第3話「竜と誓約の王」

 一つの答えを求める。

 どちらかを選ぶのではなく、どちらかが真実なのだと見極める。

 貴方がそうしてきた。だから私もそうしたのだ。

 眠ってなどいなかったのでしょう。気付いてなど、いなかったのでしょう。

 相反する二つの鼓動の先に、君だけをと求めた時。

 それは特別なものでは、なくなっていた。





 降りしきる雪が、山脈から北へと暴力のように降り注ぐ。

 雲間に陽が見えるのは僅かな時間のそこは、外界と隔たれた忌まわしき大地。


 悪魔が住まう、ヴァイスの大平原だ。


 白銀が横行する景色の中、ひとつだけ春の灯りを見せる建物があった。

 平原の中、小高い丘に佇むそれは、吹き荒む風にびくともしない強固な外壁で造られている。

 建築されてからかなり年月が経っているであろうその洋館は、幾つもある窓に温かい光をともしていた。

 窓枠はすっかり凍り、風を受けると僅かに響くが、それ以上はない。

 その窓から見える一室で、とある男は暇を持て余していた。


「捕まったんじゃねえだろな」


 透けるように細い金髪を指ですくい上げる若い男は、この屋敷の主人、ライザーだ。退屈に苛立ち、先程から欠伸ばかりを重ねている。

 ヒルが聖王国へと発ってから、ライザーはもうずっとこうして、変わる事の無い雪景色を見つめていた。怪我をした体では満足に見回りも出来ないし、それどころか元気に歩き回ることもできない。


「あの野郎……次会ったらただじゃすまさねえ」


 ライザーは誰に言うでもなくそう言うと、けだるそうに虚空を見つめ、舌打ちをした。足を組み替えると腰掛けているソファがぎしりと音をならす。

 ふと壁にある時計を見やると、午後三時を指していた。

 落ち着かないのか、ライザーは体勢を変えたり、腕の包帯を指先でいじったりしていたが、ついに立ち上がり歩きだした。


「待ってるのは性にあわねえんだよな」


 完治していない体を無理に動かすと、所々に電撃にも似た痛みが走った。彼はそれにかまわず部屋から廊下へと続く扉のドアノブに手をかけた。が、その瞬間。


「おわ!」


 扉は外側から何者かによって開かれ、ライザーはバランスを崩し勢い良く外へとよたついた。

 そしてそのまま何かにぶつかり、手負いの彼ははねとばされ、後ろへとよろめいた。


「ってぇ…………」


「そんなに急いでどこにいくんデスか? ライザー君」


 ライザーがぶつかった人物は、部屋の外で腕組みをし彼を見つめていた。


「あ~らら、馬鹿デスねぇ。無茶したら悪化するってわかってるデショ?」


 ライザーは近くの壁に手をつき、なんとか転倒はしなかったものの、怪我をした箇所を痛そうにかばっている。


「っせえ! レオンてめえ、『医者』ならさっさと診やがれ!」


 レオンと呼ばれた人物は、「はいはーい」と軽い返事をすると、部屋の中に入ってきた。

 四角い銀縁の眼鏡が暖気で少し曇り、その奥の瞳は外の景色のように銀に染まっている。

 詰襟の衣服は白く、医者と呼ばれた通り清潔な印象を与える。鮮やかな緑の髪は、春の若芽のように光沢を放っていた。


「早く座ってくれマスかライザー君。俺だって暇じゃあないんデスよ」


 一重の瞳が細まる。癖のある笑みを浮かべて、ライザーを見つめた。


「暇だろが! 外がこんなんじゃすることなんざねえだろ」


「ま、その通りなんデスけどねえ~」


 レオンはソファに座り、テーブルの上に医療道具を一瞬にして広げ、包帯やガーゼを指にびしりと挟んでライザーに見せつけた。

 それを見たライザーは不機嫌そうにしながらも素直にソファに座り、怪我をしている腕を彼に差し出した。


「怪我人のくせに、まさか脱走するとこだったとはね~」


「っ痛!」


 レオンはライザーの腕の包帯やガーゼを一気に取り払い、容赦なく消毒液を塗りこんだ。


「怪我してんだから痛くて当たり前デショ。んで、どこ行く気だったわけ?」


 新しいガーゼをあて、男にしては細い指で包帯を器用に巻いていくレオンは、丸い眼鏡の中から刺さるような視線をライザーにぶつけた。


「べっつに。ただあいつがあんまり遅ぇからな」


「あいつって、ヒル君デスか?」


「ああ」


 ライザーは横を向き、また舌打ちをした。苛立ってはいるが、彼なりに心配をしているようだった。


「だいじょーぶデスよ。ヒル君ならうまくお姫さまを奪還してくるデショ」


 レオンはにこにこと軽い笑顔を浮かべながら答えた。だがその態度が気に入らないのか、ライザーは眉間に皺をよせる。


「だけどあそこにはバロンもいる」


「あのおじいちゃんはちょっと面倒デスよねえ~……っと。ほら、終わりデス」


 レオンはライザーの両腕の包帯を手早く取り替えると、最後にポンっと彼の肩をたたいた。


「悪ィな」


「どういたしマシテ」


 綺麗に巻かれた包帯は、ライザーの腕が動きやすいように特殊な素材で出来ていた。彼が腕を回しても、崩れることはない。

 レオンは満足気にそれを見ていたが、ふいにぴくりと目尻を動かし、部屋の中にある一点をじっと見つめた。


「やれやれ、もっと包帯を持ってくるべきデシたねえ」


「あ? 何言ってんだ?」


 ライザーが不思議そうに問うと、急に部屋の中の雰囲気が一変した。窓際のあたりの空間がぐにゃぐにゃと歪みはじめ、ガラスが割れて崩れ落ちるように何かの破片が床に落ちていく。


「転移!」


 ライザーがそれを見て言うや否や、崩れ落ちる空間の欠片を避けながら、リリーを両腕で抱えたヒルがふらつきながら現われた。


「ヒル!!」


 突然のヒルの登場に、分かりやすく体をソファから乗り出し安心した表情を浮かべたライザーだったが、我にかえると咳払いし、またどっかりとソファに座った。


「心配かけたなライザー」


「まったくだよ馬鹿が! 一人で行くか普通!」


 ヒルの体に傷らしきものは見当たらなかったが、衣服がかなり傷み汚れている。

 長い後ろ髪を留めていた金具は壊れ、はらはらと前に落ちていた。


「だが、ちゃんと役目は果たしたぞ」


 ヒルはそう言うと、自身の腕の中で気を失っているリリーに目を遣り、その口が呼吸を繰り返しているのを確認すると安堵の息をもらした。


「……ほんとに、連れて来たのか」


 ライザーが驚きに目を丸くする。だが、彼女の両腕からの出血を認め、すぐさまレオンに向かって声を上げた。


「レオン!」


「おやおや! この子がリリーちゃん?」


 レオンはソファから立ち上がり、リリーの顔を覗き込む。リリーの白い肌には紅がさし、少し開いている唇からは規則正しい呼吸音が聞こえる。 体は血で汚く汚れていたが、眠る顔はまるで人形のようだった。長い睫毛が頬に影を落とし、改めて彼女の丹精な顔立ちを認識する。

 レオンはにんまりと笑みを浮かべると、人差し指でリリーの頬を突いてみせた。


「よく取り戻しマシたねヒル君ってば。けど、この状態はちょっと無いんじゃないデスか?」


 レオンは意地悪くヒルを見上げる。が、ヒルはそんなレオンの態度に慣れているらしく、ふっと微笑んだ。


「だからお前がいるところに戻ってきたんだ」


「上手いこと言ってくれちゃって」


 言いながら、レオンはリリーの手当を始める。


「よく寝てマスねえ~もしや何しても起きマセンかねこれ」


 レオンが悪戯っぽくそう言うと、リリーを抱いているヒルは笑顔のままこう言った。


「次の瞬間お前が眠ることになるけどな」


「何を本気になってるんデス。ハイハイごめんナサイ」


 レオンは両手をあげ降参のポーズをとると、二、三歩後ずさった。

 ヒルは「冗談だ」と付け加えたが、底無しの笑顔が逆にレオンには恐かった。


「とりあえず、こいつをベッドに寝かせてやりたい。ライザー、部屋は空いているか?」


「もう用意させてるよ。つうか、お前も休めよ」


 ライザーがそう言うと、ヒルはふむと頷いた。


「落ち着いたらそうさせてもらうさ」


 ヒルは、リリーを抱いたまま二人に背をむける。

 レオンが先回りして、さっと扉のノブに手をかけた。


「気が効くな」


「デショ。それより、あとで君もちゃーんと診せにきてクダサイね?」


 レオンは小声で呟いた。その言葉が理解出来なかったのか、ヒルは僅かに目を丸くする。

 すぐ真意に気付き何事も無かったかのように元の表情に戻った。


「ああ、わかってる。すまないな」


 レオンはノブを回し扉を無言で開くと、満足気に出ていくヒルを呆れたように見送った。


「――今の何だよ?」


「ああ、お姫さまの怪我あとで診せてねってことデスよ」


「両腕の怪我、……ひでぇな。あいつらのせいか」


「まあそうデショ。右腕なんか見事に聖騎士の紋章えぐられてたからね~あれ跡残るよ」


 跡が残る。

 それを聞いたライザーは拳を握り締めた。僅かに顔を歪め、渋く舌打ちをする。


「顔色は良かったけどひどく生気が無かった。起きてからが問題デスね」


 扉を見つめながら、ライザーは下唇をぐっと噛んだ。


「……外見てくる」


「君も怪我人なんデスよ」


「わかってるよ……」


 二人がそんな話をしている時、ヒルは隣の部屋のドアを開け、中にある真っ白なベッドにリリーを静かに寝かせていた。

 広い屋敷ではあるが、空いている部屋はたくさんある。リリーをすぐに寝かせることが出来る環境に、ヒルはようやく安堵した。


「ん……」


 横にさせた瞬間、リリーは僅かに目覚めかけたが、柔らかなベッドに体が埋まると、再び深い眠りについた。


「子供みたいだな」


 ヒルは軽くため息をつくと、すやすやと眠る彼女を見下ろす。

 蒼い髪が扇のようにシーツに広がり、血で汚れてはいるものの、窓から差し込む光に当たると銀色に輝いている。


「……王が見ると、喜ぶだろうな」


 ヒルはリリーの傍らに腰掛け、そっとその額に手を添えた。


「もう十四年になるのか…………」


 感慨深そうにリリーの髪を愛でると、まるで何か時間がとまったかのように、しばらく彼女を見つめていた。部屋の中には、彼と彼女だけしかいない。今という時を惜しむかのように、長く、永く、ヒルはリリーを見つめていた。



 * * *



「落ち着いてください!」


「無理!!」


 聖騎士管理組合の総本部で、ベリーは机が壊れるかと思うほど手の平を叩きつけた。

 深い木の色と、薄い暁色の旗が飾られているホールには、ベリー意外にも数人の監査官がいた。

 壁面には本が天井までびっしりと並び、所々には球体状の地図が浮かぶ。時折不思議な光の帯が飛び、それらはそこらじゅうの本に吸い込まれていく。長い柱が幾つも据えられ、その足元には羊皮紙の巻物が無数に保管されている。

 本来なら静寂が支配するそこで、ベリーはありったけの怒りをぶちまけていた。


「リリーが何!? もっかい言ってみなよ!」


 ベリーは眉を上げ組合の同志達を睨み据えた。組合の人間らしき気弱そうな若い男はおたおたとするばかり。追い打ちをかけるようにベリーは手に持っていた書面を床にばらまいた。


「何よ! ギルド関係者全員が『指令待ち』って!!」


 床にばらまかれた書面には長々と暗号のような文章が綴られている。組合員しか読めぬ特殊配列文字だろう、その中の一枚の文末にはギルドの印が押されていた。


「ベリー、今回の決定は国のお偉いさんからだ。お前も監査官ならそのへんは」


 部屋の隅に立っている男がそう言うと、ベリーはこれでもかというほどの鋭い目線を投げ付けた。


「あたしがいない間に何があったか知らないけど、これが勅命? なら総帥に直訴するまでよ」


「や、やめておいたほうがいいですよ。だって僕らは」


 気弱そうな男が言い終わる前に、ベリーは言葉を被せた。


「わかってるわよそんなこと!」


「ならもう気にするなよ」


 続いて部屋の隅の男がめんどくさそうに言うと、ベリーは不機嫌に視線を落とした。


「だいたいお前噂になってるぞ。監査官でありながら特定の騎士を『ひいき』してるって」


「だったら何~?」


「否定しないのかよ」


 男の問いに、ベリーは俯いたまま、悔しそうに眉をひそめ呟いた。


「リリーはあたしの大事な友達だもん。当たり前じゃん」


「そうやって公私のけじめがつけれないんなら監査なんてさっさと降りろ。本気で監査になりたかったのになれなかったやつが気の毒だっての」


 部屋の隅にいる男は、ベリーに明らかな嫌悪感を示し、そのまま部屋を出ていってしまった。

 残された気弱そうな男は、そろそろと、散らばった書面を拾い始めた。そのまま丁寧に机に纏め、ベリーの顔を覗く。


「ベリーさん……貴女と聖騎士リリーが仲がいいのは知っていますが、今回のことはどうしようもないんです」


 気弱そうな男は悲しそうに眉を下げ、まとめた書面をベリーに差し出した。

 ベリーは、無言で受け取らなかった。男はため息をつき、書面を机に置き直すと静かに部屋を出ていった。パタン、とドアが閉まると、ベリーは顔を上げ、部屋の窓の外を睨みながら呟いた。


「リリーが裏切ったなんて、絶対に信じない」


 そして机に置かれた書面に目をやり、一枚手に取るとしわくちゃになるくらい力一杯握り締めた。

 次の瞬間、ベリーは部屋を飛び出しどこかへ走りだした。空間転移の魔導術も、空を飛ぶ魔導術も使わずに、ただひたすらに走る。

 目的の場所が見えた時、ベリーは唇を噛みしめ益々足を早めた。辿り着いた先、目の前の豪華な扉のノブを力任せに掴み、ノックもせず、勢いよく開け放った。


「マティス!!」


 のんびりと紅茶を嗜んでいたマティスは、突然のことに体を飛び上がらせた。


「君は……ベリー!?」


 ベリーは物凄い剣幕で彼に詰め寄る。それに驚き後ずさるマティスを、さらに追いつめる。


「ど、どうしたんだい」


「とぼけないで! あんた一体どこまで知ってんのよ!」


「何の話か見えないよ」


「リリーの話よ! 連れ去られたはずなのに、今度は『裏切り者』ってどういうこと?!」


 鼻息荒いベリーの剣幕に、マティスはやれやれと視線を落とした。彼女の拳は握りしめられ、怒りにわなわなと震えている。


「真意は君の方がよく知っているだろう? 今回のあの発表は、アルフレッド陛下が正式に表明した事実だ」


「リリーを切り捨てたの!? 戦争のきっかけのために!」


 マティスは少し黙り込み、思案した。


「よく、知ってるじゃないか。なら君の方が俺より物知りだと思うよ」


「あたしが知りたいのはそこじゃないのよ!」


 ベリーの言葉尻が、ますます荒くなる。


「リリー自身は何も知らないじゃない! 自分が人間だって思ってる!」


「君だって知ってて黙ってたじゃないか」


 深海の瞳が驚くほど冷たくなる。感情を削いだ言葉に、ベリーは一瞬臆したがかぶりを振った。


「でも、人間としてここに居させたじゃない! もう二十年も! なのになんで今更!」


「今更っていうなら、君だってそうだ。“今更”彼女を人間扱いするのかい」


 マティスが眉をひそめてそう言うと、ベリーはぐっと苦しそうに黙り込んだ。言い返す言葉を探しているのか、視線をそらす。


「あたしは…………」


「ああ……同情したのか」


「な……っ」


 辛辣な一言に、ベリーの瞳が揺れる。


「君はリリーに友達として接することで、『自分はこいつに比べれば幸せだ』って思えたんだろう」


 刹那、部屋に乾いた音が鳴り響いた。

 ベリーに見事な平手打ちをくらわされたマティスは、赤くなった自分の頬を片手で押さえている。


「あたしはリリーをそんな風に見たことなんてない!」


 ベリーの瞳には、涙があふれんばかりに溜まっていた。


「怒ることなんてないのに。誰だって自分の方が上だって思いたいだろうし」


 マティスは冷めた目つきでベリーを見下ろすと、胸元にしまっていたハンカチで口を拭った。


「あたしはリリーの友達なのよ! あんたに何言われても、あたしはリリーを助ける!」


「友達、友達って、君はリリーの全てを知っているわけじゃないだろう」


「どんなリリーだって、友達だから関係ない!」


「君はそうでも、リリーはどうだろうか」


「どういう意味よ……」


 するとマティスは、部屋の机に置いてあった書類の束から一枚取り出し、読み上げ始めた。


「ベリー・ハウエル。幼くして魔術の才に目覚め、魔導師サウザンスロードの弟子として幼少を過ごす」


 それはベリーの経歴を記した書類だった。

 そこには彼女のすべてが書かれていて、マティスは薄笑いを浮かべつつ読み上げる。


「しかしある時、悪魔にサウザンスロードを殺害され、聖騎士管理組合に拾われる」


 ベリーの顔色が青ざめていく。張り付いていた唇を開くと、震えながら言葉を発した。


「あたしのこと調べたの…………」


 マティスは幾つかある書類を全てひとつに重ね、ベリーに見せた。


「管理組合重要機密事項。君の出生に関することだ」


 一瞬、ベリーは我が目を疑った。マティスが差すその書類の全てに、門外不出の調印が押されている。そんなものを持ち出せるのは組合上層部か、はたまた政治的権力の強い人物だけである。


「聖王国は神の国。そしてヴァイスは”永久凍土の”悪魔の国。でも別に、昔から凍っていたわけではなかったようだけど……」


 マティスの瞳は冷たかった。書類の、ある項目を指差す。

 ベリーはぐっと息を呑み、だが振り切るように心を立て直した。


「君は、リュシアナ以外に生きる場所なんてあるのかい」


「それは……」


 揺るぎなく、まっすぐマティスを見つめる瞳は、彼に衝撃を与えただろうか。

 マティスもまた彼女をまっすぐ見つめ返した。


「でも『私』は、自分をこれ以上偽れない!」


 ベリーはそう吐き捨てると、桜色の髪を翻し、部屋から走り去った。

 その姿が消えるのを追い掛けることもなく見つめていたマティスであったが、不意に痛んだ頬を押さえて、嘲笑った。


「偽ることは、生きるためだろうに」


 空っぽになっているような胸の辺りを押さえながら、彼は書類の端を整えた。にもかかわらず、乱暴に机の上に叩きつける。そして、深い溜め息を吐いた。


「リリー。君と次に会う時はどんな俺で話せばいいのかな……」



 * * *



 静かだった。音もなく、空気さえ止まってしまったかのような静謐だった。

 あまりにも現実味がないその部屋で、リリーは痛みと共に目を覚ました。

 肌触りの良い白いベッドの寝かされているらしいと気付くまでは、そう時間はかからなかった。自分が置かれた状況を認識すると、疼くように腕の痛みが押し寄せてくる。強制的に意識を覚醒させられたリリーは、周囲を見渡した。

 そうして広がった視界の先に、紅い髪が波打っていた。


「なっ……」


 リリーは咄嗟にベッドの左端に逃げた。リリーの目線の先には、すやすやとよく眠る紅い髪の男がいる。椅子に座ってはいるが、ベッドに上半身をうつぶせに預けている。


「ヒル……」


 リリーは、硬直したまま動けなかった。混乱しないはずもなく、しまいには油汗をかき始めた。

 見覚えのない広い部屋。古さが残るが、可愛らしい花の装飾が施された家具が置かれている。寝かされていた白いベッドは、洗濯したての爽やかな香りがしており、足の裏に心地よさを与えてくれる。天井まで伸びている大きな窓の外は曇っており、低く呻くような風の音がする。外は、かなり寒いのだろうか。

 リリーは音を立てないよう、そろっとベッドから降りる。ヒルの様子を伺い、起こさずに済んだことにほっとする。

 ベッドから降りたときに、自分が着ている服がいつのまにか真白な前合わせの寝巻に変わっていることに気付き、瞬間的にヒルを睨んだ。


「まさか……」


 リリーはもしそうなら叩き起こして殴り付けようかなどと模索していたが、ハッと何かに気付くと慌ただしく部屋の中を見回した。


「あ!」


 ベッド脇に、自分の剣が置かれていた。掻き抱くように急いで手に持ち、ほうっと安堵の息をもらした。

 大切な剣。いつからか、武器を腰に携えていないと不安になっていた。

 剣を持ったまま、窓の外に再び目をやる。曇りがかった窓から見える外は、見覚えのある風景だった。


「ヴァイス?」


 その言葉には以前のような憎しみはこもっておらず、新たに芽生えた感情にあふれていた。

 凍り付いた平原、木々。生き物の気配がしない。まるで時間も凍り付いたかのように、笛のような風の音だけが響いている。


「そうか、私は――」


 意識が落ちる寸前に見た、あの赤い光景が蘇る。

 微笑む人に、驕る人。侮蔑の視線に、それを切り裂く最期の救い。

 彼は、何故私を庇ったのだろうか。


 起こったこと全てが異質で、不安でしかなかった。体が震えるのは、この寒さのせいだろうか。人が死ぬ場面はもう何度も見た筈なのに、リリーは恐怖に心が押しつぶされそうだった。心の闇に、屍が立つ。恨むような瞳で、リリーを見つめる。


「もう起き上がって平気なのか?」


 ふいの声に、リリーはびくりと跳ね上がる。目をやると、眠っていたはずのヒルはしっかりと目を開けてリリーを見ている。ベッドに頬杖をつき、微笑みながら。


「……起きていたの?」


「一応伝えるだけだが、着替えをさせたのは俺じゃない。この屋敷の女性だ」


 リリーは独り言を聞かれていたことで微かに赤くなり、ふいっと顔を背けた。ヒルはそれを気にするでもなく、ゆっくり体を起こすと、立ち上がって肩をならした。


「よく寝ていたな」


「よく?」


「ああ、二日ほど」


「二日!?」


 リリーは驚いて目を丸くした。部屋の掛け時計を見ると、八時を指していた。


「ヴァイスは朝も夜もあまり変わらないから分かりにくいだろう。暗いしな」


 リリーは剣を抱きながら後退る。そんな優しい声で語り掛けないでほしいと訴えるように、目を細める。


「何を考えているんだ?」


 ヒルが問い掛けると、リリーは視線を合わすものの、何か気まずそうに口籠もる。


「無理して喋る必要はないが、何かあるならどうぞ」


 ヒルはそう言いながらくすくすと笑っている。リリーはムッと顔をしかめた。


「私がお前たちと同じ悪魔だって、最初から知っていたの?」


 するとヒルはぴたりと笑うのをやめ、真面目な顔つきでこう言った。


「お前は、俺たちの王の子だ」


 ヒルは、すべてを見通しているように澄んだ瞳をしていた。リリーは困惑しながらも、真実を自ら口にした。


「人ではないのね」


 拳を胸の前で軽く握る。ヒルは黙って頷いた。


「ああ、お前は人と寿命も、生まれ持った力も違う。この国の、純粋なヴァイスの民だ」


 はっきりと言い放つヒル。証拠などなくとも、リリーの感覚がそれを裏付ける。

 真実を識った後のここヴァイスの空気は、なんとも懐かしい香に満ちているのだ。

 泣き叫んで否定しようが、今まで聖騎士として同胞を殺し続けていたことを悔やもうが、リリーは間違いなく、ヴァイスの民なのだ。


「じゃあ……」


 リリーは自身の瞳を手でそっとおさえる。


「セイレは、私の姉さんではないのか」


 ぽつりと、消え入るような震えた声で言った。


「お前の頭にある疑問の答えは少しずつ話していくから、今はとりあえず傷を治すことに専念しろ、な」


 ヒルは優しく語り掛けると、歩み寄りリリーの肩にポンと手を置いた。


「……わかった」


「案外冷静だな」


「意味の無いことはしない」


 リリーはヒルの言うとおり冷静にぴしゃりと言い返したが、本当のところは定かではない。


「そうだ、ライザーたちに知らせてくる」


 ヒルは手をぽんとたたき、いそいそと扉に手を掛けた。


「ライザー?」


 リリーはあからさまに嫌そうな顔をした。するとヒルは意地悪い笑みをうかべて言った。


「ここはあいつの屋敷だ。世話になってるんだから、あいつには礼ぐらい言え」


「私があの男に礼を!?」


 リリーが嫌がるのも無理はない。あの時ライザーはリリーを縛り上げ、足蹴にし、屈辱的な言葉を吐きかけたのだから。


「あいつはあの時、お前がリリーだって知らなかったからだよ。知ってたらあんなことはしない。とにかく呼んでくるから、逃げるなよ」


 ヒルはリリーの思考を予測し、釘を刺しつつ出ていった。かと思うと顔だけ扉からのぞかせ、壁ぎわを指を差す。


「そこに新しい服がかかっている。ヴァイス仕立てだから気に入るかはわからんけどな」


「私が着ていた服は……」


「ああ、あれじゃあもう着れないだろ。あと薄着すぎる」


 ヒルはそう言うと部屋を後にした。彼の足音が聞こえなくなるのを確認すると、リリーはおそるおそるクローゼットに手を掛けた。ギィッと音がして、クローゼットの扉が開く。

 中のハンガーには、真新しい衣服がきちんとかけられていた。短いスカートに胸元のはだけたデザインを見て、これも薄着じゃないのかと首を傾げる。触ると、あきらかに聖王国製の衣服の材質とは違うのが分かった。

 リリーは、二日前まで聖騎士の紋章が在った箇所を触りながら、ため息をついた。


「ヴァイスの服、これを着ると……ヴァイスの民になるのかな」


 一言そう言うと、リリーは扉に内鍵をかけ、何かを振り切るように早々と着替え始めた。



 * * *



「や~! ヒル君! リリーちゃんの目が覚めたって?」


 レオンは嬉しそうに目を輝かせた。わくわくとした様子を隠すこともなく、肩をすくめる。


「……で、あいつどうなんだ?」


 続けて、ライザーもヒルを見ながら言う。三人はヒルを真ん中に据え、リリーがいる部屋へと続く廊下を歩いていた。


「表面は、冷静だったがな」


「表面……」


 ライザーは、チッと舌打ちをした。


「あいつなりに今必死に頭の中で自分に言い聞かせてるだろうよ」


 ヒルは、あまり心配した様子もなく答える。


「リリーちゃんはまだ幼いデスからねぇ~。えっと……、何歳デシたっけ? ま、目が覚めたばっかりだし、仕方ないデショ」


 そうして三人がリリーの部屋の前まで着くと、ヒルが一歩歩み出て、軽くノックをした。


「はい」


 中から、リリーが小さく返事する声が聞こえた。


「ヒルだ。入るぞ」


「分かった」


 ヒルは返事を確認すると、ノブを回し扉を開けた。


「リリー、ライザーたちを連れてき──」


「ああ」


 リリーは、ゆっくりと、三人が立ち尽くす方に向かって振り返った。その姿に、三人の男は言葉を失った。

 血と泥汚れが消えた大きな翡翠の瞳は、まるで宝石のようだった。髪も綺麗に梳かし、蒼銀に光っている。泥くささの抜けた彼女に、三人は呆然としていた。


「……包帯が引っかかってうまく着れなかった。でも、痛みが大分マシな気がする。誰がしてくれたの」


 じっと見つめられ気恥ずかしくなったのか、リリーはまぎらわすようにそう言いいながら毛先をいじる。

 驚いていたヒルだったが、端的に質問に答えた。


「傷は、レオンが」


「やぁ~! ちゃんとしたら可愛くなるもんデスねリリーちゃん! 二日前は、血と泥ですんごい汚かったケド!」


 割り込んでレオンが陽気に答えると、リリーはむっと彼を睨みつけた。


「誰だお前は」


「ああ、俺はお医者さんのレオン。レオン・ブラックロウザ、デス。初めマシて」


 レオンはリリーに歩み寄りながら左手を差出し握手を求めた。

 あっけらかんとしたその明るい雰囲気にリリーはほだされたのか、素直に手を差し出しそれを握った。


「医者なのか。じゃあ、お前が手当てを? ……ありがとう」


 リリーが手を握り返すと、レオンは満面の笑みで応える。


「ライザー君のついでデシたし、君の力が覚醒してたから、治療は大した事してないデスよ」


「力?」


「ハイ。君が本来持つ力が、その傷の治りを良くしているんデス」


 言われていることが、リリーにはよく分からなかった。傷を治すなんて魔導術は聞いたことがないし、自分がそんな呪文を知っているわけでもない。

 考え込んでいると、レオンの後ろで居心地を悪そうにしている灰色の瞳と目が合った。


「お前は……」


「……よぉ」


 ライザーが、なんとも気まずそうに声をかける。目付きが悪いのは生まれ付きか、こちらを睨んでいるように見える。リリーは驚くでもなく、ただ冷ややかな目線を返す。


「あれ? ライザー君はリリーちゃんとお知り合いデシたっけ?」


 レオンが不思議そうに尋ねると、ヒルが含み笑いをしながら答える。


「ナンパ、したんだよな?」


「ばっ、ちげえよ!!」


「はあ~? 駄目デスよ~相手見なきゃ」


「っせえな! 分かるわけねえだろ! なんかクソ生意気だしよ!」


「でもこうして見ると、すごく似てるデショ? 特に、お母上の方に」


 母という言葉にリリーの胸が高鳴る。そうだ、この者達は自分の「本当の父親と母親」を知っているのだ。


「まあ……そう言われてみりゃ確かに……そっくりだけど。すげー懐かしい顔っつうか」


 ライザーはバツが悪そうに視線を落とす。

 が、まだ冷ややかにこちらを見るリリーに気付くと、苛立ったように髪をかきあげた。


「あ、あんときは……、なんだ、その。……痛かっただろ」


「痛いだけだと思うか。下は凍土だったのよ」


「だからあれは! 俺だって……お前って分かってたらしねえし!」


 不器用に謝るライザーを見て、ヒルとレオンの両名はますます笑いだし、口を押さえ吹き出している。


「笑うなコラ!!」


 ライザーは憤慨して二人に再び怒鳴り付けたが、それを見ていたリリーも、僅かに口端を上げ、気付かれないように笑った。


「チッ。んで、元気になったんだなお前は」


「おかげさまで……一応は」


 リリーはつい口籠もる。だが、ヒルが無言に「礼を言え」と促してくる。

 確かに、手当てをしてもらい、服までもらった。礼を言うのはたやすいが、今まで敵だと思っていた相手にいきなり心を開けるはずもない。

 黙りこくっていると、見兼ねたヒルが言葉を発した。


「さて、色々話さなければいけないこともあるし、どうだ? 食事をしながらでも」


「さーんせい~。俺お腹へって死にそうデスよ~」


 レオンはわざとらしく力なく答えると、体を伸ばしながら扉に向かう。


「リリー、お前も食べるだろ?」


 ヒルが問い掛けると、リリーはまごついたが小さく返事をした。


「ああ……うん」


「リリーちゃ~ん、暗いデスよ? せっかく故郷に帰ってこれたんだからもっと喜んだら?」


 レオンの言葉に、リリーの胸がちくりと痛む。

 故郷。そうなのだが………私は───。


 頭に浮かぶのは、悪魔だと思って斬り続けてきた「ヴァイスの民」たちの死に間際の苦悶の顔。確かに、人ならざるおぞましいものが大半だったが。

 彼らと違わぬ姿の悪魔もいた。


 それは、楔となって心に残っている。

 はたして、知らなかったで済まされるだろうか。そんなに簡単に、割り切れるわけがない。

 冷静なふりをしてはいたものの、彼らといるとますます浮き彫りになってくる自分がした大罪。


「故郷、などと呼ぶ資格はないと思う」


「馬鹿じゃねえの」


 すかさずライザーが放った言葉に、リリーが驚いた顔をする。


「資格とかどうとかしょうもねえこと考えてんなよ。わりと湿っぽいなお前」


「ライザー。その言い方はよくないぞ」


 ヒルがじとっと呆れ顔でライザーを見たが、彼は眉をひそめしかめっ面をリリーに向けていた。


「いいや。馬鹿だ、テメェは」


「お前に馬鹿にされるいわれはない!」


「馬鹿だから馬鹿っつったんだ。さっさと飯食いにいくぞ!」


 リリーの反論虚しく、ライザーはたたみかけるように言うと、扉を開けて機嫌悪そうに先に出ていってしまった。


「なんなんだ!?」


 リリーはわけがわからず、憤慨した。


「……言葉足らずな奴だな」


 ヒルはため息混じりにそう言うと、同じく彼の後を追った。


「リリーちゃん~行きマスよ~?」


 レオンが、体をひねらせリリーを急かす。納得のいかないリリーはやはり躊躇ったたが、このままここにいても仕方がないので三人の後を追った。

 ライザーの屋敷は、凍土に建っているとは思えないほど、豪華な屋敷だった。霜に隠れた壁は暖かい色味の煉瓦で作られており、窓も長く大きく、贅を凝らした作りだ。

 幾重にも連なった塔の頂には、今は仕事を無くした風見鶏が佇んでいる。

 外の寒さなど忘れそうなくらいに、ふわりとヒールが沈む絨毯の上を歩きながら、リリーは改めて、彼らの生活を見直した。

 建物も、習慣も、人間の世界となんら変わりが無い。少しおかしなところといえば、やけに露出の多いこの衣服だけだ。


「寒くないか?」


 ヒルが、リリーに声をかける。

 背の高い彼と目を合わせるには、かなり顔を上向けにしなければならない。

 少しの距離を置いてぐっと顔を上に向けると、そこには優しい面差しでこちらを見るヒルがいた。


「薄着だと言いながらこの服は一体何なんだ」


 何故か赤くなりながら言うリリーに、ヒルは笑う。


「前の服よりマシだろう。ちゃんとこうして、腕も隠せている」


 言葉の端々に、自分を気遣うこの男の心が伺えた。考えていることすべて見透かしたような顔でいるヒルという男に、リリーは妙に生温いような、くすぐったいような感情を抱かずにはいられなかった。

 暫く歩いた後、リリーが案内されたのは、大きな食事場所だった。

 軽く見て十人座れそうな長いテーブルには、燭台や花が並ぶ。銀のナイフとフォークが規則正しく配置され、磨かれた真白い皿に、シャンデリアの光が跳ねる。

 すぐに若いメイドが二人ほど現れ、いそいそと料理を運び始めた。終わると壁ぎわにきちんと整列した。


「遠慮なく食べろ」


 そう言われても、こんなにたくさんのフォークとナイフを扱ったことのないリリーは少し戸惑う。むう、と考え込んでいると、レオンがさっと手を上げた。


「気にしないで食べてクダサイ。豪華なごはん久しぶりなんで俺も適当に食べたいデス~」


「嘘つけ! 何かっつうと食ってただろーがお前は!」


「あれれ、そうデシたっけ~」


 ライザーにふざけた返事をし、レオンはパンを手に取った。食べれればいいと、リリーに軽くウインクをして見せる。

 パンにスープ、前菜。どれも暖かく、香しい。腹が鳴りそうなのを必死に我慢して、リリーはそっとスープを飲んだ。慣れないスプーンで飲むスープは、まろやかで。一気に体を温めてくれた。

 レオンとライザーが美味そうに食事をする横で、ヒルは黙って酒のようなものを飲んでいる。

 テーブルには焼きたてのパン以外に、肉や魚の料理が並べられた。

 こんな極寒の地には似付かわしくない豊富な食材を用いた料理に、リリーはただ驚いていた。

 するとレオンは、焼きたてのパンが入った籠をリリーに差し出しながら言った。


「リリーちゃん。君はまだ特にしっかり食べてクダサイね」


「私は……」


「食べておけ。ここの料理は美味いぞ」


 ヒルがさらに促す。


「そうそう。ヒル君の言うとおり。それに君それだいぶ痩せてるデショ? もうちょっとふっくらしてもらわないと抱き心地ってもんが」


 レオンが言い終わる前にヒルが瞬時に投げた二つのフォークが彼を狙った。

 ひとつは頬をかすめ、もうひとつは確実に顔を狙ってきたのでレオンは目の前の小皿でそれを防いだ。


「何するんデスか眼鏡割れるところデシたよ!」


「黙って食え」


「ハーイはーいはい」


 カチャカチャという、料理を口に運ぶ音だけが響く。食卓は一気に静まり返ったが、ヒルが再び口を開いた。


「リリー、お前バロンからどんな話を聞いた?」


「えっ」


 グラスを口に付けようとしていたリリーは、動きを止めた。少し考えると、たどたどしく答えた。


「ヴァイスの民が、保身の為に私を人間に差し出したと……」


 三人の男はぴたりと動きを止めた。皆、深刻な顔つきで黙り込む。


「私は何か間違ったことを言ったの?」


 それを見たリリーがいささか不安げに尋ねると、ライザーが手に持っていたフォークとナイフを皿に置き、ふうと息をついた。


「間違っちゃいねーけど、間違ってる」


「は?」


「ちょっと意味が違うってことデスよ~」


 レオンが水を口にしながら補足する。ヒルは顎に手を添え、どう説明するべきか考えた後、こう言った。


「俺たちと人間の間に起こった戦争は知ってるよな? アーリア聖暦でいうと、3040年あたりか。ちょうどお前が生まれる前の話だ」


 リリーは軽く頷く。


「あの戦争ね~ほんっと醜悪デシたよあれ」


 レオンが頬杖をつきながら言う。

 ヒルは真面目な顔になり、淡々と語り始めた。


「もう何度目かになる俺たちと人間の大きな衝突だったんが、あの時の戦争だけは違った」


「何がだ?」


 リリーが問うと、ヒルが答える前にライザーが怒りと共に口を開く。


「人間が、ヴァイスの女ばっかりを連れ去ったんだよ」


 ヒルが、続きを代弁するかのように懇々と語りだした。


「───当時、ヴァイス王国は劣勢にあった」


 他国と流通を持たない国が大国と長きに渡り対等に戦える筈も無く、その機会を狙ったかのように、ヴァイスの前線にいた女性兵士を何人も連れ去りどこかへと幽閉した。


「捕虜をとられての戦いがうまくいく筈もないだろう?」


 ヒルは、語りながら瞳を細める。

 それから何度も救出部隊がリュシアナに赴いたが、女達が幽閉されている場所も分からず、救出はことごとく失敗に終わった。

 友好国を持たないヴァイスに援軍が来るはずもなく、更に厳しい戦いを強いられていた。


「王、前線部隊は全滅です。歩兵部隊も劣勢。敵にはこちらの魔導術を学んだ兵が配置されている模様。このままでは!」


 当時の歩兵部隊総隊長は、そう言って強く唇を噛んだ。

 そんな彼を落ち着かせるかのように、王は優しい声をかける。


「臆するな。後続部隊をリュシアナの国境に送れ。それと……ドラフェシルトのヒルをここへ」


「控えております、陛下」


 当時のヒルの容姿は今と変わり無く、緋色の瞳が輝いている。


「分かっております。俺がリュシアナに潜入します。俺一人ならば、彼女達を助けることができます」


「馬鹿をいうな。今お前に死なれては困る」


「しかし! このままでは!」


「お前を呼んだのは、そういうことではない」


 王の座る玉座の横には、彼が愛してやまない美しい王妃がいた。そのとき既に、腹の中には今にも産まれそうな赤子、つまりリリーがいた。

 わけが分からないといった様子のヒルに、王は続けてこう言った。


「書状が届いた。リュシアナから、バロンの名でな」


 王が持っていたのは封書。術が施され、念じると空中に文字が浮かんだ。

 そこに書かれていたのは。


「王妃を差し出せ……人質と交換だと!? 何をふざけたことを!」


「落ち着けヒル」


「しかし!!」


「わかっている」


「やはり俺が征きます! この命に代えても皆を、マイアたちを助けます!!」


 頭に血が上ったヒルは、いきりたってその場から駆け出そうとした。そんなヒルを止めたのは、王妃の、女神のように優しい声だった。


「待ってヒル。あなたが行ってしまえば、ヴァイスの地を守る部隊を指揮するものがいなくなります」


「ユティリア王妃……ですが!」


「彼らの狙いはこの子に受け継がれし力と、私自身だと思います」


 王妃はそっと自身の腹部に手を遣った。王もヒルも、何も言えなかった。


「心配いりません。王と、貴方と、貴方の父親さえ生きていれば、稀なる血が失われることはありません。私の役目を引き継ぐ者はまだいます」


 王妃に恐怖は無いのか、こんな状況でも花のように微笑む。


「ですが、捕われた女性達には皆、家族や恋人がいます。私は民を統べる者として、民の犠牲の上で得た勝利など望んではいない」


 彼女の瞳は真剣で、傍らにいた王も、頭を抱えたまま王妃を見ようとはしなかった。

 その腕にはめられた蒼い宝玉が飾られた腕輪が光るのをちらりと見ると、王妃は視線を落とした。


「私が行くことで、彼らは停戦の話し合いにも応じるとしている。ならば、行かない理由はありません」


「しかしッ…………」


「分かって、ヒル。バロンも私には手を出さないでしょう。彼が望むのは別のところにあるはずだから」


 それから王妃は、微笑んだまま、静かに王妃の証である冠を外した。


「私の陛下。大好きなジオリオ」


「ユティリア……」


「私はこの役目を果たすために生きてきた。私は、王妃なれば」


 ヴァイスの王ジオリオは、何も言えなかった。差し出した手で、抱きしめることしかできなかった。


「彼にもよろしく伝えてね」


 王妃で無くなった王妃は、長く艷めいた空色の髪を揺らし、ヒルに向き直る。


「ヒル」


「は……い」


「この子がもし未来で貴方に会えたなら、優しくしてあげてね」


「ユティリア様……っ」


 その言葉を最後に、王妃は、ヴァイスを離れた。

 今思えば、バロンが汲み上げている計画のただの破片でしかない戦争だったのかもしれない。王妃を引き渡すと、聖王国は約束どおり、生きている女たちを返してきた。

 ひどく弱っていたが、ほとんどの皆は無事だった。

 だがリュシアナは裏切った。彼の地より大魔法が放たれて、大地が凍り付いてしまったのだ。命は止まり、大地は閉じ込められた。これにより、ヴァイスは完全に沈黙した。


 ──それから少しして、王妃が死んだという知らせがきた。

 自害したのか、殺されたのかは分からない。王も、ヒルも、民達も、歯を食い縛り耐えるしかなかった。

 王妃の忘れ形見であるリリーが、人間の子として育てられているらしいとヒル達が知ったのは、十四年前のアストレイアとの戦いの時だった。

 ヒル達は以前より情報をつかんではいたが、セイレの証言によりそれは確信に変わった。

 だが王もまた、その身に宿った『力』が弱っていたのが発端となり、セイレが発ってからまもなく、その力と共に、死んだ。

 そこまで話すと、ヒルはリリーの様子がおかしいことに気付き、声をかけた。


「大丈夫か?」


「……う……うん」


 返事は、ひどく小さかった。唇が色を無くし、額に汗が滲んでいる。


「ま、親だと思ってた相手は血が繋がってなくて、ホントの両親は~? って言ったら『もう死んでます』デスしねぇ」


 レオンの心ない言葉に憤慨したのはライザーだった。席を立つと、横にいるレオンの胸ぐらを掴みあげる。


「お前なあ!」


「事実デス」


 レオンは横目でリリーを見る。目が合うと、リリーは少したじろいだ。


「リリーちゃんだって、今の話で理解できマシたよね?」


「経緯は……わかった」


「いやいやそこじゃなくって。ヴァイスの王の血族ってね、今はもう君しかいないんデスよ」


 リリーの顔つきが変わった。無表情で冷静な彼女らしくなく、汗が一筋頬をつたい、目の奥が揺れている。


「わ、私が……」


「レオン、それはこれからゆっくり話すつもりだったんだが」


「ヒル君は甘いんデスよ。今話そうが、後で話そうが、俺たちが彼女に求めているのはそういうことデショ」


 レオンは、その目にかけていた眼鏡を外し、音を立ててテーブルに置いた。


「向こうはリリーちゃんがこっちに来たことで、事を急ぐデショ。徹底的に叩きたい筈デスからね」


 ちら、とヒルを見る。


「ヒル君が生きてることだって向こうにとっちゃ誤算の筈デスよ」


 王族? 導けだと?

 本当の両親の死を知ったばかりの私に何を言うんだ。

 もう、何を信じればいいかわからない私に何を。

 まるで遠い世界だった話が、いつのまにか私を中心に動きだしている。こんな世界、知らない。

 私は一体、これからどうすればいいんだ…………?


 道が分かれて、一体どの道が正しいのか分からなくなった時、『決められた自由のない人生』に嫌悪していた自分が、何の経験もない浅はかな子供だったということに初めてリリーは気付いた。

 リリーの落胆ぶりを見たライザーが、いたたまれず声を上げた。


「もういいだろ! 目が覚めたばっかで言うことでもねえよ!」


「ライザー君だって、あの戦争がきっかけでしょ? だって帰ってこなかったじゃないデスか、あの子は――」


「もうやめろレオン」


 ヒルはうんざりとした顔できつく言うと、二人は離れ落ち着いて席に着いた。


「部屋に……戻ってもいい……?」


 リリーは一言そういうと、食堂から足早に退室した。


「リリー……」


 すぐさま、ヒルが後を追いかける。

 食堂の扉が世話しなく開閉するのを聞きながら、ライザーはレオンを睨んだ。


「お前のせいだレオン!」


「おや、心折れちゃいマシたか」


「折りにいったんだろうがよ!」


「そんなつもりはなかったんデスけど」


 レオンは頭に手をやりながら、何事もなかったかのように食事を続ける。


「テメエの言いたい事は分かってんだよ! でもまだ酷だろうが!」


「別に俺だって、大事なリリーちゃんを泣かせたいわけじゃないデスよ」


「だったらなんで!」


「俺の本来の立場は、優しく慰める為だけにあるもんじゃないからデスよ。アッハハ」


 あっけらかんと笑うレオンに反して、食堂は思い雰囲気に包まれた。

 なんとも言いがたい空気の中、一人の女性がレオンに近づく。

 栗色の髪に、優しい目尻をしたそのメイドは、水差しを持ちながら言った。


「相手は、何も知らなかった女の子ですよ。分かってます?」


「……君に言われると辛いものがありマスねえ」


 丸い泡を立てて注がれる水に、レオンの顔が歪んで映った。



 * * *



 部屋に戻ったリリーは、再びあの白いベッドに横たわっていた。両手を天井に伸ばしじっと見つめていた。頭のなかを整理しているのか、目は虚ろだった。

 視界に映る白い指先は、人間とほとんど変わらない。


「聖騎士だったのが一変して、ヴァイスの王族…………」


 リリーの呟きは部屋に響いて消えた。

 今は、何も考えたくはない。

 が、その思考を遮断するように、外からノックの音が聞こえた。


「リリー、いるか?」


 リリーは、思わず勢いよく起き上がる。

 誰と聞くまでもなく、声の主が分かった。


「あ、の。いるけど……」


 上ずった声で返事をすると、扉の向こうで笑みが零れたのが分かった。

 むっとした表情でいると、部屋の扉が静かに開いた。


「ああ、良かった。泣いてはいないな」


「泣くわけないだろ!」


「そうか。一応、心配で来たんだが」


 ヒルはそのまま部屋の中へと歩み、リリーが座るベッドの横へと腰掛けた。

 大きな体がベッドに沈むと、リリーはすぐにバランスを崩した。

 よろついて、ヒルの右側の肩に頭がぶつかる。


「おっと」


 優しく支えられ、リリーの身体は元の体勢に戻る。

 想像よりも大きな手の平に、リリーは唖然とした。

 今まで色んな男性と接する機会はあったものの、この男のように大きい人物はそうそう見たことがなかった。

 驚いた顔で見ていると、ヒルは首を傾げた。


「ん、大分色んな表情をするようになったな」


「え」


「今は何をそんなに驚いていたんだ?」


「別に……、ただ、ちょっと近いから」


 そう言いながら、リリーはヒルから少し距離を取る。

 肩が、所在なさそうに小さくなった。そうして俯いたまま、こちらを見ようとしない。

 ヒルは、口の端に笑みを浮かべた。


「さっきのことだがな。あまり気にしないでくれ」


 ヒルは、息を吐きながら、体を前屈みにする。


「レオンは、立場上厳しくならざるをえないんだ」


「……あの男は、医者でしょう?」


「医者だが、まあ、色々と」


「あんな風に頭から言われるのはあまり好きじゃない」


「そうだな。俺もそれは好きじゃない」


 すんなりと肯定したヒルに、リリーはやっとその視線を合わせた。


「私は、お前たちの王になるべきなのか」


 真っ直ぐな瞳で、問いかける。

 ヒルは、それを包むような優しい顔で、頭を撫でた。


「これからどうあるべきか、選ぶのはお前だ」


「一国の王になる決断は難しい」


「ああ。だが、別に難しい問題でもないさ」


 頭に置かれていた手が、緩やかに移動する。リリーの指先をなぞり、手の平を握り締めた。

 ヒルは、そのままリリーの手を自身の口元に持っていき、軽く触れさせた。

 突然のことに何事かと戸惑うリリーだったのだが、そんな間も与えずヒルは言葉をかけた。


「今のお前にはそうかもな。だけど、心配ないぞ、リリー。俺がお前を守る者であることは、ずっと変わらないからな」


「な、ちょ、や、やめろ! 何をしているんだお前は!」


 上ずった声で、リリーは手を振り払う。まだ感触の残る手の甲を片手で隠し、身をすくめた。


「馴れ馴れしすぎるぞ、お前は!」


 まるで、懐きかけて警戒を強めた猫のような態度で言うリリーに、ヒルはやはり、笑顔を返した。


「そうか。そうだな。寂しいが確かに、そうだな」


 言いつつも、嬉しそうなヒルの表情は、リリーの胸を打つ。

 何がそんなに嬉しいのだろうかと、聞くことも出来ない。

 口ごもる自分がもどかしくて、顔を背けた。


「お前はおかしい」


「おかしいか?」


 ヒルが、きょとんとして聞き返す。


「もっと……高尚な風に見えたのに……子供みたい!」


 顔だけを向けて、苦し紛れに睨む。

 だがヒルは、また笑った。ひどく嬉しそうな顔で、時折視線をゆっくりと逸らし、またこちらを見る。

 その一連の所作が、リリーにはとても温く見えた。外の、凍てつくような雪景色など気にならないほどに。

 穏やかに揺れる、ベッドサイドのランプ。今は見ることの出来ない夕焼けの色をその身に映しながら、二人の影を扇いでいた。


 その日のヴァイスの夜は、あまりに静かだった。

 雪さえ無ければ、ここはとても静かな世界だ。自分が寝返る音さえも部屋に響き、ひどく孤独を感じる。こんな状況で眠れるわけもなく、リリーは一晩中考え事をしていた。

 今から自分がしなければならないこと。自分が考えなければならないこと。自分が、やりたいと思うこと。その全てが、今までのリリーとは全くの無縁のものだった。

 セイレを探し、悪魔を討伐するという、いわば「作業的」な日々を送っていた彼女には、今更自分の意志を決めることに抵抗があった。

 それも、一国の王として民を導かなければならないという大役だ。

 やるかやらないかを決める前に、「断ればどうなるのだろうか」という、逃げる道ばかりが頭の中を回る。

 無造作に顔を伏せた枕からは、微かに薔薇の香りがした。こんな世界に珍しいと思いながら、瞳を閉じる。香りだけなら、春の世界だ。


「……どうして、こんなに凍りついてしまったのだろう」


 その言葉は、何に向けられたものだったのか。眠りに落ちるまでに、思考に答えが出ることはなかった。


 考えているうちに、朝が訪れた。

 といっても、メイドの一人が朝の訪れを教えてくれたに過ぎない。


「おはようございます」


 そう言って、暖かな湯桶と紅茶を持って入ってきたメイドは、夕べの食事の時にも見かけた気がする。栗色の髪を後ろで編み込んで綺麗に結い上げた、穏やかな雰囲気の女性だ。

 年の頃はリリーよりも上に見えるが、丸い瞳が愛らしい。足首まである長いスカートのメイド服は上品で、白いエプロンにはたっぷりとレースがあしらわれていた。

 メイドは、レースの波を揺らしながら、しずしずと部屋に入り、紅茶や湯桶をベッドサイドの丸いテーブルに置く。金があしらわれた白いそれは、よく丁寧に磨かれていた。

 寝癖を整えながら、リリーが軽く会釈をすると、メイドはゆっくりと口を開いた。


「申し訳ございません。少し水が足りなくて。午後になれば、お風呂を使えると思いますので、お許し下さい」


「え、いや、気にしなくても」


「ああ、でもその傷ではまだ難しいかもしれませんね」


「あ、うん。大丈夫だけど」


「大丈夫なんですか?」


「いや、大丈夫……なのか……これは。えっと」


 無表情を装うとしても、メイドの柔らかな雰囲気に絆される。

 リリーが気まずそうにしていると、メイドはリリーの近くまで歩み寄り、じっと視線を投げてきた。


「リリー様」


 様、などという呼ばれ方に慣れていなかったリリーは、返事を忘れる。

 ぼうっとメイドを見つめ、目を丸くする。

 するとメイドは、先ほど持ってきた紅茶のセットを手に取り、静かに用意を始めた。


「紅茶は、お好きですか?」


 その言葉が、あの時のマティスと重なる。苦い思い出を突っぱねるように、顔を強張らせた。


「紅茶は好きだった。けど、飲むのは……嫌だ」


「どうしてですか?」


「眠らされた。そうやって裏切られた」


 信用もしていなかったくせに、都合の良い言い方だとリリーは我ながらに思った。

 だが、信用しかけていた。それもまた、事実だった。

 悔しさに拳を握り締めていると、ふいに甘い香りが鼻をついた。


「薔薇の紅茶です」


 そう言って、メイドは紅茶を差し出した。

 この人物は、先ほどの自分の言葉を聞いていたのだろうか。

 嫌いだと言ったはずなのに、平然とした顔で紅茶を出してくる。

 怪訝な顔をしていると、メイドはこう言った。


「私の淹れた紅茶も、飲むと眠くなります」


「は……?」


「でも、その代わり、とっても甘くて美味しいんですよ。それはもう、二度寝をしたくなっちゃうくらい。そういう意味で眠くなりますが……やっぱり、飲みませんか?」


 終始、穏やかな笑みを浮かべた彼女は、リリーの心に優しく触れた。

 手前に差し出された紅茶の色は、今まで見たことがないような、薔薇の色。それも、真っ赤な薔薇ではなく、淡いピンクの、透き通る薔薇の色だった。

 湯気の向こうで、微笑む女性。リリーは、おそるおそる尋ねた。


「貴方の、名前は」


「ミリアです。ミリア・ペリドット。この屋敷で、メイドをしています。少し前から」


「ミリア……さん」


「ミリアで結構ですよ。リリー様」


 そっと、ミリアの手から紅茶を取る。

 小さな花柄のカップは、柄が細く、折れてしまいそうだった。

 一口だけ流し込んだ紅茶は、甘い薔薇の香りがした。



 * * *



「おはよー! ございマッス!」


 声高らかに、朝の訪れを屋敷中に宣言したのはレオンだった。

 屋敷の玄関広間で、両手を振り上げて体操をしている。


「朝ー! あっさあさ! 朝デスね!」


 この地では珍しい新緑の髪が、雪などなんのそのといわんばかりに輝いている。

 知的な印象を与える眼鏡が光り、更に大声を上げようとしたところで制止が入った。


「うっせぇんだよレオン! 早起きすぎだろテメエ! 年寄りか!」


 耳を塞ぎながら、二階の階段から現れたのはライザーだった。

 寝ぼけ眼に、隈が浮かんでいる。


「おやライザー君。おはよーございマス」


 先ほどまでの高揚はどこへ行ったのか、一転して落ち着いた声で言うレオンに、ライザーは睨んで答える。


「おはよーじゃねえよ。こっちは寝不足だっつの……」


「あれ~? もしかしてリリーちゃんのこと考えて寝れなかったんデス~?」


「んなわけあるかバカ!」


 ライザーは、欠伸をしつつレオンの横を通り過ぎていく。

 軽く手を振りながら、レオンはそれを見送った。


「さて……と、今日はまずまずのお天気デスねえ」


 レオンは、玄関扉の両側にある、巨大な窓を見つめる。

 よく磨かれたガラスの向こう側は非常に寒そうではあるが、空はさほど暗くはない。

 反射した自身の顔を見つめ、レオンは何やら妖しげな笑みを浮かべた。


「――外へ行く?」


 朝の食事の席、突然の提案にヒルは驚いた顔を見せた。

 提案をしたのは、レオン。妙に上機嫌で、目玉焼きを口に運んでいる。


「ハイ。リリーちゃんを連れて、ちょっとヴァイス国内を見学にでも」


「いやいやいやお前待てよ。見学っつったって、外は雪だぜ?」


 ライザーが言うと、レオンは人差し指を左右に振る。


「バカ言っちゃいけマセンよ。ヴァイスにだって、観光のしがいがある場所くらいたくさんありマス」


「ほとんど凍ってんだろうが」


「そういえば、これだけ凍っているなら、他のヴァイスの民はどうなっているの?」


 リリーが言うと、皆は一様に食事の手を止めた。

 してはいけない質問だったのだろうかと、内心焦るリリーだったが、レオンの明るい声により打ち消された。


「ふっふふ~知りたいデスか~」


 ずい、とレオンがリリーに顔を近づける。直ぐにヒルがその頭を引き離したが、彼は雄弁を続けた。


「このヴァイスには! 実はまだまだたくさんの民の生き残りがいるんデス!」


「そうなのか……?」


「ハイ! 大魔法の影響で、もーそりゃ色んな場所に身を潜めてはいマスけど、たぶんきっとたぶん! 生きてマスよ~」


 本気なのか、冗談なのか分からない口ぶりに、リリーは助けを求めた。

 無意識に視線を送った先では、ヒルが美味しそうに茶を啜っていた。


「最初の大魔法で、王城とほとんどの大地が凍らされた。それから幾度となく行われた魔法攻撃で、人々は各地へと散った。その中でも、攻撃を奇跡的に避けられたのがここライザーの屋敷というわけだ」


 丁寧な説明に、リリーはほっとする。


「じゃあ、あく……ヴァイスの民は健在なのか」


「お前今悪魔って言いかけたろ。ふざけんなよ」


 ライザーの嫌味に、リリーはすぐに反応をする。


「言い間違えただけだ!」


「ハーイハイ、やめナサイ二人とも。ま、そんな中でも実は氷漬けになったままの民もいるんデスよね……」


 レオンが、悲しげに言う。

 すると、ヒルが深刻な声で続けた。


「ああ。我らが王城はまだ、凍ったままだ――……」


 悔いるような横顔が、彼の過去を映し出す。その深い紅の瞳から目が離せないまま、リリーの紅茶は冷めていった。


 朝食を終えたリリーは、屋敷の庭にいた。玄関を出るとすぐに広い庭があり、ところどころに鉄の柵があるものの、今は雪が積もって全容は分からない。庭の中央に据えられた噴水は、枯れてしまって見る影もない。

 見渡すと、アーチの骨組みがあり木のベンチがある。ただし、全て凍り付いており、雪がしんしんと降り積もっていた。雪がなければ、美しい花が咲き乱れていただろうのか。


「寒い…………」


 外は、吹雪いてはいなかったが、きんと張り詰めた空気に積もった雪が肌を凍てつかせる。持たされたコートを深く羽織り、寒さに耐える。


「魔法でこんなこともしてしまえるのか」


 遠くは暗く、近くは白い。空の厚い雲に嘆くように、風見鶏が鉄の鳴き声を上げている。


「昔はこの庭の花壇が好きデシて。よく昼寝にきマシたよ」


 リリーが振り向くと、そこにはレオンがいた。


「レオン」


「ハイ、レオンデス」


 レオンはにっと笑ったが、すぐに手足をぶるぶるとわざとらしく震え上がらせてみせた。


「いや~寒いデスね! 出かけるって言ったことちょっと後悔してマス」


「やめてもいいと思うけど……」


「いえいえ、言い出しっぺは約束を守りマスよ。さって、出発しマスかね」


 そう言ったレオンが用意したのは、二頭の馬だった。一頭は葦毛、もう一頭は月毛の馬だった。しっかりと鍛えられた体には、もう馬具が取り付けられている。

 こんな立派な馬がどこに居たのかと尋ねる前に、レオンは説明を始めた。


「一応この屋敷にも、色々と工夫がされてマシてね。馬サンたちが寒くないよーに、ちゃあんと温かい馬屋を作ってあるんデスよ。あ、場所は屋敷の裏の方デス」


「……馬に乗って行くの?」


「ハイ。この馬サンたちは雪道でも滑らないもふもふの足をしていマスから、どんな下手っぴさんでも乗れマスよ~」


 不敵な笑みを浮かべるレオンに、リリーはむっとした声で返す。


「で、どこに行くんだ」


「まずは、ぶらっと平原を流しマスか」


 月毛の馬に乗ったリリーは、レオンに続いて平原へ躍り出た。防寒対策をしているとはいえ、さすがにこの地は寒い。雪が弱く、雲が比較的薄いことが幸いだとレオンは言う。

 レオンは時折後ろを振り返り、馬を進めて行く。まるで子供扱いをしてくるこの男に、リリーは嫌な気を感じていた。


「どうデスー広いデショー」


 楽しそうに馬を走らせながら、レオンが言う。


「ここから西の海岸に行くとリーリエ。北へ行くとリアン。南に戻ると大運河がありマス」


「都市は全部でいくつあるの?」


「領主がいる場所が五つ。その他に、小さな村が集落も合わせて二十ほど。大体凍ってマス」


 見渡すも、都市や村などの気配はない。つまり、それほどまでにこの平原は広いということだ。

 寒さに鼻を赤くしながら、リリーは彼方を見つめた。

 広く、大きな大平原。閉ざされた時間の中で、雪に眠る都市たち。

 人間が手を出すまでは、常春の光景が在ったであろう、民の国だった。


「……静か」


 呟いた言葉すら、冷気に飲まれる。

 それでも、永久凍土のように思えないのは、ここが自分の故郷だと思うが故だろうか。


「大平原には、光蘭珠(こうらんじゅ)っていう珍しい花がたくさん咲くんデスよ。花の中心に綺麗な宝石を孕む花デス。取引をすれば高く売れたりしマシたね」


「それが資源か」


「鉱山資源もありマスよ?」


 馬を並べて、レオンは言う。


「でも、今は全部凍っちゃって、なんにも見えマセン。音だって届かない」


「レオン……」


「おや、湿っぽくなっちゃいマシた? ふふーん、じゃあ次行きマショ次!」


 ローブを翻し、レオンは馬の向きを変える。

 豹豹とした笑顔の奥に見える悲しみが、風を伝って聞こえた。


「土地の大きさに限っていうなら、ここは他国に負けてはいないんデスよ。広いと管理や維持が大変なのはそりゃそうだって感じデスが、まあ資源だってあるし。更に北の大地にも地続きデス。航行手段がないのが痛いところデスが……それでも、豊かで明るい国デシたよ。国民はみんな音楽や観劇が大好きデシたし」


「芸術的なことが好きなの?」


「ハイ。特に君のお父上とお母上、国王ジオリオ・アシュトレート陛下と、王妃ユティリア殿下は、暇が出来たらローザリンデの大歌劇場まで足を運んでマシた。ほら、あそこにうっすらと見えるのがそうデス」


 レオンが指差した方向には、霞むような儚さで佇む巨大な建造物があった。聖堂のようにも見えるそれは、ひとつながりの外壁に覆われている。

 相当距離はあるだろうに、それでもこの大きさなのだから、きっと近づけば見上げることすら困難だろう。


「すごい……」


「デショ。あとね、オススメはリアンの水路! 街の中には細い水路がたくさんあって、そこに可愛い花を流すんデスよ~。綺麗なお魚サンを入れたりね! みんな自分の椅子を持ってきて、それを見ながらまったりするんデス」


「へえ……」


 興味があったのか、リリーの頬が僅かに染まる。

 気を良くしたレオンは、続けて語りだした。


「あと大事なことがひとつ。この国には、“竜”がいマス」


「竜? あの竜か?」


「ハイ。でもちょっと普通の竜とは違いマス。俺たちの国にいるのは、王と共にあり、王と共に生きる、すごい竜サンデス」


「……すごい竜がいるから、悪魔と言われるようになったのか?」


「アッハハ! 本当に、確かにそれ一理あるかもデスよ~!」


 手を叩いて、大げさとも言えるほどに笑うレオンに、リリーは首を傾げた。

 今のは、そこまで笑うような会話だっただろうか。


「んで、ヴァイスはその竜に力を貸してもらって、お互いにこの国を守ってきたんデス。でもね、今は王様もいマセンから。その竜サンは行き場所がなくってデスね~」


「主がいないのは寂しいな。竜だって、一人は辛そうだ」


「デショデショ! だからね、ここはほら……って、リリーちゃん?」


 楽しげに話すレオンとは裏腹に、リリーの表情は暗くなっていった。

 唇を噛み締めて、何かに耐えているようだった。


「どうしたんデス?」


「竜が守っていたり、豊かな資源があったり、聞けば聞くほど、本当に紛れも無い“王国”だ」


 吹き抜ける風が、リリーの髪を揺らす。覗く横顔は、葛藤に染まっていた。

 手綱を持つ手に、力が篭る。


「私は……今まで、王族や国や、そんなこと、深く知らないで生きてきた。だから王の子だと言われてもピンとこない。この国の事を知れば知るほど、私は不安になる」


 レオンが言いたいことは分かっていた。だが、何も見えない。

 自分が何者であるかなど、自分自身が分かっていないのに人を導く王になどなれるものだろうか。

 アルフレッドは、こんな道を何食わぬ顔で歩いていたのか。


「――で、俺になんて言ってほしいんデス?」


 それまで黙っていたレオンが、吐き捨てるような声で言った。

 見ると、レオンは口元に笑みを浮かべて、眼鏡を押し上げた。


「あー、勘違いしないでほしいんデスが、別にいいんデスよ。このまま帰ってくれて。んで、俺たちの事を人間の国に報告しとけばまあもしかしたら受け入れてくれるかもしれマセンし」


「馬鹿にしているのか!」


 リリーはレオンに向き直ると、今度はきつく睨む。しかしレオンは臆する様子もなく、見下したような瞳でリリーを見つめ返す。


「そうやって声を荒げれば、相手は合わせてくれるとでも思ってマス?」


「なんだと!」


「はーいはい、落ち着いて落ち着いてリリーちゃん」


 レオンは耳をほじる仕草を見せると、リリーを見据える。


「さてと。俺がさっきまで見せたのは“国”デス。次は、君に“民”を見せてあげマス」


 そう言うとレオンは、またにっこりと妖しい笑みを浮かべた。

 レオンに連れられたリリーは、再びライザーの屋敷に戻ってきた。

 だが、先ほど出て行った玄関扉からは入らず、離れにある塔のような長細い建物の前に進む。

 塔は、屋敷の本館と渡り廊下のようなもので繋がっていた。どちらかといえば重々しい外観の本館とは違い、非常に可愛らしい煉瓦作りの建物だった。

 道中、最初と変わらない声色で、明るく話すレオンが、リリーには信用ならなかった。

 睨まれた時に、悪寒が走った。恐らくあれが、この男の本質なのではないのかと、その後ろ姿を見つめる。

 古い音がして、塔の扉が開いた。中は既に火が灯されており、明るい。


「あーやっぱり、中は暖かいデスねえ」


 鍵をしまいながら、レオンが言う。


「んじゃリリーちゃん、とりあえず俺についてきてね~」


 レオンはリリーの返事を聞かず歩きだす。膨れっ面のリリーは、仕方なく後を追った。


「ここは何」


「まあまあ見てクダサイって」


 レオンは距離の無い回廊を歩き、階段を昇る。途中、壁に幾つもの肖像画がかけられていることにリリーは気付いた。その中には、幸せそうに笑う男の子の絵があった。


「……誰かに似てる」


 不思議そうにそれらを見ながら歩くリリーに、レオンは視線だけを向けた。


「それ、ライザー君デスよ」


「これはあいつか……」


 連続して飾られている肖像画には、今より少し若い容姿のライザーが描かれている。きっちりとした服装が妙に似合わない。

 両側には、大きな体躯の男性と、少しきつそうな顔つきの、だが美しい女性が笑っていた。


「あ……」


 その隣には、ヒルも描かれていた。ライザーとヒルが肩を並べている肖像画だ。


「聞いていい?」


「ハイハイ?」


「ライザーとヒルはどういう関係なの?」


「ヒル君は、当時のヴァイス王国ドラフェシルト。えーと、君たちでいう、近衛部隊の総隊長。ライザー君は、れっきとした王族デスよ」


 それを聞いたリリーはすぐさま質問を返した。


「あいつが王族!? なら…………」


「うん、君とは従兄妹にあたりマスねえ。そこに描かれている怖そうなおじさんが、君のお父さんの弟さんにあたりマス」


 リリーはさすがにショックを隠しきれなかった。あんなやつと自分の血が繋がっているなんて、と顔をしかめる。第一印象が悪かったため、リリーの中でのライザーは、「最低な男」で固定されている。


「といっても、彼もまだまだ子供なので、今は当時軍の副司令官でもあったヒル君が国を取り仕切ってマス」


 レオンは、歩きながら話を続ける。


「なら、ヒルがそのまま国を導けば…………」


 リリーがそう言うと、レオンはぴたりと止まり振り返った。これ以上無い、冷たい顔をして。


「そこなんデスよね~」


「え?」


「俺もそのほうがいいと思うんデスけど。君は今まで人間、しかも聖騎士として育てられてきたわけデスし?」


 再び、リリーの胸がちくりと痛む。まだ全ての事柄に納得がいったわけでもないのに、どうしてこの男はこうも厳しい言葉を投げ付けてくるのだろうか。


「ならそうすればいいだろ?」


 吐き捨てるようにリリーが言うと、彼はふうっとため息を吐きこう言った。


「だから、俺はそうしたいんデスよ。大体、知らなかったとはいえ殺したデショ。“悪魔”を」


 また、胸が痛む。


「なら! さっさと私を罪人として処刑でもなんでもすればいいだろ! お前もそれを望んでるんだろ!!」


 カッとなって叫ぶリリーだったが、次の瞬間、目の前の人物の雰囲気の豹変ぶりに体が凍り付いた。


「自分のわかんないことになると怒るのは、リリーちゃんの癖みたいなもんデスかねえ」


 レオンは眼鏡の奥の目をきつく細め、なんともいえない殺伐とした空気を放っていた。

 そのままレオンはリリーの眼前数センチまで歩み寄り、冷たく見下ろした。


「知った風なこと言わないでください。不愉快です」


 あまりの迫力にリリーはただ黙り込むしかなかった。以前大臣達に生意気な口を聞いていた、冷静で余裕のある彼女の片鱗はどこにも見られない。


「分からないなら見て体験すること~ハイハイこっち!」


 レオンは瞬時に笑顔になり、リリーの手を引く。そのまま強引に、廊下の奥にある部屋へとつれていった。


「離せ!」


 レオンは構うことなく、その部屋の扉を開け、リリーを中に押し入れた。

 真っ暗な室内に、畏怖を覚える。レオンは部屋の壁にある燭台に、懐から取り出したマッチで火を灯す。ぼやっと部屋が明るくなると、リリーの目の前にひとつの大きな絵画が現われた。

 何もない部屋。家具さえもなく、窓もない寂しい場所。だが、壁に飾られた絵には。


「…………私?」


 そこには蒼い髪に、緑の瞳の少女が描かれていた。


「とある女の子が描いたんデスよ」


 絵画に描かれたリリーは十二歳前後だろうか。丁度、聖騎士になる直前ぐらいの。


「なぜ私の絵が…………」


「これを描いた子はユティリア王妃の護衛兵をしていマシてね。いやー明るくて可愛かったなあ」


「そうじゃなくて! 何故……私の……この頃の……」


 リリーは指先でそっとそれに触れてみた。油絵だろう、表面はゴツゴツしていてる。鮮やかな色彩で描かれた幼い自分に、得もしれぬ懐かしさが込み上げてくる。


「想像して描いたんデスって」


 レオンは扉にもたれかかりながら、けだるそうに言った。


「それ描いた人は、君がいつか戻ってくることを願ってたんデスよ」


 リリーは絵画の右下に茶色で書かれたサインを見つけた。「マイア」とアーリア共通言語で書かれている。


「これを描いたマイアちゃんは、ライザー君の妹デス。魔導術が得意で、剣はまあそこそこの腕。みんなと仲良くて、笑うとお花みたいで。でも、連れ去られマシた」


 ライザーの妹であり、そして王妃を誰よりも慕う女性だったマイア。だが、戦争の折、バロンの策略により拉致、監禁されたという。その後、王妃と交換に身柄が開放されるも、何故か大平原で行方不明になった。

 長い捜索の末、彼女はもう帰らぬ人として、判断を下された。当時平原には、彼女が身につけていたペンダントが落ちていたという。


「ライザー君、何日も何日も探し回ってマシた。食べないし、寝ないし。そのうち気絶したんデスけど、でもすぐ起きて探しに行ってマシた」


 それを聞いたリリーは、瞳を歪ませた。


「そんな……」


 リリーは愕然としたまま返す言葉がなかった。正しいと思っていた自分たちがやってきた事が、ここまで残酷に闇を作り出していたとは、思いもしなかった。

 この絵を描いた主は、もうこの世にはいない。その事実が、今どんな戦場の現実よりも、リリーを責めた。


「俺は君に、今から難しいこと言いマスよ。今だけじゃなく、これからずっと」


 レオンはリリーの後ろから語り掛ける。未だ口調は冷たいまま。


「君は、殺してきた者達、死んだ民の意志を背負って生きなきゃいけない道に立っていマス」


 そしてレオンはそのままリリーの頬に手を伸ばすと、すうっと軽く撫でる。リリーは微かに震えていた。


「ああでも、勿論拒むのは自由デス。強制はしマセン。……けど、その先に何があるか、よく考えてクダサイ」


 するとレオンは流れるようにリリーから身を離し、部屋を後にした。

 足音だけがこだまする中、リリーは自分にのしかかってきた重圧に押し潰されそうになっていた。



 * * *



 “お願い! この子を助けて!”


 “私はどうなってもいい! お願い! この子を、どうかこの国の外へ!”


 そう言って請う人は、美しい瞳から幾つもの雫を落としていた。透明で美しいそれは、自分が遠い昔に夢見ていたもの、まさにそれであった。

 だが、戦火は止まらない。救われるべき命と、屠られる命の重さは、平等だった。


「あなたは助けようとした。だから殺されたの……」


 使い古された天蓋に、ランプが揺れる。

 夜の音が忍び寄る森の中で、女性の肢体が影となって映る。


「セイレ……貴方はヴァイスで、一体何をしようとしていたの……」


 囁く森の獣たちは、炎を恐れて近づきはしない。小さな楽園の中、アミーは目を伏せてうずくまった。



 * * *



 幾日かが過ぎた。聖王国軍が、ヴァイスに迫っている。その知らせを聞いたライザーが、血相を変えてヒルたちを叩き起こした。

 アルゲオ山脈のすぐ近くに、黒山の軍隊が迫っているというのだ。


「歩兵大隊と魔導中隊の編成……見える限りではほとんど聖騎士で構成されているようだな」


 ヒルは、ライザーの屋敷の執務室で、机に広げた地図や資料を眺めていた。

 二人は押し黙り、地図や資料をじっと見つめている。

 同じように傍らに立ち地図を眺めていたレオンが、かけているメガネの位置を正しながら真剣な面もちでこう言った。


「なんていうか制圧する気なさそーな編成デスねえ」


「だが数はある。不本意だがあの話を受け入れなければならんようだ」


「いいんデスか~? あいつらは自分達の目的の踏み台に俺らを利用するんデスよ?」


「知っているさ。だが、こちらもタダで踏み台にさせるわけにはいかない」


 不適な笑みを浮かべるヒル。その真意を悟ったのか、レオンは指を鳴らした。


「なるほど」


 ヒルの口は笑っていたが、目は真剣だった。


「今のままの状態だと、やっぱりヒル君が総指揮官をやるんデスか? リリーちゃんは?」


「今はそれどころじゃないだろ。出来る奴がやるまでだ」


「りょーか~い」


 レオンは納得がいかないといった顔のまま軽く敬礼すると、机の資料をまとめ、執務室を後にした。ドアが閉められると、ヒルはまた地図を見つめ、頭の中にこの戦の流れを描き始めた。

 ──が、それはある人物の声によって遮断された。

 その人物は扉をそうっと開け、気まずそうにしながらも、彼のもとに歩み寄ってきた。


「……リリー」


 リリーは少し尻込みをしてみせたが、次の瞬間、ヒルをまっすぐに見上げた。


「今、話せる?」


「食事時も来ないから心配したぞ。構わないが、どうした?」


 リリーは戸惑った様子もなく、はっきりとした口振りで答えた。


「ここでは、外でレオンが立ち聞きをしている。その、出来れば二人で」


 リリーがドアの方を睨むと、レオンは悪びれた様子もなく顔を出し手を振った。


「いやいや、仲間外れは嫌なんデスよ」


「俺も丁度お前に話がある。そうだな……話すには良い場所がある、行こう」


「分かった」


 ヒルは、リリーの横をすり抜け執務室を後にした。リリーもすぐに後を追う。立ち去る二人の背中を見つめていたレオンは、やけに嬉しそうな顔で手を振っていた。


「どこへ行くんだ?」


「着けば分かるさ」


 ヒルとリリーは、屋敷の裏の馬舎に来ていた。

 馬達の様子を確かめながら、一番脚の速そうな馬を選び出し手綱を握る。

 ヒルは馬にまたがると、笑顔で自分の前に乗るように促した。手で、馬の背を軽く叩いている。


「馬ぐらい一人で乗れる」


 かっとなったリリーは、他の馬の手綱をひこうとした。だが、それをやめさせるかのようにヒルは呟いた。


「戦前に無駄に馬の体力を消耗させたくないんだがな。まあ、「リリーちゃんの我が儘」じゃあ仕方ないな」


「そういう言い方はやめろ!」


「じゃあ乗ればいいだろう? それとも、“俺が怖いか?”」


 いつかの台詞を繰り返すヒルに、リリーは歯軋りをした。

 言い合うのも馬鹿らしくなったのか、リリーは手綱から手を離す。満足げに微笑むヒルを睨みつけ、軽くその脚を叩いた。


「お前、性格曲がってると言われないか?」


「いや?」


 リリーは、不本意ながらもヒルの乗る馬にまたがった。手綱を引くヒルからは、ちょうど抱き抱えられるような位置だ。

 響く声が近い。あの時、祈りの塔から助けられた時のように。

 俯いて、出来るだけ体を離そうとしたが、回された手により、体は密着してしまった。


 「落ちるなよ」


 「お前の腕次第だ」


 リリーはなんら表情を変えることなく、前を向いたままだった。


「行くぞ」


 走り出した馬は、風に銀のたてがみをなびかせる。

 二人も背に乗せているにもかかわらず、すぐにスピードがでた。そういえば普通の馬より体が大きい。

 リリーは馬の顔を見ながら、風になびく髪を邪魔そうにおさえていた。


「力強い馬だな」


 リリーがそう言うと、ヒルは前を向いたままさらに馬を速く走らせる。ヴァイスの地の風は氷のように冷たい。地面も雪が積もってはいたが、この馬は滑ることもなく走っている。


「ライザーの屋敷の馬はすべて他種族のものだ。特に北の馬は強い」


 確かに、大地を蹴る蹄の音は地鳴りのようだ。なのに、どっしりと安定していて速い。乗り心地も良い。

 そのまま、どのくらい走っただろうか。背中に感じる人の体温が気恥ずかしく、途中何度も身をよじらせてみたが、その都度、大きな腕がしっかりと自分を支えてくる。

 なるほど、守るという宣言は嘘ではないようだ。少しでも様子がおかしいようなら、いちいち馬を止めて語りかけてくるヒルに、リリーはただただ気恥ずかしさだけを覚えた。

 風の揺れで、紅く長い髪がリリーの肩に落ちた時は、得も知れぬ緊張に胸が躍った。

 そんなリリーの気も知ってか知らいでか、ヒルはただひたすらに、馬を走らせていった。


「着いたぞ」


 長い長い、閉ざされた沈黙の後、ヒルが言葉を発した。

 目の前に、凍り付いた巨大な城が現れた。

 壁も扉も窓も全て凍っている。外から冷気を吹き付けられたのか、中に入ることはできなさそうだ。

 だがこの城、大きいなんてものじゃない。縦にそびえ立つリュシアナの城とは違い、横に大きく広がっている。頑丈な城壁は幾重にも立ち並び、その中には居住区と見られる建物の影も見えた。

 リリーとヒルは、城門の前で馬を降りた。

 降りると、霜が張ったような草の感触が不思議だった。歩くたびに、しゃりっと音を立てる。


「ここがヴァイスの王城だ」


 吐く息が白くなり空中に霧散する。


「王の墓は城の中だ。城同様、氷づけでな」


「そう……」


 あまり興味無さそうに返事をするリリーだったが、瞳の中はなんともいえない切なさに溢れていた。

 もし、私がここで生まれ育っていたなら、どんな風に未来は変わっていたのだろう。


「で、話ってなんだ? ここなら、邪魔は入らない」


 ヒルが、リリーの傍に立つ。

 大きなこの男の影になったリリーは、意を決して言葉を紡いだ。


「……私はあまり喋るのが得意じゃないからうまく言えないかもしれない」


「ん?」


 ヒルは首を傾げると、リリーの次の台詞を待つように腕を組んだ。


「この間、レオンに聞いたんだ。マイアという女性の話を」


 ヒルの眉が、僅かに動く。リリーはその微妙な変化に気づき、少したじろいだ。


「どこまで聞いたんだ?」


「私の未来を……案じて、私が戻ってくるのを待っていた、とも言ってた」


 リリーは唇を噛みしめて視線を落とす。

 ヒルは懐かしむように、語り始めた。


「戦友のような、家族のような、そんな女性だった。マイアは王族の中でも忠誠心が強くて、王妃がお前を妊娠したときの喜びようなんか、半端じゃなかったしな」


「……忠誠」


「王妃とは姉妹のように仲が良かったしな。俺たちといる時間より、王妃や王といる時間の方が長いくらいにな。ははは」


 ヒルは笑って話す。心からの笑顔か、上辺だけなのか。真意が分からないリリーはいたたまれなくなり、ついに叫んだ。


「ヒル!!」


「ん?」


 リリーは拳をギュッと握りしめ、真剣な顔つきでヒルを見つめた。


「私は……、私は本当にお前たちの王の娘なんだな?」


「ああ、間違いない。お前は、ユティリア王妃にうりふたつだ」


「なら、レオンが言ったとおり、私は今まで何も知らずに、異形との見分けもつけず、自分の民を殺してきたということになる」


「リリー……」


「その罪は消えない、だけどそれを背負いながらも民を導く義務がある。けど、その荷は私には重い」


「……ああ」


 ヒルは軽く伏せ目がちになり、少し怪訝そうに返事をした。

 やはりまだ早かったかもしれない――。

 ヒルはリリーが何を言い出すか予測したのか、あきらめたように横を向いた。


「けど!」


 だが、その空気を払拭するように、リリーは声を上げた。迷いのない目でヒルを見つめる。


 ――自分の決意を伝える為に、言葉にして彼に伝えなければ。

 彼はまだ私を試している。疑っている。思わず拳に力が入る。

 さあ、言わなければ。

 あの時に感じた、悲しみは、セイレを失った時と同じだったのだから。


 自分の決意を、しっかりと。


「私は、ヴァイスの王として戦う! 私を受け入れてほしい!」


「……レオンに何か、言われたんだろう」


「それは……その、それもある。けど、私は自分を信じていた人の気持ちを無碍にすることなど出来ない」


 そう思えたのは、レオンからマイアの話を聞いたからだった。リリーはそれを聞くまで、人の「死」というものを現実に感じたことはなかった。セイレが死んだと聞かされた時でさえ、哀しみよりも怒りが勝ったのだ。

 だが、知らないうちに戦争の犠牲になり、自分のために命を落とした者がいる。それを肌で、感じた。


「王の役目がどんなことなんて何も知らない。学も無いし、本当にその、剣しか知らなくて恥ずかしいんだけど……でも、だからといってここで逃げてしまうと私はきっと後悔するて……!」


「本気なのか?」


 ヒルの問いかけに、一度息を止める。そして強く頷いた。


「これは戦争だ。もし、セイレの仇討ちという憎しみのみでそう決意したのならば、お角違いだ」


 ヒルの口調はいつもより厳しくなったが、リリーは即座に答えて見せた。


「例え弱くても、やらなきゃいけない。私は自分が生きてきたことへの責任を果たしたいんだ」


 何も知らない他人から見れば、まるで別人かと思うように、リリーの顔つきは、昨日までの冷めきったものから、揺るぎない決意に満ちたものへとなっていた。


「……わかった」


 ヒルもまた、何かを決意したのだろう。少し嬉しそうに、リリーの足下に膝まづいた。


「ならばこのヒルシュフェルト。ヴァイスの名に於いて、貴女に生涯の誓約と忠誠を誓います。この世界がどのように変わっても、どんな哀しみが貴女を襲おうとも、必ず最期まで側に」


 大きな体を小さくし、ヒルは冷たい大地の上に膝を付けて頭を下げる。

 急に畏まられてしまったせいで、リリーはおろおろと周りを見回した。


「お、おい……」


「ん?」


「何をしてるんだ! いきなり態度を変えられても私は困る!」


「俺はお前を認めた。だからこれからは、『家臣』としてお前に接する」


「言う割に早速『お前』と言っているじゃないか!」


「細かいことは気にするな。さて、じゃあ早速「誓約」するか」


「誓約?」


「竜と王が交わす約束のようなものだ」


 頭を傾げるリリー。なんのことやらさっぱり分からない様子でヒルを見る。


「……レオンもそんなこと言っていたな。ヴァイスを守護する竜がいると」


「その竜を王が誓約することにより、王家は魔術や神術を超越した"力"を手に入れることができる」


「やっぱり普通の竜とは違うのか」


「竜にも色々あるんだよ。人間だって色々いるだろ」


「よくわからないけど、つまりそれと誓約をしなければいいのか」


「そういうことだ」


「なら、その竜はどこにいるんだ? すぐに行かないと」


 するとヒルはその問いかけを聞いていないのか、地面に棒きれで何か陣を描き始めた。どうやら魔法陣のようで、かなり大きさがある。二人分くらいは、余裕でおさまるくらいに。


「ヒル、聞いているのか?」


「ああ、その竜はどこにいるんだ、だろ」


 がりがりと地面に音を立て、魔法陣が完成していく。どこか神秘的なその形、竜の形や人の形を象った箇所が見られる。不思議なことに、その周囲の草や雪が焼けたように溶けている。


「出来た」


「なにが」


 ヒルは棒きれをそこらへんに投げ捨てると、魔法陣の中に入り、リリーに手招きをしている。


「誓約するんだろ?」


「…………は?」


「だから、誓約。本当なら民の前で厳かに行うんだが、今は非常事態だ。簡易的だが我慢しろ」


「話が見えないんだけど」


「もうすぐ見えるさ」


 ヒルは魔法陣からでると、リリーの腕をつかみ無理矢理魔法陣の中に引きずり込んだ。


「はっ!? 待て! まさか…………」


 二人が魔法陣の中に入ると、呼応したかのように地面が淡く蒼い光を放つ。

 それは祈りの塔でリリーが放ったあの光に似ていた。二人は両手を繋いだまま向き合い、そのまま陣の中央に立った。


「昔、俺たちは神に命じられてお前たちを庇護した。世界を平和に導く使徒として」


「じゃあ……お前は……」


「俺は、剏竜ヒルシュフェルト。お前を新しきヴァイスの王として認め、ここに誓約を望む」


 ヒルがそう呟くと光は益々輝きを増し、辺り一面、ヴァイスの空にまで柱状に広がった。リリーがその光に戸惑っていると、ヒルは握った手に力を込めた。


「リリー、誓約を望むか? 今ならまだ、やめられる」


「……やめない」


「いいんだな」


「当たり前だ! 私は、剏竜ヒルシュフェルトとの誓約を望む!」


 リリーの声は高らかに響き、蒼い光はまるで命を持ったかのように粒子状になったり帯状になったりしてリリーとヒルの周りを飛び交い始めた。途端、ヒルの体に変化が起きる。ヒルの背中の部分の衣服が破け去り、黒い紋章がそこから腕や頬に浸食するように浮かび上がった。


「ヒル!?」


 リリーは手を繋いだまま心配そうに声を上げたが、それには至らなかった。蒼い光がヒルの体を包むと、黒い刻印はすうっと消え去った。


「心配ない」


「大丈夫、なのね?」


「ああ。これで俺は……お前の物だ」


 二人を包んでいた光が消え去ろうとしたとき、周りの雰囲気が急速に変わっていくことに、リリーは気がついた。


「なんだ?!」


 蒼い光は優しい春の風のようにリリー達から放射線状に広がり始めた。

 その光に触れると、氷に閉ざされていた城、大地はみるみるうちに躍動し本来の姿を取り戻し始めた。

 視界の端で、魔導術の複雑な文字が硝子のように割れていくのが見える。ぱきり、ぱきりと、まるで雪解けの大地のように。

 それはまるで春の訪れを待ちわびていた花が芽吹くが如く、瞬く間にヴァイスを本来の姿に変えていった。


「ヒル! 何が起こっているの!?」


「自覚がないのか。お前のやっていることだ」


「わ、私が!? 氷がみるみる無くなっていく……魔法なの!?」


「いや。お前が持つ、お前だけの力だ」


「私の…………」


「リリー。お前は間違いなく、ヴァイスの王だ」


 光が一層輝きを増し、閃光のように弾けた。

 暫くして、光が止むと、リリーとヒルはその役割を終えた魔法陣の中心でただ立ち尽くしていた。

 リリーはヒルを見つめたまま、ヒルもまた、リリーを見つめたままで。お互いの手を握り合ったまま、互いの命の鼓動を感じていた。


「全てを元に、戻してくれたんだな」


「私は何も……」


「温かくて、優しい力だ。……人が最も、望んだ力だった」


「まだ、わからない。本当に今のは私がやったの?」


「思いのままに力を操るのは難しいだろうが、すぐ操れるようになるさ」


「……出来るかな」


「ああ」


 ヒルの声は、リリーに落ち着きを与える。

 その声に心を傾けていたリリーだったが、ふとあることに気付いた。

 慌ててヒルの手から逃れ、後ずさった。


「リリー?」


 驚いたヒルはリリーに近寄ろうと手を差し伸べたが、当のリリーは首を左右に振りながら顔を赤らめて、更に後ずさる。


「なるほど。初めてだったかリリー」


「手を繋ぐのが、だ! 変な風に言うな!」


 酷い言われようにも関わらずヒルはくすくすと笑うのみで。リリーはそれを見てさらに憤慨した。


「やっぱり、お前は性格が曲がっている」


「はは、手厳しいな」


「……最悪だ」


 リリーはもう諦めたように言い捨てると、話題を変えるために城を指さした。


「ねえヒル、氷が溶けたなら城に入れるんじゃないか?」


「ああ。今行くか?」


 リリーは城へと足を運びかけたが、何故か立ち止まり背を向け首を振った。


「いや……やっぱり、いい」


「いいのか?」


「まだ、彼の娘である“私”に成っていない」


 そう、今は迫り来る人間の軍をなんとかしなければ。

 感傷に浸るのはまだ早い。王になると決意した以上、もう昔のようなその場だけの突発的な感情は捨てなければ。リリーは静かに目を伏せると、父の眠るであろう城に、しばしの別れを告げた。



 * * *



 同時刻、ライザーと共に屋敷で二人の帰りを待ちわびていたライザーは、異変に気づき窓を開け放った。

 レオンもライザーに重なり合うように窓から体を乗り出した。この光の意味を悟り、驚きを隠せない様子で笑顔になった。


「誓約の光デスねえ!」


「ああ……」


「ライザー君は誓約の相手になれなかったのにねえ。なんでダメだったんデショ。あ、男だから?」


「っせえよ。俺には血統の資格はあっても資格がなかっただけだろ」


 ライザーはそう言うと、背を向け部屋のソファに腰掛けた。


「ライザー君……」


「やっぱり、敵討ちなんていう動機じゃ、認めるはずねえか……」


「望みは救済ってことデスかね」


「ああ」


「ヒル君は、マイアちゃんが殺されても相手を憎まなかったからね~。怒りもしない、泣きもしない。……復讐すらしなかった」


「あん時はなんて冷たい奴だって思ったけど、そうじゃねえんだよな」


 レオンは窓を閉め、緑の大地に生まれ変わっていく故郷を硝子越しに見つめる。そして不意にライザーの頭を思い切りこづいた。


「ってえ! なにすんだクソが!」


「これから忙しくなるんデスからしっかりしてクダサイ」


「殴ることねえだろが!」


 頭を押さえながら凄むライザーに向けて、レオンはにっと悪戯な笑顔を見せこう言った。


「君はリリーちゃん同じく、この国に必要な人なんデスから」


「……わあってるよ」


 うつむいたライザーは、どことなく嬉しそうにも見えた。レオンはそれに気づいていたが、あえて触れず、伊達眼鏡をくいとあげると、伸びをしつつ部屋を後にした。



 * * *


 その頃、悪魔殲滅作戦の為に編成された部隊は、アルゲオ山脈に近いティタニアという街に集結していた。

 大きく栄えたその街は、戦いを前にした兵士や聖騎士で溢れかえっていた。ほとんどが街の外に陣営を張っているが、部隊の指揮官達は街を執り仕切る議員邸に招待され、豪華な食事を楽しんでいた。

 立食形式のパーティーは、戦いを前にした兵たちの英気を養う為に様々な趣向を凝らした料理が用意されていた。豪華絢爛な大輪の花が飾られた、異国の壺の傍には宝石のようなデザートたち。磨き上げられたグラスに注がれた葡萄のワインには、一片の白い花びらが浮かぶ。

 華奢なドレスに身を包んだ婦人たちが、屈強な聖騎士や兵士に励ましの言葉をかけている横では、血気盛んな男性たちがまだ得ぬ武勇を語りグラスを空ける。

 熱気に包まれたその場所で、アメリは水辺に楚々として咲く水仙のように、静かに食事を楽しんでいた。


「アメリ様、兵に食事を取らせました。どうぞ安心して晩餐を楽しんで下さい」


 軍服に身を包んだ女性が、そっとアメリに囁く。口元を隠しながら、アメリは頷いた。


「ありがとう。あと、桜炎丸はどこにいるのかしら」


「アメリ様の馬なら、館のすぐ傍の馬屋に。ちゃんと面倒見てますよ」


 ゆったりと微笑んだアメリは、部下に対して丁寧に礼を述べた。


「兵に伝えて下さい。決して町の方々にご迷惑をかけぬようにと。特に、他種族が混ざる部隊である以上、何かしら問題は起きるものです。気をつけて下さい」


「はい!」


 部下の威勢のいい返事に、アメリは微笑を返した。口元を隠しながら喋っているおかげで、彼女が何を言っているかは周囲には伝わらない。身分高い人々が彼女の一挙一動を気にし、先程から伺うような視線を送ってきていることに気付いているのだ。

 このパーティーは、戦争を祝う為に開かれたようなものだ。ねぎらいなどと言いながら、会話の内容は戦いが終わった「後」のことばかり。

 彼らが求めているのは、確実な勝利のみで、そしてそれが当然のごとく獲得出来るものだと信じて疑わない。

 悪いことではない。勝ってこその戦争だ。だが、彼らには見えていない。この戦いで、帰ってくるものがこの中で、一体何人いるのかということを。

 今こうして、美しい綾に身を包んだアメリでさえ、明日またこうして笑顔を見せることが出来るかなど、誰にも分からないというのに。


「いけない……」


 戦いを前にして、己が緊張していることに気付いたアメリは、密かに溜息を吐いた。


「アーメリ」


 そんな中、臆すことなく彼女に声をかける者がいた。

 きちんとした正装に身を包んだジークフリードは、自身の持っていたグラスを掲げながらアメリに近づく。


「ここのご飯いまいち。ちょっと薄くない?」


 腹をさすりながら、ジークフリードは言う。


「貴方は少し食べ過ぎでしょう。お腹を壊しますよ」


「大丈夫大丈夫。食べなきゃ逆にしんどいし」


 見た目に反してよく食べるらしく、ジークフリードはまだ足りないといった風に、テーブルの料理を見つめた。輝くシャンデリアに照らされた料理の数々は、胃袋をくすぐるような、深い香りを放っている。

 ジークフリードは、グラスに映る自分の顔に気付くと、独り言のように呟いた。


「バロン議長の言ってたことほんとかなぁ」


「――はい?」


 即座に顔色を変えたアメリに、ジークフリードは慌てて言葉を付け足す。


「個人的な感想。ほら、だって、僕……直前までリリーといたからさ……」


「彼女が裏切ったのは事実なのでしょう。悪魔と手を組んで塔を破壊し、……そのおかげで、聖騎士の一人が犠牲となりましたわ」


「そうだけどさ……」


 どこか納得のいかない様子のジークフリードは、悲しそうに俯く。諦めたように視線を落とすと、手に持っていた手紙をくしゃりと潰した。

 音に気付き、見るつもりはなくても、アメリからは差出人の名前が見えた。そこには、金色の文字で「クルヴェイグ」と書かれていた。


「ジークフリード……」


 夜風が入り込む、屋敷の窓辺。小さな夜の景色に気付いたジークフリードは、紙をくしゃくしゃに握り潰し、丸めてから外へと投げだした。

 僅かに香る、露を孕んだ芝生の匂いと、虫の囁きが彼の心を鎮めるように鳴り響く。

 夜空には丸い月以外に宝石のような星たち。その中に淡く青く輝く星を見つけると、ジークフリードはふいに彼女を思い出した。


「本当に、本当かな」


 ジークフリードは、バロンが言った言葉を思い出していた。

 いまだに信じられないあの言葉。だが、あの時の状況からすると、信じざるを得ない。


「嘘だよねリリー」


 ジークフリードは手を伸ばし、その青い星を手で掴もうとしてみた。だが、手は何もない空虚を掴むのみ。


「僕達を裏切ったなんて、嘘だよね?」


 少年の声は、彼女に届いただろうか。ジークフリードは難しい顔をしてため息を吐き、冷たく吹き荒んできた風に身を震わせた。



 * * *   



 アーリア聖暦3062年、弓の月。作戦名グランカリウス。

 記録・聖王国軍作戦指揮官、マリアベル。


 悪魔によるアストレイア殺害を機に、我が国を主とした悪魔繊滅軍を結成。


 ノーブル皇国、グルージス共和国もこれに賛同。

 獅子王アルフレッド陛下の名の元に、各国の聖騎士、軍隊が集結した。


 第二位階級ティアレーゼのアメリ、第三階級バルムンクのジークフリードらを師団長とした混合部隊はヴァイスに向けて出立。これまでの課程を問題なく終えている。

 シュナイダー大佐は万一に備え、自らの一軍とともに王国に待機。マティスもまた、アルフレッド王とバロン議長の護衛についていた。途中、竜族の不審な動きを察知。

 しかし数年前のノーブル皇国との休戦協定があるため問題はなし。──今のところは。


 エルフ・獣族・その他古の種族に関しても問題はなし。彼らの領域を侵すことがなければ、反対も賛成もしないとのこと。


 彼らの中の聖騎士の参戦に関しては、自由意志で合意。


 今回の戦争に聖騎士管理組合は一切の介入をせず。監査官や組合員も、傍観を徹底する方針。

 ただ一人、人間ながら突出した魔法能力を持つ、あのベリーという元組合監査官をのぞいて。


 ――そこまで筆を走らせて、女性は息を吐いた。

 見た目だけなら、年の頃十八歳ほど。シュナイダーとよく似た白い軍服を身に纏ってはいるが、下は短くタイトなスカートになっている。

 すらりと伸びた長い足は、まるで白い陶磁のようだ。それを支える白いヒールの、なんと華奢なことか。

 頭には、軍服同じく白い軍帽。紺色のセミロングの髪が映える瞳は、翡翠色に輝いていた。

 少女は休むことなく文面を書き続け、区切りのいいところまでくると、その紙を封印し手に持つ。

 そして、その紙を求めている人物の元へ急ぐ為、筆を片付けることもなく、椅子から立ち上がった。


 聖王国リュシアナ、王都アルフォンス。その城の一番高い場所に、アルフレッドの自室がある。ここは彼が執務から離れ息をつく場所であり、プライベートな場所だった。

 とはいっても壁には豪華な獅子や神々の彫刻が施され、天井はすこぶる高い。壁一面を覆うほどの大きな窓を背にし、アルフレッドは暗い空を見つめていた。


「──以上が現在の状況です、陛下」


「ありがとうマリアベル」


「まもなく、師団はヴァイスに到着致します」


「彼らを侮らないようにするんだよ。君もね」


「はい」


 まるで忠実な飼い犬のように返事をする。


「陛下、裏切り者はどうされますか」


 事務的な口調で、言葉を続ける。


「ああ、君に任せよう」


「分かりました」


 マリアベルは立ち上がり敬礼をすると、更に一礼をした。

 それを満足げに見つめるアルフレッドの瞳は冷たく、マリアベルにもそれが伝わっていた。


「裏切り者リリーは、この手で始末します」


 紺の髪は、ランプの光を受けても尚深く。

 復讐に燃える瞳に、彼方を映していた。


 ――紡がれし歴史の糸を、ひそりと手繰るその御手よ。

 ああ、絡み付く。謳うことなく歩みし者のその罪よ。


 この世は未だ、真実を識らず。


 狂わぬ時は、無きものと。

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