第4話「竜の王と世闇の男」

 光を受けたその世界に、暗雲がのしかかる時。

 そうなるほどに、人は希望を抱く。人は恐れない。人は、空を見上げる。

 どこまでも、曇ることのない輝かしい彼らの瞳を見る度に、私はいつも言い知れぬ不安に苛まれる。

 彼らこそが光で、まるで私が影であるかのように。

 ならば何故、我らは――。






 聖騎士に、裏切り者が出た。悪魔に味方し、王国に反旗を翻す。

 リュシアナ国民、そして信心深い人々の間には瞬く間に怒りが広がった。


「アストレイアが殺されたというのに、一体どういうことだ!」


「誰だ! 裏切り者は誰だ!」


「ウルビアだと!?」


 裏切り者の名を聞いた人々は、少なからず動揺した。しかし、その名が広がるよりも早く、人々の間に憎しみの炎が飛び火する。

 負の感情で団結した人々の声は盲目的に広がり、何もせずとも、リリーは世界の敵へと変わっていく。

 期待は憎しみに変わり、希望は恐れへと変貌し、通り過ぎる声の多くが、過剰なまでに互いを貶め合うものだった。

 疑問を抱くものはいなかった。考えることをするものは、いたのかもしれない。

 だが、「悪魔」という存在はそれほどまでに恐ろしく、人を脅かす「敵」でしかなかったのだ。

 そんなヴァイスの異変を、世界が見逃すことはなかった。

 アルゲオ山脈の向こう側、遙か空へと伸びた光の筋は、リュシアナ王都からも見ることができた。情報は規制され、一般兵や中級以下の聖騎士には、悪魔の仕業であるが、調査中とだけ伝えられた。


「綺麗な光だったねえ……」


 豪華なシャンデリアが光を揺らす執務室の中、机に広げられている地図に指を差しながら、アルフレッドは呟いた。

 地図上には、並ぶように小さな鏡のような物が二つほど並べられている。銀の鎖が揺らぐそれは、一見すれば懐中時計のようにも思える。

 鏡の部分には、遠く離れた街にいる筈の、ジークフリードとアメリの姿が映し出されていた。


「朝からすまないね、二人とも」


 アルフレッドが薄く笑む。


「いいえ陛下。ですが、見たこともない光でしたわ。あれは一体……」


 アメリがそう言うと、ジークフリードが続けて笑う。


「魔導術じゃない感じだよね。魔導元素も、精霊の気配もしなかった。おかしいよね」


「アルゲオ周辺の雪が急速に溶けているそうです。山脈近くの村では、季節外れの春の花が咲き始めたとか」


 シュナイダーは、地図上のヴァイスの位置を指差す。


「正体が分からないまま、ヴァイスに進軍するのは危険かと」


「ふうん」


 アルフレッドが首を傾げる。すると、けたたましく扉が開く音がした。

 扉の向こうからは、見栄えの良い白軍服の女性が踵を鳴らしながら現われた。


「進退を陛下に提案するのは貴公ではない」


 意志の強い眉を吊り上げながら、マリアベルが場に現われた。付き人が背後の扉を閉め退出するのを待った後、シュナイダーをきっと睨んだ。


「あれは魔導術でも、神術でも、古代魔導術でもないと、ノーブルの観測所から伝達が入った。しかもその光によりヴァイス、アルゲオ山脈の凍土が溶けて植物が活性化していることも既に知っている」


「では、進軍は」


「貴公があれに何を感じたかは知らないが、恐れることはない」


 マリアベルは顎を引き、シュナイダーを見上げる。不遜な瞳に、シュナイダーは表情を険しくした。


「でもさ、あの光。なんだか綺麗だったよね」


 場を読まず、ジークフリードが言う。


「ジークフリード、不謹慎ですわよ」


「だって本当のことだし。大佐だってちょっとそう思ったでしょ?」


 ふてくされたジークフリードが視線を遣る。


「綺麗などと……」


 シュナイダーは慌てて真っ向から否定をする。動揺の色は隠せていない。


「つまらん話をするな。陛下の御前だ」


 マリアベルが無感情に一喝すると、場は一気に凍り付き静かになった。


「ところでマリアベル、君は? 私に、何か言いたい事があるのかなと思ったんだけど」


「はい、陛下」


 マリアベルは静かに頭を下げると、地図上にダイヤ型の駒を乗せた。ひとつはクリスタルの駒、ひとつは黒き竜の紋様が描かれた駒だ。そして最後に、赤き竜の紋様が描かれた駒を出した。

 それぞれをヴァイスに集めた彼女は、静かにアルフレッドを見つめる。


「ノーブル皇国から、彼の者が派遣されるそうで」


「へえ……」


 皇国の名前が出た途端に、ジークフリードの表情が凍りつく。


「聞いてないんだけど」


「貴公のところに連絡は来ていないのか。この作戦が始まる前に通達があったぞ」


 マリアベルがそう言うと、ジークフリードはべっと舌を出す。


「僕はもう関係ないんだよ」


「しかしノーブルが彼を寄越すなんて、どうしたんだろうね。もしかして、内戦の鎮圧が終わったのかな?」


 アルフレッドが首を傾げる。


「報告によれば“竜”が動いたとか。それが理由の全てかと」


「そうか、なるほどね。さすがノーブルの皇帝は手回しが早いねえ」


「あの国の皇帝が考えていることなど、愚にもつかないことかと」


「そうかい」


 心を見せぬ端的な返事であったが、マリアベルは納得したような笑みを返す。


「では、聖騎士両名に命じる。迅速に任務を遂行し、悪魔、並びに奴らに協力する勢力を根絶やしにすることを義務づける。よいか?」


「ええ、承知致しました」


「は~い」


 口調もまばらに、アメリとジークフリードは返事をする。

 マリアベルは淡々とした顔で頷き返す。だが不意に、手に持っていた軍帽を被ると、その外見からは想像もつかないような殺意のこもった声でこう続けた。


「それと、裏切り者リリーはすぐに始末しろ。生かすな、殺せ」


 アメリはぞくりと背中に冷たいものが走るのを感じた。それは、ジークフリードやシュナイダーも同じく感じていた。


「超怖い」


 ジークフリードは小さく頷く。マリアベルがきっと睨むと、その場でいかにも軍人らしい態度の敬礼を見せた。そしてつかつかとまた部屋を出ていった。

 白い軌跡を残しながら退室した彼女を目で見送ったアルフレッドは、ひどく満足げに笑んでいた。


「じゃあそろそろ私も失礼しよう。あとは頼んだよ」


 続けてアルフレッドが席を立った。従者が付き従い、扉をさっと開く。

 去り際にシュナイダーの肩を叩き、意味深な笑みを残した。

 アルフレッドがいなくなるまで頭を下げていたシュナイダーだったが、ふうと息をもらしながら姿勢を戻す。それを見計らったジークフリードは、待ちかねていたように口を開いた。


「ねえねえ大佐、あのマリアベルってお姉さん何? 急に出てきて作戦指揮官ってすごくない?」


「さあ、詳しくは私も知らぬ。彼女は少佐であったが、先日突然、大佐まで昇格したのだ。確かに士官学校では天才と名高い少女だったらしいが……私もそう親しいわけではないのでな」


「大佐って噂話とかしなさそうだもんね。鈍感っぽいし」


「鈍感は余計だ」


「見た目はお美しいですけど、どことなく……変わった雰囲気がありますわね」


 アメリはそう言って、首を傾げた。


「だよね~。でもさ、アーリアでの見た目なんて信用できないじゃん? あれで実は百歳越えてました~とかだったら僕怖いな~」


「そういう問題でしょうか」


「さあ、雑談に花を咲かせている暇は無いぞ、英雄聖騎士殿たち。私たちも、準備に取り掛かろう」


 シュナイダーがそう促すと、二人は静かに頷き、各々の受け持つ軍の戦闘準備に向かった。



 人気の無い、王城の一角。朝陽がまだ白く光るその部屋で、マリアベルは周りを気にしながら、小さな金縁の手鏡に向かって喋っていた。だが、独り言を言っているわけではないらしい。その鏡からは、すぐに返事の言葉が返ってきた。


「マリアベルか。さっきの様子だと、この魔導通信機械の調子は良いようだ」


「はい。まだ一般には普及しておりませんが、魔導元素さえ一定量満ちていれば、このように遠方であっても対話を行うことが可能です」


「偉い偉い。君は有能だな。いや、開発者もか。彼にもよろしく伝えてくれ」


 会話の相手は、あのアルフレッド王。マリアベルは畏まった口調で報告を続けた。


「かしこまりました。その他、住民から王国軍に対する苦情は無し。兵糧の心配もございません。作戦はこのまま実行する予定です。よろしいでしょうか」


「ああ、そうだね。そうしてくれるか」


 ふと、マリアベルは言葉を止めた。何か思うところがあるのか、口を少し開いたまま、言葉を探している。


「どうしたんだいマリアベル。私の声が聞こえているか?」


 会話が止まったことを不思議に思ったアルフレッドがそう問い掛けると、マリアベルはおずおずと進言した。


「……陛下……あの、なぜわざわざ軍隊を出動させるのでしょうか?」


「何故とは?」


「あの時のように、あの魔導師による魔導術攻撃を使えば…………」


「マリアベル、君が気にする必要はないんだよ」


 即座に言葉を一刀両断されたマリアベルは、ぐっと唇を噛んだ。しかしアルフレッドは、優しい口調で突き放すようにこう言った。


「今回は兵を使う。そうしなければならないからだ。議員たちもそれに納得した。だから君も、この作戦の指揮官を受けたんじゃなかったのかい?」


「は、はい……」


「希望していただろう。この作戦、主軸として参加したいと」


「……はい」


「なら、納得してくれるね」


「あの……陛下は私を…………」


 手駒くらいにしか思っていないのでしょうか。いや、そんな筈はない。マリアベルは彼への忠義を揺るがさなかった。


「何か言ったかい?」


「いいえ、なんでもありません。任務に戻ります」


「ああ」


 プツ、と手鏡から聞こえてくる声は消え、それを確認したマリアベルはその場から離れた。

 陽が揺らぐ部屋には、美しいレースのカーテンが揺れている。小鳥が囁く緑に、朝露が揺れて輝いているのだが、マリアベルはそれを睨みつけた。

 風を掃い、カーテンをぐしゃりと掴んだマリアベルは、険しい顔で低く唸った。


「必ず……必ず殺してやるリリー……ッ!!」


 美しい筈の朝陽、薄紫から青へ変わる空。

 そこに毒を投げつけるような女の声が、荒い風を呼んだ。


「――お話しは終わりましたか、アルフレッド様」


 背後から声をかけたのはマティスだった。会話を終えたのを見計らって、マティスは彼に歩み寄った。どことなく機嫌がいい王の顔色を見つつ、マティスは言葉を発する。


「本日の予定は文官長が申し上げた通りです。私はいつも通り護衛を致します」


「ああそうだね。よろしく頼むよ」


 マティスの本来の仕事は王の近衛兵。バロンの命令を受けて色々走り回っていたが、作戦が始まってからは、本来の仕事であるアルフレッドの護衛にかかりきりであった。


「ですが、ご報告したいことがひとつ。組合監査官のベリー・ハウエルが背信行為をほのめかす発言をし城を立ち去りました」


「ああ、あの天才魔導師」


「行方は依然として掴めておりません。彼女はリリーと取り分け仲が良かったようで、もしかすると……」


 するとアルフレッドは、ちょいちょいと自分の頬を指さしながらこう言った。


「成る程、君が妙に浮かない顔をしていた理由が分かったよ」


 見透かされた事に恥ずかしさを覚えたマティスは、咄嗟に自分の顔を手で押さえ隠した。


「彼女は大分猪突猛進だからね。予想をしていなかったわけじゃない……というよりも、友人だというなら当然だろう」


「よろしいのですか?」


「なら君は彼女を連れ戻すことができるか? 空間転移の魔導術を難なく行使できる者は限られている。見つけたとしてイタチごっこだろうねえ」


 威圧ある声に、マティスはびくりと肩を震わせた。


「……申し訳ありません」


「構わないよ。素直だねマティス」


「いえ、彼女は彼の大魔導師サウザンスロードの一派。下手に刺激しすぎても暴発が起こるだけと理解しております」


「そう、偉いねマティス。あれは危険な異形と同じ。それに……泳がせておいても問題はない。追っ手も必要ないだろう」


「つまり、彼女は要らないと……?」


「人聞きが悪い。彼女の意志を尊重しているんだ。『彼女』を昔から知る者としてね」


 マティスは心に不安感が募るのを感じていた。

 この御方は要らないと判断したならば即座に切り捨てる。使えるならば今のマティスのや在りし日のアストレイアのように側に置き厚く擁護する。──怖い人だ。

 そう感じながらも、マティスはただ従っているしかなかった。彼は王家に仕える伯爵家の嫡男。従うのが貴族の務め。それはもう、今更変えることなどできない。

 そう、俺はそうやって生きるのが"正しい"んだ。


「さて、私は少し部屋に戻る」


「お供します」


「いいよ。君は何だか悩んでいるようだからね。可哀想だから休憩をしておいで」


「……御意」


 マティスの思惑を知ってか、アルフレッドはそれだけ言い残すと長く敷かれた赤い絨毯の上を歩き、さっと兵士により開けられた扉から優雅に立ち去った。

 大きな扉が音を立てて閉まると、王のいない玉座の間にはマティスと警護の兵士だけになった。


「センシディアの、嫡男だから、か」


 マティスは、リリーのことを思い出していた。

 自分が追いやった。自分が裏切った。あの時の涙にまみれた瞳も、赤く染まった体も、助けることができたのに。一時でも同じ目的の為に旅した彼女を、自分はいとも簡単に切り捨てた。それはアルフレッドが部下を切り捨てるのとなんら変わりない冷たい行為。

 王を怖いと思うなら、自分自身の弱さも怖いと思う。


 脳裏によぎるのは泣き顔。憎しみのこもった瞳。最後に見た顔がそれだなんて。無感情に見つめていた俺は、どんな顔をしていたのだろう。

 こびりついた感情が、心を焼く。マティスはそっと、紅茶のカップに手を伸ばした。

 少しだけ残った琥珀の水面からは、褪せたような香りがした。



 * * *



「おでかけ、楽しかったデスか~?」


 ライザーの屋敷に帰ってきたリリーとヒルを迎えたのは、これでもかというくらいに満面の笑みを浮かべたレオンだった。彼は屋敷の玄関でにこやかに手を振り、二人を出迎えた。


「……楽しかったと、言えばいいの?」


 明らかに不快感を示すリリーとは対照的に、ヒルは気にした様子も無く。まるで冬が明けたかのように本来の姿を取り戻した大地を、感慨深そうに見渡していた。

 小高い丘から見える景色は氷にまみれた寂しいものではなく、青々とした見渡す限りの草原。どこからか小鳥のさえずりも聞こえる。風が、暖かい。


「いえいえ、お疲れさまデス。そしてありがとうございマス」


「……分かるの?」


「ええ。綺麗デスね」


「そ、う」


 リリーは髪を耳にかける。レオンには物凄い嫌味を言われた筈なのだが、今目の前にいる彼は満面の笑みだ。うさん臭さに内心苛立ちつつも、リリーは軽くお辞儀をした。

 さっとその場を立ち去り、乗って来た馬の手綱を引きに行ってしまった。


「ありゃ」


「警戒されて当然だろ」


「おやヒル君。おっかえりなさーいデス」


「どうだレオン、大分過ごしやすくなっただろう」


 ヒルは、扉を大きく開けながら言う。


「まさかここまで変わるとは思ってなかったデスけどねえ。それにしても、ここまで出来るなんてちょっとズルくないデスか?」


 少し離れた場所で馬を愛でるリリーを見る。細い後ろ姿は頼りなく、どこから見てもただのか弱い女性だった。

 だが、これから彼女が自分達の指導者。竜を従え、国を再建に導く王。二人は視線を合わすと何か決意したようにふっと笑った。


「まさかこんな日が来るなんてねぇ」


「全くだ」


「……何がおかしいの」


 二人の様子に気づいたリリーが、馬から離れ訝しげに首を傾げた。


「いや、なんでもない」


「そ、なんでもないデスよ。改めてよろしくね~リリーちゃん……あ、違う」


 レオンは言い掛けてふむ、と顎に手をやり空を仰ぐ。そしてしばらくして、にっこりと笑いリリーに視線を戻した。


「なに?」


 リリーが戸惑っていると、レオンは急に地面に膝まづき深々と頭を下げた。それは、高貴な者を前にした家臣のごとく。そこにあのふざけた態度の彼は無かった。


「お帰りを心待ちにしておりました陛下。ヴァイス王国軍師宰相、レオン・ブラックロウザ。陛下の為、ヴァイスの為。この命燃えつきるまで御命に従うことを誓います」


「お前……ええ……」


 リリーはどう答えていいものか分からずヒルを見たが、ヒルはただ微笑んでいるだけだったので、さらに顔を歪めた。


「レオン」


「はい陛下」


「急に陛下とかやめてほしい。いきなりそう呼ばれても困る」


 リリーが膝まづくレオンの視線に合わせ、自らも体を屈める。そして続けてこう言った。


「あと、その、甘いと思われるかもしれないけど、できれば……自分の事を一番に大事にしてほしい」


 リリーの脳裏に浮かんでいたのはセイレ、そしてヒルのかつての大切な人だったと聞いたマイアの事。

 もう誰かの人生を踏み台にして生きたくはない。そう決意したリリーの顔は、揺るぎない意志により凛と引き締まっていた。

 レオンはかなり驚いた表情をしていたのだが、長い前髪と眼鏡のせいでそれは読みとれなかった。


「陛下……」


「だから陛下はやめてって言」


「リリーちゃんやっさしい~!」


「きゃああ!」


 レオンは飛び付くように目の前にいたリリーを抱きしめた。距離が近かったせいもあり、不意打ちをくらったリリーはいとも簡単にレオンの腕の中にすっぽり納まってしまう。嫌がり藻掻くリリーだが、男の力から逃れることは出来ない。

 だが、ヒルがそれを傍観するはずもなかった。


「ちょ、待って待って。冗談デスってば」


 ヒルの大剣はぴたりとレオンの頭蓋を捉え、そのまま降れば眼鏡だけではなくレオンも真っ二つになるだろう。


「臣下として接するんだよな?」


「……ハイ」


 これでもかというくらい輝くような笑顔を見せるヒルだったが、彼の持つ剣はそのままレオンをしっかり捉えており、今にも斬り裂きそうだった。

 呆れてその様子を見ていたリリーの背後に、不機嫌そうに眉をしかめた彼が現れた。


「またやってんのかお前ら」


 レオンはヒルの剣先を白刃取りしたまま必死に踏ん張っている。ヒルもまた本気なのか冗談なのか、笑顔のままで。そのままレオンを真っ二つに斬り捨ててしまいそうな勢いで剣を持っている。

 屋敷の主人であるライザーは、玄関先で騒ぐ二人を怪訝そうに見やり、関わりたくないと言わんばかりに腕を組み事なきを終えるのを待った。

 しかし、自分が横に立ったことにより居心地悪そうにするリリーに気づくと、ライザーはふんと鼻を鳴らした。


「誓約したんだな」


「ええ、まあ」


「そうか」


「お前は、構わないのか」


 言いにくそうにリリーが尋ねると、ライザーはふっと小さくため息を洩らす。


「良いも悪いも、ヒルはお前を認めたんだ。王はお前にしか出来ねえんだよ」


「私にしか?」


「俺は認められなかった」


 柔らかな風が吹き、ライザーの髪をさらさらと揺らした。リリーはライザーの横顔をじっと見つめる。すると、彼は少し目を細めリリーを見つめ返してきた。


「お前にはその資格があったんだろ。俺の意見なんざ気にするこたねーよ」


「……ごめんなさい」


 リリーが少し悲しそうに眉をひそめると、ライザーはぎょっとして慌てて言葉を被せた。


「ばっ、だからそうじゃねーよ! 何勘違いしてんだ!」


 ライザーはふいっと反対方向に顔を背ける。


「気にすんなっつってんだよ。なんで謝んだよ馬鹿か」


 彼らしく、不器用な言葉だった。微かに頬を赤くし喋るライザーの横顔を見ていると、リリーはその真意に気づき自然に微笑むことができた。


「っ……いつまでやってんだヒル、レオン!」


 状況に耐えかねたのかライザーはリリーから離れずんずん歩いてヒル達の方に行ってしまった。


「変な奴……」


 ふいに風が吹き、誘われるようにリリーは空を見上げた。雲はひとつもなく、あの黒雲を取り除き大地を蘇らせたのが自分の力だなんて。にわかには信じがたいが、現実にそうなっているので認めざるをえない。


「ただの下級聖騎士が亡国の王」


 この広い大地がすべて自分の守るべき場所。こ

 れからはしっかりしなければ。もうその場の感情に振り回されたりしない。

 私を信じて待っていてくれた彼女や彼等、姉さん。そしてまだ見ぬ民の未来の為にも。

 バロン議長。アルフレッド。貴様たちの好きにさせるわけにはいかない。ぐっと拳を握りしめる。もう迷わない、恐れない。

 私は、王として生きよう。それが運命なのだと諦めるんじゃない。それが私の生きる意味だと、胸を張って言えるから。


「ヒル、ライザー、レオン」


 リリーが声をかけると、三人はぴたりと動きを止め向き直った。


「どうした?」


「なんデスかリリーちゃん」


「あんだよ」


 リリーはすうっと目を閉じた。そして心の奥から自然とわいてきた言葉を素直に口にした。


「よろしく、お願い……します」


 そこには、聖騎士リリーではなく、新たな志を持ったリリーが居た。

 しかし、リリーはハッとして口を押さえた。何故か素直にそんな言葉を言ってしまった自分にとまどい目を泳がせる。やけに穏やかに微笑むヒルが鼻についた。


「……何」


「俺は何も言ってないが」


 白々しいヒルに、リリーは赤面する。ライザーに至ってはかなりきょとんした顔をしていたので、もうリリーはどうしようもなくなってしまった。


「レオン!」


「ハイハイ! なんデスか!?」


「その、私に色々教えてくれる?」


「え、それって男女のこととか……男女のこととかデスか!!」


「違う! 政治とか色々だ!」


 八つ当たり混じりにそう言うと、リリーはさっさと屋敷の中に足を向けた。

 おかしい。こんな私はおかしい。なんだってこんな子供のようになってしまうんだろう。大体、自分の本当の気持ちを素直に口にするなどあの頃以来だ。

 そこまで考えて、リリーは急にハッとした。

 そうか。今いる"この場所"。ここが本来、わたしが居るべき場所なんだ。

 居場所を求め彷徨っていた自分がやっと見つけた"自分"を必要としてくれる場所。リリーは何か心が軽くなるのを感じた。鎖がひとつ外れたような感覚、無意識に自身の胸元に手をやる。


「リリーちゃん?」


「あ……いや、なんでもない」


 レオンが不思議そうに尋ねてきたので、リリーは平静を取り戻した。


「なんだそれ。急にやる気になってんじゃねーか」


 ライザーが眉をひそめ言い放つと、ヒルがすかさず補完をする。


「頑張ろうとしているんだよな」


「あ、うん。私は聖騎士だったけど、軍の士官学校や一般の学校に行ったわけではないから」


「あ? そうなのか」


「小さい頃は家庭教師がいたからいいけど、世間のことは知らないことが多い」


「ふうん。まあそんな感じだよな。気ぃ強そうなのにしょぼいっつうか」


 リリーがきっとライザーを睨みつけると、すかさずレオンが口を挟んだ。


「ライザー君は俺という家庭教師がいても授業をお昼寝の時間か何かと思ってマシたからね」


 レオンが眼鏡を光らせる。するとライザーは慌てて後ずさりながら弁解の言葉を口にした。


「テメェの講義は小難しくてわけわかんねぇんだよ! 魔導術なんか特にだ!」


「あれでもかなり簡単に講義をしてたんデスよ。まったく君は昔からサボり癖がある。誰に似たんデショーねえ」


「寝てたのは俺だけじゃねえ!」


 二人が言い争っているのをただ傍観しているヒルに、リリーは問いかけた。


「ライザーは魔導師なの?」


「あん?」


「レオンは軍師宰相で、ヒルは軍の指揮官で合っている?」


 上目遣いに見ると、ヒルはにっこりと微笑んだ。


「ああ正解だ。ライザーは剣が苦手でな。だが魔導術だけならなかなかだぞ」


 確かに、彼が剣を持ち歩いている様子は見受けられない。


「ちなみに、ライザーは詠唱無しで魔導術を使える。ただやはり杖などの媒介は必要だが……まあそこらへんは専門的な話になってくるな」


「ところで、リリーちゃん中に入ったらどうデスか? 体冷えてマセン?」


 気温は暖かいが、確かに少し背中が寒い。北からの風だろうか。

 思わず鼻をすすったリリーに、ヒルが笑いかけた。


「中に入れば、誰かしら侍女がいる。すまないが、先に入っていてくれるか?」


 軽く背中を押され、リリーは頷いた。ちら、とヒルを見上げると、やはり優しい笑顔で応える。妙に居心地が悪くなったリリーは、そそくさと屋敷の中へと入った。

 扉を閉めると、中はふんわりと暖かかった。何人かの女性が、屋敷の窓の水滴を一所懸命に拭いている。そんな様子を横目に廊下を歩いていると、メイドのミリアが声をかけてきた。


「リリー様」


「えっと……ミリア」


「はい、ミリアです。おはようございますリリー様」


 そうだ、確かミリア・ペリドット。美味しい紅茶を淹れてくれたあの侍女だ。

 編み込んで後ろで纏められた栗色の髪。大きな銀色の瞳は落ち着いた大人の女性の雰囲気がある。

 彼女の立居振舞はお手本のように品で、黒地のワンピースに白く清楚なエプロンが貞淑さを物語る。ミリアは軽くお辞儀をした後、リリーの傍に歩み寄った。


「何か用?」


「はい、これから私が陛下の身の回りのお世話をさせて頂きます」


 ミリアは、にっこり笑うと、深々お辞儀をする。


「へ、陛下って、まだ何もしていないのに」


「私は前王妃様の侍女を務めておりました。本来ならば貴方様は王女として大切に大切にたいっせつに育てられるべきだった御方。ですから、私を含め皆は然るべき態度を取るべきなのです。取らせてください。取りたいのです。よろしくお願いします」


 おっとりとした声に反して矢継ぎ早に言われ、リリーはたじろいだ。

 参った。陛下と言われても、今は何も分からない。それ以前に、こういう持ち上げられ方をされたことがないからどう振る舞って良いものか分からない。

 リリーは頭を捻らせたが、結局いつも通りの自分でいることにした。


「呼び方だけ、リリーでお願いしたいのだけど。呼ばれ慣れないから……」


「ふふ、では公の場以外ではリリー様と呼ばせて頂きますね」


「うん……」


 にこにこと微笑まれ、リリーは軽くため息を吐いた。

 あからさまな好意を向けられることに、まだ慣れない。


「ところで、お部屋に戻られるのですか?」


「あ、えっと。先に中に入ってくれって、ヒルが」


「まあ、ヒルシュフェルト様が?」


「あと、その。もしよかったらなんだけど、……ふ、風呂を借りることはできるだろうか」


 リリーは少し汚れてしまった自分の体を気にし、腕を隠すように後ろ手に回した。


「借りるだなんてそんな!!」


 ミリアが勢いよく声を上げると、周りの侍女たちが作業の手を止める。だがさっと顔を逸らして、また自分の仕事に戻った。


「な、何?」


「――大声を出して失礼致しました。では、すぐに湯浴みの用意を。準備が出来ましたらお声を掛けさせて頂きます」


「そんな大げさなことしなくていい!」


「いいえ。あのような一般の客室の湯を浴びさせるわけにはいきません!」


 ミリアの急な強気の態度に、リリーは一歩足を引いた。


「ライザー様もライザー様ですわ! 私に何の相談もなくあんな部屋にリリー様を押し込めて! しかもお召し物もヒル様が勝手に! 私を差し置いて!」


「あの……ミリア」


「許せません!! 王族の在り方は高貴で! 華麗で! 優雅でなくては!」


「…………あの」


 最早リリーが目の前にいることわ忘れているかのような陶酔ぷりのミリアを見ながら、リリーはヴァイスの国民性を疑い始めた。


「……やっぱり今日は、風呂はいいかも」


「ええ!? 今日は薔薇の香りに染まる湯にしようと思いましたのに!」


 リリーは薔薇風呂に浸からせられる自分を想像し、ぞっと青ざめた。


「いや……普通に入るなら今でも構わないけど」


「良かった! では早速薔薇を取り除きます。それは他の侍女に命じますので、私は陛下の寝室を整えて参ります。ああ~楽しみです。湯浴みを手伝うなんて久しぶりすぎて……ふふ。では廊下左奥が湯浴み場です! ご案内できなくて申し訳ございませんが、一度失礼致しますね!」


 まるで小鳥が一斉に飛びかかってきたようにぺらぺらと喋り倒したミリアは、スカートを翻し立ち去っていった。唖然としながらも、リリーは力無く頷いた。

 とりあえず言われた通りに部屋で待つことにしたリリーは、先ほど自分に宛がわれていた部屋へと向かった。

 しかし、この屋敷はとことん広い。そして似たような装飾が並ぶのは、侵入者対策だろうか。よく見ると二階に上がる階段は数か所あるものの、それぞれが決まった階層にしか上がれないようになっている。

 少しの冒険心を刺激されたリリーは、廊下に咲く花を生けた花瓶や、絵画。良く分からないモニュメントを興味深げに見て回った。


「薔薇が多い。ヴァイスは薔薇が好きな民が多いのかな」


 窓の外を見ると、春を取り戻した庭に薔薇の枝が伸びていた。蔦状のものから、すっと真っ直ぐに育ったものまで様々だ。いつかあれら全てが蕾を付けて咲き誇るのだろうか。

 想像しても、リリーは薔薇の美しさを知らない。

 誰もが目に留めていただろう感動する景色を、リリーはまだ、見たことがなかった。

 そんなことを考えながら廊下の角を左に曲がった時だった。


「わ……!」


 自分の目の前に何か大きな障害物が現れたことを察知すると、咄嗟に歩みを止める。

 なんとかぶつからずには済んだが、視界に飛び込んできた"それ"に息を呑んだ。

 それは、男性の胸板であろう箇所に描かれた黒い龍の刺青。

 リリーは目を奪われたまま静止してしまったが、すぐに上を見上げ、その刺青の持ち主の全貌を確認した。

 漆黒の、まさに鴉の濡れ羽色の服。燃えるような長く真っ赤な髪はヒルのそれと似ているが、少し色味が違う。何より、瞳が今まで見たどんなものにも似ていなかった。爬虫類のような、鋭い瞳孔だ。

 リリーは本能的な恐怖を感じ、急いでその男性から離れようとした。だが瞬間、手首を強く捕まえられ、それは叶わなかった。


「痛っ!」


 リリーは手を振りほどこうと体をよじらせたが、その握力は尋常ではなかった。男はリリーを自分の方に引き寄せると、体中に視線を這わせた。


「お前がヴァイスの王か?」


 低く、誘惑的な声。リリーは毅然として言葉を放つ。


「誰だお前は!」


 リリーは凄んで見せたが、男は動じず観察を続ける。


「誰だと思う? 当ててみるんだな」


「ふざけっ…………ぐっ」


 リリーが声を一層張り上げようとすると、男はリリーの口を素早くふさぎ壁に体を押しつけた。


「翡翠色の瞳か、美しいな。希なる瞳だ」


 リリーにその言葉の意味は分からなかったが、なんとなく馬鹿にされているのは伝わった。

 睨み付けて威嚇をしたつもりだが、男を益々喜ばせてしまう。


「ほう、威勢だけはいいな」


 男の息が耳にかかり、リリーは体を強ばらせた。

 この状況は、前にもあった。ライザーに押さえ込められ、抵抗できなかった時だ。だがこの男、ライザーとはまた違う。巨大な獣と対峙した時のような、得体のしれない恐怖を感じる。

 男はリリーの口から手を離し、その唇を親指でなぞった。


「本当にヴァイスを再興させるつもりか?」


「離せ!」


 腕は、まるで鉄の輪がはめられたかのように動かない。

 足をあげて蹴り倒してやりたいと思っても、太腿の間に足を差し入れられ、身動きが取れなくなってしまった。


「それで、お前はどうやって国を立て直す? 人間たちはもうそこまで迫っている。魔導術も使えず、軍も持たないお前に何ができるんだ?」


「離せと言っている! お前に話す事は何もない!」


 抗えば抗うほど、男は愉悦に顔を歪める。

 圧倒的な力の差に屈しそうになる自分を奮い立たせ、リリーは親指に嚙み付いた。


「……ほう」


 男の指には傷すら付かない。だがリリーはなんとか動く脚で、男の足の甲を踏み抜いた。

 少し手が緩んだ隙に、リリーは倒れこむようにその場を逃れ、さっと体勢を立て直して男に向き直った。

 少しはダメージを与えられたと思いたかったが、手が緩んだのは男の意志によるものだった。


「ふん、粗暴な野良猫だな」


 そう言い放ち、男は再び距離を詰めてきた。

 リリーはすぐにその場を逃げようとしたが、どういうわけか足が動かなかった。


「え……」


 今まで、強くおぞましい異形を相手にしてきても逃げられないほどの恐怖を感じることはなかった。それなのに、今はこの男の瞳を見るだけで体が硬直する。何が違うのか、異形の方がよほど恐ろしい外見をしているというのに。

 人であるのに、人ではない。男の本質に怯えている自分に気付いたリリーは、咄嗟に彼の名を呼んだ。


「ヒ……ル……、ヒル!!」


 男が更にリリーとの距離を縮め、肌に触れようとした瞬間だった。

 リリーの視界、男の肩越しに緋色の髪が見えた。


「何をしているんだ」


 リリーは手を押し退け、素直にその名を呼んだ。


「ヒル!」


 ヒルは背後から男の肩を掴み、リリーから離した。

 不機嫌に顔を歪ませる男に、ヒルは呆れたような視線を遣る。


「正式な場で会うまで待てないのか、カイム」


「お前たちの道理に従えと?」


 カイムと呼ばれた男性は、獲物を前にして逃した獣のように落胆した表情でゆっくりとリリーから距離を取った。

 一方のヒルは、笑顔で腕を組んではいるが、その裏に言いしれぬ重い空気を背負っている。


「王に失礼な態度を取るのはやめろ」


「『王』? ふん、なんだその呼び方は。お前がたらしこんだと聞いたが」


 くっとカイムが鼻で笑う。リリーは何か言い返しそうだったが、ヒルがそれを止めた。


「ヒル、誰なのこいつは!」


「こいつはカイム。見た目は人型をしているが、竜族だ」


「竜?」


 ──竜族。それは千の時代を生き、千の能力を備えるといわれる最強の種族。

 知に長け、力に長け、人の形も竜の形をも取ることを可能とし、空を舞う天空の覇者だ。

 リリーも王都で何度かすれ違い様に見たことはある。だがこうして、すぐ近くでじっくりと竜族を見るのは初めてであった。

 リリーは、先程の言い知れぬ恐怖の理由を理解した。


「じゃあヒルと同じ竜なの?」


「それは――」


「ヒル、王が女なら話は早い。さっさと子を産ませれば解決だ」


 カイムが話の邪魔をするように言う。不躾な物言いにまたリリーがカッとなったが、ヒルが軽く制止する。


「王都は今日誓約を結んだばかりだ。そんな話を今する必要はない」


 ヒルの口元は笑ったままだが、瞳は鋭くカイムを刺している。だがそんな彼に対し、カイムは怒り返すどころか目を丸くした。


「悠長なことを言う。王を継ぐ者はその女だけなのだろう」


「時期が早いと言っているんだ」


「ふん、相変わらず庇護欲が強いな」


 カイムは長い溜息を吐き、改めてリリーを見据えた。


「俺の名はカイムだ。今日はお前たちと正式に同盟を結びに来た」


 リリーは意味が分からず、差し出された手を握らずヒルを見上げた。


「話が後先になってすまない。信じられないとは思うが、こいつは竜族の王だ。今回のことでヴァイスと種族間の同盟を締結させるために来たんだ。調整もせず勝手にな」


「随分な言い草だな」


「お前が竜の王……?」


 リリーはいくらかの不安を拭いきれないままカイムを見た。こんな傲慢で、色に濃い男が竜の王だとはにわかに信じられなかった。

 竜と言う存在はそこまで珍しくはないが、その王となると話は別だ。もっとも、通常では姿を拝むことは難しく、隠された地の奥深くにいるような、そんな崇高な存在であると言われている。

 だが目の前にいる男は、ともすればまるでふらっと友人の家に遊びに来たかのような軽さでそこに在り、不敵な笑みを浮かべている。

 リリーはにわかには信じがたかった。だがヒルが嘘をつく理由は無い。

 驚きの表情を繰り返し、恐る恐る差し出された手を握る。まるで氷のように冷たい手は、リリーの体温を一瞬で奪い去った。

 その一連の様子を観察していたカイムは、思わず吹き出した。


「竜に触れるのは初めてか」


「それよりカイム、同盟の話は聞いていたが一人で何をしに来た? こちらにも準備というものがある」


 ヒルは少しリリーより前に出て、カイムとの距離を詰める。

 カイムはニッと笑い背を向けると、意味深に呟いた。


「クッ、ここの女たちは悦んで扉を開けてくれたぞ」


「その野良猫も、同じように喜ぶかと思ったんだが既に「お手付き」だったらしいな」


「な……っ!」


 素早く真っ赤になり怒りをあらわにしたのはリリーだった。だが、ヒルはなんら変わらず微笑んだままだった。それが面白くなかったのか、カイムはまた溜息をつくと、廊下の先に姿を消した。

 カイムの気配が完全に消えるのを確認すると、リリーは行き場のない怒りをぶちまけた。


「なんなんだあいつは! あれが王!?」


「カイムは王にして煌竜。煌竜というのは種類ではなく、竜の地位を表している呼び名だ。簡単に言うと種族に於ける地位も力も他と比較できないほど強い存在だ」


「あの男、まさか私たちの仲間になるというの!? あの男が!?」


 リリーが急き立てるように返事を促すと、ヒルは急に無表情になりリリーを見下ろした。その瞳に思わず言葉が詰まる。


「な、なに……」


 まるで先ほどのカイムのような瞳。怒らせてしまったのだろうか。いきなり変わってしまった雰囲気に、リリーは体が竦んだ。

 だがヒルはリリーに触れるわけでもなく、その長身を脱力したように壁にもたれかからせ、紅い前髪の隙間から目だけをリリーに向けた。


「俺が来るまでに、何かされたか?」


「何かって?」


 リリーは首を傾げる。斜めに見られ、少し足が竦んだ。


「お前の鼓動が異常に早くなるのを感じた。だから来たんだ」


「何故そんなことが分かるの?」


 妙に焦って答えてしまったせいか、ヒルの眉間に皺が寄った。


「分かるさ。誓約したんだから」


 誓約した者同士に異変があれば、それはすぐ伝わるのだろうか。

 剏竜と王の、不思議な繋がり。つまり今は、ヒルがたまたま偶然通りかかったのではなく、心配をして駆け付けてくれたのだ。


「……そうだったの」


「ああ、一応はな」


「なら、手首の痛みも伝わっていたの?」


「そんな細かくは分からないが……なんだ、掴まれたのか?」


「竜は凄い力ね。痣がついてしまった」


 リリーは平気な様子で手首を見せた。手袋を外していたせいで、しっかりと指の痕跡が残っていた。


「痛みは?」


「このくらい、なんてことない」


 見た目には痛々しそうなそれを、リリーは平気な顔でさすっていた。

 ヒルはその手首を掴むと、自身の方に引き寄せた。だが、先ほどのように乱暴にではなく、労るように優しく力を加える。

 壁にもたれかかっているヒルの近くに引き寄せられたリリーは、言葉もなくされるがままに応じた。

 カイムにも同じ事をされたのだが、全く違う。じんと胸が熱くなり、思わず頬を染める。


「悪い、痛かったか?」


 ヒルの声がやけに大きく耳に響く気がする。距離が近いせいだろうかなどと考えながら、リリーは冷静に返す。


「痛くない」


「嘘をつくな。ほかにも何か痛みがあるんだろう」


「無い。本当に」


 ヒルは優しく微笑みながら、リリーの手を自分の口元に愛でるようにあて、こう言った。


「鼓動が、速くなっている」


 リリーはぱっと手を離すと、無言のままその場を立ち去った。

 小走りに浴場のあるという方角に足を進めると、なかなか来ないリリーを心配していたミリアが、安心した顔で駆け寄ってきた。


「リリー様! ……あら? どうかされましたか?」


「なんでもない……」


 ヒルに触れられた手がなんだか熱くて、手を揉み合わせてはぎゅっと握る。


「私……らしくない。なんなのこれは……」


「……風邪を召されては大変です。どうぞ湯殿へ」


 ミリアは何も聞かず、そっとリリーの背を押して浴室へと促した。

 軽く湯をかけられ、湯船に浸かる。一人で入るには広すぎる風呂だ。

 ああ、そういえば王族は風呂を手伝ってもらうものなのかなどと考えながら、脚を伸ばした。

 体がポカポカする。リリーは、大きな欠伸をした。


「なんだか疲れた……。体がだるい」


「色々ございましたから。ゆっくりなさってくださいね」


 ミリアはそう言うと、頭を下げて外へ出ていった。

 一人になったリリーは、大きく天を仰いだ。浴室には、天井に丸い窓がある。そこには、一人浮かぶ陽の中の月があった。

 月を見ていると泣きそうになるのだと、村の若い娘が言っていたことを思い出す。

 確かに、丸くて可愛くて、でもどこか神秘的な月は、気を狂わせることもありそうだ。


「竜がいる国に、竜族の同盟……竜だらけだな」


 どういう経緯で、どういう繋がりでかはリリーには分からなかったが、竜の強さだけは知っている。

 彼らが一匹いれば、千の兵士をも瞬時に焼き殺す。だがそうそうお目にかかれるものではない。どこにいて、どこから来るのかは詳しく知らない。

 もし本当に竜族が自分たちの味方になってくれるのならば、聖王国軍が束になっても太刀打ちできないだろう。

 そう、私を騙していた人間達を、いともたやすく倒せる。

 姉さんをあんな風に扱ったやつらを全部、――殺せる。

 途端に、リリーは冷めたように我に返った。自分の心の声を、反芻する。


「殺す…………?」


 言い慣れた台詞のはずなのに、どうしたことか。口にする度に手にじんわり汗が滲む。

 リリーは、今更になってそんな自分に驚いた。


「……私はいつから……当たり前のように」


 戦が始まれば、女王といえどリリーもいずれは剣を振るう。

 だが、もう手に染み着いて慣れてしまったあの感触。断末魔の叫びも、懇願する瞳も。命を奪うことが生きていく上で"当たり前"になっている自分が今ここにいる。

 ヴァイスの王として、自分を信じていてくれたマイアや民の気持ちを無碍には出来ないと思い、決意したこの道。

 戦争を始めたのは人間、何人ものヴァイスの民を欲のために殺したのも人間。

 だから私はこの戦争を終わらせたい。もうこれ以上、誰も死なせたくない。


 だが……誰も死なない戦など、無い。

 きっと、たくさん死ぬ。


「守る為に殺して、勝ち取る為に殺して……繰り返すのかな」


 リリーは悲しそうに深くうつむいた。蒼い髪は湯気で曇り、銀色になる。さらさらとこぼれ、手のひらにかかる。

 王なんて付け焼き刃でなれるものではないことは分かってる。

 兵法や帝王学なんか全く知らない私だ。

 ヒル達がいなくては何も出来ない。

 だけど、そんな私を求めてくれている人が確かにいる。

 たとえそれが、血統によるものだけだとしても。


 だから私は、この道を進む。


「私は間違っていないよね、姉さん」


 ガラにもなく、もう生死さえ不明の姉に向かって問いかける。

 しん、と部屋は静まり返り、リリーは馬鹿馬鹿しさから自分をあざ笑った。


 "ああ、お前はそれでいい"


 ふいに聞こえた懐かしい声。

 だが、それは幻聴。リリーが部屋の中を見渡しても、そこに居るのはリリーだけ。

 あの美しい姉の姿など、在るはずもなく。


「情けない」


 苦笑いを浮かべ、そう呟くと、リリーは軽い眠気におそわれ小さく欠伸をした。



 * * *



 ――この時、影で動く者は数知れず。世闇に限らず、アーリアの世界各地に息を潜める様々な住人達は、この報復戦争を前にして、どう動くべきかざわめきあっていた。ある者は傍観者を貫き、またある者は参戦を決意した。


 とある町、とある港の静かな朝であった。空は高く、鳥はすました声で謳う。

 しかし、静寂をいとも簡単に切り崩し、髭をたくわえた男が血走った眼で紙束を配り続けていた。


「号外! 号外! ついに戦争だ! 悪魔と竜が手を組んだぞ!」


 規則正しい煉瓦道を、バタバタと踏みつけながら走る。彼がまき散らす新聞を、人々は我先にと手に取った。

 そこには、一面に描かれた竜の紋様。彼の竜王を顕す禍々しい黒。その竜族の長カイムから、ヴァイスの同盟軍として参戦することを宣言した書面が届いたのは深夜の事だった。

 空と大地を支配する力あれど、今まで味方をすることなどなかった竜族。人とは一線を画し、おとぎ話の存在のように扱われていた筈の種族。目覚めれば、世界を支配するであろうと呼び声の高い竜族。

 彼らがヴァイス側につくことで戦力差は劇的に変化する。人々の恐怖は、一気に高まった。紙面を見つめたまま動かぬもの、何かに気付いたように駆けだす商人。互いに情報を交換しながら、神妙な顔でうなだれる老人たち。平和であった国家に注ぎ込まれた戦火の足音は、民の心に影を落とした。

 そんな市街の様子を、じっと見つめている男がいた。路地裏からその薄暗い壁越しに、聞き耳を立てている。正体を見せないよう深く被りこんだ灰のローブ。微かに見える瞳は、蒼く輝いている。

 男はじっと息を潜めていたが、背後に現れた人物により、その緊張は解かれた。

 現れたのは、小柄の少年だった。顔の半分を黒い覆面で隠していたが、すっと顔を見せて膝を着いた。

 少年の礼儀に応えるように、男はローブを脱いだ。涼し気な目元は蒼く、少年を見据えて柔らかく緩んだ。


「ウェラーか」


「探しましたよ、昴様」


「すまないな」


「予定の場所にいらっしゃらなかったので何かあったのかと思いました。どうなされたのですか?」


 昴と呼ばれた男は薄く微笑むと、市街の方を目で指した。


「混乱が広がっている。宿のように逃げ場がない場所では落ち着かなかった」


「……それは分かりますが、探すこちらの身にもなってください」


「だが見つけられただろう」


 満足気に言う昴に、ウェラーは諦めたように首を振る。そして懐から、二つ折りの小さな紙を取り出すと、昴に手渡した。


「詩帆からの報告を持って参りました」


 紙を受け取った昴は、すぐにそれを開く。昴が目を通しているのを確認しながら、ウェラーは続けた。


「街に偵察に伺った所、すでにリュシアナ王国聖騎士師団の姿無く、師団長の姿も確認できませんでした。しかし、足取りを追った所、王国の師団は全て国境アルゲオ山脈ふもとに集結。先日の"不思議な蒼い光"を警戒してか、今日行う予定だった国境越えを中断、明日、新しく作戦を行う模様です」


「そうか」


「そして、……アメリ様と思われる女性を確認したそうです」


 僅かに昴の眉が潜むのを、ウェラーは見逃さなかった。弾かれたように、昴に向けて顔を上げた。


「恐れながら昴様!」


「なんだ」


「まさか、戦に参加するおつもりですか?」


 無言を返す昴に、ウェラーは激しく追撃の言葉を浴びせた。


「私は、戦は嫌です! 我が部下も、昴様方の為に死ぬるなら本望! しかし……この戦は人間と悪魔の小競り合い! 放っておくのがよいかと!」


 だが昴は何も語らない。その蒼い瞳は、冷たく輝いている。


「昴様……」


 懇願するようにウェラーが名を呼ぶと、昴はやっと重い口を開いた。


「案ずるな。この戦、世闇一族は関わるつもりはない」


「昴様!」


「里にはまだ幼い者もいる。一族を率いるなどということはしない」


 その言葉を聞き、ウェラーの顔が安堵から緩む。


「それでは……」


 だが、その期待は一瞬でかき消された。


「血を見るのは俺だけで十分だ」


「なッ!?」


 無表情だが自信ありげに答える昴を見て、ウェラーはわなわなと体を震わせた。


「何を仰るのです! たった今"戦ワズ"の誓いを口にしたところでは!」


「ああ」


「昴様! 世闇の長の貴方がそのようなことではどうなさるのですか!」


 すると、昴は腰に携えた刀に手をやり、ちきりと音を鳴らした。微かに月明かりの中に光るそれは、まるで火を灯したかのように赤い光を放つ。


「す……、昴様」


「悪いなウェラー。この刀を持った俺は、世闇でもなんでもない。流浪者だ」


「し、しかし貴方様に何かあれば、我らは」


「俺のような半端者が一人いなくなったとしても問題はない」


「……どちらに、行かれるおつもりですか」


「さあ、な」


「昴様! お待ち下さい昴様!」


 ウェラーが尚止めようとしても、昴は彼に背中を向けそれをさせなかった。


 こちらを振り返りもせず路地裏の闇に溶けるようにして消えた昴を見ながら、仕方なく舌打ちをしたウェラーは、彼が何をするのか悟り、急いでその場を離れた。



 * * *



 同刻、リュシアナとヴァイスの国境アルゲオ山脈。その聖王国側の麓。

 リリーの放った蒼い光を警戒した聖王国軍第一陣は、突然の待機により暇を持て余していた。

 野営地では各々がテントを張り、食事を取る者、武器を磨く者様々であった。辺りは朝日に白み始め、少し冷たい風が吹き荒ぶ。早朝の空気は、この北の大地では更に厳しいものと変わる筈だったが、今は違う。

 まるで、すぐそこに太陽が迫っているかのように温かい光が目覚め始めていた。

 太陽に目を細めながら、銀髪の少年が欠伸をする。うーんと背を伸ばすと、辺りを見回した。


「あ、アメリおはよう!」


「おはようございますジークフリード」


 アメリが薙刀を磨いていると、無邪気な笑顔を見せながらジークフリードが近づいてきた。

 地面に腰を下ろしたジークフリードは、好奇心いっぱいの表情でそれを見つめる。


「何してるの?」


 アメリは木製の椅子に腰を掛け、薙刀を膝に乗せている。


「貴方も暇があるなら、剣を磨きなさいな」


 アメリは薙刀を傾け、美しい乱紋を見せる切っ先を確認する。


「ああ、僕はこないだ王都で研いだばっかだからいいんだよ」


「自分の武器は常に大事にしなくてはいけませんわよ」


「うるさいな~。ちゃんと鍛冶屋でやってもらったんだから平気だよ」


 ジークフリードがしかめっ面で頬を丸く膨らます。それを横目しながらアメリはくすっと笑い、再び長刀に視線を戻した。


「鍛冶屋とは、あの有名な鍛冶屋かしら?」


「そう、あんな汚いのに兵士に大人気のあの鍛冶屋!」


「そんな風に言ってはいけません。あの主人のあの技術、おそらく太古に失われた鍛冶技術です。普通では手に入らない鉱物も安価で売っていますし、この前なんか竜の牙が入荷していましたのよ。自然に抜け落ちたものか、はたまた討伐したのか……」


 熱く語り出すアメリだったが、ジークフリードは「はいはい」と聞き流す。

 彼女は異様に刀に関して執着を表す為、それが今に始まった事ではないことを知るジークフリードにとっては日常茶飯事だった。


「でもさ、アメリのその剣って変わってるよねー。なんだっけ……な、なぎゅ……なぎゅにゃた。舌噛みそう」


「あせって言うからですよ。薙刀です」


 アメリが手にしているのは東の地方に古く伝わる武器、"薙刀"という武器であった。刃の部分よりも柄の方が遙かに長く、扱うにはそれなりに修練が必要だろう。


「それも東の国の武器?」


「ええ。これは、亡き祖母から譲り受けたものです」


 ジークフリードはつい手にとってみたくなったが、それを聞いて口に出すのはやめた。


「そっか。強い人だったんだね」


「ええ。とても勇敢であったと聞いています。薙刀だけではなく、弓や刀も扱えたとか」


「ふうん。……あっ、そういやリリーもそんな感じの武器持ってたような気がする」


 ジークフリードは頭に手を置き、記憶の海を彷徨う。

 唸った後、「そうだ」と手を叩き喋り始めた。


「王都で初めてリリーに会った時、一緒にその鍛冶屋にいったんだよ。その時リリーの剣を見たんだけど、そんな感じのヤツだったよ!」


 胸のつっかえがとれたと嬉しそうに喋るジークフリードに反して、アメリの顔は曇っていった。


「裏切者が? 見間違いじゃありませんか?」


「ていうか、リリーを裏切り者って呼ばないでよ。まだ分からないじゃん」


 ジークフリードはじとっと睨んでみせたが、それどころではないのかアメリは顎に手を添え辛辣な表情を見せた。


「あの、ジークフリード、……リリーとやらが何故"刀"を持っていますの?」


「あれってカタナっていう種類なの? いや僕にそんなこと言われても」


 眉を寄せ小首を傾げるジークフリードに視線を戻し、アメリは薙刀の柄の部分を彼に見せた。


「これを見て下さいジークフリード」


「何?」


 アメリが見せた薙刀の柄の部分には、何か文字が彫られている。それは彼には読める筈もない文字だが、アメリは真剣だった。


「読めない……。なにこれ」


「読めなくて当然です。これは世闇という一族に伝わる古代文字なのですから。この字はこの刀を鍛えた刀工の名です」


「とーこー?」


「刀、薙刀、苦無……。それは、「世闇一族」が扱う武器。それをリリーが持っているのはおかしいのです!」


 アメリはぎゅっと拳を握りしめた。


「ねえ、どうしちゃったのアメリ。ていうかさ、つまりどっかで買ったんでしょ。注文したのかもしれないし」


「ジークフリード、その刀について何か覚えていませんか? どんなことでも構いません」


「え? うーん」


 ジークフリードは頭を捻らせる。その口から答えがでるのを、アメリは身を前に乗り出したような態勢でじっと待っていた。


「あ!」


 ジークフリードが目を丸くして声を上げた。


「何か思い出しましたの?!」


 期待感いっぱいにアメリは答えを促す。

 だが、彼の思いだした事柄が原因により、彼女の未来が大きく変わることになろうとは、誰も予想はしなかっただろう。


「なんか貰ったって言ってたような。えっと、人づてに聞いたから分かんないけど」


 もどかしい。

 アメリはうずうずしながらも、黙って彼の記憶が甦るのを待っている。

 しかし、なかなか彼が思い出しそうに無いので、アメリが首をふり"もういいです"と言いかけた時だった。


「な、なんか知らないけどさ。僕、まずいこと言った?」


「いいえ。貴方には感謝しています」


「そんな風には見えないけど…………」


 それもその筈、アメリの顔は優しい口調とは裏腹にきつく眉をひそめていた。二重の大きな瞳も、この時ばかりは形を変えて。


「アメリ。あのさ…………もしかして、アメリって……」


「関係ありません。知り合いがいるだけですわ」


 誤魔化すような言葉に、ジークフリードは追うようにして声をかけた。


「待って、待ってよ。……そんな顔してどうしたの?」


 どの言葉に、アメリは少し悲し気に眉を下げた。


「何を言っているのです?」


 するとジークフリードは、アメリの顔を下から覗き込み、彼女の心を伺うように、小声で囁いた。


「アメリ今、すごく泣きそう。平気?」


「私はそんな顔をしていますか?」


「うん」


 アメリは自身の輪郭をなぞり、驚いた。

 張り詰めていた筈の表情に戸惑いの色が浮かび、沈んだ。


「そんなこと、……ありませんわ」



 * * *



「世闇一族?」


 怪訝な声でそう繰り返したのは、マリアベルだった。アルフレッドがほほ笑む魔導機械の鏡を前に、眉根を寄せる。


「そう。東の少数民族だ。一様に黒い衣服に身を包み、世俗から離れて闇を生きるとされている。まあ、あまり関わることはないだろうけどね」


「その民族がどうされたのですか」


「グルージス共和国に行かせていた者達からの報告によると、最近動きがあるらしくてね」


 そんな報告はマリアベルの元には上がってきていない。軍部を飛び越え、国王の元に直接話が行っているのなら、それは元老院もあずかり知らぬことだろう。


「警戒をするに越したことはないと思ってね。君の耳に入れておきたかったんだ」


「少数民族が、我々に反旗を?」


「民族は理想の為に手を組むんだよ。自分たちは国ではなく、血統により結ばれた誇り高い存在だと信じて疑わないから」


「……何が違うというのでしょうか」


「人は巨大なものを見ると悪として捉えるんだよ。そう思わないと、立ち向かえないからね」


「しかし世闇が動くとなると、彼の聖騎士の動向が気になりますね。警戒はすべきかと」


「聖騎士の過去は抹消されてる筈だから、そうならないように祈りたいね」


 アルフレッドが揺れるように微笑む。


「君にまかせよう。マリアベル」


 銀の瞳がゆっくり瞬くのを見送ったマリアベルは、深くお辞儀をした。

 アルフレッドとの連絡を終え、テントから出てきたマリアベルに、シュナイダーが声をかける。


「マリアベル大佐、陛下は何と?」


「我々下々の者には分からない、高き思考を持ったお方だ。私達は言われた通り国境越えをし、前線部隊の援護をしよう」


「しかし、竜族が悪魔に協力するとは……奴らは国交があったのでしょうか?」


 シュナイダーはそう言って頭を捻る。世闇の話は、やはり公には知られていないらしい。


「貴公が気にしているのは、リリー・ウルビアのことか?」


 マリアベルは、威圧感のある口振りで喋る。


「何故そのようなことを?」


 そう聞き返すと、マリアベルは妖艶に笑った。


「貴公は英雄アストレイアと親しかったと聞いている。その妹であるリリー・ウルビアが謀反を起こしたのだ。内心、気が気であるまい」


「……彼女との関わりは深くはありません。確かに、この戦いに戸惑うのも正直な気持ちです。しかし、私が忠誠を誓うのは陛下です。作戦に支障は出ません」


「真か?」


「はい」


 マリアベルは可笑しそうに笑むと、シュナイダーに背中を向けた。


「いずれ竜と刃を交えることになるな。シュナイダー大佐、ノーブルに魔導兵の増員の要請をしておけ」


「御意」


 シュナイダーは凛として敬礼をすると、足早にその場を立ち去った。

 武骨な表情の中に、迷いを見つけたマリアベルは、鋭くそれを睨む。そして、軍帽のつばをつまむと、更に深く頭にかぶせた。


「そうやってお前は何もかも堕としこむのだなリリー」


 マリアベルは青く晴れ渡った空を見上げた。腹が立つほど、美しい青の器。

 これが、黒雲と血に染まるのかと思うと、心の底が不安と狂気にざわついた。


「進軍せよ!!」


 高らかに、部隊長が声を張る。リュシアナの軍隊はマリアベルの指示通り動きだした。

 戦を呼ぶ憎しみの声に押され、ついに軍は歩みを進める。

 勇ましい鎧に身を包んだ人々が、一糸乱れぬ隊列で進む。聖騎士が指揮を務め、混合軍が続く。

 様々な色の旗を持つ軍列の中、一際輝く獅子の紋章。鎧の隙間から覗く眼光が、獣の如く前を見据えていた。


「あーあーなんだってんだ」


「アルゲオのてっぺんで待たせておいて、今朝になって進軍てどうなんだよ」


 ぶつくさ言いながらアルゲオ山脈を下山しているのは、王国軍の前線部隊の兵士達だった。

 この前線部隊、戦力的に強いかというとそうではなく、驚くほど少人数で形成されていた。

 部隊長にも、まだ若い名も無き聖騎士が就任していた。


「様子見だろ。国は俺たちを使い捨てくらいにしか思ってねーんだよ」


「天才かなんだか知らねえけど、女に顎で使われてよ……」


「今更だろ? まっ、雪がとけて下山しやすくなったのが幸いか」


 部隊は、アルゲオをなんなく超え、もう山を降りようとしていた。すでに彼らの視界にはヴァイスの地が広がり、春風にも似た心地よい風が頬をかすめた。


「なあ、おい。これが悪魔の大地か?」


「想像と随分違うな」


 そう思うのは当然であった。

 彼ら一般の国民の間では悪魔は悪魔でしかなく、ヴァイスの地は地獄のようにおぞましい場所だというのが普通の認識である。

 だが彼らの目の前には今、緑溢れる大地が広がっている。小さな野花、空を舞う鳥、爽やかな青空。少なからず、兵士達に動揺が走った。


「どうした、隊列を乱すな」


 その様子に気づいた部隊の隊長である聖騎士が、後ろを振り返り渇を入れた。部隊はしんと静まったが、渇を入れた隊長自身も実は動揺を隠せなかった。

 幼い頃から聞いていた話とは違う。景色や、気候ではなく。この地の持つ雰囲気がだ。

 消しきれない違和感に若い聖騎士は心を乱したが、それを口にはしなかった。


「なんと広く平坦な大地だ……地平線が見える」


「ああ、もし敵が居たとしても、これならばすぐに肉眼で確認出来る」


 朧気な不安を拭いきれないまま、部隊がついにヴァイスに足を踏み入れたその時だった。

 何かに気づいたのか、兵士の一人が、彼方を指差し叫んだ。


「た、隊長ッ!!!」


「──どうした?」


「あれは一体……」


「……な、なんだあれは……」


 ヴァイスに足を踏み入れた王国軍前線部隊は、前方に現れた"それ"に息を飲み、前進することが出来ずにいた。


「な、なんであれが……」


「わ、わからん! だが――」


「剣を構えろ!!」


 耐えかねた部隊長の号令と共に兵士が次々に鞘から剣を抜き構える。


「た、たとえ一匹だろうと油断はするな!!」


「はっ!」


 兵士達の前方には、大軍勢が広がっているわけでもなく、魔物の群が広がっているわけでもなかった。

 たった、一匹。牙を剥きこちらを伺っている者がいた。しっかりと形を晒けだしている。


「竜……」


 そこに居るのは、巨大な竜だった。相当距離が離れているにも関わらず、その体躯は大木よりも高く、岩山のよう馬鹿でかい。

 前進は黒く光る鱗に覆われ、陽に当たると黒燿石の如く光沢を放つ。背中から生えた凶々しい羽根はゆっくりと動き、口から時折黒い息が洩れている。

 熱風のようなものが肌を掠める。


「悪魔と竜が手を組んだのは本当だったか」


「来るぞ!」


 次の瞬間彼らは恐怖におののいた。


「うわ……、うわあああっ!!」


 轟音を立て地から飛び立った黒き竜は、ひとつふたつ羽根をはためかせただけで部隊との距離を一瞬にして縮めた。そして彼らの頭上で制止すると、まるで自分は天空の覇者だといわんばかりに眼光鋭く威圧した。

 その巨体に圧倒され、兵士たちは後退る。


「うろたえるな! 隊列を乱すな!」


 指揮官を務める聖騎士が指示を出す。兵士たちは必死に剣を構えた。


「悪魔の手先め! 我らが相手だ!」


 竜は巨体を揺らし、おぞましい声で咆哮した。


「――ごっ、ご報告申し上げます!」


 マリアベルの元に、一人の兵士が酷く慌てた様子で伝令を持ってやってきた。


「伝令! 前線部隊がヴァイス大運河付近にて敵と接触致しました!」


「敵の数は?」


「そ、それが。報告によると一匹であると……」


「……なに?」


「伝令によりますと、敵は一匹、……属性は不明、しかし漆黒の鱗の巨大な竜だと」


 マリアベルはそれが何か瞬時に悟り、忌々しいと言わんばかりに唇を噛んだ。


「前線部隊には使える魔導兵を配備していない。すぐに聖騎士ジークフリードの師団を援軍に向かわせろ」


「はっ!」


 兵士は返事をしたものの、すぐにはその場を去らず何か次の言葉を待つように膝をついたままだった。


「なんだ」


「あ、あの。前線部隊への指示は――」


 まごつく兵士に、マリアベルは冷たい表情を見せると、背を向けこう言った。


「その竜、漆黒の巨大な竜だと言ったな」


「は、はあ」


「ならば、前線部隊がその場を切り抜けられる可能性は限りなく不可能に近い」


 マリアベルはその竜を知っているのだろう。その黒き竜がどれほど忌まわしいか。どれほど邪悪かを。そう、彼女の言葉に間違いは無かった。


「うわああああ!!!」


 兵士が竜に剣で斬りつける。しかしそれは肉に届くことはなく、一瞬の内に灰塵と化した。

 剣から炎が伝わり、兵の体を包み込む。肉の焼ける嫌な匂いがして、黒い塵があたりに舞い上がった。

 もう立っている兵士は数えるほどしかおらず、その残った兵士さえ、絶望に打ちひしがれた瞳で剣をただ構えているだけだった。

 王国軍前線部隊は、たった一匹の竜の前に壊滅しようとしていた。


「幾程も時間が経っていないぞ……」


 部隊を率いていた若い聖騎士が、手負いの体を剣で支えながら立ち上がる。

 その足下には黒い粉塵、先ほどまで人間の形をしていたものが、草原の上に黒い絨毯のようにしきつめられている。


「なのに全滅……全滅だと!?」


 竜は、巨体を大地にどすりと据えたままこちらを睨んでいた。

 赤く光る瞳が鈍く輝いている。

 竜は、その口腔内から無限に噴出されるかと思うほどの超高熱の炎の息で、前線部隊を圧倒していた。


「やらせるかぁッ!!」


「やめろ! 無闇につっこむな!」


 聖騎士の制止も聞かず、兵士が竜に斬りかかる。

 竜はそれを見ると大きく息を吸った。腹から胸にかけて赤い光が巡り、それが喉に達した時だった。

 竜の口から漆黒の炎が一気に吐き出され、扇状に周囲を焼き付くした。

 勇敢に立ち向かった兵士は、声もなく消えた。


「くそ! こんな竜がいるなどと!」


 若い聖騎士の憎悪にまみれた言葉に竜は反応し、牙の間からくぐもった言葉を発した。


「この大地を見てもまだ真実に気づかぬか」


 竜の呟きが聞こえていないのか、若い聖騎士は最後の力を振り絞り、剣を向けた。


「我らは負けぬ! アルフレッド陛下と、祖国を守るために! 貴様ら悪魔どもを討つ!」


「うおおおッ!!」


 呼応するかのように僅かに残った兵士もまた声を上げた。

 竜は、一心不乱に自分に向かって走り来る彼らを見つめながらも、その身体を動かすことはなかった。


「アルフレッド陛下の為に!!」


 兵達は、怖くないのだろうか。

 目の前で同胞が焼き尽くされたというのに、この竜に対して真っ直ぐに突っ込んでいく。

 否、恐怖を感じながらも、彼らは命をかけているのだ。自分達の国を守るため、"悪魔" を倒す為に。


「俺たちの国を守るんだ!!」


 竜はまた、深く息を吸い込んだ。

 轟音とともに、黒い炎が辺りを包んだ。それは先程のものとは違い凄まじく、兵士達を灰にすることもなく瞬時に蒸発させた。

 竜はブレスを止めると、自分しか居なくなった平原の真ん中で、高笑いするでもなく勝利の雄叫びを上げるでもなく、ただただやりきれぬその感情を瞳にたたえていた。

 兵士達は死んでいく。

 悪魔は敵だと思いこんだまま。

 守るべき国の統治者が仕組んだ戦争だとは知らないまま──。

 役目を終えた竜は、焦るようにして、空高く飛び上がった。


「間に合わなかった…」


 マリアベルから指示をうけ、急いでアルゲオ山脈を越えたジークフリードと、彼に従う魔導師団だったが、その途中で竜が彼方に飛び去る姿を見た。


「まさかこんなに早く竜が出てくるなんて」


 竜と悪魔が手を組むにしても、対応が早すぎる。

 書面での通達があってから、幾日も経っていない。

 ということは、以前から強力な繋がりがあったのだろうか?


「くそっ。あのような奇襲が分かっていれば、我らが前線を征くものを!」


 思考を巡らせるジークフリードの横で、配下の魔導兵が声をあげた。


「竜には魔導術が一番。それは常識だけど、でっかい竜を相手にしたことはさすがにないからからなあ……」


 ジークフリードの師団は当初遊撃部隊であったが、竜族の参戦を境に魔導兵を多く配備した対竜族用の魔導師団へと再編成された。

 魔導大国ノーブルのジークフリードが指揮するには、持ってこいの師団だ。


「行こう。竜は一匹じゃないからね」


「はっ!」


「……『あいつ』が来なくてもいいように、僕らがやらなきゃ」


 馬の手綱を引き、駆け出そうとした時だった。

 目の前に、まるで陽が陰るかのような自然さで、一人の男が立ちはだかった。

 馬が嘶き、脚を上げる。すんでのところで馬を止めたジークフリードは、馬上で剣を抜いた。

 一体、どこから現れたのか。

 音も無く現れたその人物に驚いた彼の配下の魔導兵たちが杖を向けたが、ジークフリードが手でそれを遮った。


「待って」


 その男は深く頭から黒いローブを被り身を隠しているため、顔はよく見えない。

 陽が高いせいか、影が濃い。


「あんた誰? ヴァイスの悪魔?」


 ジークフリードはその人物から目を離さず、じっと見つめた。金色の瞳が、疑うように視線を巡らせる。

 するとその人物はジークフリードの周りに細やかに目線をやると、小さく息をついた。


「お前達は、聖王国の軍隊か」


「旗を見れば分かるでしょ」


「俺は故あって、人を捜している。だがどうやらお前たちの中には居ないようだな。……邪魔をした」


 明らかに怪しいその人物だが、どこか誠実なその物言いにジークフリードは拍子抜けした。


「なんだよそれ。こんなところで人探し?」


「ジークフリード様、こやつ、気配もなく現われました。怪しすぎます。悪魔の手先かも――」


 兵士の一人がジークフリードに囁く。それを聞いた男は、言葉が終わる前にそれを否定した。


「俺はヴァイスの民ではない」


「へえ、耳良いんだね」


 ジークフリードが嫌味まじりに返す。


「誉め言葉と受け取っておこう」


 低い声でそっけなく返され、ジークフリードはその雰囲気にリリーを感じた。

 だが、リリーよりも言葉尻が冷たい。ジークフリードは、立ち去ろうとした人物に、好奇心から声をかけた。


「ねえ、誰を捜してるの?」


 すると、背を向けて進もうとしていた人物は歩みを止め、ゆっくりと振り返った。

 頭に深く被っていたローブを、するりと取りながら。

 瞬間、師団にはざわめきが広がった。

 現れたのは漆黒の髪に蒼い瞳の、端正な顔立ちの青年。纏う黒衣は前合わせの異国の服。腰には、長い刀が一振り。

 線が分かるような下履きに、長く歩く事を前提とした革のブーツを履いている。


「世闇(よやみ)の昴だ!」


 誰ともなく、彼の名を呼んだ。


「誰それ?」


 ジークフリードが問う。兵士は興奮を抑えながら話し始めた。


「世闇一族の長です。たった一度だけ、グルージスで開催された天覧試合で見たことがあります。剣の道を志す者で、彼を知らぬ者はいませんよ」


「ふうん……」


 にわかに、喜ぶようにざわめく師団を横目に、ジークフリードは咳払いをする。

 直感的に、彼が探しているのは彼女ではないかと予想した。


「ね、もしかしてさ……探してるのって女の子?」


「……そうだ。知らないか。俺と同じ蒼い瞳をしているのだが」


「ふーんやっぱり。その子ならいるよ。会わせようか?」


「いるならば……、伝えてくれ」


「は? 何を?」


 昴は無表情のまま、答えた。


「誤った道を征くならば、俺は容赦はしない」


 そう言い残すと、昴は再びローブを深く被り背を向ける。

 颯爽として彼方へ立ち去る彼を見送りながら、ジークフリードは手持ち無沙汰に頬を掻いた。


「いやいや……そんなこと頼まれても困るんだけど」


「ジークフリード様、マリアベル閣下から伝令でございます」


 部隊の後ろから、伝令兵が走ってきた。封書をジークフリードに差し出し、頭を垂れる。そこには、作戦の内容が記されていた。


「敵の概要も数もちゃんとわかんないのにね。何考えてんだろ一体」


 馬鹿にしたような口調で一言呟くと、彼は封書をそのまま地面に捨てる。彼の馬が分かっているかのように封書を蹄で踏むと、ただの汚い紙へと姿を変えた。

 ジークフリードが視線を左方にやると、遠くにアルゲオ山脈を下山してきた別師団の姿が見えた。


「さすが早いね」


 その師団の団長は、アメリ。黒く流れる髪を風に遊ばせ、白馬にまたがり薙刀を携えている。瞳は大運河の向こうを捉えていた。

 ジークフリードは馬の鼻先をそちらに向け、彼女の元へ走らせた。


「おーい、アメリー!」


「ジークフリード」


 アメリの瞳を見ると、ジークフリードは先ほど会った人物を瞬時に思い出した。

 世闇の長、昴。彼に言われたことを話すべきか否か。

 ジークフリードはかなり迷ったが、やはり戦闘前にするべき話ではないと思い直し、何食わぬ顔で別の話題をアメリに振った。


「調子はどう?」


「上々ですわ」


「そっか。ところでアメリってさ、戦争の経験あるんだよね?」


「そうですね、前にも言いましたがグルージス共和国の内戦や紛争なら。しかし今回のような大規模な部隊の指揮をするのは初めてですわ」


「そっか。僕もだよ」


「たった一人の裏切者のせいでこんなことになるなんて」


「遅かれ早かれこうなっていたと思うけどね」


 ジークフリードは、彼方を見つめた。

 ここまで来ても、まだ信じられない。リリーが裏切ったなんて嘘だと思いたい。


「ところで、マリアベル大佐は後方に?」


「うん」


「敵軍には竜がいるのでしょう。早くノーブルから派遣されたという部隊を配備しないと」


 アメリが伏せ目がちに言う。すると、ジークフリードはきつく手綱を握りしめ、ぽつりと呟いた。


「部隊なんか無いよ」


「え? なんですか?」


「部隊なんかないんだ」


 アメリはジークフリードの横顔を見ながら、首を傾げた。


「どういうことですの?」


 するとジークフリードは、自身の服に刺繍されたノーブルの紋章に手をやり、不機嫌に答えた。


「来るのは一人だ」


「一人だけ? ……まさか、一人で竜を討伐できるような、優秀な魔導師がいるのですか?」


 それは言い過ぎだとアメリは苦笑いをしたが、彼はそれ以上口を開かなかった。


「伝令!!」


 二人の話を遮るかのように、馬に乗った兵士がこちらに駆けてきた。


「またですか?」


「マリアベル大佐より、ジークフリード様、アメリ様へ再度伝令でございます!」


 ジークフリードはその兵士の手に封書があるのを認めると、すぐさま師団長としての真剣な顔つきになった。


「読んで」


「はっ。ジークフリード様、並びにアメリ様の師団は大運河を越えた後は左右に布陣。進軍速度は揃え、随時閣下の命に従うようにとのことであります!!」


「随時ねえ。だったら魔導通信機械くらい持たせてよね」


 ジークフリードは頭に手をやりながら、後ろに振り返った。

 そこには、王国軍最高指揮官元帥マリアベルの旗が見える。尾根でじっと待機をしている。


「ジークフリードとアメリの部隊が合流したか」


 マリアベルはそう言って、手元の地図を取り出した。


「あの裏切り者が書きとってきたヴァイスの地図、なかなか役に立つ」


 妖しげに笑い、地図を丸める。


「氷の牢獄に捕われてからというもの、日々地形を変えておりましたからね。このような運河も……何時の間に出来たのやら。それに、こうまでも気候が変わるとは」


 シュナイダーが傍らで感心したように呟く。


「無駄なあがきだ。土地を再生したところで、我らが有利になるだけ」


「再生? 彼らの魔導術はそんなこともできるのですか?」


「こちらの話だ。シュナイダー大佐、各兵に伝えておけ。リリー・ウルビアは、発見次第生け捕りにして私の前につれてくるようにとな」


 マリアベルの冷酷な口振りに、シュナイダーは彼女の異様なまでの殺意を感じ取り、問わずにはいられなかった。


「マリアベル大佐」


「なんだ」


「リリー・ウルビアとは面識が?」


「無い。何故そんなことを聞く?」


「いえ。貴女のウルビアに対しての怒りは忠義心からだけでは無いような気がします」


 するとマリアベルはそれまで無表情だった顔を少ししかめ、こう答えた。


「それはそうだ。あの女は私がこの世から最も消したい女だからな」


 そこまで憎む理由とは一体何なのだろうか。

 シュナイダーは彼女の冷たい横顔を見つめながら思考を巡らせたが、今はそんな事を考えていても仕方がない為、それ以上の進言はしなかった。


「貴公は、やはりリリーを討つのに抵抗があるか?」


「は……?」


「男はすぐ絆される」


「御冗談を。関係ありません」


「そうか?」


 含んで笑うマリアベルに、シュナイダーは目を逸らした。

 王国軍の進軍はとても順調であった。

 ヴァイスには大平原が広がるのみで、砦らしい砦などは無い。それもそのはず、ヴァイスの民は、元は戦をするような民ではないからだ。


「ふ……」


 事が思惑通りに進んでいることを喜んでか、聖王国首都で高見の見物をするアルフレッドとバロンがいた。


「ご機嫌がよろしいようですな陛下。ジークフリード率いる魔導師団はすでに大運河を越えるとか」


 バロンが玉座の傍らで、その年老いた体を杖に預けながら言う。


「優秀だよ、我らが英雄聖騎士と、可愛い指揮官は」


 アルフレッドは玉座にてゆったりと微笑みを浮かべている。そんな彼はどこから見ても賢王にしか見えない。


「マリアベル大佐はさておき、アメリやジークフリードは英雄といえどまだ若い。一師団を指揮させてもよろしいので?」


「別に彼らに指揮能力など求めてはいないよ」


「と、申しますと?」


 バロンが聞き返すと、アルフレッドは玉座から立ち上がり、彼の目線に合わせた。


「少し考えれば分かるだろう」


 その何か含みをもった言い方にピンときたのか、バロンは自分の顎を撫でながら目を細めた。


「ははあ。陛下はやはり……」


「バロン、私は何も言っていない。何かあるような言い方をするものではないよ」


 側で二人の会話を聞いていても、その真意が分からぬ玉座の間の警護兵達は首を傾げた。


「さて、どう手を打ってくる?」


 人間側、獅子王アルフレッドの旗下に、ノーブル皇国からのある人物の派遣。物資を主とした支援として、グルージス共和国。

 対するは、彼らの進軍を察知し、素早く国土に散っていた兵を集め、竜族まで味方につけた、王の遺児・リリー率いるヴァイス軍。


 "報復戦争"として後世に語り継がれる、歴史的な戦いの幕が本格的に開かれようとしていた。


 果たして、勝利を収めるのは人間か。

 彼らか。


 神は見守ることしか出来ず、御座にて頬杖をついているだろう。


「戦おう。いつまでも。君が王であり、私が王である限り」


 アルフレッドは、白亜の城の玉座にて、妖しく笑みを浮かべていた。


 第4話・終

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