敷かれ、そのずっと先には小さく玉座が床よりも高い位置に見える。白い柱が所々に連なり、御伽話の城であるかのように光る宝石のランプが垂れ下がっていた。
大軍勢は所狭しと犇めいているものの、玉座に続く蒼い絨毯だけを空けている。それほど、この玉座の間は広さがあった。
「陛下!」
「陛下だ!!」
歓声は止むことなく玉座の間を震わせている。
「こんな軍隊……今までどこに」
「さすがに用意周到だな」
ヒルは目を細め、遠くにいるレオンに笑みを向けた。
レオンは玉座のすぐ下に控えており、その傍には二人ほど文官とみられる男性が付き従っていた。
「軍師の務めデスよ」
レオンはぴっと人差し指を立て答えた。
「ほら、あっちッスよ陛下!」
レイムはそう言いながら、リリーに、玉座に向けて歩くように手をそちらに指した。
「待って!」
後込みをするリリーにさらにレイムが促す。
「なーに言ってんすかほらあ!」
今になって、また恐ろしくなってきた。これだけの軍勢。リュシアナにいる頃に何回も見ていた筈だ。
いや、見ていたといっても、「景色」としてに過ぎない。ここにいる全ての命は今自分が握り、自分が守るべきそれそのものなのだ。
レイムはそんなリリーの心情をそれを知ってか知らいでか、いきいきとした顔で言った。
「とにかくー! 玉座に上がってみんなを喜ばせてやってほしいッスよー!」
こういう場は慣れていない。いくら正装をしていても、中身が釣り合わないのをリリーは自覚している。
ぎこちなく歩いていると、リリーは背後に気配を感じた。
「もっと堂々としていいんだぞ」
「なんでおまえがついてくるんだ!」
「俺は総指揮官で、お前の剏竜だからな」
「含みをいれて言うな!」
軍勢は、リリーに付き添い歩くヒルを視界に認めると、次々に言葉をもらした。慣れた様子の彼は、黒いローブを翻しリリーのそばを歩いていく。
「ヒルシュフェルト様だ!」
「またお姿を見ることが叶うとは」
蒼い衣服を纏い、銀に近い青灰色の髪のリリー。漆黒の衣服を纏い、紅い髪のヒル。
対照的な二つの色にも関わらず、彼らが並び歩く姿は、見事に美しく調和して見えた。
リリーとヒルが、一歩一歩、ゆっくりと玉座に向かって歩いていく。道は途中から階段に変わり、高い位置に玉座それが据えられている。背もたれは長く伸びており、美しい金の紋様と覚めるような青で彩られている。
リリーは、かつては自分の実の父であるジオリオも座っていたであろうそれをまっすぐに見た。続くヒルは、そんな彼女の横顔を、優しさに溢れた瞳で見つめていた。
「万歳!」
「万歳! 女王陛下万歳!!」
歓声はまた波のように広がった。リリーはローブを翻し、兵士達の方に向き直った。新緑の澄んだ瞳に、誰もが息を飲んだ。
部屋の両側にある細長い窓から差し込む陽の光がリリーを照らし、彼女の髪が銀に光る。その傍らに、まるで伴侶のように、ヴァイス王国総指揮官ヒルシュフェルトが佇んでいた。
すると、レオンが恭しい態度で頭を下げ、リリーを玉座の前へ導いた。
それと同時に、ベリーやライザーは身を控え、兵士たちも、静かに身を屈め始めた。
目の前には、ヒルがいた。リリーの傍らで、彼女を支えるようにして寄り添っている。
「戴冠だ」
レオンが、玉座の裾から渡された煌く何かを持って、リリーの前に立つ。
銀で出来た、植物を模したようなそれは、王であることの証のひとつだった。
揺れる宝石が幾つも散りばめられたそれは、額にぴたりと当てはまるもの。
促され、リリーは少し膝を曲げた。
「ここに、ヴァイスは再び、王を迎え入れる」
瞳を閉じると、レオンがリリーの額に王冠をそっとはめた。
蒼い髪を丁寧に整え、彼女の瞳が開くのを待つ。
長い睫の下に、まだ幼い翡翠の瞳が開く。それは、まるで花のように。
「さあ。陛下」
ヒルがリリーを立ち上がらせ、兵士の方に向かせる。
凛としながらも、まだ不似合いな王冠を与えられた王は、しっかりと前を見据えていた。
己の現実を、進むべき道を、間違わないように。
「リリー綺麗だなあ~あたしも頑張らないとなあ」
「調子いいこと言ってんじゃねえよ」
小声でライザーが言うと、ベリーは「はあ?」とけんか腰に振り向いた。
「なんですか~? 言いたいことあるならはっきり言ったらどう?」
凄むベリーに対し、ライザーは急に表情を変えた。鋭い目付きに、ベリーの顔が一瞬強ばる。
「俺はてめーを認めたわけじゃねえ」
ベリーが反論をする前に、ライザーはその鋭い目を彼女に向けてきっぱりと言った。
「たとえ人間じゃなくても、いきなり来た奴をはいそうですかなんて迎えらんねえんだよ。昔そうやって、俺らは裏切られたんだ」
言い返す言葉が無いベリーは、なんとも言えない表情で、金色の髪を揺らす彼の背中を見つめた。
「分かったらその軽口直すんだな」
二人の会話は、早口に行われた短いもので、兵士達のリリーを賞賛する歓声にかき消され誰も聞き取ることはなかった。
だが、すぐ後ろにいたレオンだけはそれを耳にしており、訝しげに眉を寄せ、ずれきった眼鏡をくいと上げた。
「やれやれ」
リリーは玉座にて、歓喜に沸き上がる兵士をただぼうっと見つめていた。
見かねたヒルが小声で「何か応えた方がいい」と言うと、リリーは戸惑いながらも、ゆっくりと口を開いた。
「……聞いて、ほしいことがある」
王が言葉を発しているのに気づくと、歓声は前の方から段々と止み、手を上げ喜んでいた兵士達も姿勢を正していった。
部屋がしん、と静まり返る。
「私は今こうして、王として貴方達の前にいる」
リリーはこくん、と唾を飲み込みんだ。今からが口にする言葉に対して、期待いっぱいな視線を投げかけてくる彼らが少し怖くて嬉しかった。
「だが、私は同時に罪人でもある」
ざわわっと、兵士の間にどよめきが広がった。
「罪人?」
「なんのことだ?」
リリーは、聖騎士だった。知らなかったとはいえ、自分の民を殺していたのだろう。ヴァイスの民を、悪魔を。
今ここにいる彼らは人と変わらない姿をしているが、リリーは確かに、「人の形をした悪魔」も斬ったことがある。始末した。命令の、任務のままに。何も、考えず。
兵士は氷の封印から目覚めた者がほとんどで、それを知らない者ばかりだったが、中には知っている者もいた。
どよめきが大きくなると、リリーの胸が刺されたように痛んでいった。
「静粛に」
レオンがすかさず一喝すると、一気に場は静かになった。
玉座の下で、ベリーが両手を胸の前で合わせ、ハラハラしながらリリーを見守る。
リリーはそんなベリーを見て軽く頷くと、顔を上げまた話し始めた。
「私は今まで自分の為にだけ生きてきた。自分だけのことを考えて、自分のしたいことだけをして、それがとても楽だった」
聖騎士としての、自由きままな今までの人生。
そう時は経っていないのに、リリーの頭にはそれが走馬燈のようによぎっていく。
「独りで、自分だけの力で生きているんだと……そう思っていた」
なんて幼稚だったのだろうか。
大人ぶって、大人をバカにして。
都合の良いときだけ、無知な子供をタテにしていた。
兵士も、ヒルも、黙ってそれを聞いている。表情ひとつ変えず。リリーは話しを続けた。
「だが、それは違うと。大きな勘違いだと気づいたのは、最近だ」
そう、世界を知った。
彼と出会って真実を識った。
成長するきっかけを仲間が与えてくれた。
「教養も、学も、国のしきたりも、私はまだ何も知らない。彼がいなければ何も出来ない、ただのお飾り女王かもしれない。けど──」
次の瞬間だった。リリーは未だかつて、誰も見たことが無いような笑顔を見せた。いや、見せたことがないか。それはそれは優しく、慈愛に満ちた、底抜けに純粋な笑顔だった。
そして、その笑顔を勇ましい王の顔に変え、声高らかに叫んだ。
「私が今持っているものは、父と母から受け継いだこの血のみだ! だがそれは、剏竜の力を引き出し、この戦争を終わらせる為の確かな力だ! そしてこの戦争で貴方達を勝利に導き、歪曲されていた歴史の真実をこの世界に示す為の力だ! たとえそれが多くの悲しみを生み、再びの戦いを呼び起こすことになったとしても、私は戦う……。先王の想いを受け継ぎ、成し遂げるその日まで、全てを賭けて戦い続けることをここに誓う!」
兵士は呼応するように雄叫びを上げた。
その場では、誰一人としてリリーを非難したりあざ笑ったりする者は居なかった。
大切なのは過去ではない、今の姿を認めること。
彼らはこの世界に生まれたその時から、その深い情愛に満ちた精神を与えられていた。だが――。
「大切なのは、今か、昔か」
少し複雑に、小声でつぶやく者も確かにいた。
だが、傍らのヒルは驚かずにはいられなかった。確かに、「何か言え」と促したのは彼であったが、まさかここまでしっかりした演説をするとは思わなかった。
これが、定められた道を歩く者力か。人知れず、ヒルは納得した。
「その、い、以上……だ」
なんとか言い切ったリリーは、まだ震える手をそっと隠した。
受け入れられたのか……いや、存在を認められただけ、か。
リリーは、柄にもなく涙をこぼしそうになったが、横で父のごとく暖かい眼差しを向けている人物に気付いてしまい、ますます泣きそうになってしまった。
「良かったな」
「……こんなに大勢の前で喋ったのは初めてだ」
「これからはこういう場ばかりだぞ、しっかりしてもらわないとな」
「分かってる」
「リリーちゃーん、俺は君についてきマスよ~」
下から、笑顔でレオンが声をかけてきた。
「レオン」
「でも徹夜で勉強くらいはしてほしいデス~」
「……ああ」
さらりとえげつない発言をするレオンを突き飛ばし、ベリーが手をぶんぶん振っている。
「あたしはずーっとリリーのそばにいるからね~!」
「頼りにしてる」
「頼って頼って~!」
気分良くしたベリーは嬉しそうにウインクして見せた。それに続けて、横にいたライザーが不機嫌そうに声をかけた。
「おい」
「何?」
「うじうじすんなよ」
「……うじうじ?」
「一応、俺とお前は血ィ繋がってんだからな」
リリーは全く理解出来ずに顔をしかめ首を傾げると、レオンがたまらず吹き出した。
「あははー、通訳が必要デスね~」
「っせえ!」
するとヒルが呆れた様子でこう言った。
「一人で抱えこまず、遠慮なく頼れ……だな」
「今の言い方で分かる訳ないじゃない」
リリーは小さく笑うと、ライザーに視線を投げた。目が合うと彼は所在無さそうに視線を逸らしたが、リリーは気にしなかった。
「ありがとう……」
「陛下~! 俺も! 俺もついていくッス~!」
遠くからレイムが満面の笑みでこちらに手を振っていた。リリーは軽く振り返す。レイムは調子に乗り、大袈裟に手を振り始めた。
「陛下ー! 陛下可愛いッス陛下ー!!」
周りの兵も、彼を見て笑いながら賞賛の声を上げる。拍手がさざ波のように鳴り止まない。
その時だった。急にレイムの体が群衆の中に沈んだ。
部屋の扉近く、玉座から一番遠い位置にいた彼。はしゃぎすぎて転倒したのかと周囲の兵が振り返ったが、そうではなかった。
「レイム君。ちょっとはしゃぎすぎ、だよ」
薄紅色の髪を二つに結い、背中に小さな羽をはためかせている少女が彼の背中をの服を引っ張り、いとも簡単に床にころげさせたのだった。
「いたたた……、手加減してほしいッスよシャジャさん!」
「ちゃんとして」
「痛たたたた!! しゃっ、シャティアさん!」
シャジャは、床に転げたレイムの頬を手に持っている分厚い本の角でぐりぐりと押さえつけた。
兵士達は、いつの間にかそこにいた彼女に対し一斉に警戒を高め、向き直った。各々腰の剣や杖を手にとると、シャジャとレイムから円形に距離をとり身構える。
「何者だ!」
兵士の一人が叫んだ。
「ご、ごめんなさい。お話の邪魔、しちゃいけないと思って…」
シャジャが慌ててレイムから退き、恥ずかしそうに眉を下げる。
「貴様! 賊か!」
兵士の一人が持つ槍がシャジャに向けられた。
「きゃっ……」
「わっ! 駄目ッス! この人は───!!」
レイムが慌てて彼女の身分を伝えようとするが、それには至らなかった。
扉が急に素早く大きく開いたかと思うと、そこから白い冷気が部屋に入り込み、槍を向けていた兵士の足を床に固定するように凍らせたのだ。
「わ……うわああ!」
兵士の足は見事に凍り、そこから全く身動きが出来なくなった。
「ヒル!」
リリーがそれを見て声を上げる。だがヒルは至って冷静に首を振った。
「……相変わらずふざけた男だ」
「あ、足が! 足がああ!」
シャジャは、凍り付いた己の足を見て混乱している兵士に駆け寄ると、そっと触れる。
すると氷はみるみる打ちに溶け始めた。だが、全ては溶け切らず、兵の足に激痛が走る。
「駄目だよカイムさん。早く、元に戻して」
すると、シャジャの声に応えるかのように、足を凍らせていた氷は音を立てて割れ、霧散した。
そんな兵士をあざ笑うかのように、彼は扉の向こうから姿を現した。
姿を現した人物は、燃え盛る炎のように赤く長い髪をなびかせ、胸から腹にかけて大きく開いた黒衣を身に纏い、ゆっくりと玉座の間に現れた。
鋭くも魅惑的な目を、真っ直ぐにリリーに向けて。
「俺の護衛竜に、随分無礼な真似をしてくれたな」
彼のその出で立ちは、遠目からでもはっきりと輪郭が分かる。リリーは、軽い嫌悪感混じりに名前を叫んだ。
「カイム……」
「ほう、リリー。随分着飾ったな。なかなか良い服だ」
カイムは口端を上げて笑い、腕組みをした。
煌竜王カイムの顔を知らぬ者はさすがに居ないのか、兵士達は次々と武器を下ろし、先ほどのように玉座までの道を空けた。
カイムはふん、と鼻をならすと、呆然としているレイムを横目に、ずんずんと道を歩いていった。
「待って、カイムさん」
シャジャがちょこちょこと後を追う。手に持っている本にはアーリア言語で「同盟調印書」と書かれていた。
「バカ殿が来たか」
ライザーが舌打ちをする。
「はわあ~……整った顔の竜族だねえ~」
ベリーは特に何も考えていないのだろう、素直に感想を口にした。
「同盟に来てやったぞ。感謝しろよ」
カイムは、自信満々にリリーを見上げた。
あからさまに嫌悪感を示すリリーだったが、レオンが大きな咳払いでそれを誤魔化した。
「えー改めまして皆さん、こちら竜族の王、煌竜王カイムさんと、その護衛竜……つまり近衛兵のような存在のシャティアージャ・クリスタニアさんです」
すると、控えめに後ろにいたシャジャが顔を綻ばせ、レオンに手を振った。
「軍師! お久しぶりです!」
「どもどもシャティアージャさん! お久しぶりです。何十年も前からお変わり無いみたいで何よりデス」
「はい、変わらな……それは嫌味、ですか? 軍師も変わりませんね」
シャジャがしょんぼりとした様子で眉を下げると、それを見ていたカイムがむっとした顔つきでレオンに冷たい視線をぶつけた。
「それより、さっさと調印を済ませるぞ。のんびりと話をしている暇など無いはずだ」
その横柄な態度はリリーを不快にさせたが、それを見越したかのようにカイムは続けた。
「人間の軍がただの雑兵の寄せ集めならともかく、骨のある奴らが何人かいる。油断はならない」
「お前見てきたのか?」
ヒルが問うと、カイムは横に首を振った。
「いや、聞いた」
「そうか」
ヒルは口元に手を添え、何か思考を巡らせた。リリーが不思議そうに見ていると、苛立ったカイムが声をかけた。
「分かったかリリー。分かったならさっさと来い。時間が惜しい」
カイムの手招きに、不本意ながらもリリーは、低い位置へと続く階段を降りていく。しかし、慣れないヒールの高い靴を履いているせいか、どうしてもバランスを崩しよろけてしまう。
見兼ねたヒルが同じように階段を降り手を差し出すと、リリーは少し戸惑ったものの、それを頼りにした。
リリーはカイムの前に凛として立った。視線を合わせると、カイムは不敵な笑みを見せる。
「何が可笑しい」
リリーが嫌悪感を示す。
「ふん強気だなお前は。大概が目を逸らし、青ざめるものだが」
「私も王だ。そしてお前も王。対等のはずだ」
リリーの強気な発言に、カイムの恐ろしさを知っている群衆はざわついた。
しかしカイムはそれに対して、底抜けに笑って見せた。
「はははは! よく言ったな。……そういう女は、嫌いではない」
「好いてほしいわけじゃない」
「クッ、益々気に入った」
カイムが爬虫類のような瞳を妖しく輝かせリリーを見る。
二人のやりとりをおろおろとして見ているシャジャに、ライザーが溜息混じりに声をかけた。
「おいシャジャ、さっさとそれをあのバカ殿に渡せ」
「そう、ですね。カイムさん、これを」
シャジャが手に持っていた、分厚い本で出来た同盟調印書をカイムに差し出した。カイムはそれを受け取ると、表紙をリリーに見えるように掲げた。
蒼く光る同盟書に、今度は赤い光が灯った。二つの光が混ざり合うと、同盟書は急に二人の手から離れ、空中に浮かぶと堅く閉じていた冊子を開いた。
開かれたそこは白紙だったが、何が書かれるべき頁かは一目瞭然だった。
「で、どうすればいいんだ?」
「まずはこの同盟調印書の上に手を置け」
「こうか?」
リリーはカイムが差し出した証書の表紙の上に手を置いた。するとすぐにカイムがその上に自分の大きな手を重ねる。ひんやりとした感触に、リリーは少し身を退いた。
「次は、名前を」
「私の名前か? リリー……」
そこまで言って、リリーはハッとした。
“リリー・ウルビア”
ウルビアは、セイレのファミリーネームだ。セイレとは、何の血の繋がりもない自分。
もう今は、ただの"リリー"だったということに気が付いた。
「どうした?」
カイムが問うも、リリーは口ごもる。なんと名乗ればいいのか迷っていた。すると、ヒルが横から口添えをした。
「リリスティア・ヴァイス」
「え?」
「リリスティア。これはジオリオ陛下がお前につける筈だった名前だ。俺はそれを聞いていた」
「リリスティア……」
リリーは聞き慣れないその名前を口にする。
父の残した、リリスティアと言う名前。ヴァイスの王としての、名前。
リリーは顔を上げカイムを見ると、同盟書に置いた右手に熱がこもるのを感じ、名を名乗った。
「私の名は……リリスティア・ヴァイス」
名を名乗ると、同盟書に蒼い光が灯った。
「俺の名はカイム。煌竜王カイム」
「陛下、痛いかもしれませんが、血文字による調印を」
シャジャが豪華な飾りの付いた短刀をリリーに差し出した。
リリーはそれを受け取ると、人差し指の先を少し切ろうとそこに刃をあてがった。だが、何を思ったのかカイムが急にリリーの手を取り自身の方に引き寄せた。
そして有無を言わさずその人差し指に自身の鋭い犬歯を突き立てた。
「痛ッ!」
「カイムさん!」
シャジャが驚いてカイムを引き剥がす。
リリーの人差し指からは真っ赤な鮮血が少し流れたが、それを見たカイムは悪びれもせずこう言った。
「手間がはぶけただろ?」
「何を!」
リリーは当然の如く怒りをあらわにする。だがそれ以上に凄んだのはヒルだった。
顔は笑っているが、カイムの前に立ち、じっと見つめた。
「真面目にやってくれるか?」
その場に居た全員が動きを止めて凍り付いた。
カイムは牙についた血を拭うと、無言で同盟書に名前の調印をした。
「ずいぶん感情的になったな」
カイムがそう言うと、ヒルは何食わぬ顔で答えた。
「俺は産まれた時からこうだが?」
「申し訳ございません女王陛下!」
「いや。もう構わない」
リリーは血が床に滴る前に、同じく同盟調印書に名前の調印をした。
「これでいいのか?」
「ああ」
二人の王の名前が刻まれた同盟書は、瞬時に開かれた頁を閉じ、役目を終えたただの同盟書に戻った。
「これで、俺たちは仲間だ」
カイムが同盟書を手に持ち、笑う。
「これからよろしくお願いします、ね」
シャジャも傍らで嬉しそうに微笑んで見せた。
「ああ、こっちこそ」
調印が終わったのを確認すると、レオンが手を叩いた。それを合図に、群衆全体に拍手が広がり、同盟に喜ぶ歓声が上がった。
「リリー……じゃない、りりす……リリスティアなんだっけ?」
呼びにくそうにするベリーに、リリーがはにかむ。
「ベリーなら、リリーで構わない」
「そう? そうだね!」
そう言って、ベリーも満面の笑みで手を叩いていたが、ふと何かの大きな影が部屋に差し込む光を遮って通り過ぎたのに気づくと、その目を窓の外にやった。
「……り、りっ、リリー!!」
「え?」
ベリーが細長く大きな窓の外を必死に指さした。皆がそちらを向くと、そこには神話のような光景が広がっていた。
雲の間から、光りが地上を照らす。蒼い空にその翼で軌跡を描きながら、おびただしい数の竜が雄叫びをあげていたのだ。
「竜の群れだ~!」
その巨体が窓の近くを通る度に、風が唸り声を上げる。
「すっごい! 一体何匹いるの~!?」
ベリーの問いを聞き、カイムは自分の配下であるそれらを自慢するかのように言った。
「さあな。一応使えそうなやつらを連れてきたつもりだ」
竜達はいずれも、姿形は様々だった。角のあるもの。長い蛇のようなもの。
それぞれに能力が違うのだろう。
「ふむ。例の魔導師がいなけりゃ最強デスね~……おっとと」
わざとらしくレオンは口を塞いだが、カイムは眉間に深く皺を寄せていた。
「──おい、ところで今の状況はどうなってんだ」
ライザーが戦いの先を案じてレオンに尋ねた。
「今はヴァイス大運河付近に王国軍の本隊が集結してきてる頃デスね~」
「頃デスね、ってお前……」
「心配いらないデスよライザー君」
眼鏡の奥の余裕に満ちたその瞳と目が合うと、ライザーは不満げな表情を見せた。
「レ~イム君~!」
レオンが大声でレイムを呼ぶと、後列にいた彼は急いでこちらに駆けてきた。立ち止まり、レオンの前で敬礼して見せる。
「何スかレオン軍師!」
「ここにいるヴァイス軍の第一歩兵部隊の指揮は君に任せマス」
「え! お、俺っすか?」
レイムは大げさに驚くと、横目でシャジャとカイムを見た。
「やるよね?」
「やれ」
二人は威圧的にレイムに声をかけた。レイムは汗をだらだらと流しながらも、二人には逆らえないのかひきつった笑顔で首を縦に振った。
「人手不足だ。頼んだぞ」
ヒルがあっさりと言うと、レイムは頭を抱えうなだれた。
「もうちょっと寝てればよかったッス……」
それなりに鍛えられた体格の割に弱気な彼を見て、リリーはなんだか可笑しくなった。ふと、リリーは何を思いついたのか彼らの会話に割って入った。
「ねえレオン」
「うん? どーしましたリリーちゃん」
「私も行く」
「はあ!?」
突然のリリーの申し出に、周囲の人々は顔色を変えた。カイムすらも目を丸くしている。
ライザーとヒルとレオンは無言で顔を見合わせた。そして困ったような笑みをそれぞれ見せた。
「そんなところは似なくていいと思うんだが」
ヒルが柔らかな笑みを見せリリーの肩に手を置いた。
「どういう意味だ」
「ジオリオ陛下も似たようなこと言ってたんデスよ」
レオンが眼鏡の縁を指で押し上げる。
在りし日の玉座の間で、彼の王は今リリスティアが言ったことと同じようなことを言っていた。
かつての王妃、かつての軍師、かつての、剏竜。彼らをいつも困らせていたのだという。
『目の前で民が戦っているのに』
「民を守るべき王である私が一番後ろで座ってるわけにはいかない」
そう、父と娘の答えは同じ。
ヒルは、嬉しそうに口端を上げた。
「分かった。レオン、そういうことらしい」
「はいはい~はーいはいはい。まあそう言いマスよね」
「だな、分かった。ヴァイス軍、全兵士に告ぐ!」
二人は言葉を交わすと、離れた。そしてヒルがいつになく真剣な顔つきで声を上げた。それまで騒いでいた群衆の空気が、突如として引き締まり、視線の全てがヒルに注がれた。
「ヴァイス軍、第一歩兵部隊はレイムの指揮の元、大運河の西に進軍せよ!」
「はっ!!」
勢いのある返事が返ってくる。
レイムも覚悟を決めたのか、部隊を指揮する隊長として力強く返事をした。
「よし。魔導部隊は総隊長をライザー・ディグ・ヴァイス、補佐官にベリー・ハウエルを任命する!」
「あぁ!?」
「えっ、あたしが? やったあ~! よろしくねキンパツ!」
「ライザーだ! おいコラ、ヒル! てめえこんな素性のわかんねえ女を補佐だと!?」
「敵には必ずノーブルの魔導兵が配備されてマスから。魔導師の数は多いほど助かる。いやあ~寝返ってくれて助かりましたよー信じてマスよっ!」
「あはは~最後が超嫌味くさいけど許したげる~」
レオンがにこにこしながらライザーを遮りそう言うと、ベリーも首をかたむけて笑顔で答えた。気に入らないのかライザーは、舌打ちをして横を向いた。
「ドラフェシルト」
ヒルは群衆の一角に目をやった。そこにはかつて居た部隊の部下達。再会にゆっくりと浸る暇など無かったが、信頼出来る仲間がそこに居る事を確かに喜んでいた。
「かつては国王直属の守護部隊だった。今再び王の元、国を荒らす王国軍を撃破せよ!!」
高らかに、兵が声を上げた。今皆の心は一つになっている。
リリーは猛り狂う彼らに向かって、王たる威厳を以て叫んだ。
「全軍、出陣!!」
時は、アーリア聖暦にして3062年。
聖騎士アストレイア、セイレ・ウルビアの殉死により、聖王国リュシアナは聖騎士を中心とした多国籍軍を編成。
希望の要であった唯一英雄を失った人間は奮起し、聖王国領を抜け、ヴァイスへと続くアルゲオ山脈へと進軍。
対して、新たなる王を迎えたヴァイス王国。
復活した大地を基盤に軍隊を再編成。煌竜王の奇なる申し出により、その戦力は倍増。
王城を拠点に、陣を構える。
聖王国よりの第一陣は一匹の竜により全滅。
しかし、ジークフリード率いる魔導師団は無事山脈越えを果たし、大運河の前に布陣。
──後世の人はこう言った。
それは革命的でありながらも、
悲しい、戦いの始まりであったと。
第5話・終
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